衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年11月05日    月曜日     第1 回の開示 合計983回の開示

理解と現観の違い

解悟と証悟の間には大きな違いがあります。証悟は真実を体得したもので、自ら眼前に自心の真如を観察することができ、観察されるものは全て事実であり、現量です。解悟はただ道理を理解しただけで、如来蔵がそのようなものだと認識してはいますが、自ら証得したわけではないため、眼前に真如を観察することができません。もし如実に眼前で観行することができなければ、真如の理体に転依することは叶わないのです。

両者の違いをより理解するため、譬えを用いて説明しましょう。解悟はリンゴに関する知識理論を研究するようなもので、理論を極めて詳細に研究することは可能です。産地、品種、輸送、保存、外観、色彩などについて詳しく学べますが、結局自ら口にしたことがないため、実際のリンゴの味が分からず、その甘さや口当たりを体感できず、身心に真実の利益を得られません。証悟は既に自らリンゴを食べ、その甘美な味を真に知り、リンゴに対する感覚が真実不虚であり、身心に利益を得ている状態です。

ただし、リンゴを食べた人がその味を上手く説明できず、産地などの情報を知らない場合もあります。一方、解悟の人はリンゴに関する全ての理論を知っていても、一口も味わったことがなければ、その理論は単なる知識に過ぎず、自身の身心に実益をもたらしません。釈迦世尊の最も鈍い弟子が四果の阿罗汉を証しながらも解脱道の法義を説けなかったように、彼は真の解脱を得て生死を超越し、未来に一切の苦を受けることなく輪廻から脱しました。しかし現代の凡夫たちは理論に長け、雄弁で著作も多く、言葉遣いは聖人のようであっても、内心に一片の解脱の影もなく、話す時は聖人でも行動は完全な凡夫で、貪・瞋・痴は少しも調伏されず、慢心が激しく、周囲は近寄りがたい状態なのです。

——生如法師の開示
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如来蔵を除いて、一切法は頼りにならないものです。

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