衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月25日    木曜日     第1 回の開示 合計947回の開示

煩悩の障りが小さければ小さいほど、智慧は広大となります

意根と意識のそれぞれの機能作用と影響力を明確に区別することは完全に可能ですが、鍵はどのような人がどれほどの程度で達成でき、どのような人にはできないかという点にあります。これは各人の智慧の程度によるものです。智慧の程度はまた煩悩の軽重、習気の深浅、禅定の深浅によって制約されます。智慧、禅定、心の清浄さの程度、この三者は密接に関連し合い、切り離すことができません。

意識の体性と機能作用は、おそらく意根の体性や第八識の体性に比べれば比較的把握しやすいものですが、大多数の人々は依然として捉えきれず、朦朧とした状態にあります。なぜこのようになるのでしょうか。主にこれらの法が依然として深遠で微細であるためです。もし仏理への理解が浅く、知見が不足し、心が浮ついて禅定を欠くならば、意識自体の運作を細心に思惟観行することができず、現量観察の智慧がないため、比較的粗浅な意識の体性さえも明瞭に観察できないのです。

これにはまた煩悩による覆障の原因もあります。煩悩と言えば、一般には貪欲と瞋恚を認めますが、愚痴無明も煩悩の一部であり、最も主要な部分、煩悩の根本であることを知りません。愚痴とは心が明らかでなく智慧がなく正しい知見がないことで、その根本原因も福徳の不足によるものです。もし煩悩の覆障がなければ、智慧は非常に広大となり、意識は転識得智してさらに多くの仏法の理を明らかにし、多くの法の運行を現量観察できるようになります。その智慧は具体的に言い表せず、深く広く細やかで、凡夫の想像を超えるものです。

意根の機能体性は、一般人が先達の指導なしに現量観察することはできません。意根の運作相が余りにも隠微で深細なためです。初地以上の菩薩はその一部を現量観察できますが、地前の菩薩は善知識の教導に依れば比較的充分に理解し、あるいはわずかに体得できるかもしれません。未悟の者も善知識の教導に依って意根を証得し、意根の極めて少ない機能作用を理解し、ある程度の体得は可能ですが、現量観察にまで至ることは難しいでしょう。

地前の菩薩は、すべての法が運作する過程において意根と意識が如何に調和し協力し合っているかを現量観察することは困難です。諸法の運作において、どの部分が意識の機能作用で、どの部分が意根の機能作用かを区別することも困難です。法に対する了別作用が意根のものか意識のものか、法に対する思量択択作用が意根のものか意識のものかを判別することも難しく、各心所の作用が意根のものか意識のものかを区別できず、ましてや意根の心所法がどのようなものか、各衆生の心所法にどのような差異があるか、異なる修行段階の者の心所法にどのような違いがあるかを判別することはできません。もし地前の菩薩が煩悩が軽微で覆障が少なく、智慧が比較的深遠であれば、善知識の教導に依って意根と意識の一部の体性を区別できますが、煩悩が重く無明が深い者には判別不可能です。

——生如法師の開示
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