禅定の修めと参禅証道(第一部)
第三節 経典や真言を暗誦する方法による禅定の修行
一、般若心経や楞厳呪、大悲呪を暗誦する方法で禅定を修行すると、心を清浄にすることができ、それによって定力を速やかに増強できる。毎日、何をしていようと、歩く時も坐る時も臥す時も、心の中で般若心経や真言を暗誦する。用事がある時はやや速めに暗誦する。ゆっくり暗誦すると忘れてしまうからである。用事がなく比較的暇な時は、ゆっくり暗誦する。そうすれば心の念いが集中し、禅定が生じやすくなる。般若心経は以下の音節に従ってゆっくり暗誦し、遅ければ遅いほど良い:観~自在~菩薩、行~深~般若~波羅~蜜多~時……。抑揚をつけ、一字ずつ、あるいは一語ずつ区切る。全ての注意力を暗誦の音声を聞くことに集中させる。音が聞こえなければ妄想をしている証拠である。その時は再び注意力をお経や真言を聞くことに置く。こうして意根は経文に縛られ、他のことに攀縁できなくなり、意識心の雑念が減り、定力が徐々に増強される。
坐禅を組みながら般若心経を暗誦する場合は、速度をもう少し遅くすると、定力がより早く得られる。ゆっくりと、遅ければ遅いほど良い。しばらくすると注意力が非常に集中し、心に雑念がなくなる。定力がかなり良くなると、心は禅定に入ることができ、暗誦していた『般若心経』や真言は途切れ、心の中でも暗誦できなくなるかもしれない。そうなればしばらく禅定に入り、気脈を通じさせ、疲労を和らげ、身心を清浄にできる。長い時間は必要ない。まだ悟りを開いていないため、長期間無念の禅定に入るのは時間の無駄遣いであり、また禅定に執着してしまい、思惟観行などの智慧の修行を妨げる可能性があるからである。
二、坐禅中は一心に真言を唱え、定慧等持(禅定と智慧を等しく保つ)ことができる。しかし禅定が深くなると真言を唱えるのが困難になり、非常に疲れを感じ、ついには真言を唱えなくなる。もし禅定に入りたいなら、この時は完全に真言を捨てて禅定に入ることができる。禅定から出た後、仏法を思惟観行すると、思考が非常に明晰になり、一日中気分が爽快で、思考も鋭敏になる。したがって、坐禅で禅定に入ることは良くなく、思惟の発生を遅らせるどころか、むしろ思惟力を高め、煩悩を降伏させ、修行の進歩をかなり速めることができる。
楞厳呪を黙誦するには、かなりの定力が必要である。定力が十分でない場合、真言を唱える時は声に出して唱えなければならない。意識が発声していると、意根は容易に声塵(音声の対象)に縁づくことができ、気が散ってしまう。一方、黙誦では、意根が少しでも注意を緩めると、意識は思い出せなくなる。したがって黙誦は意根を縛りつけることができる。定力が非常に良くなると、意識で唱えるのは疲れると感じ、声に出したくなくなる。この時は途切れやすくなるため、意根に唱えさせ、意識は軽く縁づくようにするのが最善である。こうすれば定力も強くなる。唱えにくければ唱えにくいほど、意根の注意を引きつけやすく、禅定も得やすくなる。あまりに慣れていると意識は努力を要せず、意根は気を散らすことができ、そうなれば散乱してしまう。
三、心が比較的散乱している人は、心を摂(おさ)めるために、最初に禅定を修行し始める時は、楞厳呪を唱えることから始めるのが最善である。毎日三遍、七遍、二十一遍、あるいは四十九遍の楞厳呪を唱え、暗誦できるようになるのが望ましい。こうすれば歩く時も坐る時も臥す時も心は楞厳呪にあり、六塵(六つの感覚対象)の境界に攀縁することが少なくなり、徐々に禅定が得られる。また楞厳呪を唱えると、諸仏菩薩や護法神の加持力により、自身の道業(修行の進歩)も速くなる。心が散乱している人が坐禅をする時は、非常に興味深い境界を観想し、その過程を長くし、一定の構想を持つ必要がある。そうして初めて心は観想に専念でき、禅定が現れる。禅定が安定した後、これらの観想した境界を捨て、一つの法理を思考するように転換する。もし常に境界を真実と思い込むと、誤りを犯しやすくなる。
四、真言を唱える効果的な方法
経典や真言を読誦する前に、呼吸を整え、数回深呼吸を行う。頭がすっきりすると、心の念いも清浄になり、その後で読誦すれば専念できる。定力が良ければ記憶効果も良く、定力が悪く心の念いが散乱していると、読誦しても覚えにくい。心を摂めて禅定を得るためには、真言を唱える時は音調を必ず長く低く引き、音調を上げず、メロディを多用しない。そうすることで心の感情の動揺を引き起こし、心の念いが散乱して静止しにくくなるのを防ぐ。念仏も同様で、激昂した感情を持たず、メロディを高揚させず、曲調はできるだけ低く落ち着かせる。そうすれば感情の動揺を引き起こさず、心を摂めて速やかに禅定を得られ、仏の加持を感じやすくなる。