禅定の修めと参禅証道(第一部)
第三節 禅定を修める原理
一、禅定を修める際、浅い定は五倶意識を修めることであり、深い定は必ず独頭意識まで修めなければならない。禅定を修める一般的な手順は、五倶意識を制伏し、次第に深く入って独頭意識へと転換し、その後で独頭意識を制伏するというものである。甚深なる禅定は全て独頭意識から修め始める。例えば、仏典中の様々な観想法門は、全て独頭意識を制伏するものである。あらゆる禅定修行の過程において、最初から最後まで、意根が六識の生滅変化を主宰し牽引する。時に、また最初は意識が意根を牽引し、思惟や道理を用いて意根が妄りに攀縁しないよう説得することもあるが、最終的には実質的に意根が六識の了別の有無と軽重を決定し、意根が六識の往来を牽引し、意根が六識を減弱・消滅させるのである。
独頭意識は生起する際の制限条件が少なく、また消滅しにくいため、五倶意識よりもはるかに活発で、制伏が容易ではない。しかし一旦制伏すれば、禅定は極めて容易になる。一旦独頭意識を捉え牽引できれば、入定と出定の道筋が開ける。六識を捉え牽引するのは全て意根の働きによるため、意根には必ず欲心所が存在する。意根の欲を降伏させ、意根の欲を調動し、意根の欲を牽引すれば、禅定は極めて容易になる。したがって、禅定を修めるとは、結局は意根を修め、意根を降伏させ、意根を牽引することなのである。
禅定を修める順序:五識を降伏させ、五識の一つだけを残す。これを専注(一点に集中すること)という。次に、残った一つの五識も減弱させ、五倶意識の機能を強化する。その後、五倶意識の機能を独頭意識へと転換し、さらに五倶意識を減弱させて独頭意識を強化する。その後、独頭意識を専注・専一・深く入らせる。
さらに深い定に入るには、独頭意識を減弱させ、最終的には独頭意識を滅去する。独頭意識が強すぎると、禅定、特に深い禅定に影響する。例えば、常に法義を思惟しようとしたり、心に常に念頭を置かねばならず、念頭を断つことができず、さらに念頭を転換し続けるような状態では、深い禅定を保つのは難しい。
禅定を修める原理から見ると、意根は必ず定心所と相応する。定とは意根を定めることであり、六識を定めても無駄で、六識を定めることはできない。子供は必然的に母親に付いていくものであり、母親を定めれば同時に子供も定まる。物事を見る際、表面現象を見てはならず、必ず物事の本質と究竟のところに深く入らなければならない。意根の働きを観察できなければ、深層の本質を観察することはできず、物事の表面に留まり、いくつかの仮相を観察するだけであり、これでは智慧が生まれることはない。
二、仏法を学ぶ過程で、どれほどの人々が絶えず妄念と戦い、妄念を消し去れば仏法を証得できると考えていることか。しかし、たとえ百年間妄念と戦い、妄念を降伏させたとしても、結局は仏法を理解せず、智慧も生まれず、解脱することはない。正しい修行方法は、意根に注意を仏法の思惟に向けさせることであり、そうすれば妄念は自然と減少する。注意を転換し、攀縁の対象を転換すれば、修行は速やかに成就する。
常に妄念の上でやり取りをすることは、仏法の修行や智慧の獲得には何の助けにもならない。最も直接的な方法は、攀縁の対象を転換することである。世間法への攀縁から仏法への攀縁へ、世間法への執着を仏法へ、興味を転換し、貪の対象を転換し、世智弁聡という世間法の小賢しさを、仏法を観行する智慧へと転換するのである。そうすれば、定慧は直ちに現れ、どうして悟りを得られないことがあろうか。仏法を善く学ぶ者は、妄念を善く利用すべきであり、念頭を押し殺すのではなく、念頭を転換することを知り、仏法を思惟する念頭へと転換すべきである。心心念念(心の一瞬一瞬)が全て仏法にあり、心心念念が全て仏法であれば、そうして定慧は成就するのである。
もし毎日妄念と戦うばかりならば、それは外道の修行方法と異ならず、また到底外道の深遠な禅定には及ばない。かつて外道たちは禅定を修め、四禅八定をことごとく修め出し、五神通も修め出した。しかし、未だ我見を断じておらず、依然として五蘊十八界の中の或る法を我とし、真実と認め、邪見・顛倒見を微塵も破っていないため、この邪見に依って生死を輪廻せざるを得ない。たとえ八万大劫もの長きにわたり入定できたとしても、八万大劫後に出定すれば、依然として三悪道に堕ち、生死輪廻の苦を免れない。衆生は我を執う邪見によって業を造り、生死輪廻するのである。もし我見を断じれば、自らを縛る結び目を解き放ち、三悪道に入らないことを保証できる。修行において邪見を破り、正知見を得ることは非常に重要である。そうでなければ、無量劫修行しても依然として邪しい道を歩み、正しい道に回帰できず、解脱も得られない。
福徳が具わり、目標が正しく、方法が適切であれば、悟りを開くこともそう難しいことではない。各人の根基(素質・器量)が異なるため、修行方法も異なる。幼い頃から清浄を好み、独りでいることを好み、趣味や関心が少ない人は、禅定を修めるのが比較的早い。たとえ座禅を組まなくても、心が攀縁すること少なく、精力が集中しているため、仏法に出会えば、専心して仏法を思惟し、仏法に深く入ることができる。彼がしばらく仏法の正知見を熏習(繰り返し学び染まること)した後、正知見を得れば、参禅の方法を理解し、自ずと自発的に参禅を始める。逆に、十年二十年と座禅を組んでも、依然として専心して仏法を思惟できず、如何に仏法を観行するかも分からず、法の正邪や次第を弁別できない人もいる。