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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-14 02:24:45

第四節 三昧と正受

一、三昧とは何か

三昧はインドの言葉で、定(じょう)を意味します。三昧には禅定の境地もあれば、程度の異なる智慧の境地もあります。智慧が深くなければ、三昧は主に定境となりますが、智慧が深ければ、定慧等持(じょうえとうじ)の境地となります。

様々な念仏三昧の段階は異なり、定を主とする念仏三昧は、口で仏号を唱えて入定し、歩く・行く・座る・臥すのいずれの動作においても仏号を念じ続け、ついには念じずとも念じている状態となり、仏号の声が心の中や耳元に絶え間なく響き渡り、聞きたくなくても聞こえ、連続して続きます。

定慧等持の念仏三昧は、無生忍(むしょうにん)と無生法忍(むしょうほうにん)を証得します。例えば、観像念仏や観想念仏は、口と心で念仏することから始まり、ついには独影境(どくえいきょう)が現前し、定果色(じょうかしき)が出現し、無生の理を証得し、自性仏を明らかに理解します。

白骨観や不浄観が成就した後も、三昧の境地であり、定慧等持です。定は一心の境地で初禅以上であり、慧は無生を証得し、色身が不浄であること、五蘊(ごうん)に我が無いことを知り、果位は三果・四果であり、これも小乗の空三昧(くうさんまい)です。独影境が現前し、定果色が出現します。四念処観(しねんじょかん)が成就したものも小乗の空三昧であり、定慧等持で、三果・四果を成就します。大乗の三昧は、一つは念仏三昧の成就、もう一つは『観無量寿経』の十六観であり、いずれも定慧等持です。定がなければ、慧観も成就しません。

これらの三昧では、往々にして定が慧よりも多いです。大乗の参禅(さんぜん)も、最後に参究(さんきゅう)を破った時は三昧の境地であり、定も慧もあります。もし定が浅ければ慧も浅く、ただ七住位・八住位を成就するのみです。定が深ければ慧も深く、初地・二地の位に至ることができます。心が如来蔵(にょらいぞう)の空性(くうしょう)に住し、五蘊自身がすべて空性如来蔵であり、歩く・行く・座る・臥すがまるで如来蔵の中にいるようで、五蘊の我はありません。

小乗の観行参究で我見を断つ時も、三昧が現前し、定も慧もあります。定が浅ければ慧も浅く、ただ初果・二果を成就するのみです。定が深ければ慧も深く、三果・四果を成就できます。証果した後は、心が五蘊無我の空三昧の中にあり、五蘊の我という覚受はなく、縁に遇い境に対しても、心に我相を起こさず、いかなる人や事とも仇対せず、自らの周囲の一切を意に介しません。なぜなら心に我が無いからです。

もし意識による仏法の理解、あるいは解悟(げご)に過ぎないならば、少しの三昧もなく、定境もなく、空の覚受もなく、心中には依然として我があり、我の心は死んでおらず、縁に遇い境に対した時は必ず意識の作意(さい)に頼って初めて五蘊は無我であると思い出さねばならず、ひとたび意識が覚照(かくしょう)を失うと、我の心が突然湧き出て、身口意の行いを把持できません。そして意識の覚照作用は非常に限定的で、断続が甚だしく顕著であり、常に覚照を失い、保持できません。たとえ意識の力が非常に強く、しばらくの間は保持できても、遅かれ早かれ覚照を失い、特に命終の時はそうです。

二、すべての三昧は、定境を主とするものであれ、定慧等持のものであれ、すべて意根(いこん)が成就した結果です。ただ意根を定め、散乱せずに至る所へ攀縁(はんえん)しなければ、初めて定境が生じ、意根は意識がもたらす法を思量する十分な精力を持ち、法の根本的な意義と実質的な内包を明らかに理解でき、三昧が必ず出現します。これを証得(しょうとく)したと言います。

『観無量寿経』の日観であれ、白骨観であれ、その他の様々な観行であれ、最後に成就した時は、意識で作意しなくても、目を開けても閉じてもその景象が現前します。もちろん意識で作意すれば、その景象はより明らかになります。いわゆる成就とは、自然に出現するものであり、それを三昧と言います。もし自然に出現せず、意識で作意しなければ出現しないものは、どれも成就とは言えず、三昧ではありません。

いわゆる三昧とは、非常に深い定境ですが、同時に智慧の境地を含むことを排除しません。智慧と禅定の有機的な結合を三昧と言い、どちらか一つが欠けても三昧とは言えません。このような三昧の中にはすでに比較的深い禅定があり、必ず意根も訓練されて成熟しています。意根が訓練されて成熟した後は、時々刻々に作用し、心の中に時々刻々にこのような景象が現れるのです。

もしあなたの定力が修成されていなければ、三昧は修成されておらず、意根は熏習(くんじゅう)に成功しておらず、ただ意識が比較的熟練しているに過ぎません。意識が熟練して再び作意すると、それに伴って意根が動き、意根が作意し、その後で境界が顕現します。そのような境界は熟練したものではなく、断続的であり、そのような定力は不足しており、三昧とは言えません。

三、三昧と正受(しょうじゅ)は、定慧等持の身心の境地です。ある人が一つの法義に遇い、心を起こして深く思惟参究した後、突然内心が法義と相応し、法義の内包を深く明らかに理解し、法義が指し示す深層の意義を証得した時、智慧が湧き出て、内心に言葉では言い表せないほどの喜びを感じます。その後、身心が軽安(きょうあん)で快適になり、行く・住む・座る・臥すが虚空にいるようで、まるで人のいない境に入ったかのようになります。内心は空しく、広大で静かであり、思想は深遠で、頭脳は敏捷です。気脈が胸腔と肩に湧き上がり、背筋は伸び、胸腔は開け、両肩は沈み、身は燕のように軽やかです。内心は空々として、空と相応し、無我と相応し、無四相と相応します。見る一切は、すべて虚妄で実体が無いと覚り、思惟は深沈で専一、細密で明瞭です。心中には楽感が絶えず、穏やかで安らかであり、もはや雑多な妄想や浮かぶ想念はありません。過去はなく、未来もなく、現在も実在せず、三際(さんざい)は脱空し、空さえも存在しません。心は広く慈悲深く、寛容で度量が大きく、人の非を争わず、善悪を計らず、色声香味触法に執着せず、五欲の前では行屍走肉(こうしそうにく)のようで、八風吹き動かさず、まるで珍宝の山に坐すが如しです。

定と慧が共に資(たす)け合い、偏ることなく、どちらか一つが欠けても三昧とはならず、どちらかに偏れば正受とは言えません。定慧等持こそが真の三昧であり、真の正受です。

四、すべての三昧は、定境と智慧の結合であり、どちらか一つが欠けても真の意味での三昧ではありません。しかし、ある定境には智慧がなく、ただ定境と呼ぶのみです。ある定境には智慧があり、智慧を含蔵していれば、三昧と呼びます。定境の範囲と内包は比較的浅く狭いですが、三昧の内包は深く広いです。したがって、三昧は必ず定境を含み、定境がなければ三昧とは言えず、智慧がなければ三昧とは言えません。様々な段階の果証(かしょう)はすべて三昧です。ゆえに三昧は必ず禅定と智慧を含まねばなりません。

五、仏家の三昧は二種類に分かれます。一つはただ定境のみで、世俗の外道定に通じるものです。もう一つは定境だけでなく、智慧の境地もあるものです。智慧の境地があるものは、世俗の外道禅定には通じません。

第一の定境三昧には三種類あり、三三昧(さんざんまい)と呼ばれ、以下を含みます:有覚有観三昧(ゆかくゆかんさんまい:初禅以下)、有覚無観三昧(ゆかくむかんさんまい:初禅と二禅の間)、無覚無観三昧(むかくむかんさんまい:二禅以上)。

三三昧はただ心を摂(おさ)めるだけで、智慧とは関係ありません。観想や観行のある三昧は、智慧を生じさせることができ、真の三昧であり、大小乗の観行の智慧を含みます。例えば、観像念仏は、三昧が成就した時、明心見性(みょうしんけんしょう)できます。念仏三昧が成就した時、明心見性できます。五蘊の観行三昧が成就した時、法眼浄(ほうげんじょう)を得ることができます。白骨観三昧が成就した時、我見を断ち、初果から四果を証得できます。四念処観三昧が成就した時、初果から四果を証得できます。『観経』第七観が成就した時、明心開悟(かいご)できます。般舟三昧(はんじゅざんまい)が成就した三昧では、十方諸仏が面前に立ち、智慧の境地は明心開悟です。般舟三昧は、九十日間念仏し、座らず臥さず、ただ歩くことと立つことのみで、眠ってはなりません。九十日で念仏三昧が成就した時、十方諸仏が面前に立ち、仏――如来――を見ます。これが開悟の境地です。

六、念仏三昧が成就した時、十方諸仏が面前に立ち、眼識によって了々分明に見えますが、他人には見えません。これはどのような境界でしょうか。白骨観が修成された後、すべての人を白骨の連なりとして見え、非常に明瞭ですが、他人には見えません。これはどのような境界でしょうか。『観無量寿経』の第一観である日観が成就した後、目を開けても閉じても、落日が懸鼓(けんこ)のように面前と心中に現れますが、他人には見えません。これはどのような境界でしょうか。十六観のそれぞれの観が成就した後、相応の境界が出現し、眼識が見ますが、他人には見えません。これはどのような境界でしょうか。目に金星が飛び、星々が点々と目の前を舞いますが、他人には見えません。これはどのような境界でしょうか。蜃気楼は、みんなが見ることができますが、何色でしょうか。例えば目に金星が飛ぶ場合、眼は金色の星や黒い星を見ることができるでしょうか。白骨観の白い骨、落日の真っ赤な色彩など、これはどういうことでしょうか。眼識は色彩を見ます:赤・橙・黄・緑・青・藍・紫・黒・白。眼識が参与して見るものは独影境ではありえませんが、いかなる禅定の中で見られる色も、すべて独頭意識(どくずいしき)が見るものであり、眼識はありません。回想の中で現れる色彩、夢の中で見る色彩はすべて独頭意識が見るものであり、眼識が見るものではありません。ここには眼識はありません。

七、真の三昧は定慧等持であり、定も慧もあり、実証後の境界です。修行の方法が異なり、段階が異なり、禅定の深浅が異なり、観行の智慧が異なれば、成就する三昧も異なります。観行の智慧を必要とする禅定はすべて、未到地定(みとうじじょう)あるいは初禅定が必要であり、初禅定の中で観行するのが最も効果的です。初禅定がなければ、未到地定がより具足し、初禅定に近いほど良いです。未到地定がなければ観行できず、心は非常に粗雑で浅薄で、何の法も観察できません。未到地定が不足していれば、観行も力強くありません。

二禅以上の定の中では、意識に念いがなく観行思惟ができず、必ず禅定から出て、初めて意識に頼って観行思惟しなければなりません。禅定が高ければ高いほど、出定後の定力も良く、観行思惟はより細密で深透します。ただし、意識が観行の法をすでに意根に伝え、意根がそれを明らかにしようと望んでいる場合、二禅以上の禅定の中で、意根が単独で思量参究でき、妨げがありません。諸仏はすべて四禅定の中で悟道(ごどう)しましたが、おそらく意根が独立して悟道したのであり、意識の作用は大きくありません。

禅定を具足し、観行を学べば、多くの修行者は自ら手がかりを得て、いかなる法も証得できます。これは非常に重要な修行方法と道筋であり、現代の学仏者が突破しにくい瓶頸(へいけい)でもあります。意識が仏法を理解した後、深く観行して求め証することができ、法義が意根にあり、意根が法義と疑点を思量することを保証でき、思量が通達して初めて非常に確信を持ち、法を疑わなくなり、その心境は非常に軽やかで愉快であり、解脱はまさにそのようなものです。

八、如何にして三昧を成就するか

いわゆる三昧とは、定と慧が完璧に結合した境地です。『坐禅三昧経』には、いくつかの三昧の修行方法が紹介されており、その中に観像念仏によって念仏三昧を成就する方法があります。観像念仏を修習する際は、身心を端正にし、専心一意で他法に縁(えん)せず、一心に面前の仏像を観想します。観像する際に禅定を具足し、戒律を具足し、観慧を具足し、戒定慧のすべてを具足して、最後に観像念仏三昧を成就し、定慧等持となります。その他のいくつかの三昧の修持もすべて、戒定慧が具足して初めて成就します。戒が具足しなければ、心は散乱し、内心は躁動(そうどう)し、定は具足せず、定が具足しなければ観慧を生じさせず、観慧が不足すれば三昧を生じさせません。

『楞厳経(りょうごんきょう)』には、二十五人の聖人が修した様々な三昧の境地が紹介されており、いずれも戒定慧を具足し、甚深の禅定の中で深く細かく思惟参究し、甚深の三昧を成就し、広大な智慧を得ています。三昧の境地を得るには、甚深の禅定が欠かせず、六識・七識の観行の智慧が欠かせません。意根がその中で果たす役割は意識をはるかに上回るため、甚深の三昧を証得した時には、大神通が現前します。

『華厳経』の善財童子五十三参(ぜんざいどうじごじゅうさんさん)では、参訪したすべての老師が彼に一種の三昧修習の方法を教え、彼は定の中で一つ一つ深く細かく観修し、一つの三昧を成就するごとに智慧が増長し、一段階上がり、最後に智慧は等覚菩薩に達しました。ゆえに戒定慧は前行の方便であり、定は中間の紐帯(ちゅうたい)、観慧は橋梁(きょうりょう)、三昧は道果(どうか)です。五十三人の老師が善財童子に五十三種の法を教え、善財童子はすべて精進して修習し、道業は飛躍的に進歩し、他の菩薩の二、三の無量劫(むりょうこう)の修行時間を超越しました。彼の修行は真に神速でした。なぜこれほど速いのでしょうか。願力が弘大深遠であり、師を尊び道を重んじ、禅定が甚深であり、智慧が深く鋭く、比類なき精進であったため、すべての三昧を成就できたのです。

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