禅定の修めと参禅証道(第一部)
第六節 世間定と出世間定
一、禅定はあらゆる衆生が共に修証する内容であり、すべての外道と仏法を学ぶ者に共通する定であり、特徴においては何ら違いはないが、功用においては非常に大きな差がある。
その差は、外道の定においては五蘊に対して思惟がなく、観行がなく、観修がなく、参究などの思想活動がないため、無我の智慧が生じず、解脱を得ることができない点にある。一方、仏門における理にかなった定には、必ず思惟・観行・参究の活動があり、これに依って相応する解脱の智慧が生じる。もし仏法を学ぶ者が修める定が常に定中にあり、思惟・観行の活動がないならば、それは外道の定に属する。
一般的に、仏法を学ぶ者が修行する定の多くは外道の定と相通じるものであり、後期になって定中で思惟・観修の活動を起こす時に初めて、外道と共有しない定に属する。したがって、各々の仏法修行者は外道の定やいかなる禅定も排斥する必要はなく、最終的に様々な定を利用して正しい解脱の智慧を生じさせることができれば良いのであり、これが定を修める根本的な目的である。
二、殺生戒を持たない外道の定と仏門の定の違い
定には定福があるが、殺生戒を持たない定においては、定福が少ない。しかし定力が深まるにつれ、身口意の造作が次第に少なくなり、ついには身口意行を全く造作しなくなるならば、これらの外道の定は戒を持った定であり、持たずして持つ、自然に戒がある。このような戒は、仏法修行者が持つ五戒や八関斎戒よりも清浄であり、さらには大多数の人の菩薩戒よりも清浄ですらある。このように深くいかなる戒も犯さない禅定があるため、外道たちは仏の説法を聴聞したその瞬間に思惟し、直ちに四果阿羅漢を証得し、初果・二果・三果を経る必要がない。仏法修行者にこれに及ぶことができようか?
外道の定は我見を断除し、煩悩を断除することはできないが、外道の定は自我を降伏させ煩悩を降伏させることができ、五陰の我とは切っても切れない関係にあり、煩悩とも切っても切れない関係にある。最後に仏陀が仏法を開示すると、外道たちは深く仏陀を信じ、真に仏陀に帰一し、速やかに聖果を証得する。我見と煩悩はもはや切っても切れない関係ではなく、完全に断除される。仏法修行者が修める浅い定は、もし自我を降伏させることができず、煩悩を降伏させることができず、まだ切っても切れない関係にすら至っていないならば、煩悩を断つまでには、まだ長い道のりがある。
三、世間定と出世間定の違い
世間定とは四禅八定を指し、五陰身心の入る定であり、意識覚知心において修する定であり、いずれも出入のある定である。したがって生滅・無常のものであり、常に保持する必要があり、一旦保持を怠ると定力は消失する。単にこの八種の定だけでは衆生が解脱を得られないのは、これらの定が意識心を調伏することしかできず、我見を断つことができず、生死の結縛を断つことができないからである。衆生が解脱を得ようとするならば、まず五陰が我であるという知見を断除し、その後初禅を修めて貪愛を断ち、煩悩を断ち、最後に三界への貪愛を完全に断ち尽くし、もはや貪らず愛さず心喜ぶことがなくなって初めて解脱を得られる。四禅八定の中には、なお禅定への貪愛があり、五陰の中の某部分を我として執着し、禅定中の意識覚知心を我として執着するため、解脱を得ることができない。
ある衆生は過去に四禅八定を修めたことがあるかもしれないが、この種の定は衆生を生死輪廻から離脱させ解脱を得させることはできない。したがって定力が消失すると、再び下堕し、人間界あるいは三悪道に戻る。ではどうすれば生死を離れ解脱を得られるのか? ただ我見を断ち、解脱果を証してこそ生死を出離し解脱を得ることができ、他に道はない。なぜ衆生はこれほど修定を好み、修定を唯一の修行方法と見なすのか? それは衆生が皆、禅定によって自分が解脱を得られると考え、様々な意識覚知心の我を滅することが涅槃を得、解脱を得、輪廻を出る道であることを信じないからである。したがって仏法を修学し、正知見を得ることが最も重要であり、仏法の正理によって修行を指導し、法にかなって修行してこそ成功を得ることができる。
出世間定とは、第八識如来蔵の出ず入らずの楞厳大定を指し、楞伽大定とも呼ばれる。なぜなら如来蔵のみが三界世間に属さず、その他の法は全て世間の中にあり、意根と意識心を離れないからである。如来蔵は常に定中にあり、永遠に出ず入らず、不生不滅で常恒自在である。如来蔵は常住の大定中にあり、一度も出定したことがなく、また入定したこともない。それは一切の法を攀縁せず、六塵に対して、決して心念や心行を起こさず、散乱せず、掉挙せず、昏沈せず、睡眠に落ちることもない。便宜上、定中にあると言うのであり、したがって如来蔵には定も不定もない。如来蔵はまた本より動揺せず、一切の法に対して見ず聞かず、したがって決して心念を動かさない。その運作は、完全に衆生の業力・習気・因縁に随順しており、随順しながらも念想を動かさないため、首楞厳大定とも呼ばれる。
楞厳経において楞厳大定が説かれるが、経典全体が如来蔵を説いている。これが私たちの真心であり、それは常に定中にあり、一度も出定せず入定せず、出入がない。これこそが真の不生不滅の禅定の境地であり、非常に堅固であるため、楞厳大定とも呼ばれる。なぜ如来蔵は出定せず入定せず、常に定中にあるのか? それは眼がなく、色を見ず、色が来ても分別せず、心を動かし念を起こさず、決して心を乱さない。他の五塵に対しても、分別せず、念を動かさず、心が散乱しないからである。それは永遠に六塵と相対せず、永遠に生心動念せず、永遠に境界に随って動かない。これが楞厳大定である。六祖が「那伽は常に定中にあり、定ならざる時なし」と言ったのは、この意味である。
もしある人が楞厳大定がこの心体の定を指すものではないと言うなら、その意味は四禅八定を指すことになる。しかし四禅八定は出入のある定であり、常定ではなく、生滅変化のある定であるため、楞厳大定ではない。四禅八定を修めるには、まず欲界の定、すなわち欲界六層天の定を修めなければならない。欲界第六層天の定は未到地定であり、未到地定を過ぎると色界の初禅天の定となる。初禅以上の定が初めて真の四禅八定である。
欲界と色界の天人の色身は、いずれも私たち人間よりも数えきれないほど大きく、彼らの心の覚受も非常に愉悦である。私たちがこれら二つの定に至ると、天人の色身が私たち人間の色身に同時に現れ、身体が比類なく大きく感じられ、心の感覚も非常に快適である。これらの定境に達するには、人間界の人事や物理にあまりこだわらず、何も希求せず、五欲を非常に淡泊な状態にまで減らす必要がある。未到地定に至るには、五蓋を降伏させ、欲界のものを一切好まなくなり、初禅が現前する。その後さらに上を修め、四禅八定を修め尽くす。それでもなお、四禅八定は出入のある定であり、永遠に定中にあるわけではなく、心にはなお動揺があり、依然として意識心の虚妄の妄法である。真の永遠に動かない定ではないため、楞厳大定ではない。
四、邪定とは何か? 正定とは何か? 如何にして邪定を正定に転換するか?
邪定とは解脱の道にない定であり、解脱の智慧を生じさせることができない定であり、解脱へと趣くことができない定であり、外道と共通の定である。この種の定の中では、識心が沈滞するか昏沈し、心を用いることがなく、思惟を起こさず、教理を思わない。
正定の中で最も正しい定は、定中で心が顛倒せず、世間の一切の法を思わず、善も思わず悪も思わず、一切の法に執着せず、しかも無上の智慧をもって衆生に随順して一切の法を生じさせ、一切の法に拘束されず、一切の法から解脱するものである。次に正しい定は、定中で深く細かに種々の正理を思惟し、世間の一切の相に執着せず、善悪に執着せず、種々の解脱の大智慧を生じさせ、世界を変化させ、自他の一切の善根・福德・因縁を成熟させ、心が正道に向かい、心が正道にあるものである。
禅定がある程度修まると、心が清浄になり、心力が高度に集中し、思考がある深さに達した時、定中で思惟を起こし、現在解決すべき仏法の問題や、現在理解すべき問題を思考しなければならない。そして出定後も、心を用いて仏法を思惟し、朝に夕に、心心念念、全て仏法を中心に、現在解決すべき仏法の問題を中心に据える。これによって仏法を明らかにし、因縁条件が具足した時、相応する法を証得し、智慧を開く可能性がある。
比較的深い正定の中では、意識の思惟は少なく軽微であり、情思意解はないが、意根が容易に察知できない思量があり、意根が深く考え、意識よりも多く用い、意根の思量が主となる。ここには定と慧があり、定は正定であり、邪定にはこのような思量はない。自らが着実に功夫を行い、思量の技巧を掌握し、思量を学ぶならば、必ず益があり、百益あって一害もない。
禅定中の昏沈にはいくつかの原因がある。原因を見つけ出し、対治すれば昏沈問題を解決できる。一つは気血が通じず、血管が詰まり、供血不足で昏沈する。座中に経穴を按摩し、気血を通じさせることができる。一つは睡眠不足あるいは身体の疲労である。呼吸を調節し、数回深呼吸を行うことができる。一つは意根が興味を持つ所縁の法が不足し、心が沈滞する。この時は面白い図景を観想し、心を沈滞から解放することができる。
禅定がない時は、まず仏法を観行してはならない。定力が不足している時も、仏法を観行してはならない。そうすると容易に推論によって一つの結論・一つの答えを導き出し、後で真に功夫を用いて参究することができなくなり、その後の実証が困難になり、道業が大きく阻害される。禅定のない思惟観行は、解脱に益なく、道業に益なく、ただ知見と我慢を増長し、我見を断除できず、功徳の受用がない。
五、神通は消失する
外道が四空定を修め、神足通を修め出したのに、なぜ色を見て心を起こし、神足通を失ったのか? 淫欲心の断除は、初禅定に我見断除の証量が伴って初めて三果人となり、欲心を断除することが可能となる。初禅定と四禅八定のみ、あるいは単に我見を断つだけでは、淫欲心を断除できない。したがって外道には禅定と神通があっても、なお色を見て心を起こし、その後禅定と神通は全て消失する。我見を断つ智慧がなく、禅定だけでは淫欲を断除できないことが分かる。
過去の経典に、禅定と神通を持つ者が、色を見て心を起こしたため、心念が起こると同時に神通と禅定が退失し、来た時は飛行し、帰る時は歩いていたと記されている。それは初果を証得する功徳がなく、禅定しかなかったためである。淫欲を断除するには、我見を断ち初果を証得し、それに初禅定が伴わなければならず、禅定だけでは不十分である。したがって初果の分証解脱の功徳受用は非常に大きいと言える。
提婆達多も同様に、我見を断たずに神通を修めて天界に昇ったが、天華を盗む念いを起こしたため、神通が即座に消失し、天界から落下した。もし初果を証得した後、初禅定があり、さらに神通があれば、それは三果であり、もはや邪な念いを起こさず、戒を犯すこともなく、神通を失うこともない。