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生如法師
身体は真に非ず我に非ず
誰とも敵対せず、怨みを結ばないでください
心王と心所はそれぞれ固有の運行の行相を有するのでしょうか
八識心王の了別は、様々な心所法を通じて実現されます
本心の生起と利用における染浄の別
知見は煩悩を防げず、ましてや生死をも防ぐことはできません
どのように我見を断つか
回想と記憶
五蘊の機能作用は本当の私なのでしょうか
妄心を真如と認めるべからず
唯識の種智を具足して初めて現量をもって第八識の念心所と思心所を観察することができる
第八識の本体は自ら参究し自ら悟るのみ
修行によって煩悩習気と因縁果報を転じる
瞋恚という煩悩は、無始の無明か、それとも有始の無明か
意識が制御し得ない一切の心行は意根に属するものである
仏教初心者が我見を断つことを思索する時、なぜ恐れを抱くのか
如来蔵の一重の鏡影と二重の鏡影
念頭・禅定と三界の天人境界
一切の諸法は如来蔵の大海における一つの泡であります
末後句の参究について
なぜ物忘れをするのか
五蘊の活動の真相を如何にして参究するか
識の重要性
福徳と智慧はどのようにしてもたらされるのですか
証とは何ですか
一切法は意根によって推動されたものです
悟りへの準備
法の種類
指月の指
真諦と世俗諦
仏法における平等
我執を断じ尽くしてこそ、成仏できます
如来蔵の見聞覚知を離れた性
知見を立てることは即ち無明の本であり、知見無きを見ることは即ち涅槃である。
智慧をもって利害得失を見極める
なぜ如来蔵は虚空に遍かないのでしょうか
煩悩の中に菩提を見いだす
仏道修行とは虚妄の法を清浄無垢に転じることです
我執を捨て、解脱自在へ
衆生は騙されても忠告には耳を貸さない
衆生が分別意識を起こさないいくつかの場合
四大禅病
第八識は肉体を離れて別に存在することができるのか
識が塵に触れるとき、根・塵・識の三者が和合触し、その結果は何でしょうか。
禅定力と神足通
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