衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 13

第五節  解脱は禅定から離れられない

一、阿羅漢の解脱は禅定から離れられない

ある阿羅漢は智慧によって三界を解脱し離れるものであり、慧解脱阿羅漢である。彼らは初禅定のみを持ち、より深い禅定はなく、神通の境界もない。命終には自らが断除した三界への貪愛の智慧に依って三界を離れ、三界の法に束縛されない。まず慧解脱阿羅漢はすべて我見を断ち、五蘊十八界が真実不滅の自我ではないと否定した後、初禅定を証得し、煩悩を断除し、三界世間へのすべての貪愛を断ち切る。三界世間には彼らが未練を感じる法は一つもなく、自我である五蘊世間への執着は既に除去されており、命終には自らの五蘊を滅し、無余涅槃に入る能力を持つ。

また一部の阿羅漢は倶解脱阿羅漢であり、解脱の智慧だけでなく四禅八定および滅尽定を持ち、最終的に智慧と禅定に依って三界の生死輪廻を離れ、解脱を得る。大多数の阿羅漢は慧解脱の阿羅漢であり、禅定に依存せずに解脱する。しかし慧解脱の阿羅漢は初禅定を持っており、禅定に依存せずに解脱するわけではない。したがって解脱を望むならば、座禅だけで禅定を修めるだけでは解脱できず、智慧だけあって禅定がなければやはり解脱できない。

二、禅定と智慧が解脱にとって重要である理由

四禅八定とは色界四禅天の定に四空定を加えたものであり、四禅八定は仏教と外道に通じる。外道は仏教の修証の理を理解せず、生死を解脱し生死輪廻の苦を離れようとする。彼らには出離心があるため、五蓋を修除し、禅定によって三界世俗の最高定である非想非非想定に達することができる。世尊の外道の師や、世尊が涅槃の直前に度した最後の外道の弟子も皆、この無色界の最高定を修め、命終には非想非非想天に生まれて天福を享受した。しかし彼らは依然として三界の中で輪廻し、なお下三悪道を免れない。したがって禅定のみを持つ者は、生死を解脱できない。

解脱は智慧に依らねばならず、智慧があって初めて三界の生死輪廻を離れられる。この智慧の獲得は、必ず世尊が教えた解脱の理に従わねばならない。まず我見を断ち、五蘊十八界が我ならず、我に異ならず、互いに在らず(非我、不異我、不相在)と認めること。そして様々な識心の禅定境界も我ならず、真実の法ではないことも了知し認める。我見を断った後、禅定が初禅に達すれば貪愛を断ち、瞋恚を断ち、煩悩を断尽し、如何にして三界を離れるか、命終に如何にして自らの五蘊十八界を滅するかを知る。これが慧解脱の阿羅漢の修証である。

解脱の理は、世尊の教法を聞き、まず我見を断ち、次に自らの禅定に依って煩悩を断除し、命終に自らの五蘊を滅して無余涅槃に入るというものである。倶解脱の阿羅漢は慧解脱と定解脱を兼ね備え、定も慧もあり、滅尽定に入ることができ、いつでも自らを滅して寿命を早めに捨てることも、寿命を延ばすこともでき、寿命は自らが掌握する。彼らは皆、三明六通の大阿羅漢である。

ここから分かるように、智慧は小乗の解脱の道を修証する上で非常に重要であり、大乗を修学して仏道を成就する上ではなおさら重要である。仏法の修行は主に智慧を修めることであり、智慧によって解脱し、智慧によって成仏する。しかし智慧の増長には定力が補助手段として必要であり、定がなければならず、定が浅くてもならない。初禅定を備えていなければ、三果や四果の人にはなれず、解脱を得られない。初禅定がなく、煩悩を断たなければ三果の人ではなく、大乗を修学して開悟した後も初地に入れず、初地の菩薩にはなれず、如来の家に入れず、真の仏子とはなれない。そして三地の菩薩の四禅八定五神通を修め出さなければ、四地に入れず、四地以上の菩薩にはなれない。

ここから見ると、定力と智慧は同等に重要であり、いつ禅定を修め、どの禅定を修めれば修道に役立つかを知る必要がある。定が浅すぎると観行して智慧を生じさせることができず、定が深すぎると心が沈没して観行できず、智慧の生起を妨げる。三果や四果を証得した後、もし菩薩の心性が弱く、成仏の心が強くなければ、小乗の無余涅槃の道を歩みやすく、定が深すぎるとうっかり無余涅槃に入ってしまい、仏道を成就する方法がなくなる。したがって果を証得し開悟する前には、初禅定あるいは初禅以前の未到地定まで修めればよく、これでも小乗と大乗の法の観行ができ、智慧が生じやすくなる。三地の菩薩の果位に修めた時は、必ず四禅八定五神通と四無量心を加えて修めねばならず、そうして初めて三地満心して四地に入ることができる。

観行と法理を思惟するには、必ず未到地定の功夫が必要である。定力が不足すると心が散乱しやすく観行できず、観行があっても粗浅で深細ではなく、得られる智慧も深細ではない。もし無心定を修め、常に無心の状態にあれば、それも観行できず、身心の感覚は快適であり煩悩は降伏されても、智慧を得ることはできず、その禅定は仏法の修行とは無関係である。古代の禅師たちは皆、無心定を修めることに強く反対し、それは黒山鬼窟の中に座って何も思わず、何も成就できず、事に心なく心に事なく、何も成就できず、たとえ神通を修得しても、行くと言えば行き、どこに生まれると言えばそこに生まれるだけで、何も成就できないと言った。この理を理解した後、我々はよく選び分けて、如何に禅定を修めれば最も速く最大に成就できるかを考えるべきである。

三、なぜ深甚な禅定があると、心は大自在を得られるのか?

禅定はまた心を一処に制するとも言い、心を一処に制すれば、為せざる事なしである。外道は心を一処に制することができ、阿羅漢や辟支仏も心を一処に制することができ、諸大菩薩は心を一処に制することができ、諸仏はさらに心を一処に制することができ、皆心を自在にし、相応して思いのままにすることができ、相応する事業を成就する。しかし禅定の深浅の程度が異なり、智慧が異なり、心量が異なるため、心の自在の程度も異なり、成就する事業も異なる。

一般の人が禅定を理解するのは、定とは一種の束縛であり、一種の拘束であり、身体の頭や手足を束縛し、心の自在な思いを制約するものである。しかしもし身体が束縛されずにさまよい歩き、力が四方に分散すれば、一切の法を変化させ変える強大な力は生じない。もし心が制約されずに勝手に思いを巡らせ八方に分散すれば、一切の法を指揮し創造する強大な力は生じない。こうして身心は永遠に環境に束縛され、かえって自在ではなくなり、ましてや大自在などありえない。

禅定を修める最初の段階では、身体は束縛され、心も制約される。しかし禅定が次第に深まるにつれて、身体の四大が変化し、気血が通じれば、非常に快適に感じられ、地水火風の四大の束縛を受けず、ますます軽安と自在を得る。同時に心も色身と境界の束縛を受けず、ますます恬淡で快楽を得、ますます自在になり、ますます力を持つようになる。

自在と解脱を得る心はどれか? 最初は六識の心であり、五識が身体内外の五塵境の束縛を受けずに苦痛を感じ、意識が法塵の制約を受けずに煩悩を感じる。次第に意根が色身内外の境の束縛を受けず、塵境に随意に攀縁せず、次第に一処に集中し、力が集中し、心力が増強する。するとこの時、意根が何を望む境界であれば、その境界が現前し、如来蔵がそれに随い護持するため、意根は六識と如来蔵を利用して一切の法を変え、一切の世間を変化させる。しかし禅定が深まるほど六識の機能作用は小さくなり、最後には六識を用いず、意根が如来蔵を伴って随意に天上地下、十世古今を任意に遨遊し、いかなる制約も受けず、大自在を得る。これが解脱である。

したがって解脱は微塵ほども禅定から離れられず、大智慧からも離れられない。最初は戒律からも離れられない。戒律は最初は身心を制約し、身心を以前のように自在に思いのままにさせないが、そのような自在や思いのままは不自在であり、悪業を造作し、苦報を感召する。一旦身心が戒律に慣れ、悪業を造作しなくなれば、身心は戒律の制約を感じず、いつでもどこでも自在を感じ、戒律の存在や制約を感じなくなる。

ちょうど最初に制定された交通規則が左側通行であるように、衆生はわがままに慣れ、左右中央を随意に歩き、左側通行に寄ることを好まず、この時は交通規則の制約を不自在に感じる。交通規則に慣れると、自然と左側通行になり、微塵も制約を感じない。この時こそ真の自在であり、通行の安全を保障できる。以前交通規則を守らない所謂自在は実は不自在であり、人身の安全を保障できなかった。

一切の法則に対し、慣れていない時は一種の制約と感じるが、慣れると自在を感じ、制約感がなくなる。修行とは衆生に良い習慣善い習慣を持たせ、過去の悪い習慣や悪習慣を改めさせることである。良い習慣善い習慣は一種の解脱であり、悪い習慣悪習慣は束縛であり不解脱であり、苦果を受けることができる。

ある人々は五戒を受けたがらず、ましてや菩薩戒を受けたがらず、戒律の束縛を恐れる。しかし仏陀は戒律が衆生に解脱をもたらすと言い、別解脱戒と呼び、一つの戒を守れば、その戒において自在であり、一種の悪業を少なく造り、身心は一種の解脱を得る。戒を守ることに慣れると、戒律の存在や制約を感じず、戒を守るという思想観念もなくなり、これが戒における自在であり、思いのままに振る舞っても矩を越えないことができる。

諸仏菩薩は久遠長劫にわたり戒を守り、既に戒律の制約を受けない。したがって諸仏菩薩は戒を守らず、戒を犯さない。仏は無戒者であり、故に最大の自在解脱者である。凡夫は必ず戒を受け守る修行の段階を経なければならず、一旦戒律に慣れれば、戒律の束縛を受けずに諸仏菩薩のように自在解脱する。

四、初禅定は心解脱の唯一の条件ではない

単に初禅を得ただけでは心解脱ではなく、心解脱も得られない。初禅定があるだけでは煩悩を降伏させるだけで、煩悩を断除することはできず、したがって心解脱を得られない。単なる初禅定と解脱には必然的な関係はなく、心解脱の条件と基準は我見を断つ功徳受用があり、それに初禅定を加え、この二つが欠けてはならない。

我見を断った後、初禅定の中で次第に貪欲と瞋恚の二つの煩悩を断除すれば、心は欲界の貪欲と瞋恚から解脱し、この二つの煩悩に束縛されず、心解脱の三果聖人阿那含と呼ばれる。しかしなお色界と無色界の愚痴は断除されておらず、もし三界の愚痴無明の煩悩が断尽すれば、智慧解脱の四果聖人阿羅漢である。三果・四果の人である大乗の菩薩は、将来初地以上の聖人となる資格を持つ。

したがって禅定を修めず、いかなる三昧境界もなければ解脱できず、まして成仏はできず、我見を断たなければ同様に解脱できず、まして成仏はできない。この二つの関門は、初地と三果の人以前に必ず通過しなければならず、如何なる方法でも迂回できず、避けられず、如何なる手練手管を弄してもである。たとえ三蔵十二部経を巧みに説き天花乱墜であっても、この二つの関門を通らなければ解脱にも成仏にも関係なく、真実の証量にも関係ない。口頭の智慧が如何に高くとも、仏地に達するほど高くても、二つの関門の一つも越えられず、必ず経なければならない。さもなければ高談闊論と呼ばれ、解脱・涅槃・成仏のいずれにも関係ない。

心解脱の条件は、より良い禅定の功夫を基礎として備え、意根がより良い禅定の中にあり、意識の補助によって観行を行い、五蘊が虚妄であることを証得し、それから我見を断ち、色身に固執しなくなると、意根は最も初歩的な解脱を得、初果の解脱の功徳受用を持つ。

解脱は実際には意根の解脱であり、意根が無明に束縛され、意根が生死を輪廻するのである。もし意根の無明を破らず、六識の無明だけを破れば、死亡時に意根が無明に引きずられ、引き続き生死苦海に沈淪しなければならなくなる。その時六識はすべて跡形もなく消失し、来世に行くことすらできない。その時意識に無明があろうとなかろうと問題ではなく、ただ五蘊の身が在世している間に、無明のない意識が効果的に意根を熏染し、意根にも無明を破らせ、無明をなくさせることである。もし意識が五蘊が生きている間に無明を持てば、意根を熏染して意根に無明を破らせることができず、意根は依然として主となって身口意の悪行を造作し、未来世の悪業の種子を残し、生死輪廻の苦を引き続き受けることを免れない。

五、単なる四禅八定では生死輪廻から離れられない

古来より四禅八定を修め出した人は少なくないかもしれないが、単なる四禅八定では衆生を生死輪廻から離脱させ解脱を得させることはできない。なぜなら五蘊の中の或る一法を自己として執着しているため、執着する法に束縛され、解脱できないからである。定力が消失する時には再び堕落し、人間界か三悪道に戻る。では如何にして生死を離れ解脱を得るのか? 相当に良い定力の支持の下で我見と我執を断除し、解脱果を証得して初めて生死輪廻を離れ、解脱を得る。他に道はない。

なぜ衆生はそれほど努力して禅定を修めるのか? それは衆生が皆、禅定が自らに解脱をもたらすと思い込み、我見を断ち、五蘊の中の様々な我の知見を断除することが解脱の因であることを知らず、様々な覚知心の我を滅して初めて涅槃を得、解脱を得、輪廻を出ることを知らないからである。したがって仏法を修学し、正知見を得ることが最も重要である。仏法の正理によって修行を指導し、法の如く修行して初めて修行成就できる。

目次

次へ

前へ

ページトップへ戻る

ページトップへ戻る