衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月09日 閲覧数: 7

第二節 戒・定・慧の三つの関係

一、戒は定の前提と基礎

戒は定の前提と基礎である。戒を守らずに定を修めるのは、砂や石を蒸して飯を作ろうとするようなもので、本来の飯の種ではないため、ついに飯を得ることはできない。末法の時代において、戒を守る者はすでに非常に少なく、戒体を得た者はさらに稀である。なぜなら、人に戒を授ける者自身が戒体を持たないか、あるいは戒を犯したために戒体を失っており、他人はその者から戒体を得ることができないからである。戒体がなければ、戒を犯す心に対する遮断や防御の作用がなくなり、悪縁が現れた時に容易に戒を破り悪業を造ってしまう。

したがって、今日の仏教修行者で禅定を成就できる者はほとんどおらず、観行の智慧を備えることはさらに難しい。大多数の者はただ書物を通じて法の意味を理解し、多少の知識を得た後、自分は何かを得て証したと思い込み、慢心が高ぶる。これは自分にも他人にも益がない。禅定を観行の基礎および必要十分条件とせずして、実証は全く論じられず、三歳の子供のように口先だけの禅を弄し、大げさな道理を語るばかりで、八十歳になっても依然として実行できず、心と言葉が一致しないのである。

二、仏法の修証における重要な部分は、仏が繰り返し私たちに説かれた戒・定・慧の三つの漏れなき学びである。戒学の面では必ず厳格に戒律を守り、その後で心はようやく定まる。心が定まって初めて観行の智慧が生じ、観行が成熟すれば般若の大智慧が生まれる。般若の大智慧を持つことは非常に重要であり、解脱へと導く。そして般若智慧の生起は深く微細な観行の智慧に依存し、観行の智慧の獲得は禅定に、禅定の生起は戒律に依存する。戒・定・慧の三学は一環一環が繋がっており、どれも重要である。各段階は密接に関連し、欠くことができず、省略したり捨てたりすることはできない。そうしなければ実証は不可能である。

禅定が修まった後は、それを観行の智慧に転換することを学び、心の想念を巧みに転換しなければならない。そうしなければ禅定は永遠に禅定のままであり、外道の定と何ら変わらず、般若智慧を生まず、無我を証得できず、解脱して自在を得ることはできない。多くの人は静坐に興味を持たない。その理由は心が散乱しすぎて座っていられないため、動中の定に頼らざるを得ないからである。しかし、静中の心は把握しにくく、動中の心はさらに把握が難しい。たとえ動中の定が良く修まっても、その定は静中の定より浅く、心は粗く、思惟は微細でなく、観行の智慧も粗浅であり、真の実証は不可能である。したがって、静中の定は基礎であると同時に最後の帰依処であり、大智慧は必ず静中の定から生まれる。歴代の祖師や諸仏菩薩も皆そうであった。

静中の定が良く修まると、思惟は敏捷で深く微細になり、歩く・行く・座る・臥すのいずれの時も心は常に定にあり、煩悩は降伏でき、心境は軽快で愉快であり、心の想念は自然と善念が多くなる。したがって静中の定は非常に重要であり、これは十方の諸仏菩薩、祖師、大徳が伝えてきた法宝である。必ず大切にし、よく修持しなければならない。

三、戒によって定が生じ、定によって慧が発する

『楞厳経』第六巻で、仏は言われた。「阿難よ、汝は常に我が毗奈耶(ヴィナヤ)の中で修行の三決定義を説くのを聞いている。いわゆる心を摂めることを戒とし、戒によって定が生じ、定によって慧が発する。これを三無漏学と名づける」。

毗奈耶は経・律・論の三蔵の一つであり、仏の説かれた戒律であり、また自心を調伏し身口意を調伏する意味でもあり、身口意の作業を調和させることである。調伏の結果、煩悩を降伏し断除でき、心の地が漏れなくなり、身口意がすべて漏れなく煩悩がなく、煩悩の習気がなく、無明がなく、ついに成仏する。なぜ心を摂めることを戒とするのか? どの心を摂めれば戒を成就できるのか? 心を収摂しない時、身口意は妄動し乱れ動く。身は、すべきでないことをあえて行い、行くべきでない所へあえて行き、動くべきでない時にあえて動く。そうして深刻な場合は殺生・盗み・淫の業を造作し、禅定は成就できない。たとえ軽微な身体の乱行や妄動であっても禅定はあり得ない。なぜなら身体が定まらなければ、禅定は不可能だからである。

心を収摂できない時、口は妄語や乱語を吐き、言うべきでないことまで言い、言ってはならないことまで言う。深刻な場合は妄語・綺語・両舌となり、事をあおり立て、五戒十善に違犯する。こうして心は清浄でなく、禅定は不可能である。たとえ五戒十善に違反しなくても、口が乱れ言い、口行が多ければ、心は必ず乱れて思い、心行が多くなり、心は寂止せず、禅定は不可能である。

心を収摂しない時、意業は必ず清浄でなくなる。思うべきでないこともあえて思い、慮るべきでないこともあえて慮り、覚えるべきでないこともあえて覚え、観るべきでないこともあえて観る。こうして貪・瞋・痴の煩悩は必ず現前し、心の水は濁る。どうして定があろうか?

思うべきでない人をあえて思おうとし、慮るべきでないことをあえて慮り、掛けるべきでない情をあえて掛ける。心はどうして寂止できようか? 誰を思うべきでないのか? ある者は情が多く、内心に常に他人の影像を掛け、払っても払いきれず、呼べばすぐに来て、拭いても拭いきれない。こうしてどうして禅定があろうか? 坐禅する時、これらの影像は必ず自心を遮障し、観行思惟を遮障し、寂静を遮止する。どうして定があろうか? もしこれらの影像を仏菩薩の影像に替えることができれば、仏菩薩の加護を得て心は清浄になり、すぐに禅定が得られる。

ある者は心を収摂せず、自分に関係のない事柄で、人のためにならないことを念々在心とし、時々忘れず、事ごとに気にかけ、心を一杯に満たし、隙間がない。こうして心の水は激しく沸き立ち、騒がしく鳴り響く。どうして定があろうか? 心を収摂せず、常に財・色・名・食・睡を掛け、六塵の縁影が重なり合い、心は空でなく、物に覆われている。どうして禅定があろうか?

多くの人は禅定がうまく修まらないと不平を言う。それならば、自分自身を点検し、禅定が修まらない原因が何なのか、心に何が遮障となっているのかを明らかにし、それを掘り起こして解決し、心を空にすれば、禅定は自然と容易に修まる。禅定に影響するのは貪・瞋・痴の煩悩であり、心が世俗の法に執着して捨てようとせず、何もかもを真実と見なし、有用な物と見なして、掴み取らずにはいられず、死んでもこれらの世俗の法を執取しようとする。こうしてどうして定があろうか?

こうして説いた後も、なお多くの人は自分を点検できず、自分の心に一体何があるのか分からない。なぜなら心が境界に流れ散ることに慣れ、境界と貼り付きすぎて離れられず、境界の外に跳び出て自心を観察できないからである。こうしてどうして観察の智慧があろうか? どうして自心の煩悩や習気を観察できようか? 圏外、境界の外、心の外に跳び出て、自心を観察して初めて観察の智慧が生じ、観照力が備わり、以前は発見できなかった事相を発見でき、自心に対処し、自心を捻じ曲げる方法が生まれ、自心を降伏する力が生まれるのである。

今まず為すべきことは、心を境界から離し移し、心は心、境は境、人は人、物は物とし、諸法は各々法位に住して、自心とは一切関係なくすることである。心が境を離れると、覚照力は強大になり、諸法の実相を悟りやすく、禅定は自然に増長し、智慧は自然に現れる。

以上が戒によって定が生じる原理である。自心を収摂することこそが戒であり、心が非を起こさないことが戒であり、心が乱れて思い・思慮・動き・決断・造作をしないことが戒である。この心は主に第七識の意根を指す。意根の触・作意・受・想・思は、六識の作意・触・受・想・思を引き起こし、六識の身・口・意の行の散動を引き起こす。意根を収摂することは、身口意行の総スイッチを制御することに相当し、将軍や指揮官を降伏させることに相当する。そうすれば配下の六識の兵卒は素直に従い、服従して乱れ動かない。どうして禅定がないことを心配しようか?

修学における最も重要な点は:定によって慧が発する、である。「発」は生じる、引き起こすという意味である。仏陀は私たちに示された。心は禅定の定力によって、心が定まれば力が生じる。この力は智慧を発起し生じさせることができる。まるである種の力が芽を土から押し出すように、押し出すことを生じる、発するという。智慧はまさに禅定の力によって心の中から押し出され、生じ発するのである。禅定がなければ心には力がなく、智慧を生長させることはできない。

仏陀が私たちに残された宝蔵は、戒・定・慧の三つの漏れなき学びである。もし私たちが戒を持ち定を修めることができないために、前の二つの宝蔵を捨て去り、これら二つは役に立たず、一つの宝蔵だけで十分だと言うならば、私たちは考えてみよう。私たちは道楽者ではないだろうか? 仏陀の伝家の宝を損ない、顧みずに捨てる。私たちはまだ仏陀の弟子だろうか? 仏陀の家宝を守護しなければ、私たちは仏陀の孝子賢孫ではない。前の二つの宝蔵がなければ、最後の一つの宝蔵を持つことはできず、最後の一つがあったとしてもそれは偽物であり、真の智慧ではない。

戒を展開して説けば、言い尽くせない。定を展開して説けば、やはり言い尽くせない。慧を展開して説けば、さらに言い尽くせない。結局のところ、戒・定・慧は浮ついた六識心の戒・定・慧から、根本的な第七識意根の戒・定・慧に至る。これこそが真の戒・定・慧である。真の戒・定・慧は心の戒・心の定・心の慧であり、単なる表面の六識の身行や口行だけでなく、単なる意識の心行ではなく、第七識意根の心行の問題である。意根が収摂され、非を起こさず、乱れ動かなければ、必ず智慧が生じる。意根の戒・定・慧は一切の法を統率し、最後には必ず意根の戒・定・慧によって究竟の仏となる。

四、禅定がなぜ修めにくいのか

過去に世尊が在世の時に説法されたのは、戒・定・慧の三つの面から同時に着手し、比丘たちに厳格に戒律を守り、精進して定を修め、多く聞き深く思惟し、勤めて観行するよう求められた。弟子たちは戒・定・慧における成就が速く、証果する者が多かった。しかし今日の末法時代は大きく異なり、説法は逆に説かなければならず、まず法義を説き、後に禅定を修め、最後に戒律を学び、少しずつ順を追って導く。衆生は逆に修めなければならず、多くの理論を学んでも禅定や観行がなく、戒律が成就しないため禅定を生じさせることができず、真の智慧も生まれず、学んだものはすべて単なる知識に過ぎない。

戒律を先に説くことはできず、大多数の衆生に対して厳格に戒律を要求することはできない。衆生が戒律を持てず、戒律の束縛を恐れて仏法を学ばなくなるか、あるいは戒を受けることを望まなくなるのを恐れるからである。意根の野性は調伏し難く、常に良田の苗を踏み荒らす。もし戒律の鞭縄で拘束すれば、牛の角が人を傷つけ、牛の蹄が良田を踏み壊す恐れがある。戒律の鞭は心性が調柔な良馬にのみ有効であり、良馬は鞭の影を見れば正しい道に乗ることができる。しかし劣った馬は鞭が体に当たって皮が裂け肉が割れても気づかない。

私たちの多くは禅定が修めにくいと不平を言う。しかし修めにくい原因を誰もはっきり理解せず、分析研究もせず、禅定の発起を阻む要因は誰も知らず、ましてやそれに対処し自心を調伏しようとする者はいない。多くの人は日常生活で自分の意のまま、自分の習性のままに慣れてしまい、己の意や習性が不善で正しくなく、修行人が持つべき習気に相応せず、差がまだ非常に大きいことを知らない。こうして仏法を学んだ結果は、どれだけ長く修行しても戒律は成就せず、禅定は成就せず、智慧は成就せず、せいぜい乾いた智慧(乾慧)があるだけで、それを頼りに口先の禅を弄し、口だけの快楽に浸るが、実際の修証は全く論じられない。もし知らず知らずのうちにさらに悪業を造れば、その果報は免れず三途に堕ち、一生を無駄にし、一度の殊勝な仏法に出会う機会を無駄にし、美食は結局飢え渇きを解決せず、依然として貧困に落ちぶれるのである。

五、魚と漁の区別

人に魚を与えるより、人に漁(魚の捕り方)を教える方が良い。魚は何を表すか? 漁は何を表すか? 魚は果実であり、漁は果実を得る方法である。人に魚を与えれば、魚が尽きればそれで終わりである。しかし人に漁を教えれば、根本的な技能を掌握し、無限の果実を得ることができ、将来の衣食に心配はない。

漁とは、戒・定・慧の三つの漏れなき学びである。戒律を持ち、禅定を修め、観行によって参究し、思惟を通じて、解脱の智慧を得る。最初の慧は学慧であり、学習によって得た智慧である。最後は得慧であり、観行参究の後に開発された智慧であり、自分自身の心の奥底から取り出した智慧であり、自分だけが所有し、誰にも奪われない。しかし学慧は、昏昧で死を迎えれば煙のように消え散り、行方が分からなくなる。

前段階の戒律を持たなければ、中間の禅定はなく、禅定がなければ観行の智慧はなく、観行の智慧がなければ智慧の魚を得ることはできない。

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