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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-12 13:07:16

第八節 意根を訓練する禅定

一、深甚なる禅定の中では、意識は言語文字から離れることができ、心中で思惟を持つことも、思惟がないこともありますが、その思惟は比較的単純で表面的な知に過ぎません。一方、意根は常に言語文字から離れており、言語文字に相応するのは意識心であり、その思惟は浅はかです。言語文字から離れて思惟できる時は、定力が非常に良好で、すでに意根に深く入り込み、意根の思惟を起動させており、智慧が生じやすくなります。このような定力は修得が容易ではありません。定力が浅い人は思惟する際に必ず言語文字が伴わなければならず、そうでなければ思惟を続けられず、したがって智慧も不足します。浅はかな意識の思惟から意根の思惟への移行は、禅定の中でのみ可能であり、禅定が深まるほど意根の機能は大きくなり、開発される智慧も大きくなります。

人の眼差しや表情を見れば、その人に定があるかどうか、また定力の深浅がわかります。なぜなら、定がある時は眼差しも表情も平常とは異なり、比較的重々しく深沈としており、これは深く思惟している表情であり、筋肉は緊張し、眼差しは集中し、言語文字の動きが少ないか、あるいは動きません。意識が浅はかに思惟している時は眼差しは生き生きとしていますが、深く思惟している時は眼差しは凝り固まって深遠であり、表情は重々しいのです。いわゆる「凝」とは定のことであり、これは意根が作用している状態です。定のない人はだらしなく怠惰で、筋肉は弛緩し、眼差しは定まらず集中せず、意根が一法に専注して凝集していないからです。

意根は身根を制御指揮する司令官であり、一般の人はこの原理を理解していませんが、事実はそうなのです。第八識が身根を制御すると言う人もいますが、第八識は意根に従い、意根の指揮を聞くのであり、自ら進んで身根や表情などの身体の刹那的な変化を制御しようとはしません。このように意根で密かに深く仏法を思量する要訣をもし掌握できれば、何地の菩薩に修到しても役立ち、修証に非常に実用的であり、非常に迅速で、智慧の増長も早いのです。

二、仏像を十秒間観察した後、白い壁面を見ると、仏像の影像が現れ、しばらくすると影像は消えてしまいます。この境界はどのようにして現れるのでしょうか。これは視覚残像現象であり、眼識と意識の記憶機能であり、まだ意根までは深く入っておらず、意根は覚えていません。もし意根が覚えれば、この影像は長期間留まります。もし眼識と意識が長く観察すれば、意根に影響を与え、意根が覚えた後はいつでもどこでも影像が現れるようになり、これが三昧の定境です。眼識を主とする視覚残像は時間が短く、意識を主とする視覚残像は時間が長く、目を閉じて再び開けても見えることがあります。

一目見ただけで忘れない(過目不忘)とはどういうことでしょうか。意識が単独で記憶した内容は、そう長くもせずに忘れてしまいますが、意根が記憶した内容は忘れにくく、無意識に思い出すことさえあり、さらには払っても払いきれないほどになることもあります。一目見ただけで忘れないのは、定が深く、意識と意根の集中力が強いため、瞬間的な記憶が非常に固く、もし定が浅ければ、記憶したものは固くならず、忘れるのも早いのです。したがって、すべての定境は意根によって引き起こされ、意識は長く続く定境を引き起こすことはできず、非常に短時間にある種の境界が現れるだけです。私たちがさまざまな三昧を成就しようと思えば、必ず意根に深く入り、意根によって境界を引き起こさせる必要があります。

もしよく仏像を観察すれば、禅定が現れ、意根に仏像を覚えさせ、目の前にいつもあの影像が現れるかどうかを見てみてください。もしいつも仏の影像が現れるなら、私たちは禅定を修めることができるでしょうか。念仏三昧を修めることができるでしょうか。白骨観を修めることができるでしょうか。観無量寿経を修めることができるでしょうか。西方極楽世界を観想し、意識が勤めて練習を重ね、意根が忘れない状態に達すれば、命終の時、どんな境界であれ、内心で極楽世界を思うだけで、意根は極楽世界に安住し、極楽世界が現前し、必ず往生します。精進修行する時、誰の精進がより効果的でしょうか。意根の精進が効果的であり、意根の精進こそが真の精進です。もし極楽世界の境像を現前させたいなら、意根に念仏させ、意根と意識が一緒に極楽世界を観想するのです。

三、環境の薫染の力は非常に大きく、もし身近に吃音(口痴)の人がいて、いつもその人の話し方を見ていると、次第に薫染されて少し吃音がちになるかもしれません。外見や生活習慣も同様であり、感情さえも伝染します。これは意識の薫染から、意根に転化し、意根を薫染し、それによって五陰身を変えたのです。だからこそ「朱に交われば赤くなる(近朱者赤)」「墨に近づけば黒くなる(近墨者黒)」と言われるのです。私たちは必ず善法と善人に多く近づき、楽観的で積極的、向上心のあるポジティブな人々に多く触れ、自らが感染して楽観的で向上心を持ち、積極的に進取できるようにすべきです。もし能力があり定力が強ければ、初めて悪人に近づいて悪人を度化できますが、そうでなければ容易に悪人に「度化」されてしまうでしょう。

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