意根に執着性がある以上、人我や法我を執着するならば、意根に我性はあるのでしょうか。意根は無始劫以来、常に我性を有しており、これを俱生我執と呼びます。五陰身を我とし、六識を我とし、六識の了別を自らの了別と執着し、六識の功能体性をも我及び我所有とし、更に第八識の功能体性までも我及び我所有と執着します。その遍計所執性が、あらゆるものを執着させる要因であり、中でも人我執は意根の我執、即ち意根の我です。初地菩薩に至った後、意根は一部の無明(例えば一念無明)を滅し、無漏に達すると、一切法における無我性を徐々に思考し始めます。例えば一切法が第八識の現じたもの、変じたものであると知るに至り、菩薩は思考します:この色塵、あの色塵は全て第八識が四大種子を輸送して現じたものであり、しかも第八識は刹那刹那に四大種子を輸送し、色法の存在を常に変化維持している、故に色法は我にあらず。同時に意根は、色塵を了別する功能体性が第八識の識種子輸送によって生起するものであることも知り、従ってこれも我にあらず、全て第八識の功能であると悟ります。色は第八識の現じたもの、我の五根・六根は第八識の現じたもの、我に対応する六塵は第八識の現じたもの、我能く了別する六識心、更に自らの識心さえも全て第八識の現じたものであり、我能く触れ、了知する一切法は全て第八識が種子を輸送し刹那刹那に現じたもの、則ち一切法の中に全く我は存在せず。菩薩は徐々に一切法においてその無我性を思考し、こうして無生法忍の智慧はますます増広し、六・七識の智慧性はますます広大となり、意根の大智慧は一切法が確かに無我であることを知り、心は一切法において平等となります。転識成智後、意根はますます深遠な無我の智慧を有し、心が無漏となる時、智慧性はますます広大となります。菩薩は更に思量を続けます:私が音声を聞くこの一法、能聞と所聞は全て第八識の現じたものであり、これら一切の功能体性は第八識に属し、全ての音声は第八識が現変し執持している、どこに私が存在するでしょうか。かくして思考を重ね、法我執を一点一点断除します。香りを嗅ぐ時、食事する時、六根が六塵に対する時、日常生活の中、一法ごとに思量します:これらの法は全て第八識の現じたものであり、その中に私の関与する余地はない、私自身さえ第八識の現じたものであり、全て我にあらず。則ち私が六塵に接触するこれらの功能体性も全て我にあらず、第八識の現じたものであり、真実たるものは一つもない。かくして法我執を徐々に断除し、智慧はますます増広し、法我執が断尽した時、仏となります。
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