禅定の修めと参禅証道(第一部)
一部の人は仏法を学ぶにあたって、当下に安住すれば万事解決であり、仏法の修行は成就したと考えている。彼らは、これが単に修定の方法に属するにすぎず、しかも外道の方法に近いものであって、根本的に仏法を証得して解脱の智慧を生み出すことはできないことを知らない。仏法を学んで修行するというのは、心を静かで安定させればそれでよいというものではなく、これは解脱ではなく、生死の問題を解決することはできない。生死の問題を解決するには、禅定の中で心が静かで安定している状況において、五蘊自身に対して観行 (vipaśyanā-caryā) 思惟を行い、五蘊世間の真実の相を了解し認識し、五蘊世間の生滅無常無我の性質を認識することによって、はじめて五蘊世間を見破り、自我を放下することができ、解脱を得ることができるのである。
今、目的も章法もなく盲目的に修行している人が非常に多く、何が真の修行なのかを知らず、修行が果たして何のためのものなのかも知らない。そこでさまざまな「発明創造」が現れてくる。ある人はこう言う:修行とは当下に安住することであり、思いを起こさなければ明心見性でき、成仏できるのだと。しかし知るべきは、これこそ外道の修行方法であり、せいぜい成功した外道になれるだけである。しかも今の人は、過去の外道が持っていた定力や出離心をまったく持っていないので、外道定すら修めず、まして明心見性の般若 (prajñā) の大智慧などは、影すら見ることができない。だから修行は安心と安定だけを求めてはならず、正思惟を起こし、解脱の智慧の出生を目標として修行しなければならない。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、明心とは必ず妄心が如来蔵 (tathāgatagarbha) を明了することである</h4>問:禅宗を学ぶ人は、身心ともに空、あるいは身心脱落のときこそ明心見性であり、そのとき彼はあの(知)を知ったのだと言う。もし明心見性が意識心が分別することであるなら、どうして明心できるのか? どうして見性できるのか?
答:第一に、開悟のとき身心ともに空、身心脱落だと言う人がいるが、これは何という人が言ったのか、具体的にどういう意味なのか、この人は開悟しているのか、この人の悟と不悟をどう判断するのか、何に依拠するのか、法義か、それとも名声か? 第二に、彼は自分が明心見性したことを知っていると言うが、彼はどうやって自分がすでに明心見性したと判断したのか、その根拠は何か? あなたは何に基づいて、彼の自分の明心見性についての判断が正しいと信じるのか? 第三に、真に明心見性するとき、果たして意識が明心見性するのか、それとも意根も同時に明心見性するのか、それとも如来蔵 (tathāgatagarbha) 自身が明心見性して自分の存在を証明できるのか? 如来蔵 (tathāgatagarbha) は自分自身の性用を見ることができるのか? 如来蔵 (tathāgatagarbha) は自分自身を明白にすることができるのか、自分がどのように五陰七識と配合して万法を生じさせるのかを知ることができるのか?
第四に、もし如来蔵 (tathāgatagarbha) がこれらの事を知り、自分自身を明白にしたならば、無始無明を破ったことになるが、そうするとその前の如来蔵 (tathāgatagarbha) は無明であったことになり、これは心経の言う「無無明」と相違し、般若経と相違する。第五に、もし如来蔵 (tathāgatagarbha) 自身が明心見性し、自分自身を明白にするのであれば、それは如来蔵 (tathāgatagarbha) 自身の事であって、五陰七識とは無関係であり、五陰七識は明心見性しておらず、明白になっておらず、依然として無明であり、無明を破っておらず、五陰は依然として凡夫の身であり、明心見性した賢聖ではない。それでは明心見性したことにはならない。第六に、何を根拠に、明心見性の後は意識に分別がなく、妄想がないと言うのか? 分別と妄想がないとはどんな状況で、どんな境界なのか? 意識の体性とは何か? 第七に、身心ともに空、身心脱落というのは、明心見性の境界なのか、感応なのか、それとも禅定の境界なのか?
ここの問題は、問い上げようとすればまだまだ数多くある。皆が仏法を学んで真に成果を上げたいのであれば、盲従してはならず、慎重にまた慎重に、繰り返し繰り返し深く考えさらに深く考え、多方に求証し、多くの経典を学び、着実に進むべきである。自分の身心を惜しまず付出し、必ず自分に多く難題を課し、自分自身と多く対立し、自分の無明の習気にあまり順応せず、自分をあまり大切にしすぎず、自分のすべてが正しくて良いと思わないことである。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、意識が一法をも見ないときは開悟の境界ではない</h4>衆生が仏法を学んで修行するとき、陥りやすい誤区がある。それは一門の修定を好み、修定を修めて心が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になったら、それが開悟して本心を見たのだと考えることである。それゆえ、ある人は往々にして、心の中にたまに少しの清浄 (viśuddha/pariśuddha) があり、念頭がないときに、自分は何も見ていないと思い込み、この一法をも見ない空の境界を開悟だとみなす。開悟が果たして何を悟ったのかを知らず、悟った内容と標的が本心如来蔵 (tathāgatagarbha) であることを知らないのである。
実は、一法をも見ないときというのは、意識がちょうど無念のときであり、このときも一法を見ていないのではなく、意識自身が自分が空になり無念になったのを見ているのであり、依然として見があり法があり、知ると被知とがあり、これは意識の反観作用であり、意識の証自証分 (svasaṃvedana) である。もし意識が何も見ていないのであれば、どうやって自分が無念になり一法をも見ていないことを知ることができるのか? これは誰が知り誰が見たのか? それは意識心が知り見たのであり、意識は一法を見ていないのではない。これも開悟の境界ではなく、何も悟っていないからである。ある人はかえって、このときこそ開悟したのだと言うが、この開悟についての知見は一種の断滅空 (uccheda-śūnyatā) の知見であり、如来蔵 (tathāgatagarbha) の法さえもなく存在しないと考え、内心里に空々とすべての法の存在を否定することが開悟なのだとするものである。このような断滅空 (uccheda-śūnyatā) の知見は外道の一種の邪見 (mithyā-dṛṣṭi) であり、その結果、衆生は実相心 (dharmatā-citta) 如来蔵 (tathāgatagarbha) を証得できず、法界実相の大智慧を開くことができない。
衆生の知見は、有のところに落ちるか、空のところに落ちるかであって、常に空と有の両辺の間で左右に揺れ動いている。そのうち「有」についての知見は常見であり、常見とは、五蘊の中の意識心は実有であり、未来世まで延续し得る相続する心であると考え、このような心を衆生の本心とみなすことである。そうすると自心を遮障し、本心を見ず、法界実相を証得しない。また一部の衆生の知見は、一無所有の空の上に落ちるものであり、このような空見は浮雲のように再び自分の心を遮り、やはり本心を見ることができない。常に空と有の両端で葛藤し中道を行かない人は、たとえ修行がどれほど長くても、やはり生死の繋縛であり、解脱を得ることはできない。
打坐入定のときのあの一法をも知らない心は、一法もないことを知っている意識心であり、意識心は本来有るものではない、不生不滅の真如心ではない。もし一法も知らない心を誤って空性 (śūnyatā) の如来蔵心と認め、このときの心はちょうど如来蔵の心性と同じであり、これが如来蔵 (tathāgatagarbha) だと考えるならば、それは主人公を誤認したことになる。その結果、無明を破ることができず、生死を了することができず、解脱を得ることができない。
<h4 style="text-indent: 2em;">四、真心の証悟は仏道成就の先決条件である</h4>修行は仏力と衆生の自力との共同の成就であり、そして自力の中でも、真心の力と妄心の力とが和合してはじめて成就し得るのである。それならば、さまざまな事柄の中でどれが真心の力なのか、どのように作用しているのかを探し求め、すべての事柄を当然のこと、本来このようであることとみなしてはならず、時時刻刻、すべての身口意行に対して疑を起こし思惟 (manasikāra/manana) を起こすことこそ、智慧を開き、認知を高めるのに役立つのである。
真心を証得した後、般若 (prajñā) の智慧が開発され、後得の智慧が次第に顕現し、徐々に道種智が出生し、そうすれば仏地の一切種智 (sarvākārajñatā) も将来必ず獲得することができる。だから真心の証悟は、仏道成就の先決条件であり、必ず経過しなければならない一つの段階でもある。
十方世界のどの仏国土で修行するにしても、必ずこの段階を経なければならない。もし何かの法門が、真心如来蔵 (tathāgatagarbha) を証悟しなくても直接速やかに成仏でき、しかも当生で成就できると言うならば、そのような法門には注意しなければならない。それは間違いなく正しくないのであり、我々は自分自身をしっかり守り、間違った道や無駄な道を歩まないようにすべきである。十方世界の各仏国土において、誰であれどのように修め、どの法門を修めようとも、必ず禅宗の明心見性という関門を経なければならず、すべての修法はこの一点に集約されねばならず、誰もそれを越えることはできない。しかも悟った内容は、仏の説いた真如第八識の体性に符合しなければならず、宗派ごとに悟るものが異なるということはあり得ない。しかし開悟は思慮によって得られるものではないが、思慮し得る意識心と意根から離れることもできず、意識と意根が定慧を修出したとき、証悟し、真心の妙用を発見し観察することができるのである。
<h4 style="text-indent: 2em;">五、悟後も努力して修定すべきである</h4>第八識を証得して明心開悟した後は、大小乗の理を引き続き深く観行 (vipaśyanā-caryā) 修証し、禅宗の公案を浅から深へと絶えず参究し、明心のときに獲得した第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) に対する総相の智慧を増強し、より深細な別相の智慧を生起し、より多くより細かな第八識の運作の行相を観行し、より深細な第八識の功能体性を了知しなければならない。同時に引き続き禅定を修めなければならない。一方では、より良くより深く観行 (vipaśyanā-caryā) できるようにするためであり、他方では、自分の性障 (kleśāvaraṇa) と煩悩を降伏するためであり、将来初禅定を修出して煩悩を断除するためである。禅定が深まった後、福德も十分であれば、五蘊の虚幻を観行し、如幻観を証得しなければならない。それから初禅を発起し、煩悩を断ずる能力を得れば、小乗の面では三果を証得でき、大乗の面では陽炎観を証得でき、さらに禅宗の牢関を過ぎ、その後如夢観を証得すれば、大乗の三賢位が修了したことになる。
開悟以後は、禅定、福德、智慧、菩薩の六度をすべて内門においてより深く修行し、大小乗の理をいずれも初步的に通達し、禅宗の公案をすべて徹底的に通達し、さらに唯識を深く学び、初地に入り、真の仏子となる準備をしなければならない。
<h4 style="text-indent: 2em;">六、悟後の修行次第</h4>開悟以後の修行には、二つの途径がある。一つは修福修定であり、眼見仏性し、如幻観を証得し、身心世界が如幻如化であるという覚受が現れ、一切の貪瞋痴の煩悩を淡薄にして、十住位に入る。それから引き続き上へ修行を進め、初禅定を証得し、貪瞋の煩悩を断除して三果となり、さらに深細に般若 (prajñā) を観行し、陽炎観を証得して十行位の菩薩となる。さらに参禅して禅宗の三関を過ぎ、五陰の諸法を観行し、如夢観を証得すれば、初地に入る能力を得て、以後次第に修行して八地から仏地に至る。これが一つの修証の方式・途径である。
もう一つの途径は、眼見仏性の段階を経なくてもよく、九地菩薩より前に眼見仏性できればそれでよいというものである。開悟以後、努力して観行 (vipaśyanā-caryā) 修定し、貪瞋痴を淡薄にし、五蘊を空じて二果人となり、さらに初禅を発起して三果人となり、深細に般若 (prajñā) を観行し、陽炎観を証得し、さらに参禅して牢関を過ぎ、引き続き深細に五蘊を観行し、如夢観を証得し、以後唯識の種智を修学し、初地・二地に入り、八地九地に至り、最後に仏道を成就する。
如幻観の証得は小乗の二果に相当し、身心の内外がいずれも幻化した虚妄の相であり、真実有ではないことを知り、もはや五蘊世間の一切の法を真実とみなさなくなり、このときから貪瞋痴の煩悩が非常に微薄となり、ほとんどなくなり、甚深の禅定が生じ、さらには初禅定が発起される。明心以後、次第に身心の内外がいずれも実のない幻化のようであることを感受するようになり、このときから貪瞋痴がすべて非常に微薄になる。その後さらに禅定が増進し、初禅に達し、貪愛と瞋恚を断じて三果人となり、二種の煩悩をきれいに断じ、次第に禅宗の三関を過ぎ、大小乗の仏法を通達すれば、初地に入る。この中にはまだ多くの証悟の細部が必要であるが、今は一つ一つ細かくは述べない。なぜなら、我々は現在、初地の果位からまだ遠く離れているからである。
もし明心せずに、直接二果を証得し、貪瞋痴の煩悩を淡薄にさせたとしても、如幻観を証得することはできず、明心は如幻観を証得する前提である。もし明心していなければ、たとえ四果まで修めても七住位の菩薩になることはできず、まして十住位の菩薩になることはできない。なぜなら、般若 (prajñā) を観行しておらず、般若 (prajñā) の智慧が出生していないからである。しかし大阿羅漢たちは、ひとたび明心すれば、必ずしも七住位ではなく、もっと高いかもしれず、彼らは大乗法の修行において非常に速やかであろう。