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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-09 08:39:39

第七節 ぼんやりした状態を用いて動中の定力を修める方法

一、問:ぼんやりした状態を用いて動中の定力を修めるのは、確かに善巧方便ですが、多くの人は持続が難しいと感じます。ぼんやりした状態を入り口として、言語や文字を心に浮かべず、それを観じ続け、保ち続け、徐々に訓練していくと、ぼんやりした状態の時間は長くなります。これはまさに公案(看話頭)を見ることに当たるのでしょうか?

答:この状態は言語や文字のない状態です。最初は入る時間が短いですが、絶え間ない訓練を通じて時間を延ばすことができ、定力が深まれば、参究(探究)はより効果的になります。

この状態は、公案を見ることに似ているだけでなく、実際には公案を参究することです。参究には意根(末那識)の思量作用があり、意識は分析を少なくするか、あるいは分析せず、意根の思量に協力します。思量の任務を意根の肩に移し、意根に一部を担わせます。そしてある時節因縁が相応すると、意根と意識が同時に法を証得します。もしそうでなければ、意識が思考分析した後、意根に引き渡しても、意根は必ずしも認可・承認しません。短時間では意根は絶対に認可・承認できません。なぜなら、これは意根による現量了別(直接知覚)ではなく、意識も全ての証拠を提示しておらず、完全な現量了別でもないからです。よって意根はそれに相応せず、法を証得できません。

意根は智慧が強くなく、意識よりはるかに劣りますが、主導する識(作主識)であり、一切の法は意根が決定権を持ちます。一切のことは、意根が首を縦に振らなければ成立しません。あたかも一家の主のように、他の家族成員より智慧は少し劣っていても、家族全体のことは全てこの人が決定します。この人に一つのことを認可・決定してもらうには、様々な説得力のある理由や証拠を用いて納得させ、信じさせた後に初めて決定できます。最良の方法は、その人自身にその事柄を直接理解させ、現場に臨ませ、この目で見させることです。事実を前にすれば即座に信じ、快く選択・決定し、そのことを認可します。

二、ぼんやりした状態における意根の思量性

問:私は体験を通じて、ぼんやりした状態はいつでもどこでも行え、効率が非常に高いことに気づきました。ぼんやりする時間は長短ありますが、意根を用いて法義を思量することはできず、ぼんやりした状態で法義を思量するには恐らく入り口が必要で、すぐには習得できません。そこで思い切って、ぼんやりするという方法で定を修める訓練に用いています。これは理に適っているのでしょうか?

答:もし意根を見つけられなければ、ぼんやりした状態の中にも意根の思量性があることを知ることはできません。なぜなら、意根の思量性は非常に隠微で発見しにくく、意根を証得し、意根の働きを知る必要があるからです。たとえ六識が全て消滅した後でも、意根には依然として思量性、択択性、様々な識心の活動があります。ましてや意識が定にある状況では、なおさら意根の識心活動があります。意根の心理活動は決して止んだことがなく、ただどのような識心活動を持ち、どの法を思量しているかの違いだけです。

ぼんやりした状態では、意根は思量しており、空ではありません。鍵は、意根が何を思量しているかです。もし意根に比較的重要な法義を思量させたいなら、事前に意識にその法義を明確に理解させ、大まかな筋道を整理させ、深く心に懸けておき、その後は意根に委ねます。その後、意識は散乱したり縁を攀じたりせず、その法義をしっかりと見つめて動かず、意根をその法義に縛り付けて思量させます。

このぼんやりした状態には、意識の深く微細な思惟作用もあり、さらに意識と意根の思考を分離する必要がありますが、これは非常に困難です。ぼんやりした状態が少し長く続けば、あまり深くない法義を思量でき、あまり難しくない問題を言語文字を用いずに考察し、明らかにできます。多くの人が似たような経験を持っていますが、反観(内省)できず、まとめられません。それは意根の活動を理解していないからです。私は意根の働きを観察できるので、この定を修め思惟する方法をまとめることができます。もし私が意根の働きを観察できなければ、ぼんやりした状態の中で意根も起動し、働き、思量し、択択していることを知らず、他人に伝え、指導することはできません。

発見と経験のまとめも、智慧の結晶です。ぼんやりした状態を用いて禅定を修行するのも非常に良く、入り口を得やすいです。意識と意根の両方を一点に集中させて動かさず、意識が意根に思量する内容と範囲を示せば、意根を一つの法に定めることができ、そうすれば禅定が得られます。

三、ぼんやりした状態と一念不生、呆然の違い

ぼんやりした状態とは、意根がある事柄に深く注視し、注意力がほとんど全て注視している事柄に集中している状態です。意識心には念がありませんが、意根には非常に隠微な思量があります。ただ意識が念を動かさないだけです。これは深い禅定であり、どれだけ長く持続できるかが問題です。時間が少し長ければ、一つの問題を解決するのに十分で、たちまち何かを悟り、開眼し(茅塞頓開)、疑惑がなくなります。

一方、一念不生は、意識に念がなく、意根にも特に注視・思量すべき事柄がなく、思想が比較的軽微で集中や専注が足りず、意識がぼんやりした状態に属します。思慮すべき問題がないため、何も問題を解決せず、開眼することもなく、インスピレーションも現れず、智慧も生まれません。

ぼんやりした状態は心を定め、心の中に心配事、思想、思量、思慮があり、空ではありません。呆然(呆けている)は時々ある事柄のために呆けることがあり、ぼんやりした状態に近いですが、時々少し暇で心が少し空っぽな状態もあり、一念不生に近いものです。

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