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煩悩无尽誓願断
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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 1057
<h3 style="text-indent: 2em;">第二節 第八識をいかに証得するか</h3><h4 style="text-indent: 2em;">一、大乗の修行次第は先に第八識を証得して後に転依する</h4>

問:もし時時刻々第八識に依止し、第八識に転依していれば、時間が長くなれば意根は受け入れられるようになるのでしょうか?

答:第八識を証得して初めて第八識に依止し、第八識に転依することができます。まだ第八識を証得していなければ、真に依止することはできず、頼りつくこともできず、まして真の転依はできません。真に第八識に転依する時には、すでに初地菩薩の境地まで修行しているのです。しかも依止と転依は意識だけのことではなく、最も重要なのは意根のことです。意根が依止し転依できるなら、第八識を受け入れるだけでなく、第八識を証得しており、しかも煩悩も滅しているのであって、それで初めて転依と言えるのです。

このような説き方はまさに修行の次第を逆転させていますが、しかしこのような相似的な認知も、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) には役立ち、心もいくらか清浄 (viśuddha/pariśuddha) にすることができます。しかし真の智慧を生み出すには、定の中で自ら実際に観行 (vipaśyanā-caryā) と参究を行い、真に証悟してはじめて問題を解決でき、絵に描いた餅では空腹を満たせません。

第八識の証悟は、意根が自ら思量 (manasikāra/manana) し参究して証得するもので、これを親証といいます。禅定がなければ、意識の思惟は意根に薫染することができず、意識の浅い思いでは意根を真に受け入れさせることができません。親証の後には次第に第八識の清浄性に転依していきます。転依とは意根が導き出す身口意行であり、意根が証得しなければ転依はできず、身口意行は依然として元のままで、変化がありません。

<h4 style="text-indent: 2em;">二、第八識を証得する正しい方法</h4>

問:私は普段から五蘊と周囲のすべてを第八識の中に置いています。こうすれば徐々に五蘊を空と観じ、第八識を見出せるのでしょうか?

答:この説き方は逆転しています。第八識を証得していないうちは、どうやってその中に物を入れられるのでしょうか?しかも第八識は物ではないのに、どうやって人為的にその中に物を入れられるのでしょうか?五蘊を空と観じたいなら、定の中で五蘊をありのままに観行 (vipaśyanā-caryā) しなければならず、第八識を見出したいなら、その中で第八識を参究しなければなりません。それ以外に、何かの法を第八識の中に置く方法はありません。五蘊と周囲のすべては、もともと第八識を離れずに存在しており、第八識の外に出ることはなく、わざわざ第八識の中に置く必要はなく、その必要はありません。さらに言えば、第八識を見出していない時に、どうして第八識の中に置けると言えるのでしょうか?想像で作り出した第八識は、修行にとって益があまりなく、学仏ではなるべく仏法を過度に解釈しないようにすべきで、これは実証にとって大きな障害となります。

正しい修行方法は、できるだけ早く修定し、定の中で参究と観行を行い、意根を動かすことであって、意識だけの推理・分析・想像を用いるのではありません。定の中で意識が深く細かにこれらの法はすべて生滅無常で変異するものであり、いずれも私や私の所有物ではないと思惟観察し、意根を引き込んで共に参究すれば、証得できれば五蘊を空と観じることができ、その後さらに参禅を通じて、第八識を見出し証得します。第八識を証得した後、さらに第八識がどのように五蘊を出生するのかを現観すれば、五蘊がまことに空であり、生滅であり、無我であることがわかり、五蘊がすべて第八識によって生起されていると照見することになります。これが『心経』に説かれている、照見五蘊皆空の真理です。第八識を見出したいなら、定の中で参禅し参究する方法を通じてこそ、第八識を証得することができます。

<h4 style="text-indent: 2em;">三、積極的に参禅の方法を用いてこそ第八識を証得できる</h4>

問:第八識を証得するには、まず五陰 (pañca-skandha)・十二処・十八界をすべて空と観じ、私ではないと否定して、それが現れるのを待てばよいのでしょうか?

答:第八識の私は待って現れるものではなく、参究して見出すものです。修行は受動的に待つのではなく、積極的に悟の条件を円満させ、自ら参禅してはじめて開悟し明心できるのです。参禅し話頭を参じ公案を参じるという方式を通じて、その真我である第八識を見出さなければならず、五陰十八界を観じ透すだけでよいのではなく、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) だけでよいのでもありません。断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) の後にもさらに参禅し、参究して見出してはじめて明心見性できるのです。実は第八識は時々刻々現れていますが、私たちに定慧がなく発見できないだけです。定慧がある時に、積極的に祂(神様)を探し求めなければならず、待っていては来ません。

<h4 style="text-indent: 2em;">四、推理・想像と実証の差は極めて大きい</h4>

問:如来蔵 (tathāgatagarbha) と妄念が不二であること、すべてのことがすべて如来蔵 (tathāgatagarbha) を離れられず、いずれも如来蔵 (tathāgatagarbha) の妙用であることを確定し、非常に確信して疑いがなくなれば、明心見性と言えるのでしょうか?

答:これらの内容はすべて悟前の推理・推測・想像であって、少しの証拠もありません。どうして疑いを断てるのでしょうか?仏経上のものや他人の理論を持ち出し、自分で思惟理解したものを自分の見解や観点と見なすことは、親証とはまだ大きな隔たりがあり、いかなる観行 (vipaśyanā-caryā) も参究もなければ、理論は結局理論であり、知見は結局知見であって、決して自分の真実の智慧ではなく、明心見性からはまだ遠く隔たっています。今、多くの人が自分であれこれ考えてみただけで、どれほど高い証量があると思い込んでいますが、実は理解すらできていません。

明心見性したいなら、具体的には妄念と如来蔵 (tathāgatagarbha) がどのように不二であるかを証得し、如来蔵 (tathāgatagarbha) が運作の中でどのように妙用を起こすのか、如来蔵 (tathāgatagarbha) がどのように五陰 (pañca-skandha) の運行に配合するのか、祂(神様)がどこで作用を起こすのかを、現前で観察できなければなりません。これらはすべて参禅を通じてはじめて知ることができ、知った時が明心です。明心の後には、どれが如来蔵 (tathāgatagarbha) であるかがわかり、その後に祂(神様)を現前で観察し、祂(神様)のより多くの体性を理解してはじめて、より多くの智慧を得ることができます。如来蔵 (tathāgatagarbha) が一切法の上にすべて作用を持っていると知ることは、明心見性には属しません。これは理論・知見であって、書物にはすべてはっきり書かれており、私たちは薫習を経てはじめて知ることができるのであって、証悟とは言えません。

<h4 style="text-indent: 2em;">五、修定の方法だけでは開悟できない</h4>

問:一つの念頭が次の念頭に続く時、これらの妄想の念頭は七識が作用を起こしているものであり、どのようにすれば第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) の存在を感じ取ることができるのでしょうか?念頭と念頭の間の短い隙間は無念であり、無念の時は八識のものです。修定の訓練を経ていなければ、念頭は遷流してやみませんが、修定の練習によって念頭を遅くし、ますます遅くして無念に至らせて、はじめて第八識が現れるのでしょうか?

答:無念の時には第八識があるだけでなく、七つの識もあり、第六識 (manovijñāna) と前五識があり、八つの識が一つも欠けません。だから無念は悟の境地ではなく、無念を修する方法は純粋な修定の方法です。なぜなら一切法はすべて第八識によって出生され顕現されるものであり、妄想を打っている時もそうであり、妄想を打っていない無念の状態も同様に、第八識によって出生され顕現されるものであり、第八識はどこにでもあり、いつでもあります。第七識もまた時々所々に存在しないことはなく、さもなければ色陰・受陰・想陰・識陰・行陰はなく、無念の時こそまさに五陰 (pañca-skandha) がすべて存在しているのですから、意根である第七識が存在しているのです。同時に第六識 (manovijñāna) も存在して運行しており、色身の上に受覚があり、了別性があり、知性があり、自分が無念になったと知っているのが、第六識 (manovijñāna) の知性の作用です。さらに色を見、声を聞き、香を嗅ぐなどの功能作用がまだあるなら、五識も存在して運行しており、八つの識がすべて存在しているのです。

したがって、念頭の間で念頭がない時にだけ第八識が現れるのではなく、第八識は時時処処にあります。また、このような状態に修到したのが第八識であり、開悟したと言うこともできません。間に念頭がないというのは主に意識心を指し、念頭を離れた意識心であり、意識が偶然念頭と妄想のない境地に属し、それが禅定の境地です。無念になった、念頭のないあれが第八識だと言うことはできず、ここにはまだ八つの識があり、少なくとも三つの識があります。

理論がまだ通透しておらず、禅定がまだ深くなく、六度がまだ大きく欠けている時には、如来蔵 (tathāgatagarbha) がどこでどのような作用を起こすのかとあれこれ考え込むべきではありません。推測や推理・想像はすべて真の修行を遅らせ、道業を阻み、智慧の出生を妨げます。修行の次第に厳格に従って菩薩の六度を徐々に円満させ、持戒すべき時には持戒し、修定すべき時には修定し、理論を円満させるべき時には理論を円満させ、各方面の条件がほぼ整った後、はじめて定の中で参禅を始めるべきで、禅定がない時に最終的な結果をあれこれ考えるべきではありません。

<h4 style="text-indent: 2em;">六、第八識を推測することは偷心の行為</h4>

問:妄想の念頭を通じて、第八識が作用していることだけは知ることができますが、第八識がどのように作用しているのかをはっきり知り、それを顕現させることはできるのでしょうか?

答:第八識の作用をはっきり知りたいなら、菩薩の六度をすべてしっかり修め、条件がすべて具足してから、参禅の方法で明心し、第八識を証得してはじめて、第八識がどのように起用するのかを知ることができます。実は第八識はずっと顕現し続けており、中断したことも隠れたこともありません。ただ無明に覆われているため、証得できないだけです。私たちは今、菩薩の条件を円満させる努力をし、福徳と定慧を多く積めば、第八識を証得することができます。第八識をあれこれ推測したりあちこちで尋ね回ったりしてはなりません。これは修行にとって害のみあって益がなく、知ることは証ることに及ばず、知れば知るほど証得しにくくなり、偷心が死ななければ、智慧は生まれません。

<h4 style="text-indent: 2em;">七、参禅は推測ではない</h4>

問:死屍を引きずっているのが妙明真心如来蔵 (tathāgatagarbha) なのでしょうか?如来蔵 (tathāgatagarbha) は自分で悟り証るしかないのでしょうか?

答:死屍を引きずっているのが妙明真心如来蔵 (tathāgatagarbha) であるというのは、最終的な結論であり、私たちが参禅によってこの結論の正しさを証明する必要があります。その後に、妙明真心如来蔵 (tathāgatagarbha) がどのように死屍を引きずっているのか、どのように作用を起こすのか、どのように五陰万法を出生するのか、どのように七識の運作に配合するのかを知るのです。それは六祖が開悟した時に説いた五つの「何期自性 (svabhāva)」に合致しなければなりません。修行とは実証を通じてこれらの理論の正しさを証明することであり、そうしてはじめて私たちは、然るを知り且つ所以を知る証悟菩薩なのです。

如来蔵 (tathāgatagarbha) の証悟は、自分が苦労して参禅した結果であり、他人から直接できあがりの答えを探し求めることはできません。なぜなら答えを知っても功徳受用は何もなく、その参究と証明の過程こそが智慧を増長する鍵であり、はじめて身心世界の転変があるからです。したがって他人のところから結果を探し求めてはならず、必ず自分で千辛万苦の参禅と参究を経て、実りを収穫し、如来蔵 (tathāgatagarbha) がどこにあり、どのような作用を起こしているのかを参じ出してはじめて、大智慧を生起させ、解脱の功徳受用を得ることができます。意識は聡明であればあるほど理解はできるが、証得はしにくくなり、聡明はかえって聡明に誤られ、聡明は永遠に智慧に及びません。

<h4 style="text-indent: 2em;">八、近道を歩むことは真の修行ではない</h4>

問:我見 (satkāya-dṛṣṭi) を徹底的に断じた後、如来蔵 (tathāgatagarbha) は自ら浮かび上がってくるのでしょうか?

答:これは偷心が死なない思想であり、近道を歩んで努力と代価を払いたくないという思想は決してあってはなりません。得をするところは失をするところであり、「寒徹骨の一番を経ずんば、哪ぞ梅花の撲鼻の香あらん」です。

如来蔵 (tathāgatagarbha) はもともと明々と存在し運行していますが、ただ無明の遮障のために、証得できないのです。最も深刻な遮障は、五陰十八界を真実の我と見なすことであり、この我見 (satkāya-dṛṣṭi) が真実の如来蔵 (tathāgatagarbha) を隠し蔽ってしまいます。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を徹底的に断じれば、大いなる疑情を生じやすく、こう疑うでしょう。「五陰の我が虚妄であるなら、なお五陰の作用があるのはなぜか?」参究を通じて、五陰の背後の主宰者である真心如来蔵 (tathāgatagarbha) を見出せば、その後は再びさまざまな意識の境地を如来蔵 (tathāgatagarbha) として悟ることはなくなります。

断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) は日常の活動の中で五陰 (pañca-skandha) の虚妄を証得し、六識の虚妄を証得し、十八界の虚妄を証得し、五陰十八界の虚妄法の中のさまざまな我、さまざまな六識がすべて虚妄であって、真実の我ではないことを証得しなければなりません。できれば身心の外に跳出して身心の虚妄を観察することが最善であり、これは内心に高度の警覚性が必要で、反観力 (pratyavekṣā-bala) が強ければ強いほど、断我見 (satkāya-dṛṣṭi-prahāṇa) しやすくなります。

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