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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 禅定の法門 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 3864

第九章 参禅は真妄の心を分けて知るを要す

第一節 真の心と妄心の区別

一、妄心は七つあり、第七識の意根と前六識である。真の心はただ第八識のみである。意根は時々刻々、至る所で主宰を行う心であり、「私はこうしたい」「私はああすべきだ」と常に思量し、執取し、攀縁して絶えず、時刻に主宰を行う。これが第七識の体性である。六識は六塵を分別するものであり、目が色塵を見ればそれが何であるかを知る。この知は眼識と意識の知であり、二者が共同で色塵を了別する。耳が声を聞けば、それがどんな音か知る。この知は耳識と意識の知である。これらの知は全て生滅無常であり、生滅変化するものは妄法である。妄想を打つ時の心は意識心であり、妄想を打たない心を知るのも意識心である。これは意識心自身に対する反観の作用である。座禅時、前際は既に断たれ、後際は生じず、中間の一段は了々分明で明らかである。これこそが意識妄心であり、意識妄心が自らこの時、念があるかないかを知っている。知がある限り妄である。真の心は入定したか否かを知らず、念想があるか否かも知らない。

楞厳経で仏は言う。「知見に知を立てれば、即ち無明の本なり」と。これは第六意識の知を指し、第六識の知を真実と見做すことが無明の根本、即ち妄であるという意味である。また「内に閑を守るも、猶お是れ法塵分別の影事なり」とも言う。これも意識心中に事無く、悠々自適の境界を指し、法塵境界であり、意識の分別する所のものである。この心は妄心第六識であって、真の心ではない。座禅で無一物を知る時、第六識も自らが無一物を知ることを明らかに知り、自らが入定したことを知る。この知は妄心第六識の反観作用であって、真の心ではない。なぜなら、自らが入定したこの定境法塵を分別し了知する心は第六識であり、真の心は知らないからである。この心を真の心と見做して悟ったと思ってはならず、これは悟境ではない。

六塵に対して知があるのは、いずれも真の心の知ではない。真の心は永遠に六塵を知らない。法塵も六塵の一つであり、入定の境界は法塵境であって、意識心の了知する所である。たとえ三界で最も高い定である非想非非想定に修めても、定中にまだ想がある。この想は知であり、これも第六識である。知を滅すれば、四果阿羅漢を証得し、直ちに無余涅槃に入り、生を了し死を脱し、三界を出離し解脱を得る。だから、ある知を真と認める限り、証果できず、我見を断てない。これが生死の凡夫である。

定中で定境を了別し、既に入定したことを知る心は意識心である。意識心が一時的に妄念無ければ入定できる。意識が出定すると、直ちに妄念が生じる。一瞬念があり、一瞬念が無い。変化するものは真実の心ではなく、真実の心は永遠に変わらず、常にこのようである。況して定中無念の心は、長く保てず、遅かれ早かれ変化する。全て一時的に現れた無念の現象である。たとえ八万大劫入定できても、意識心は出定し、出定すれば依然として念想があり、散乱する。故に定中無念の意識心は生滅法である。第六識の体性は一点、第八識に似ており、どちらも無形無相であるため、区別し難い。二者の体性を徹底的に弁別しなければ誤らない。この点が極めて重要であり、生死の大事は曖昧にできない。経典を学び尽くせば分かる。

二、念を離れた霊知と無念の真の心の区別

六祖の言う無念は「無とは妄想無く、念とは真如を念ずる」である。これは真の心の無念を指し、真の心は本来一切の念想が無く、真の心は三界世間のいかなる一法も念じない。真の心が本来無念である以上、我々は意識を修めて無念になった後、これを無念の第八識と見做す必要はない。この時の無念は努力して修定した後に転変したものであり、元からずっと無念であった第八識ではない。もし定力が消え、念が出れば、第八識はどこへ行くのか?第八識は変化する生滅性の一つの識なのか?勿論違う。故に一瞬念があり一瞬無念の心は、全く第八識ではなく、意識心である。

第八識は生じたものではなく、本来有るものであり、不生不滅である。誰もこれを生じさせず、逆にこれが一切を生じる。これらの道理を理解しなければ、我々は明心悟道できず、智慧を生じさせられない。八つの識の体性を全て証得し、知らないことが無くなって初めて成仏できる。特に第八識を証得すれば、我々の妄心七識はこれに帰依し、学ぶことができ、七つの識はますます清浄になり、染汚は消滅し、無明は滅尽する。そうして初めて成仏できる。

様々な法の相貌を明らかにすれば、どれが生滅か、どれが不生滅か分かり、生滅法に執着せず、不生滅の真如自性に転依でき、全ての無明を破り尽くせる。我々は全ての生滅の法を明らかにし、全て見出し、生滅法を認取しなければ、生死の問題は解決できる。全ての法は識に落ちる。八識の根は依然として第八識である。第八識は中観であり、中道である。第八識無くして一切法の存在と衍生は無い。

三、念を離れた霊知心とは一体何か

第八識はあらゆる時に遍く、あらゆる地に遍く、あらゆる処に遍く、あらゆる界に遍く、あらゆる法に遍く。「あらゆる時に遍く」とは、第八識が刹那刹那に存在し、衆生から離れたことがなく、第七識の意根からも離れず、五陰からも離れないことを意味する。「あらゆる地に遍く」とは、三界九地の衆生に第八識の存在があり、凡ての衆生に第八識があり、三界九地に生存する各衆生に第八識があることを意味する。たとえ三界を出て無余涅槃に入っても、依然として第八識はあるが、ただ衆生自身がいないだけである。

「あらゆる処に遍く」とは、第八識が六根に遍く、六塵にも遍くことを意味する。衆生の六根が六塵に接触する時、常に第八識の存在と顕現がある。「あらゆる界に遍く」とは、六根に第八識があり、六塵に第八識があり、六識にも第八識があることを意味する。「あらゆる法に遍く」とは、存在する法である限り、認識できるか否かに拘わらず、第八識の住持があること。色法であれ心法であれ、第八識の執持があること。有為法であれ無為法であれ、第八識の住持があること。存在する法がある限り、一切の人・事・物・理に、第八識の住持がある。

多くの人は、念を離れた霊知心が第六識か第八識か分からない。今、この念を離れた霊知心を分析してみよう。「念を離れる」とは、丁度この時に念や妄想が無いことを意味する。「霊知」とは霊霊として覚知し、自らが念を離れていること、自らに念が無いこと、自らが一時的に妄想や思想が無いことを知り、念を離れた状態で、更に他の境界を了知することさえある。では、この念を離れた境界には、いったい幾つの識があるのか?第八識はあらゆる時に遍く存在する以上、この時確かに第八識の存在がある。そうでなければ五陰の存在も無く、七つの識の存在も無く、念を離れた状況の存在も無い。

この時、第七識はあるのか?勿論ある。もし第七識が無ければ、衆生は無余涅槃に入り、全く念を離れた霊知の状況は現れない。ここに第六識はあるのか?勿論ある。五つの状況下で第六識が断滅する場合を除けば、それは「眠って夢無き時、昏迷時、死亡時、無想定時、滅尽定時」である。念を離れた霊知はこの五種に属さないから、第六識心も存在する。しかも自ら無念の法塵境界を了知できる。これは念を離れた霊知の時、知る心が正に第六識であることを示す。念を離れた霊知の時に前五識があるかどうかは、色・香・味・触の五塵の存在を了知できれば、五識の了知である。

念を離れた霊知の時、少なくとも第八識、第七識、第六識の三つの識がある以上、もしこの時に悟ったと言うなら、いったいどの識を悟ったのか?ここに大きな差がある。正しく悟れば第八識を悟る。誤って悟れば第六識を悟る。第七識は一般人には悟り難く、第八識も悟り難い。これには特殊な条件が必要である。この特殊な条件とは、仏の説く菩薩の六度の条件である。六度の条件を具足しなければ、第八識を悟れず、真実義の大菩薩として明心できず、凡夫位から脱却できず、未来永遠に三悪道に堕ちることはない。

もしこの人の修行で、福徳が不足し、持戒もせず、心性がまだ十分でなく、忍辱が足りず、布施・持戒・忍辱・禅定・般若の修学に精進せず、禅定も未到地定を具足せず、仏法の知見も具足せず、第八識の体性も了知しなければ、無論この人は如何なる方法でも第八識を悟れない。もしこの時に悟ったと思うなら、自らが悟ったのがいったいどの識なのか、仔細に点検すべきである。八つの識の体性を学び尽くし、それから自他が悟ったものを判断すれば、悟った内容が分かる。

四、意識の知と真の心の知を如何に区別するか

問:未到地定と初禅に修めれば明心見性できるというなら、この時、如何にして意識心の知か真の心の知かを分けるのか?明心は何の心を明らかにするのか?見性は何の性を見るのか?

答:未到地定と初禅の二種の定中で明心見性できるのは、意識が知性を帯びて、第八識を見出し或いは知り、第八識が五陰中で運作する粗略な情況を明らかにするためである。故に初禅定と未到地定は意識心の入る定であり、その後意識心が思惟観行すれば智慧が生じ、第八識の運行軌跡を発見する。これが明心である。明心は意識・意根が明らかにする心であり、明らかにするのは第八識である。見性は意識心が第八識の性用を見ることであり、即ち仏性を見ることである。

明心時の知と明は、必ず意識心の知と明であり、知と明の対象は共に第八識である。真の心第八識は開悟明心の理を知らず明らかにせず、真の心は自らを探さず、自らを証せず、自らを明らかにしない。意識心は極めて優れた修行と生活の道具であり、一切の法を了別し、一切の法を明らかにする。もし意識心が無ければ、衆生は何事も知らず明らかにしない。学仏修行時には充分に意識心を利用し、これを用いて分析・思惟・判断・推理・求証し、意根の参究を含め、最後に一切の法を明らかにし、一切の法を証得し、仏道を成就する。我々が極深の定を修める必要が無い時は、意識の作用を弱めず、ましてや意識を滅してはならない。なぜならこの道具が無ければ事を行えず、思惟と観行ができず、参禅できず、甚深の智慧を得られず、成仏は意識に期待するからである。

五、前念已に断たれ後念未だ生ぜず、中間の状態は何か

前念已に断たれ後念未だ生ぜずの時、七識が断滅し七識が生じていないことを意味しない。寧ろ七識は全て存在し、運行している。その中で第七識は四果阿羅漢が無余涅槃に入る時に断滅できる以外、他の者は皆断つ能力が無い。凡夫には断滅する能力が無く、地上菩薩及び諸仏は断滅する能力があるが、皆断つことを望まない。故に第七識は断たない。我々が偶々念が無い時、或いは念が生起する中間状態の時、意識心や五識心は断滅せず、依然として存在し運行しており、この時も依然として一つの知が存在する。自らがこの時一時的に念が無いことを知るこの知は、意識を主とする生滅の妄心である。もしこの心を第八識と見做せば、誤って悟ったことになる。

この状態の中で、眼識は依然として色を見られ、耳識は依然として声を聞け、鼻識は依然として香を嗅ぎ、舌識は依然として口中の味を覚知し、身識は依然として身体の快適さを覚知し、意識は依然として自らに念があるか否かを知ることができる。この時六つの識は全てあり、意根もあり、第八識は必然的に存在する。故に無念の時、八つの識は全て存在する。では前念已に断たれ後念生ぜず、この中間は一体何か?これは意識心が法塵に攀縁しない一時的な定であり、中には依然として意識の存在と意根の存在がある。第八識だけではない。故にこの時に悟っても、必ずしも第八識を悟るとは限らない。もし意識が無念で、第八識を知らず認識しなければ、尚更悟れない。

念が無い時、少なくとも第六識、第七識、第八識の三つの識がある。この時は第八識を悟ることができる。しかし一般の人は第八識を悟る能力が無い。開悟の条件を具備しておらず、凡夫異生の心性は遥かに降伏を得ておらず、全く勝義菩薩となる資格が無いからである。故にこの中で第八識を明らかに得て証悟を得ることはできない。それ故、往々にして念が無い時の意識心を真の心第八識と認定し、誤った悟りとなり、間違った悟りとなる。

真の心と妄心は同時に存在する。妄心を見つけるのは易しいが、真の心を見つけようとすれば非常に困難である。これには一定の因縁条件が必要であり、因縁条件が具足しなければ、真の心第八識を証得できない。第八識を証得しなければ、第八識から修を始められない。第八識を見つけて初めて悟後起修できる。無念の意識と第八識は特に混同され易い。多くの人は意識が無念なのが第八識だと思う。実は第八識は念があろうとなかろうと、常に存在しており、後で修行して初めて第八識が有るようになるのではない。

古代の祖師方が参禅開悟した時、色を見て開悟した者、声を聞いて開悟した者、棒喝されて開悟した者、門に挟まれて開悟した者もいる。悟りの方法は様々で非常に柔軟である。必ずしも念が無い時に悟る必要は無い。実は念が無い時に開悟しようとするのは非常に困難である。故に祖師方は弟子たちに無念の定を修めることを許さなかった。無念の定は修めても悟れない。

禅宗公案を多く見れば分かる。大多数の祖師方の開悟は真の悟りであり、故に皆得道の人である。現代の人は善根福徳が不足し、往々にして誤った仏法を伝え、衆生の修行を遠回りさせる。我々の弁別能力はまだ十分でなく、正誤を弁別できない。もし念が無い時が第八識なら、一瞬念が現れた時、第八識は消失するのか?そうすれば第八識は生滅的になるのではないか?了々分明とは、了は知、分明は明らか、これも知である。知がある限り妄心であり、真の心は知らず、了々分明ではない。

了々分明の時の心は様々な境界を知ることができ、知らないのではない。六塵境界を知ることができるものは真の心ではない。真の心は六塵境界を知らない。現在自らがどういう状態にあるか、真の心は知らない。これは正に意識心が知り了別できる所であり、これが証悟の鍵である。意識心は時に念を離れ、霊知である。これも知であり、六塵を知ることができる心は真の心ではない。皆、古代禅宗の法と多く照らし合わせ、祖師方が如何に悟り、いつ悟り、悟った内容は何かを見るべきである。

六祖が悟った時、五つの何期自性を知った。もし念を離れた霊知心を悟ったなら、如何なる方法でも五つの何期自性を知ることはできない。心経と照らし合わせれば、真の心は不生不滅で永遠に変わらない。この霊知心は生滅的で変化し、永遠に不変を保てない。霊知心が真の心か妄心か、心の中では自ずと明らかである。この問題は余りにも重要である。必ず慎重に、生死の大事は曖昧にできない。法を学ぶには細心に注意し、多方面で求証すべきである。万一学び誤れば、それは一生一世のことではない。

六、真の知真の覚と妄の知妄の覚の区別

衆生は六根を通じて初めて見聞覚知があり、眼根を通じて色を見、耳根を通じて声を聞き、鼻根を通じて香を嗅ぎ、舌根を通じて味を嘗め、身根を通じて触を覚え、意根を通じて法を知る。六根の門頭の覚知には、前五識と意識心の妄覚妄知があり、また真如の真覚真知もある。しかし二種の覚知の体性は全く異なり、覚知の対象と内容範囲も同じではない。衣を着て飯を食うことを知り、行住坐臥を知り、動静を知るのは、全て六識心の知である。六識心は六塵に対して知性があるからである。真如心は六塵に対応せず、六塵に対して知性が無い。故に六塵を知らない。意識は生滅変異の法であるから、六塵境界を知る知は生滅法であり、真如の不生不滅の知ではない。真如は永遠にこれらの六塵を知らない。

ある人は了々霊知が真如だと思うが、実は違う。それは意識心の体性であり、意識の知である。知の対象は六塵境界であり、知そのものも生滅変異性の知であって、真の知ではない。真の知は永遠に生滅変異しない。意識心は妄念を動かさない時も、六塵を了知し、六塵を知ることができる。この知は想陰と想心所であり、正に妄心の作用である。真如は永遠に六塵を知らない。

眼が色を見る時、四つの識が覚知の作用を生じる。即ち眼識・意識・意根・第八識である。もし色を見る時に自ら開悟したと思えば、自らが悟ったのが四つの識のどれか、真の識か妄識かを点検しなければならない。妄識を悟れば開悟明心ではなく、誤った悟りである。真如第八識を悟って初めて真の明心である。もし菩薩の六度条件が具足しなければ、真如を悟れない。

耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、舌が味を嘗め、身が触を覚える時、それぞれ四つの識が参与して了別し、覚知の作用を起こす。この中で真の第八識を見つけて初めて自ら悟ったと言える。意識を真の心と認めれば、誤った悟りと誤解に過ぎない。もし真実義の菩薩の条件が具足しなければ、真如を悟れず、往々にして誤って悟り、妄の知妄の覚を悟り、他人に言えば大妄語業を構成し、未来世に悪果報がある。故に学仏修行は細心に注意し、仏法を誤解してはならない。

多くの人の開悟は霊知不昧の心を悟ることであり、それは意識心であって真如第八識ではない。念が無く一念も生じない霊知不昧の意識心を悟るには、確かに保任が必要である。この意識心に全く妄想が無く、全く念が無い状態を保ち、意識を真の第八識の体性に似せ似せる必要がある。そうして初めて開悟の状態に属し、あたかもこれが念の無い真如第八識であるかのようになる。この所謂開悟は絶えず定を修め、無妄想と妄念を保つ必要があるが、六祖の言う枷が常に定にある真如第八識ではない。これは妄心を真如と見做し、偽りの真如を見つけたのであり、本来念の無い真如第八識ではなく、本来修行の必要の無い真如第八識ではない。第八識を悟るのは保任を必要としない。第八識は永遠に逃げず、失わず、何時でも念を起こさず、打っても打ち払えず、滅しても滅せられない。何であなたが保任する必要があろうか。

真如第八識自体の存在性は真実有であり、見えず、触れず、感じられない。六塵相の形で存在せず、三界世間のいかなる相でも存在しない。その存在方式は非常に特別である。衆生は如何に思惟想像しても想像できない。故に明心してこれを証悟するのは極めて困難である。意識心を悟るのは容易で、多くの福徳を必要とせず、多くの戒定慧を必要とせず、容易に意識心を発見できる。故に偽の開悟の人は非常に多い。もし意識心を発見することが開悟なら、聖人が至る所にいることにならないか?

第二節 意識は証得すべき対象ではない

一、学仏の目標は般若大智慧を出生させることである。般若大智慧があって初めて成仏できる。般若の体は第八識如来蔵である。全ての仏経は如来蔵を中心に展開する。故に如来蔵は成仏の鍵と主体識である。意識心は容易に見つけ証得できる。意識を見つけても法界の真実相を知ることはできず、般若大智慧も出生しない。これは学仏の根本目標ではない。

学仏修行の根本目的は、第八識如来蔵を証得し、明心見性して大乗菩薩となり、その後様々な観行智慧を生じさせ、最終的に成仏することである。八つの識の道理は皆重要で、全て明らかにしなければならない。そうすれば我々は大智慧を得る。一法を知らなければ無明である。無明を断ち尽くせば一切種智を具足し、心は全て明らかで、通達しない法が無くなり、成仏する。

学仏して意識の体性を明らかにすれば、意識我見を断ち、再び意識を真の心第八識として悟らなくなる。妄心七識の体性を明らかにすれば、七つの妄心を見つけられ、残る一つの第八識は容易に見つかる。第八識如来蔵を見つけることが明心開悟であり、六祖の言う五つの何期自性を知り、我々の智慧が開け、世出世间の一切の経緯を知り、万法の根源を知る。

二、六祖はなぜ悟後十五年も修めたのか

六祖は人に追われ続け、やむを得ず猟師の集団に紛れ込んだ。彼の当時の環境では定を修めるしかなかった。しかし六祖が定を修めたのは真の心を保任するためではなく、定中で真如の理を思惟し、その後甚深な後得智慧を得たためである。真に如来蔵を証得した人は、如来蔵を保任する必要が無い。一悟すれば永遠に悟る。もし念を離れた意識心を悟れば、意識の無念状態を保任する必要がある。常に定を修めて意識心を無念に達せしめ、妄想が無いようにしなければならない。定を修めなければ妄念がまた出て、悟ったことにならない。明らかにこれは誤った悟りであり、誤解が甚だしい。

なぜなら彼らは妄想が無い時の意識心を如来蔵として悟り、妄想があれば如来蔵でなくなるからである。故に定を修めて意識が妄念を生じないように保任し、長い間妄想が無い状態に達しようとする。これは生滅の意識を不生滅の如来蔵として悟る誤った修行、誤った悟りであり、誤解が甚だしい。真の悟りは保任を必要としない。如来蔵は永遠に妄念が現れる時が無く、意識心でこれを無念に修める必要が無く、意識で如来蔵を無念に保任する必要が全く無い。

如来蔵を悟った後も定を修める必要があるが、目的は異なる。目的は自らが更に深い禅定を得て、その後観行し、更に深い智慧を得て、煩悩を減軽または除去し、心を清浄にすることである。六祖はその十五年で四禅定を修め出し、神通を修め出し、智慧を修め出した。彼は第八識如来蔵を保任するのではなかった。六祖は明心して如来蔵を証悟し、永遠に如来蔵を認識し、再び迷うことは無い。禅定を修めることで、更に深く如来蔵の体性を体悟し、自らの心を更に清浄にし、般若智慧を更に深く広くした。

三、声を聞く時は真の心を識取すべきである

我々が声を聞く時、耳識の参与があり、意識の参与があり、同時に第七識と第八識の参与がある。この四つの識は皆無形無相である。もし声を聞く時に悟道しようとするなら、どれが第八識か、どれが第七識か、どれが意識か、どれが耳識かを分けなければならない。これらの識が和合運作する中で必ず真の心と妄心を分け、分けた後、その真の心を認取する。これが明心開悟である。

もし福徳・定力・慧力が具足しなければ、往々にして妄を真と認め、誤って意識心を真の心第八識として悟ってしまう。意識心を悟った時も一種の空の覚受があり、内心も一時清静になり、人事物理を少し空と見、仏経も僅かに理解でき、空理も当てはめられるが、第八識が如何に具体的に五陰七識万法を生じるかは絶対に分からない。これが真の悟りと誤った悟りの分かれ目であり、真に毫厘の差が千里の誤りとなる。

意識心と第八識は共に無形無相であり、何らかの類似点がある。一般の人は意識が少し清静になり、雑念妄想が無く、心の起伏が無く、清く明るく自他一切の境界相を感知できれば、この清明な状態にある意識心を、本来無念無知の清浄な第八識と見做す。こうして主人公を誤認する。意識が如何に清明であろうと、如何に知らなくとも、意識心が存在する限り、六塵境界を知る知がある。或いは意識に定があれば、定境を知る知もある。故に第八識ではなく、真の開悟ではない。ただ自らの意識心が比較的愚痴で、この時自らが置かれた状態を反観し難く、これが第八識の不知だと思い、自らが第八識を証得したと認定する。これは如何に大きな誤解か。

実は意識心が非常に微細になると、その反観力も非常に微弱になる。更に学仏者が意識心の体性を理解しないため、意識心を真の心第八識と誤認する現象が非常に普遍的である。今、自ら開悟したと思う人は至る所にいるが、長年経っても智慧は元の水準で、依然として足踏みしており、増進を得ず、禅宗公案は依然として理解できず、経典も依然として理解できない。

故に自ら既に開悟したと考える学仏者に勧める。自らの生死の大事のために、早急に振り返り自らの悟った内容を点検し、経典と照らし合わせて点検し、意識の体性と第八識の体性を再び仔細に分析・判定し、真の心と妄心の種々の相違を厳密に区別し、その後菩薩となるに必須の条件を努力して円満具足させる。菩薩となるに必須の条件が全て具足した後、再び参禅し、真に仏門に入り、真実義の菩薩となることを求める。

四、真の心と妄心は永遠に互いに変換できない

明心見性は妄想を真の心に変えることではない。妄心は永遠に妄心であり、真の心は永遠に真の心である。二者の間は互いに変換できない。多くの人は常に心を無念想に修めようとし、この無念想の心が真の心だと思い、これは大間違いである。意識心は修行によって無念想になれるが、如何に無念想でも永遠に意識心であり、真の心にはなれない。真の心は我々に念想があろうとなかろうと、運行している。五祖は言う。「性を見るには、輪刀上陣も見る」と。開悟見性すれば、行住坐臥で常に時々刻々これを見るべきであり、必ずしも念が無い時に見性する必要は無い。念が無い時、その時最も無念の意識心を見易く、真の心は見難い。

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