衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月27日    土曜日     第2 回の開示 合計961回の開示

意識の力のみでは我見を断つことはできません

ある人が文殊師利菩薩に問うた。「生は無生の理を明知しているのに、なぜ生の束縛を受けるのか」と。文殊菩薩は答えられた。「その力未だ充たされず」と。

明知しているのはどの識か。力未だ充たされずとはどの識か。明知するのは意識である。意識は道理をある程度知ってはいるが、それだけでは役に立たず、依然として生死に繋縛される。意識は主導権を持たず、決定権がないからである。力未だ充たされないのは意根である。意識の思想観念がまだ意根に達しておらず、意根が認可しないため、現状を変える力がない。要は意根がこの真理を認知できるかどうか、惑いを断ち執着を断てるかどうかにある。意根が惑いと執着を断ってこそ、生死の牢獄から出離できる。

ここから分かるように、我見を断つ理や明心見性の理といった仏法の道理は、ただ意識の表面で知っただけでは生死の問題を解決できない。必ず意根に深く入り込み、意根に理を明らめさせてこそ、自らを改め生死の問題を解決できる。一切の事柄は意根が主導し、意根が決定権を持つからである。意根は力を持ち、意識は大した力がなく、家を治める主となれない故である。五陰一家の生死輪廻の問題を変えようとするなら、必ず一家の主を説得せねばならず、ただ一家庭員を説得しただけでは不十分である。意根こそが一家の主であり、五陰世間の事は全て意根が決定する。意根の力が充実する時、先ず我見を断ち、次に我執を断てば、来世には生死の束縛を受けなくなるのである。

——生如法師の開示
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我見断ちと明心の悟りは意根自らが証得するものである

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