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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 16

第四節 第八識を如何に尋ね求めるか

一、禅を参じて第八識を悟り求めんとするには、その体性を理解するのみならず、何処でその一端が現れ、何時何処に痕跡を留めるかを知らねばならない。そうしてこそ、或る時或る場所でそれを捉え、見分けて相認め、手を取り合って家路に就き安住し、和やかな喜びに満たされるのである。

第八識が現れる時と場所は何処か。第八識は時々刻々存在し顕現し、絶え間なく作用し、五陰身と瞬時も離れない。六根の処、六塵の処、六識の処、十八界の上、五陰の上、至る所にその顕現があり、処々にそれを見る縁があり、何処でも渠(うつぼ)に出会える。かつて禅師が説いた如く「生縁処々にあり」、何処にそれが無く、何処がそれでないことがあろうか。それは活発に活動し、触れる縁は全てそれである。

かくしてそれに出会う機縁は無限に多く、意識が分別を控えれば良いというものではない。もし意識が分別しなければ、如何にして自家の宝を識別し、久しく疎遠であった父母を識別できようか。まさに分別するその場所こそ、それが大いに腕を揮う時なのである!第八識たる自心は本来より離念であり、諸法を念わず、諸法を行わない。意識心を無理に無念に修める必要はない。修めて得た無念は、如何なるものであれ、本来離念である第八識には成り得ない。心体が異なるからである。譬えば薩摩芋を赤く塗っても甘藷には成り得ぬが如し。本質が異なる故である。

よって禅を参じて自心の第八識を尋ね求めるに当たり、意識心を離念させる必要は全くない。第八識は意識が離念した時のみならず、意識が念念動転する時にも顕現し、しかも生気漲っている。第八識の痕跡は一切の時に遍く、一切の地に遍く、一切の処に遍く、一切の界に遍く、一切の法に遍く、何時でも、何処でも、第八識は活き活きと顕現し、微塵も隠れたことはない。もし意識心が離念した状態が第八識である、或いは第八識そのものであるならば、意識心が再び念を生じた場合はどうするのか。有念無念は本来が生滅変異の法であるが、第八識の心体は永遠に不生不滅、不変異である。

また或る者は言う、第八識は「住すること無き心」である故、これを証得せんとするなら、我々の意識心は念念留まらず、心に住すること無き状態を実現せねばならないと。仮に意識心が無所住を実現できるか否かは措くとして、たとえ意識心が真に無所住を修めたとしても、依然として意識心であり、第八識に成ることは不可能である。両者の本質が異なる故である。第八識の無所住は本来より無所住であり、意識心の住・不住など全く顧みない。そして意識心が念念留まらぬ時こそ、まさに第八識が大いにその姿を現す時である。我々は存分に留まり存分に住すれば良い。留まる処、住する処に、必ず第八識の影がある。この時にそれを見分ければ、その故郷に帰ることができる。

第八識が一切の処に遍満しているなら、何処がそれでなく、何処にそれが無いと言えようか。それが無ければ一切も無く、何処も無く、何処も無い。それがあれば一切があり、何処もあり、何処もある。なんと融通無碍な法であろうか。意識を硬直させる必要も、意識心上で大仰に論じる必要もない。ただ意識心をもって反観し、その来たる処を観じ、その起こる処を観ずれば、自然に帰家の路を見出すことができる。それを証得した後、智慧が生起し、実相般若の智慧を発起する。智慧が円満具足する時を待てば、成仏することができるのである。

二、真の念仏とは如来蔵を念ずること

仏蔵経に説かれる:念う所無きを念ずる、これを即ち念仏と名づく。「念う所無き」法を念ずることが念仏である。この「念う所無き」法とは如来蔵を指す。これは悟り後の念仏である。悟り前に禅を参じて如来蔵を参究する念仏とは、如来蔵を言語文字なき形象で心に懸けることである。即ち念仏を禅参究・話頭参究の一方法として、言語文字なき形象で如来蔵を懸念すること、それが「話頭を見る」ことである。

真の仏たる如来蔵そのものは、本来「念う所無し」である。如何なる法をも念わない。なぜなら世俗法を見知らず、如何なる法にも攀縁せず、如何なる法にも懸念しないからである。真の念仏は、不生不滅の真実なる如来法身仏を念ずるべきである。しかしこれは如来蔵を証得して後の念仏であり、それが何処にあるか、功徳体性は何か、如何に作用するかを知り、理と事を円融させる念仏である。如来蔵を悟った後、如来蔵の真如性と功徳性を念じ、その有為性と無為性を念ずるこそが、真の念仏である。

悟り前の念仏は全て仮の仏を念じるか、或いは相似た仏を念じるか、或いは仮想された如来蔵や真如を念じるものである。これらは相似た念仏であり、真の念仏ではない。話頭を見るには、必ず一言を以て話頭とせねばならない。話頭を見る工夫が純熟した後、話頭を参究し、因縁が具足すれば、明心して如来蔵を証得できる。心に第八識如来蔵を懸けることは、話頭を見ることではない。一つの語句であって一言ではないからである。相似た念仏と見做すことはでき、修行に大いに資するものである。

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