原文:賢護が仏に申し上げました。「世尊よ、衆生は識の存在を知りながら、あたかも宝が篋の中に閉じ込められているように、顕現せず自らも知ることができません。世尊よ、この識がどのような形状をしているのか、なぜ識という名で呼ばれるのかを存じません。衆生が死に臨む時、手足を乱れ動かし、眼の色が変化し、制御できず自由を失います。諸根は滅び、諸大は分離し、識は身を遷してどこへ去るのでしょう。その自性は如何なるものか、どのような色相をなし、いかにしてこの身を捨てて他の身を受けるのでしょうか」
釈:賢護が仏に申し上げた:「世尊、衆生は自らの中に阿頼耶識があることを知りながら、ちょうど宝が五陰身に隠されているように、顕現せず自らも了知できません。世尊、この識心がどのような形状をしているのか、何ゆえ識と名付けられたのかがわかりません。衆生が死ぬ時、手足が乱れ動き、眼差しが暗然として様態を失い、次第に自由を失います。諸根が次第に滅び、四大が互いに分離し、阿頼耶識は色身から離れます。この識はどこへ去るのでしょうか。阿頼耶識の自体性はどのようなものか、どのような色相があるのか、なぜこの色身を捨て去り他の色身を受けるのでしょうか」
仏法を学ぶ衆生の識に対する認識には二種あります。一つは六識(意識)の存在のみを知る者、もう一つは六識に加えて阿頼耶識の存在を知る者です。意識と阿頼耶識、この二つの識のうちどちらがここで形容されている宝でしょうか。六識は一切の法を変現できないため、六識は摩尼宝珠ではありません。この摩尼宝珠と呼ばれる宝とは、万法を生じる阿頼耶識を指します。阿頼耶識はあたかも宝が篋の中に閉じられているようで、この篋とは五陰身を意味します。五陰身の中に隠されているため、この宝は衆生に発見されないのです。実際この宝は常に大光明を放っていますが、衆生自らが知りません。宝が顕現しないのではなく、衆生の心が五陰に覆われ、無明によって障礙が生じ、自らの中にあるこの宝を見ることができないのです。この宝は常に衆生の五陰身の中で大光明を放ち一切を照らしていますが、衆生自らが無明を持つがゆえに、阿頼耶識が五陰身に隠され、発見されないだけなのです。実際には宝自体は閉蔵されていません。
賢護菩薩が阿頼耶識の形状を問うています。この識に形状があるか、長短・方円・大小や色があるか、世俗法における六塵のように音声・色彩・色相・香塵・味塵・触塵・法塵があるのか、どのような相状をなし、なぜ阿頼耶識と呼ばれるのか。衆生が死を迎える時、阿頼耶識は必ず身体から離れます。しかし悪業を造った衆生は死に際して苦痛に手足を乱れ動かし、死相が醜く、死に際して苦しみます。この苦痛によって手足が乱れ動き悶え苦しむのです。
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