衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 10

第四節  禅定は証果の先決条件

一、禅定が具足してこそ速やかに証果できる

阿含経に記載されている事例や、大涅槃経に記載されている事例には、いずれも真実性があり、確かに一部の外道たちは四禅八定を修め出した後、仏の説法を聞き、わずか数分間思索するだけで我見を断ち、我執を断って四果阿羅漢となり、そのまま無余涅槃に入ったのである。これらの外道は並外れており、四禅八定の功徳は尋常ではない。我々の多くは仏法を聞いて一生を過ごしても我見を断つことができないのに、外道は四禅八定を有していれば、わずか数分あるいはそれより短い時間で、我見を断つだけでなく我執までも断ち切り、直ちに無余涅槃に入ることができる。これは不可思議である。皆さん、彼らがなぜこれほど利根なのか考えてみてほしい。それは彼らが四禅八定を修行する中で、すでに意根が降伏されており、ただ一つの知見上の誤った解釈が明確にされず、断ち切られていなかっただけだからである。一旦この邪見を断ち切れば、すべての煩悩と執着はその時に脱落する。これが四禅八定の功徳である。ここから、意根の煩悩を降伏させることと四禅八定の関係が非常に密接であり、禅定が極めて重要であることがわかる。

二、実証の条件の一つは禅定である

ある人は言う:禅定は外道の定に通じるものであり、仏法を学ぶ者は外道の定を修めるべきではなく、ただ正しい知見があれば入道できる、と。この見解は正しいか? もちろん正しくない。大乗も小乗の修行も、いずれも禅定を修習しなければならず、仏陀は繰り返し戒定慧の三無漏学の重要性を強調している以上、禅定は必ず修めるべき重要な内容である。また、仏教が修める禅定には外道の定と共通する部分があるとして、外道と共通するからという理由で、仏法を学ぶ者は共通することを避け、禅定を捨てて修めないべきか? この考えは愚痴な見解である。

なぜなら、仏法は世俗の法から離れず、外道も食事をし衣を着て、語り黙し言い笑う。仏法を学ぶ者が外道と共通することを避けるために、衣を着て食事をし、語り黙し言い笑うことを捨ててこそ独特であり、外道より優れていると言えるのだろうか? 外道と共通する禅定を離れてしまえば、禅定は存在しない。禅定がなければ見道できず、解脱もできない。それなのに、外道と共通することを恐れて禅定を修めないのは、いったい何のためか? もし外道さえも有する功徳や受用を、いわゆる内道が持っていないならば、それは内道が外道ほど強くなく、外道ほど修行が進んでいないことを意味するのではないか? 不必要な清高を内道の者が追求し、その結果禅定の真実の受用を得られないのは、愚痴を表しているのではないか? 愚痴な人が有するいわゆる正知見は、果たして正知見と言えるのか? 内道の者よ、よく考えてほしい!

また、内道の者には、外道と共通しない禅定を発明し、大衆が共に修行して禅定の功徳受用を得られるようにしてほしいと願う。もしこの外道と共通しない禅定にも禅定の特徴があり、身心にも快適、高大、軽やか、軽安、緩和、愉悦、喜悦、慈悲、祥和、慈柔、煩悩が少ない、思惟が敏捷などといった現象が現れるならば、申し訳ないが、これらの現象は外道の定もすべて具えており、外道たちもこれらの功徳を受用している。この禅定は外道の定から離れておらず、依然として外道の禅定と共通しており、内道の者は相変わらず道理のない清高を保っていることになる。

正知見は確かに重要であるが、正知見を自らの真の見地とするためには、正知見を実証する必要があり、正知見を実証する方法の一つが禅定である。禅定の修行を離れては、知見は永遠に知見のままであり、口が達者で唾を飛ばし、侃侃と理路整然と語ろうとも、これらは単なる知見に過ぎず、せいぜい解悟と定義されるだけである。どうか真に理にかなった実修を望む者には、ただ名ばかりで実質がなく、言葉や口先だけに力を入れることなく、実証はそのようなものではないことを理解してほしい。

三、禅定があってこそ如来蔵を証得できる

如来蔵の体性には非常に深い内容が含まれており、我々は繰り返し薫修して初めて一部を理解できる。より多くの法は、如来蔵を証得した後で初めて徐々に理解し、徐々に観行できるようになる。しかし、仏法の証得は必ず禅定の中で思惟観行しなければ真に証得できず、そうでなければせいぜい理解できるだけであり、理解したものは結局頼りにならない。禅定と観行は非常に重要である。禅定がなければ、多くの法を思惟観行することができず、これから説かれる深い法を理解できなくなり、徐々に落伍してしまうだろう。

皆さんは時間があれば禅定を修めるべきである。禅定がなければ仏法を証得できず、理解したものは結局知識のレベルに属しており、生死に抗うことはできない。そして、深い法は禅定がなければ、根本的に理解することすらできない。仏道修行の道において、禅定がなければ仏法を観行できず、如来蔵を証得できない。たとえ無理に明心したとしても、その後の様々な観行はできず、それでは各々の果位の修行内容を円満にすることができず、これからの修行の道は行き詰まるか、非常に遅々として進まなくなる。だから皆さんは必ず努力して定を修めなければならない。

四、畢陵伽婆蹉尊者(ひりょうぎゃばしゃそんじゃ)の証果の経歴

楞厳経にある畢陵伽婆蹉尊者は、身体に毒刺を受けた時、念を摂めて間もなく身心が忽然と空じ、無生忍を証得した。この時、尊者意識の心念は確かに収摂されており、疑情以外の法を縁とせず、身体すらも縁とせず、身体の存在を知らなかった。意根の心念も収摂されており、そうでなければ意識は収摂できず、必ず意根に随って攀縁したはずである。意根が収摂されて他の法を縁としないため、身体も識心も空じた。これは単に禅定の中の無ではなく、思想観念上の空でもあり、身心が我ではないと証得した証果の境界である。そして身心を収摂することこそが禅定であり、その後さらに深い禅定が現れ、身心無我の智慧が開発されたのである。

もし禅定がなければ、真の智慧が生まれることがあり得るか? あり得ない。たとえいわゆる智慧があっても、それは乾慧(けんえ:実証を伴わない智慧)であり、知解宗徒(理解だけの宗徒)に属する。今や至る所にこのような知解宗徒がいるが、果たして教えられるかどうかわからない。六祖が当時、神会和尚を罵ったのは、今の人を罵るのと同じであり、しかも神会和尚ほどの知解すらないのに、今の人は皆、覚ることができず、法を学ぶのも意識の情思意解(感情と思いと理解)の上にあり、実証する方法がないのである。

五、様々なレベルの果証は、いずれも三昧(さんまい:禅定)である。したがって、必ず禅定の境界と智慧の境界の両方がなければならず、どちらか一方が欠けてもならない。 私はかつて人と話をしながら、同時に僧服を縫っていたことがあるが、結果的に僧服を裏返しに縫ってしまったことに気づいた。縫い物のような単純な作業でさえ、ほとんど思惟を要しないのに、注意力が集中していなければ縫い間違える。それならば、我見を断ち明心するという天にも比すべき大事業、天よりも大きな事業が、なぜ禅定を用いずに成就できるのか? どうしてそれほど簡単で容易なのか? 用事が多い時、内心はやや不安定になり、その時に書稿を整理すると、思惟が乱れて明瞭さを欠く。私は座禅を少し組んで心を落ち着けてからでなければ、書稿の校正に取り掛かれない。それならば、我見を断ち明心するという生死の大事、生々世々無量劫にわたる大事業が、禅定を用いない、あるいはわずかな定力だけで、どうして解決できるというのか?

六、もし禅定がなければ、様々な観行は一つも突破できず、自分では一切法が夢や幻のようだと認めていても、たとえ意識が一切法が夢や幻のようだと知っていても、意根は絶対に証得することができない。そうなれば、言うことと行うことは別物となり、ましてや意識ですらもこれらの理を真に証得したわけではなく、証拠すら不十分である。

禅宗の第三関から後の、夢観(むかん)、如鏡観(にょきょうかん)などは、いずれも初禅定を具足して初めて突破できる。それ以前のすべての観行、我見を断つことを含めては、必ず未到地定(みとうじじょう:初禅に至る前の定)を具足していなければならず、そうでなければどの関も通過できない。もし自分は我見を断ったが未到地定はまだ得ていないと思う人がいれば、その人はこの事が信頼できるかどうかよく考えてみるべきである。臨命終(臨終)は一大生死の関門であり、少しの曖昧さも許されない。

七、もし観行の定力が欠けているならば、解剖図を参考にして色身の虚妄無我を観行しても、いつまで観行しても、解剖図は相変わらず解剖図であり、あなたは相変わらずあなたである。何の効果もなく、ただ人体解剖学の知識が増えただけである。解剖学について侃々と語っても、自分に身見を断つ智慧の証量があることを代表するものではない。言うことは言うこと、定がなければ観行には程遠く、ただ学習しているに過ぎない。止観双運(しかんそううん:止と観を同時に修めること)、定慧等持(じょうえとうじ:定と慧を平等に保つこと)こそが、真の修行の着手点である。理論知識を学ぶことと、実際の観行とは、二つの修行次第である。決して学習理論を観行と混同し、暗記した知識を自らの智慧と思い込んではならない。

未到地定を具足せず、少しの禅定すらない人が、自分は我見を断った、初果や二果だなどと言うのは、あり得ないことである。内心にはそのような確信はなく、たとえ意識は確信しているかもしれないが、心の奥底には依然として疑いがあり、真に確信することはできない。

八、仏法を実証するには必ず定を修めなければならない

もし誰もが大念住経(だいねんじゅきょう)の方法に従って修行すれば、小乗は速やかに成就でき、禅定は確実に成就する。しかし、今の人の心はあまりにも散乱しており、これらの観行を完遂することができない。仏陀が在世の時、比丘たちは皆このように修行していた。今の我々の修行に必要な大小乗の理論部分はほぼ十分であり、足りないのは実践操作だけである。実践操作は必ず戒定慧を修習し、菩薩の六波羅蜜修行、特に福徳と禅定の二つの面の修行を完成させなければならない。個人での修行が困難ならば、共修(集団修行)をしなければならない。仏陀在世中、弟子を率いて共修したことは一度もなく、皆がそれぞれ坐禅を組み、仏陀が説かれた法を観行思惟し、それから証果したのである。

現代人は生活や仕事が忙しすぎて、坐禅の時間がなく、しかし禅定が確かに修められず、思惟が浅く緻密でなく、実証できない。これも事実である。坐禅後の定と、ただ歩行坐臥(日常生活)の定との間の差は非常に大きく、坐禅を経験した者でなければ実感できない。自分で方法を考え、自分が自分に対して責任を負わなければならない。多くの理論を知っているからといって道を得たわけではなく、侃々と語れるからといって道を得たわけではない。実証した後は、たとえ能弁でなくとも道がある。能弁であっても実証がなければ、道ではない。

実証してこそ生死の大問題を解決できる。道業(仏道修行の達成)よりも重要な法は一つもなく、死んでも道業を成就させなければならない。そうでなければ、生きている間に世俗の法がどれほど成功しても、何の役にも立たない。

目次

次へ

前へ

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る