禅定の修めと参禅証道(第一部)
円覚経には、サマーパッティ(三摩鉢提)の定慧結合の修行方法が述べられており、心で境界を変化させ、心によって境を転じ、境は心に従って転じるというものです。この方法も難しくはありません。定の中で、心が非常に集中して一つの境界を瞑想し、定の深入りに伴い、心の転変によって、境界も次第に転変していきます。もともと心の中に悪念があった場合、定が深まるにつれて内心が緩んでくると、悪念は善念に転じ、悪く思おうとしても悪く思えなくなり、すべての事物が美しく見えるようになり、心は瞋から喜びに変わり、境界は醜から美に変わり、心が転じれば境界も転じます。だから禅定は煩悩を降伏し、煩悩を断除し、心念を転変させ、一切法を変えることができるのです。諸仏や大菩薩たちはみなサマーパッティを修め、一切法を成就し、三界の器世間を成就・転変させ、穢土を浄土へと変えたのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、四念住の修行方法</h4>四念住経は、定慧をともに修めて法眼浄を得るのに非常に良い経典です。私たちには定力と慧力がなく、心が粗く自分を反観できないため、この経は心を細やかなところまで修める方法、ますます明晰に自分自身を反観し、自分の五蘊の生滅変異が実在しないことを認め、さらには我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除し、小乗の四つの果位を証得する方法を教えてくれます。
経に説かれているのは、四念住を観行 (vipaśyanā-caryā) する修行方法です。すなわち、身念住の観、受念住の観、心念住の観、法念住の観です。身念住を観するとき、まず自分の呼吸を観し、心念はずっと自分の呼吸に従って転じ、心を一法に縁らせ、定を得、止を得て、それから観を起こし、色身の生滅に我なしと証得します。その後、色身全体を観し、自分の身行の造作を観行し尽くすまで続け、自分がいま何をしているのかをはっきりと明明白白に知り、最後には一つの身念だけが残り、さらにその念を空にし、その思いを捨てて、内心で一切法はすべて空であり、我ではないと知るのです。
将来、参禅をするならば、この定力によってこの念を参禅の話頭、あるいは解決すべき法義に置き換え、行住坐臥の間ずっとこの参究の念を携えれば、ある時点で法義を参究し出すことができます。いま私たちの心は覚知力が足りず、自分を理解せず、自分を反観することもできませんが、修定によって心が細やかになった後には、自分をよく理解できるようになり、理解してこそ自分の問題を解決できるのです。
しばらく修行すれば、修行の甘い実を味わうことができます。最初に手をつけたときは苦しく感じ、内心で葛藤して束縛を受けたくないと思うかもしれませんが、続けて習慣にすればよいのです。いつでもどこでも自分を反観でき、身が何をしているのか、心が何をしているのか、自分の身口意行が理解でき、非常に徹底的に理解できれば、己を知り彼を知り、百戦して殆うことなしとなり、自分の問題を解決できます。法によって自分を照らし合わせ、自分をよく管理し、自分が法に如法かどうかを点検します。自分を管理できるようになれば、将来は他人を管理する能力も身につきます。自分自身すら管理できないなら、他人を管理することはできず、菩薩となって衆生の導首となることはできません。
自分の当下の造作こそが身見・我見 (satkāya-dṛṣṭi) であることを理解しなければなりません。これらの行為造作をすべて真実のものとして我とみなして執著し執取 (upādāna) していますが、反観する能力ができたとき、これが我執であると知り、一切法の功能作用を真実と執著することは法執であると知ります。まず観察できるようになればそれでよく、できるかどうかは気にせず、遅かれ早かれ必ずできるようになります。恐れるのは、いま自分がそれを知らず、自分を観察できないことであり、それこそが無明なのです。もし自分の知見が誤っていることを知らず、自分に執著と無明があることを知らなければ、どうやって改めることができるでしょうか?
呼吸の観から身の観を始め、身念住を修め、それから受念住を修めます。衆生はあるいは多くの場合、自分の感受が快適であるために自分の心を駆り立てて種々の業行を造作しており、これらの感受はみな生滅する六識の功能作用であり、意根の作用もあり、いずれも生滅変異して定まらないものです。それから心の無常を観します。心の観は、最初は意識・六識心を観し、最後には意根にまで及びます。内容はいずれも長くは書かれていませんが、一つ一つの小さな段落の内容を観行に熟達するには、やはり長い時間が必要であり、どれほどかかるかは人それぞれです。
四念処経の最後に法の無我を観することが説かれています。この法無我は、一切法が第八識という我ではないという意味ではなく、小乗の観行はそのようには観しません。そのように観しても果を証くことはできません。小乗における我とは、散壊しうる、毀滅しうるあの我を指し、実は恒常不滅の我は存在せず、一切法は恒常に存在することができず、遅かれ早かれ滅亡に帰するのです。それゆえに法無我、我にあらずと説かれるのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、諸仏菩薩は甚深禅定の中で色法の四大種子を転変できる</h4>仏経原文:转变者。谓佛菩薩依定自在。若于其地起水胜解。即令成水如实非余。火风胜解亦复如是。若与其水起地胜解。即令成地如实非余。火风胜解亦复如是。若于其火起地胜解。即令成地如实非余。水风胜解亦复如是。若于其风起地胜解。即令成地如实非余。水火胜解亦复如是。
答:諸仏菩薩は甚深禅定の自在の力によって地水火風を変え、それによって世界を変化させることができます。たとえば諸仏菩薩が大地を見るとき、地性を水性に変えたいと思えば、地大を見ずして、この地大の上に水大を見るので、大地山川は河海江流に変わり、河海江流のほかに他の物質塵境はありません。諸仏菩薩が大火を見るとき、強いて大火の上に水を見れば、火大種子は水大種子に転変し、大火は大水に変わり、大水のほかに他の物質塵境はありません。諸仏菩薩が大風が吹き起こるのを見るとき、大風を滅除したいと思い、強いて大風を大水と観想すれば、風大種子は水大種子に変わり、大風は大水に転変し、大水のほかに他の物質塵境はありません。
もし諸仏菩薩が大水を見て、大水を滅除したいと思い、強いて大水を大地と観想すれば、水大種子は地大種子に転変し、大水は大地に変化し、大地のほかに他の物質塵境は見えません。もし諸仏菩薩が大火を見るとき、大火の存在を望まず、強いて大火を大地と観想すれば、火大種子は地大種子に転変し、大火は大地に変わり、大地のほかに他の物質塵境は見えません。もし諸仏菩薩が大風が吹いてくるとき、大風の存在を望まず、強いて大風を大地と観想すれば、風大種子は地大種子に転変し、大風は大地に変わり、大地のほかに他の物質塵境は見えません。
要するに、諸仏菩薩は甚深禅定があるため、その心は自在であり、思いのままに四大種子を転変させ、一切の物質色法を変え、随心所欲に一切の世界を変化させることができるのです。無量の神通道力で一切衆生を度化し、仏道に入らしめるのです。
心を一処に制すれば、成し遂げられないことはありません。外道は心を一処に制することができ、阿羅漢や辟支仏も心を一処に制することができ、諸大菩薩は心を一処に制することができ、諸仏はなおさら心を一処に制することができ、いずれも心を自在にし、いずれも相応して随心所欲であり、相応の事業を成就することができます。しかし心量が異なり、禅定の深浅の程度が異なり、智慧が異なるため、心の自在の程度が異なり、成就する事業にも違いが生じるのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、摩訶止観に説かれる修定の方法</h4>原文:听观多。如日焦芽。即应听止。润以定水。或听定淹久。如芽烂不生。即应听观。令风日发动。使善法现前。或时驰觉。一念叵住。即应听止。以治散心。或沉昏蒙蒙坐雾。即当听观。破此睡熟。或听止豁豁。即专听止。或闻观朗朗。即专听观。是为自修信行。八番巧安心也。
解釈:心の中で法義の思惟 (manasikāra/manana) と観行 (vipaśyanā-caryā) が多すぎるとき、それはまるで太陽の光が萎れた小さな芽苗に照りつけるようなもので、このときには思惟観行を止め、心を止息させて修定すべきであり、萎れた芽苗に水をやって潤すのと同じです。心が定中に長くとどまった後は、まるで水に浸かって芽苗が腐って生長しなくなったようなもので、このときには寂止の定の中から心を動かして念を起こし、法義を思惟観行すべきであり、それによって心の中に善法の功徳が現前し増長するようにします。それは風で腐りかけの芽苗を吹き、日光で腐りかけの芽苗を照らし、地水火風の養分を均等に芽苗に加えてこそ、芽苗はたくましく生長できるのと同じです。
修行の過程において、ときに覚観 (vitarka-vicāra) が馳せてやまず、念頭が湧き上がって止まらず、心が騒動し、善法の功徳が消失あるいは現前しないことがあります。このときには修定すべきであり、心を止めて散乱する攀縁心を対治し、智慧の功徳を生じさせます。修行の過程において、ときに静坐していると頭の中が昏昏沉沉とし、霧の中にいるように朦朧として、心が昏暗で智慧の功徳利益が生じないことがあります。このときには心を起こして法義を思惟観行し、この昏睡状態を破除すべきです。修行の過程において、定の中で内心が清明朗照であるとき、まるで日が中天にあるようなら、このときには引き続き一心に修定すべきであり、このようにすれば智慧の水が生じやすいからです。ときに、自分の観行の智慧が細流が滔々と湧き出るように出てくるのを反観したなら、このときには引き続き一心に観行を修め、智慧の水が絶えず湧き出ることを保証すべきです。
以上が、衆生が修行の過程において知り、運用すべき八種の巧みな安心の方法であり、できる限り定慧等持を成し、一方に偏って廃することがあってはなりません。さもなければ修行は成就しないのです。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、観無量寿経の第一観</h4>原文:(仏説)如来今者。教韦提希。及未来世一切众生。观於西方极乐世界。以佛力故。当得见彼清净国土。如执明镜。自见面像。见彼国土极妙乐事。心欢喜故。应时即得无生法忍
解釈:仏陀は心力の劣る人が命終に極楽世界へ往生できるように、衆生に一つの方便の方法を教えました。それはまず西方に向かって日没の観想、水観、地観を行うことであり、三観が成就した後には、命終に極楽世界へ往生することが保証されます。全部で十六観あり、それぞれの観の中に仏力の加持があります。もし衆生が自分だけの力で観想を成就しようとすれば、おそらく非常に難しいでしょう。仏は衆生の心想が劣弱で観想力が弱いと説かれているからです。なぜ衆生の心想は劣弱で観想力が弱いのでしょうか? 衆生は無量劫以来、業種が深重で、世俗法への攀縁が多すぎ、心があまりに散乱して、全精力を一つの事に集中することができず、それゆえ一つの事を成就しにくいので、仏力の加持に頼って観想を完成するしかないのです。
原文:佛告韦提希。汝是凡夫。心想羸劣。未得天眼。不能远观。诸佛如来。有异方便。令汝得见
解釈:仏は、私はいま韋提希夫人および未来世の一切衆生に、西方極楽世界を観想することを教えます。仏力の加持の縁故によって、現世で極楽世界の清浄な国土を見ることができ、まるで手に一面の明るい鏡を持って自分の容貌を見るように、極楽世界の勝妙荘厳の事を現前に眼見することができます。すると心に歓喜が生じ、内心の歓喜によって、その時に無生法忍を証得します。一切法が自心に依って幻化されるものであり、いずれも無生であり、いずれも真実には存在しないことを知り、この事に忍びれば、無生法忍を得るのです。
仏は韋提希夫人に言いました。あなたはいまだ凡夫であり、心力が弱く、観想能力がなく、天眼通を得ていないので、遠くを観ることができず、まして極楽世界を観ることはできません。しかし諸仏如来にはいくつかの善巧方便があり、あなたに極楽世界を観見させることができるのです。
原文:时韦提希白佛言。世尊。如我今者。以佛力故。见彼国土。若佛灭后。诸众生等。浊恶不善。五苦所逼。云何当见阿弥陀佛极乐世界
解釈:韋提希夫人は仏陀に言いました。世尊、私がいまこのように極楽世界の仏国土を見ることができるのは、仏力の加持の縁故によるものです。もし世尊が滅度された後、後世の衆生たちが心性が汚濁して不善であり、さらに生老病死の苦に逼迫されているなら、彼らはどうやって現前に阿弥陀仏の極楽世界を見ることができるのでしょうか?
原文:佛告韦提希。汝及众生。应当专心系念一处。想於西方。云何作想。凡作想者。一切众生。自非生盲。有目之徒。皆见日没。当起正念。正坐西向。谛观於日欲没之处。令心坚住。专想不移。见日欲没。状如悬鼓。既见日已。闭目开目。皆令明了。是为日想。名曰初观
解釈:仏は韋提希夫人に告げて言いました。あなたとこれらの衆生は、専らその心を一処に繋念し、西方を想うべきです。どのように想うのか。観想しようと願うこれらの衆生は、みな生まれつきの盲人ではなく、目があって色を見ることのできる人々は、みな太陽が西山に沈もうとする光景を見ることができます。あなたがたは正念を起こすべきであり、ただ一処のみを念い、西方に向かって端座し、一心に仔細に太陽が沈もうとするところを観察し、心を非常に堅忍にその光景の中に住まわせ、専らこの光景を観想して動かしません。このとき、太陽がまもなく沈もうとしているのが見えるはずであり、その形状はまるで半空に懸かった大鼓のように丸いものです。落日を見終わった後は、目を閉じても開いても、はっきりと落日の姿を見ることができます。時々見ることができ、もはや失われないなら、三昧 (samādhi) が成就します。これが日想観であり、十六観の中の初観です。
原文で仏が説かれているのはこの意味です。私たちが観想の便宜のために、太陽が山に沈むとき、スマホで録画します。録画のほうがより生動で明晰であり、観行と記憶に役立ちます。落日は白色のものではなく、経に説かれているのは橙紅色、赤の中にわずかに黄色がかかったものです。落日の真実相はどのようなものか、自分の目で見たものでなければならず、真実であればあるほどよいのです。西方の落日は、一般に五、六時台のものです。想像したものではなく、加工したものではいけません。自分の比較的好みのものを一つ選び、スマホに保存し、長期にわたって観看し、長期にわたって観想します。何種類も観してはならず、必ず専一でなければならず、雑であってはなりません。さもなければ禅定は現れません。また他の図案や背景を加えてもいけません。図案や背景があると注意力が散り、定を得にくくなります。画像は単調であればあるほどよいのです。私たちは景観を鑑賞しようとしているのではありません。鑑賞する心があれば、それは散乱心と貪愛心であり、そのようでは禅定を得ることができません。
落日の光景を選んだら、毎日観看し、観終わった後、独頭意識 (mano-vijñāna-eka-citta) で想像し回憶します。回憶が比較的堅固になり、時々回憶できるようになったら、さらに目を閉じたとき眼前に落日の光景が見えるように自分を訓練します。目を閉じたとき時々落日が現れるようになった後、最後に目を開けても閉じても眼前がすべて落日であり、この光景が消えてなくならないようになれば、日観三昧が成就したのです。
第三観が成就するとき、仏陀は衆生の命終に極楽世界へ往生することを保証され、この間、禅定は永遠に失われません。この修法は非常に殊勝です。三昧 (samādhi) が成就するとき、重罪は軽くなり、軽罪は消失します。だからすべての禅定三昧が成就するときには業を消すことができ、とりわけ浄土を修めて仏力の加持のあるものはなおさら業を消すことができ、さらに三昧の境界を失わずに保つことができます。第七観が成就するときには、三悪道の業がすべて消滅し、たちまち開悟し、十方の諸仏が面前に立つのを見ます。
これは意根を変え、降伏する方法です。意根がひとたび降伏されれば、その後いかなる種類の禅定を修めても、すぐに成就でき、種々の三昧 (samādhi) も一たび修めれば容易に成就します。日想観が成就した後、さらに水を観すれば、水観もすぐに成就できます。その後は地観であり、地観が成就すれば、極楽世界へ行くことが保証されます。
一種の落日の光景を選び、長期にわたって観看し、それから回憶します。時々回憶できて、失うことがなくなったら、さらに目を閉じて時々眼前に現れるようにし、時々目を閉じて現れることができるようになった後、さらに目を開けて見えることを練習します。もし目を開けても閉じても時々落日の光景が見えて、失われたり散壊したりしなければ、第一観が成就したのです。第一観が成就した後は、第二観も容易に観成でき、さらには第三観も容易に観成できます。極楽世界への往生には保証がつきます。第一観が成就した後は、その他のいかなる観行 (vipaśyanā-caryā) を修めても容易に成就し、念仏三昧 (buddhānusmṛti-samādhi) も、明心見性も難しくはなくなります。比較的大きな罪業のある者も、このように観行すれば、仏はすでに罪を滅することができると保証されており、さらに極楽世界へ往生でき、明心見性もできるのです。