禅定の修めと参禅証道(第一部)
第六節 禅定の状態
一、禅定とはどのような状態か。禅定とは心が動かない状態であり、主に六識が動かず、末那識(意根)がわずかに遅く微かに動く状態を指す。例えばぼんやりとした状態がそれである。ぼんやりしている時、意識は一つの対象に集中し、その対象に定まって動かず、表面的な思考作用はなく、法塵(心的対象)が深く末那識に刻み込まれる。末那識は主要な力をその法塵の境界に集中せざるを得なくなり、深く思量することを余儀なくされる。こうして智慧が開かれ、その法塵の境界の根源と本質を明らかに理解することができる。これは意識と末那識が共同で作用した結果であり、意識が深く細やかに思考し、末那識が精神を落ち着けて思考を助け、自ら思量に参加することにより、禅定と智慧が現前するのである。
ぼんやりする、放心状態になる、正気を失う、呆然とする——「愣」は呆然として動かない意、「神」は意識を指す。つまり「愣神」とは意識が思考・分析作用を起こさなくなる状態である。意識がすでに法の表面的・浅薄な意味を理解した後、さらに深い問題は解決できなくなり、問題を末那識に委ねざるを得なくなる。意識は問題を見つめる役割のみを担う。多くの重大かつ深遠な問題は意識では解決できず、末那識の宿世(過去世)からの固有の経験と智慧に頼るほかない。初期段階で意識が浅明な問題を理解して末那識に伝えると、末那識はおおよそを把握し、独自にさらに深い問題を思量し始める。例えば旧友や元同僚に会い、意識がその人を認識し誰であるかは分かっても、名前がどうしても出てこず、呼びかけることも挨拶することもできない場合がこれにあたる。この時、意識は何もできなくなり、末那識はその人の名前を検索し、絶えず思量し探求する。同時に六識(六つの感覚認識)に口をきけなくさせ、相手をじっと見つめさせ、何もしないようにさせる。ぼんやりしている時、時に意識も末那識の思量を補助するために微弱な思考活動を行うことがあるが、意識の思考は強くならず、そうでなければ意識の思考が活発化し、ぼんやりした状態から脱してしまう。
世俗の事柄においても同様の状況は多い。解決すべき重大な問題に遭遇し、意識がぼんやりした状態に陥り、動きが少なく、分析や感情・思考による理解が少なくなる。心の奥底、すなわち末那識がその重大な事柄を引き受け、深く思量することで、事柄を明瞭に理解し、解決策を見出すことができる。ぼんやりとした集中力(定力)を延長すればするほど良く、末那識が深く関与すればするほど良く、意識の思考が少なければ少ないほど良い。時節因縁が具われば、いかなる法も証得できないことはない。なぜ仏経や法義が理解できず、他人の言葉や心理が分からない者がいるのか。それは禅定が不足し、智慧が開かれるに足りないからである。禅定が不足するのは、すなわち福徳が不足しているためであり、心が浮つき、思考が浅薄だからである。
二、ぼんやりした状態は空ではなく、一念も生じない空無の状態でもなく、呆然とした状態でもない。そこには深い思考活動があり、公案の「話頭」を参究するように法義を深く究明している。ぼんやりしている時は、できれば末那識を悟らせ、末那識の心理活動を引き出すのが望ましい。
ある問題に出会うと、目が一瞬見開かれてじっと動かなくなり、意識はすぐに定まり、まっすぐになる。脳の奥深くで思考が回転し、非常に深く、非常に秘やかである。表面的には思考しておらず、考えがなくなったように見えるが、実は深層で活動しており、表には現れない。これは末那識に深く入り込み、末那識を動員した結果である。意識の分析は少なく、末那識が自ら法を思量することに多く心を用いることで、智慧の潜在能力が発揮される。これが参究の原理である。
禅定とは何かが分からず、禅定の修め方も、末那識の使い方も分からない者がいるが、実は禅定が深まれば深まるほど、末那識の作用は意識の作用を上回る。できる限り末那識に意識の思考へ多く参与させ、意識に浅薄な思考をさせない。これを参究といい、智慧は必ず開発される。五蘊を思惟すれば我見を断つことができる。禅を参じれば明心し証悟できる。仏性を参じれば如幻観を証得できる。七識の幻化を観行すれば陽炎観を証得できる。万法が夢幻泡影の如しと観行すれば、例えば夢観などを証得できる。あらゆる観行は現量(直接知覚)によって観じ、現量によって証得されるのであって、決して情思意解(感情・思考による理解)や想像ではない。
三、ぼんやりした状態とはどのような状態か
問:呆然としてしまい、法義がまだ末那識にある状態。それをじっと見つめ、思量させ、この過程をできる限り延長する。末那識の「思」は五つの遍行心所法(普遍的に作用する心の働き)であるため、末那識のこの思量は常にどこでも存在し作用している。ぼんやりすることは、意識を空(から)にし、末那識に空間と時間を与え、法義を思量させることなのか? ぼんやりしている時、末那識は確かに思量しており、五遍行心所法で説明できる。ぼんやりしている時、意識の状態は空白のようで、いかなる思考もなく、テレビの映像や音さえも干渉できない。時間に関しては長短がある。意識が集中し、末那識を繋ぎ止めることで、末那識の攀縁(対象を追い求めること)を少なくしている。しかし意識も同様に作用しておらず、あるいは末那識を繋ぎ止めること自体が意識の作用なのか?
答:ぼんやりした状態を延長することは、末那識に絶え間なく深く細やかに思量させ続けることであり、智慧を生み出し、効果的に問題を解決できる。ぼんやりすることを「沈思」ともいい、実は禅定の中で末那識が意識の邪魔されない状態にあり、意識が散乱せずに集中し、思考分析が少ないか全くなく、末那識の邪魔をせず、末那識にも攀縁を少なくさせ、作意(注意を向けること)と思量に集中させることで、智慧が生まれ、問題が解決されるのである。
ぼんやりしている最中、意識と末那識は共に法塵に集中し、末那識に協力しているが、ただ思考はほとんどない。末那識は一念も生じない状態にはなく、思量があれば想念活動があり、思想活動があって初めて智慧が生まれる。時に、眠る前に問題を考えても解決できず、一晩眠った後、朝目覚めると理解できていることがある。これは末那識が夜間も継続して働き思量していたことを示している。
ぼんやりした状態には意識が存在し、意識は滅することはない。意識の空無状態ではなく、意識の一念も生じない状態でもない。それは意識の集中状態である。意識が集中することが禅定であり、意識が深く細やかに思惟することが智慧である。禅定と智慧が等しく保たれることが三昧の境地である。意識が思考対象である法塵に集中することは、一念も生じない空々漠々とした状態とは明らかに異なる。一念も生じない無心の状態ではなく、何もしない状態でもない以上、意識には思考がある。ただその思考は非常に深く細やかであり、動きが非常に遅く、非常に深く、末那識と共に和合して作用し、法塵を思考しているのである。