禅定の修めと参禅証道(第一部)
未到地定 (anāgamya-samādhi) が現れる前後において軽安の状態が生じることができ、三摩地 (samādhi) は初禅以上の定の中に現れる定境である。未到地定 (anāgamya-samādhi) にも軽安の状態があるが、ただ初禅の定の軽安とは差が非常に大きく、初禅はまるで神仙の感覚のようである。未到地定 (anāgamya-samādhi) の軽安はやや劣り、身体に高大、龐大、軽微、軽飄の現象が現れることがあり、歩行は軽快で、身体が上揚し、全身が軽やかで、歩くとき音がなく、内心は安定する。同じ禅定の中でも、人それぞれの身心の状態は完全に同じではなく、同じ人でも異なる時間においては、表れにも小さな差異がいくらかある。欲界定の状態にも多くの種類があり、定の深浅もみな異なる。同じ初禅の定であっても、人それぞれの身心の感受と状態は完全に同じではなく、同じ人が異なる時間に同じ定に入っても、その身心の状態と感受は完全に同じではない。
同じ「軽安」という言葉でも、その界定の境界は異なり、その表れる程度もやはり異なり、軽安の臨界点がどこにあるのかを厳密に確定することができず、人それぞれの定義にも差異があるかもしれない。もし心の平らかでない人がいて、どうしても論争しようとするならば、各々が自説を主張するしかない。三摩地 (samādhi) は、厳密に言えば、初禅以上の定の中にあるべきものであり、これは正式な禅定であり、四禅八定の初始である。
<h4 style="text-indent: 2em;">二、初禅以上の境界</h4>初禅以上の境界においては、色界初禅以上の天人はみな欲界衆生の貪欲がなく、性別がなく、男女を分けない。鼻識がなく、舌識がなく、彼らは香りを嗅がず、飲食がなく、飲食や排泄をする必要がない。二禅以上の天人は定の中に五識がなく、五塵の境界を分別しない。無色界の天人は色身がなく、前五識がなく、意識、意根と第八識のみがある。無想天の天人は、意識心も滅し、意識がなければ想心所がなく、意根と第八識のみがある。倶解脱の阿羅漢が滅尽定に入るとき、意識心がなく、意根の五遍行心所法も二つが滅し、受と想が滅するので、滅受想定とも呼ばれるが、意根にはまだ三つの心所法があり、第八識はまだ身を保持しているので、滅尽定の中の阿羅漢は生きている人であり、第八識が離れると死人となる。
<h4 style="text-indent: 2em;">三、二禅の経験</h4>初禅の中には覚があり知があり、時間と空間の観念もあり、いつどこにいるのかを知っている。二禅の中には覚がなく知がなく、念頭があるのを感じられず、出定して初めて自分がさきほど入定していたことを知る。四禅の中にはまだ念頭があると言う人がいるが、私は初めてこのような説を聞いた。二禅の中では、意根には依然として念があるが、ただ意識は知らない。なぜならそのときは入定が非常に深く、意識は何一つ知らないからである。しかし、誰かが小声で「過斎(食事の時間)だ」と一言言うと、そのときに聞こえ、そこで心は出定した。なぜあれほど小さな声を聞いて、出定できたのか。それは意根が食事のことを惦念(気にか)けていたからであり、小さな声を聞くと、意識に別了を生起させたので、そこで出定することになる。
二禅の定は一瞬のうちに入定することができ、その後は何も知らなくなり、出定も一瞬であり、出定後に初めて自分がさきほど入定していたことを知る。身体が非常に快適で、心情が特に愉悦であり、頭脳が特に明晰であると感じる。微弱な一つの声で、耳識を覚まし十分であり、そこで出定する。意根にまだ惦念(気にか)けている事柄があるので、時間になると、重要な事柄を誰かが一言注意すれば、たとえ蚊の羽音のような声であっても聞こえ、そこで出定する。入定の前、非常に騒がしい音の中で、心は素早く沈静することができ、騒がしい音はますます微弱になり、やがて聞こえなくなり、人は入定する。
二禅の中で意識は滅していないが、非常に微細であり、私は何を覚知することもできず、自分が入定したことを知らず、何も知らないかのようで、当時の意識がどのような状態であったのかも知らない。なぜなら意識には反観力 (pratyavekṣā-bala) がないからである。二禅の中で、もし意根が食事のことを惦念(気にか)けていなければ、誰かが「過斎だ」と言っても出定することはない。なぜなら私が入定しているとき、周囲の数十人が互いに談話していて、静かになったことは一度もなかったが、私は聞こえず、「過斎」という言葉だけを聞いたからである。私は四禅に入ったことがなく、四禅の中の意識心の状態を知ることができず、実証がなければ発言権がない。三禅にはおそらく一日入ったことがあるが、あまりに快楽であったので、入魔することを恐れて、捨てた。