禅定の修めと参禅証道(第一部)
第五節 禅定の境地
一、初禅には時間と空間の観念があり、いつであるか、どこにいるかを知っています。二禅では念を感じず、覚知がなく、定から出て初めて自分が入定していたとわかります。四禅にはまだ念があると言う人もいますが、私は初めて聞きました。二禅では、意根には念がありますが、ただ意識が知らないだけです。その時は深く入定して無知無覚ですが、誰かが「斎の時間だ」と小声で言うと、すぐに聞こえて、心は定から出てしまいます。なぜあれほど小さな声を聞いて、定から出られるのでしょうか。それは意根が食事のことを気にかけているからで、小さな声を聞くと、意識に別れを生じさせ、それで定から出てしまうのです。
二禅では意識は滅びていませんが、非常に微細で、私は何も気づかず、自分が入定しているとも知らず、まるで何もわからないようです。二禅で意根が食事のことを気にかけていなければ、誰かが「斎の時間だ」と言っても、定からは出ません。私が入定している時、周囲の数十人が互いに話し合っていて、静まったことはありませんでしたが、私は聞こえず、「斎」という言葉だけが聞こえました。
私は四禅に入ったことがなく、四禅における意識心の状態を知ることはできません。実証がなければ発言権はありません。三禅には一日入ったかもしれませんが、あまりに楽しくて、魔境に入るのを恐れ、捨ててしまいました。二禅では意識には反観力がなく、当時の意識がどんな状態だったかもわかりません。
二、二禅定は一瞬で入ることができ、その後は何もわからなくなります。定から出るのも一瞬で、出てから初めて自分がさっき入定していたとわかり、身体が非常に快適で、気分が特に愉しく、頭脳が非常に明晰だと感じます。かすかな音一つで耳識が目覚め、それで定から出ます。意根にはまだ気にかけていることがあるので、時間が来て重要なことを誰かに指摘されれば、たとえ蚊の羽音のような小さな音でも聞こえ、それで定から出るのです。入定前は、非常に騒がしい音の中でも、心は素早く静まり、騒音が次第に弱まり、やがて聞こえなくなり、人は入定します。
三、未到地定でも軽安の状態が生じることがあり、三昧(さんまい)は初禅以上の定中に現れる定境です。未到地定にも軽安の状態はありますが、初禅定の軽安とは大きく異なり、初禅はまるで神仙のような感覚です。未到地定の軽安はやや劣り、身体が高大、巨大、微細、軽く漂うような現象が現れることがあり、歩くのが軽快で、身体が上昇し、全身が軽く、歩く音がなく、内心は安定します。同じ禅定でも、人によって身心の状態は完全には同じではなく、同じ人でも時によって表現に多少の違いがあります。欲界定の状態にもさまざまな種類があり、定の深さも異なります。同じ初禅定でも、人によって身心の感覚や状態は完全に同じではなく、一人の人間でも時が異なれば、同じ定に入ってもその身心の状態や感覚は完全に同じではありません。
同じ「軽安」という言葉でも、その境界は異なり、現れる程度もやはり異なります。軽安の臨界点がどこにあるかを厳密に定めることはできず、人によって定義は異なるかもしれません。もし心が落ち着かない人がいて、どうしても議論したいなら、お互いに自説を主張するしかありません。三昧は厳密に言えば、初禅以上の定の中にあるべきで、これが正式な禅定であり、四禅八定の始まりです。
四、初禅以上の境地
初禅以上の境地では、色界初禅以上の天人は欲界衆生のような貪欲がなく、性別がなく、男女を分けません。鼻識がなく、舌識がなく、香りを嗅がず、飲食がなく、食べたり飲んだり排泄したりする必要がありません。二禅以上の天人は定中に五識がなく、五塵の境界を分別しません。無色界の天人には色身がなく、前五識がなく、意識、意根、第八識だけがあります。無想天の天人は意識心も滅し、意識がなければ想心所もなく、意根と第八識だけがあります。倶解脱の阿羅漢が滅尽定に入ると、意識心がなく、意根の五遍行心所法も二つ(受と想)が滅じます。これを滅受想定とも呼びますが、意根にはまだ三つの心所法が残り、第八識がまだ身を保持しているので、滅尽定中の阿羅漢は生きている人です。第八識が離れると死人となります。