現代社会は情報が発達し、経典を入手することは容易で、意識的な理解力も強く、人が五蘊の生滅・無常・無我について説けば、50%の人は意識的に五蘊の無我を理解し、色身が真実ではなく幻化した仮の殻であることを知ります。仏教を学ばない人でさえ、口では「色身は仮の殻で臭い皮袋、生滅無常のものだ」とよく口にします。しかし言葉ではそう言いながら、誰一人として身見を断ち我見を断つ者はおらず、皆依然として深刻に我執に囚われています。
もし意識が「五蘊の無我」を理解するだけで我見を断ったと考えるなら、聖果を証得することはあまりに容易すぎます。仏教徒の半数以上が三縛結を断じて三悪道の苦しみを免れ聖者となるなら、仏教に何の憂いがあろうか、衆生にも何の心配があろうか。釈迦仏陀は安心して娑婆世界を見守り、仏教の滅亡を気にかける必要はないはずです。しかし現実はそうではありません。
単に意識で無我を理解しただけで我見を断ったと考え、さらに煩悩が軽微だと自覚し、すでに二果を修めたと考える者が臨命終時には大変困った状況に陥り、来世で苦悩することになります。最善策は、今生の残された時間で如何に補修するかを考え、効果的で実行可能な措置を講じ、改めて五蘊を仔細に観行して真に我見を断ち、妄語の大業を消滅させることです。
現在の仏教界では、果たしてどれほどの二果の者がいるのか判然とせず、あたかも聖賢が輩出する時代であるかのようです。しかし実態はどうでしょうか。混乱の極みです。もし三果に初禅定の要件がなく、欲心を断じたという指標がなければ、どれほどの人が自ら三果を証得したと主張するか分かりません。既に「三果・四果を証得するのに初禅定は不要」「初地菩薩・二地菩薩は以前から初禅定を修める必要がない」と宣伝する者たちが現れています。このような主張が暗示するものは推して知るべしです。このままでは、凡夫と聖者の境界が失われ、仏法を少し理解しただけで聖者となり、これらの所謂聖者は実は全て知解の宗徒に過ぎなくなります。
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