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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 15

第三節 参禅の用功方法

一、参禅の方式は尋と伺である

参禅の最初の用功は尋の方式を用いる。尋とは、意識心がやや粗く第八識という目標を探し求めることである。なぜなら、定力が十分に深くないため、慧力も十分に大きくないからである。定力が良く、意識心も深く細やかになった時、参禅は伺に転じることができる。伺とは、猫が目標を発見し、その場で動かずに目標が現れるのを待つようなものである。意識心がすでに第八識が現れるおおよその目標を発見したため、非常に深く細やかに観行することができ、心の念はほとんど動かない。この時、参禅には方向性がなければならず、第八識如来蔵がおおよそどこに現れるかを知ってこそ、意識心は猫が鼠を待つように静かに観察し、深く細やかに思惟観行することができ、こうして悟道は遠くない。

参禅というこの法は、真の心と妄の心が和合して初めて行えるものであり、真妄の心が同時に作用しなければならない。そのうち真の心である第八識は思惟活動を行うことができず、法塵を分別せず、直接的な参禅活動を行うことができない。妄の心である意識は一切の法を思惟し、六塵を了別し、意根と協力して参禅することもできるため、やはり妄の心を主として参禅活動を行うのである。なぜなら意識心は法塵に対応し、法塵を分別でき、その分別思惟は非常に深く細やかであり、了知性が非常に強いからである。比較的深い禅定の中で、意識が自らの了知した法を意根に伝えた後、過度に心を用いて意根の思量を妨げなければ、意根は一心に参究・考量して意識から伝えられた情報を証悟する。

参禅とはいわゆる思惟修であり、参究とも呼ばれる。意識による参禅は思惟を離れられないが、空想ではなく、情思意解(感情や思惑による解釈)であってはならず、あまりに多くの分析もできず、憶測もできない。定力が具足している状況下で深く細やかに参究する必要があり、それは深い次元の思惟であり、すでに意根にまで深く入っている。このような思惟は非常に深く細やかで、思想の念はほとんど動かず、待っているに近い。まず目標を探し求め、第八識が現れる目標を見つけた後は、猫が鼠を待つように、ただ捉えるのを待つ。この時も受動的に待っているのではなく、内心では深い次元の思惟参究活動が進行しており、虚妄の法の背後にある真の心の働きの蛛絲馬跡(わずかな手がかり)を非常に密やかに細心に探っている。

参禅の最初の段階は尋求または探求であり、主に意識による探求である。最後に伺すなわち待つ段階になり、思想の動きが深く遅くなる。これは意根が動員され、参禅が意根に達したことを意味する。参禅は意識心を離れなければならないと言う者もいるが、意識心を離れると思惟はありえず、意識心を離れるとは意識心を滅することである。意識心がなければ、それは無想定にあるか、眠って夢のない状態にあることであり、意識心がなければ参禅できない。二禅以上の意識心はあまりに微細であり、参禅もできない。参禅の定境を適切に把握してこそ、最良の参禅状態にあり、最終的に明心または見性できるのである。

二、精思は参禅と止観に等しい

世俗の法の中に「精思は神に入る(精思すれば神に入れる)」という言葉がある。精思とは深く細やかな思惟のことであり、それによって定を得、止を得る。これは観から止に入るものである。止からさらに深く観ることができ、止観は等しく保たれ、互いに助け合う。経典を読む時、その中の一つの言葉、一つの義理を深くゆっくりと考え、全ての注意力をその言葉に集中させ、定力を引き出し、この定力を借りて観行思惟を非常に深く細やかに行うことができる。そうして未到地定に入り、さらに有覚有観の初禅に入り、また有覚無観の初禅から二禅の間の定に入ることができる。そして有覚無観の中の覚と観を滅すれば、二禅に入ることができる。

観行、すなわち一つの法義を深く細やかに思惟することは、入定が非常に早く、定力の向上も早く、理を明らかにするのも早い。思惟定の中では、身心ともに愉悅であり、精力が充実している。定力を高めたいなら、誰にも邪魔されない時を見つけ、一、二時間観行思惟すれば、定慧が共に生じ、身心が安穏であることに気づくだろう。どうしても定を修めることができず、深く細やかな思惟観行ができないのは、福徳がまだ足りないからである。福徳が深刻に不足していると、その場踏みとどまる。福徳を増やしたいなら、大願を多く発し、他人を多く思いやり、私心や慢心を少なくし、性障を減らせば福徳を増やすことができる。

深く思惟する法義は、各人の大筋では同じであるべきである。具体的な法義は、各人が直面するものはそれぞれ異なり、皆それぞれ現在解決できない疑問を持っている。この疑問を深く心に懸け、思惟観行し、心の念々がこの疑問の上にあれば、心に余念がなく、これが定である。この定があって、さらに深く細やかに思惟すれば、疑問を徐々に解決できる。

我々が福徳を十分に修めさえすれば、定を修めるのは難しくなく、一切の法を修行するのも難しくない。そして我々の清浄な大願が発せられれば、福徳の集積は非常に早い。性障の煩悩を降伏できれば、福徳の集積も早い。そうすれば仏菩薩の加持の力は非常に大きく、我々の道業の進歩は非常に早い。各人は心の念々が常に「我」であってはならず、何事につけ「我」であり、事に遇えば自らを突出させ、目立たせてはならない。そうすれば仏菩薩の加持の力は非常に小さくなる。なぜならそのような人は仏教や衆生にとって大した役に立たず、加持の後も自分のためであり、個人の利益だけを考えるからである。そのような人には、仏菩薩の力は加持されない。

定力がまだ修まっていない人は、自らの福徳がすでに具足しているか、自らの煩悩性障がすでに軽減されているか、自らの内心に貪着するものがまだ多いか、気にかける人・事・物が多いか、心配事が多いか、普段多くの事柄が心から離れず、心の念々が世俗の法であり、心が平穏でないかを多く点検すべきである。また自らの願力が不足しており、ただ縁に随って日を過ごし、方向や目標がないかも点検すべきである。点検した後は、これらの不足を補い、自らの性障煩悩を努力して除く方法を考えなければならない。点検した後も克服できないなら、多く楞厳咒を唱え、仏菩薩と護法神に頼って自らを加持してもらうとよい。

我々の現在の修行目標は自らの性障煩悩を降伏し、自らを多く点検し、自らの不足を見つけ、自らを修め、皆が共に和合して過ごし、自らの言葉が人を傷つけないように注意し、もし他人に過ちがあれば、できるだけ善巧方便で助けることである。もし他人に過ちがなければ、批判や非難を加えれば自らの福徳を損失し、他人には利益があるが、自らはその業の一部を背負うことになる。我々の福徳は、一つ一つの無意識のうちに流失しており、自らは全く気づかない。何事も優位に立とうとし、口を挟み、私心や慢心が非常に重ければ、こうして自らの福徳を損なう。謙虚で穏やかなことが福であり、できる限り自らを降伏させる。自らを降伏させることは非常に容易ではないが、それでも行わなければならない。福徳の大きい人は、煩悩は軽く、慢心も軽い。自らの悪念が少なくないと知っている人は自明の理(自覚)のある人であり、意識の五十一個の心所法の中で悪法は善法をはるかに上回る。だから各人は自らが良いと思ってはならず、自信満々で自らは全て良く正しいと思ってはならない。そうすればこれ以上進歩することはできない。

三、理修と事修による入道の方法

外縁を息(や)み、内心喘(あえ)がず、心は壁の如し、これをもって道に入る。これは達磨大師が言った言葉である。この言葉には二通りの解釈があり、第一は修行中の一つの定境を指し、もう一つは第一義諦を暗に指す。第一義諦から言えば、真如の理体である如来蔵には外もなく内もなく、外縁がなく、いかなる一法にも攀縁しない。一切の塵境を了別せず、一切の境界の善悪是非を知らないため、自心に思慮がなく、思想がなく、知見がなく、見解がない。それ故に一切の外法は心に入らず、心の内から思想・見解・見解が出ることもない。如来蔵の心は壁のようであり、内外は通じず、内外もない。それでは、如来蔵のこのような体性を了知した後、これを参究し証取すれば、これより後は道に入るのである。これが理修による入道である。

一方、事修による入道とは、事修とは定を修めることを通して、定の中で参禅し如来蔵を証悟することである。この定は色界の初禅定であってもよく、初禅以前の欲界の未到地定であってもよい。このような定に達すれば心念が集中し、参禅や話頭を参究でき、参究が通じれば開悟する。具体的に言えば、定を修めて外界の色塵・声塵・香塵・味塵・触塵に攀縁しなくなり、心も他の法塵に攀縁せず、妄想を打たず、回想せず、乱雑に思慮しない。心を壁のように修め、貪瞋痴の煩悩も入ってこず、無関係な六塵も入ってこず、一つの法に専注し、真如の法、如来蔵の法を思惟参究し、一つの公案または一つの話頭を参究する。因縁時節が具足すれば、答えを見つけ、法理を明らかにし、真如の心体を証得できる。

話頭は例えば「死屍を引くのは誰か?」「念仏するのは誰か?」「飯を食うのは誰か?」「歩くのは誰か?」であってもよい。また仏経の中の一つの言葉を思惟参究してもよく、例えば『楞伽経』で仏が言う「機関木人の如く、機発すれば相起こる」などである。この言葉は学人が本当に悟ったかどうか、悟りが正しいかどうかを検証できる。もし悟りを誤っていれば、この言葉の意味は理解できず、「菩薩が足を挙げ下ろすこと皆道場より来る」という『維摩詰経』の句の意味も理解できない。話頭は他にも多くあり、自らの根基に合うものが最良である。要するに、このような定は今の世の中では修めにくい。唐や宋の時代にはほとんどの人にこのような定があったため、悟道は非常に早かった。

参禅は必ずしも坐って行う必要はなく、行住坐臥の中でも参禅でき、いつでもどこでも参禅できる。心の思いが集中し、心に余念がなければ、境に触れ縁に遇う時、いつでも悟入できる。古来より悟道した祖師のほとんどは坐中に悟ったのではなく、坐中では悟りにくい。ある人は人の一言を聞いて悟り、ある人は音を聞いて悟り、色を見て悟った者もいれば、香を嗅いで悟った者もいる。彼らは皆参禅がある程度まで参究され、偶然の一つの機縁によって霊感が触発されて悟道したのである。また多くの人は師匠の開示を聞いて悟り、またある人は師匠に一拳・一棒・一喝されて悟った。各人の悟りの縁は異なるようである。参禅もある程度まで修めて初めて参究でき、定力が不足していれば無理に参究すべきでなく、無理に参究しても益はない。定力がすでに欲界の未到地定に達し、行住坐臥において心が乱雑に思惟せず、一つの境界に専注できることが参禅の最良の時機である。この時に参禅すれば疑情を起こし、疑情を解決すれば、すぐに明心開悟できる。

四、参禅の方向

参禅の方向は、行住坐臥の一切の五陰活動の中にあり、一つの法が現れる度に、その実質が何であるかを探究すべきである。五陰は虚妄であると言われるが、虚妄であるならなぜ現れるのか?行住坐臥の行陰は皆幻化であり、いったいどのように幻化され、誰がこれらの相を幻化したのか。座禅をする時、座禅をするこの人はいるのか?誰が座禅をしているのか?第八識如来蔵は座禅せず、第七識意根は座禅せず、意識心も座禅せず、前五識も座禅せず、身体に識心がなければ座禅もしない。それでは考えてみよう、座禅をするこの人はいるのか?誰が座禅をしているのか?座禅というこの法はどのように形成されたのか?これが参禅であり、参究が通じれば開悟する。

我々が話す時、考えてみるべきである:誰が話しているのか、話す人はいるのか?話すというこの法はどのように形成されたのか?第八識如来蔵は話さず、第七識意根は話さず、意識心は話さず、前五識は話さず、舌に識心がなければ話さず、そうでなければ死人も話せる。いったい誰が話しているのか?またどのように話し、言葉はどのように形成されたのか?これが参禅であり、参究が通じれば開悟する。念仏は結局誰が念じているのか?経を読むのは結局誰が読んでいるのか?一切の事柄に対して疑情を起こし、因縁が至れば疑情を解決し、迷いを破って開悟できる。

五、直感と参禅の関係

参禅が最後の参究状態に至ると、それは言語文字の相のない「尋伺」の状態であり、つまり意根に深く入り、意根が参究活動に参与している。そして直感とは意根の機能作用であり、意根の覚性であり、意根の感知である。言語では容易に言い表せない。なぜなら意根は言語と相応しないからである。意根の直感作用は大きく、比較的正確であり、多くの人は自らの直感を信じている。

心の中の全ての問題は法塵に属する。如来蔵が法塵を変現する時、意根が先に触れて知り、それから覚知性が生じる。ある法塵は意根がおおよその状況を理解できるが、細やかで具体的ではなく、それから意根が意識を導いて再び法塵に触れ、問題を仔細に観察し分析する。時には意識は意根の覚知した方向から思惟分析を始め、最終的に問題をはっきりさせる。往々にして意識が意根の直感の方向に沿って思惟する時、問題解決は非常に早く、比較的正確である。

そして参禅と参究は、意識と意根が共同で協力して一つの問題をはっきりさせることである。意識は意根の直感作用の協力を必要とし、意根は意識の論理思惟と分析のデータを必要とする。意根はこれらのデータを用い、さらに感知と検証を加えて問題を確定する。

その直感感知を常に帯び続けることは、禅定でもあり参究活動でもあり、意根に深く入っている。多くの人はこの経験があるが、理解せず、利用もしない。深く参究する時は意識思惟分析を用いず、意根が密かに深く思量している。意根は表現できず、文字言語と相応しない。意識がさらに軽く協力し、意根を主とするのが参究の状態である。意識を主とするのは思惟分析の状態であり、参究の状態より次元が浅い。これは参禅の前行方便であり、その後で参究の状態が現れるのである。

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