衆生無辺誓い度す
煩悩無尽誓い断つ
法門無量誓い学ぶ
仏道無上誓い成す

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日常開示

2018年10月28日    日曜日     第2 回の開示 合計964回の開示

業種枯渇の道理について(二)

質問:業種が枯れる道理について、「仮に百千劫を経ても、所作の業は亡びず;因縁会遇の時、果報還自受。」という偈語との矛盾があるように思われます。この四句の偈語は業種が坚固であり、報を受ける以外には断じて亡びないという意味を表しているようです。どう解释すればよいでしょうか。

答:この業種が枯れる道理とは、衆生が業を造る習慣勢力が、長期間業を造る机缘が現れないため、この勢力は徐々に弱まり、最終には能力も惯性もなくなり、再び業行を造ることができないという意味です。種子が長期間存放され闲置されることで、生命力を失い、再び根を生え芽を發しないようと同じです。大悪業を造った者は、下品往生極楽世界し、極楽世界の蓮花の中で十二大劫を住し、ここで佛法を熏修するため、業を造る機会が一点もなく、最終に心念上の悪も消失し、再び業を造らなくなり、蓮花から出て化身の観世音菩薩を面見し法を聞くも、意を解しない。これは往昔の罪業遮障による缘故です。

蓮花の中で長久に業行がないため、悪業を造る惯性がなくなり、身口意の悪行も現起せず、習慣となり、極楽世界の清静と安宁を扰乱しない。しかし往昔に造った悪業は、娑婆世界に戻る時、大悪業の缘熟が報を受けるも、業報は轻微であり、太重ではなく、三悪道で受ける不可能で、人間で相应の苦報を受けるだけです。これは重罪が軽報でき、軽罪が消失できることを说明します。

忏悔もこの道理と同じです。忏悔を通じて悪業種子を消灭或减轻し、衆生は後に悪業果報を受けるなく或軽受し、業種が消失します。故に、全ての業種が報を受けることで消失するわけではなく、多くは他の形式で消灭され。否则成佛時、悪報永遠も受不完となり、成佛できません。

——生如法師の開示
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