衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月26日    金曜日     第4 回の開示 合計958回の開示

見解の相違が行為の差異を生む

凡夫の見が仏と同じであれば、凡夫は仏となる。凡夫の見が四果阿羅漢と同じであれば、凡夫は四果阿羅漢となる。凡夫の見が三果人の見と同じであれば、凡夫は三果人となり、凡夫の見が二果人と同じであれば、凡夫は二果人となり、凡夫の見が初果人と同じであれば、凡夫は初果人となり、凡夫の見が初果向と同じであれば、凡夫は初果向となり、我見を速断する。

凡夫の見が明心の菩薩と同じであれば、凡夫は明心開悟する。凡夫の見が初地菩薩と同じであれば、凡夫は初地菩薩となり、二地菩薩の見と同じであれば、凡夫は二地菩薩となり、凡夫の見が等覚菩薩と同じであれば、凡夫は等覚菩薩となる。

見がどこであれば、行もどことなる。見が不究竟であれば、行も不究竟となる。初果から四果までの間、智慧见解は完全異なり、行も異なり、行為造作も異なり、身口意行も異なる。誰が初果人の見地と四果人の見地が同じであると考えられるでしょうか?誰が剛明心の菩薩の見地と等覚及び仏の見地が同じであると考えられるでしょうか?見地の異なる故、智慧も異なり、無明も異なり、言行も異なり、身口意行も異なり、果位も異なる。

初果人は見が通透不足故、四聖谛の修学を続け必要、五蘊十八界の無我性を観行続け必要、智慧再增进すれば、二果となる。続修行し、智慧增長し、見地稍通透し、禅定生起し、智慧增进し、煩惱断除すれば、三果となる。続観行し、見地更通透し、煩惱断尽すれば、四果阿羅漢となる。

大乘法も此如、見地異なる故、智慧差異あり、煩惱無明差異あり、行差異あり。

思惑は、知見不正致使思想上煩惱惑あり、知見完全正し、仏如正し、則任何思惑なし、任何煩惱習気及無明なし。故思惑不断は、見不通透の結果。

見地異なる故思惑異なる。同一果位間、見地も異なる、行異なる、思惑異なる、修行至下果位の時間異なる。見地皆相同であれば、争论及争议なし。

——生如法師の開示
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