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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 13:54:28

第三節 止観は即ち定慧である

止とは定であり、観とは慧である。修行とは止観双運、定慧等持を要する。止とは心を一つの境界に摂持し、一法に縁って動揺しないことである。観とは縁った一法に対して観行し、思惟し、参究し、思考することである。止観は連なり相通じており、止がなければ観はできず、観行がなければ智慧は生じない。観と同時に定も生じ、止も得られる。両者は相俟って成り立つ。慧がなければ定まらず、定がなければ智慧は生じない。

智慧がある時、法に対して択法眼が生じ、不必要な世俗法を捨て、他の一時的に役立たない雑事の干渉を排し、最も重要なことを選んで行うことができる。択法ができれば、心は一処に止まる。慧とは、意識が深く細やかな思惟を通じて道理を明らかにし、深細な思惟の過程で再び意根を反熏し、意根を説得した結果である。

止であれ観であれ、いずれも七識の修行に関わり、七識を一境に専注させ、意識心をただ一つの対象のみに分別させる。精力を集中し、心に余念がなければ、問題を徹底的に思惟し、その中に隠された道理を明らかにでき、仏法の智慧を得ることができる。観慧が定を生むとは、意識が道理を明らかにした後、再び意根を熏染し、意根が世俗法に執着せず、意識の散乱を避ける結果に至らしめることである。

止であれ観であれ、いずれも七識において工夫を凝らし、七識を一境に専注させ、意識心にただ一つの対象のみを分別させる。精力が集中すれば、思惟は透徹し、その真の内実を明らかにでき、真の智慧を得ることができる。第七識は一境のみに縁ることはできないが、それでも攀縁を減らし、作意と思量を少なくし、次第に定に向かうことができる。そうして初めて意識に定が生じ、止を得られる。さもなければ、意根が至る所で攀縁するため、意識は如何なる方法でも一処に止まることはできない。

定は開悟の基礎であり前提条件である。菩薩の六度および菩薩の三無漏学において、定はその一つであり、修定の重要性が窺える。定力がなければ観行はできず、定力が浅ければ観行は深く入らず、細やかにもならず、智慧は開発されない。もし欲界の最高の定である未到地定を修得できれば、観行は力を持つようになる。これは色界の初禅の前段階の定であり、この定を得て初めて、参禅あるいは一つの法義を参究し、あるいは五陰の虚妄を観行する際に、心が専一となり、思惟が深くかつ極めて細やかになる。そうして初めて法理を透徹して思惟でき、参破して開悟する可能性が生じる。修行の結果と目的は智慧を開発することにあり、智慧があって初めて生死輪廻を出離し、解脱を得ることができる。智慧があって初めて仏道を成就できるのである。悟道して智慧を開くことは、各種の定境よりも貴重であり、より重要である。もし定力のみで解脱の智慧がなければ、せいぜい天に昇って福を享けるのみで、福が尽きれば依然として三悪道に堕ちて苦しむことになる。故に必ず定慧等持を図り、偏って修めてはならない。

止観双運、定慧等修を以てこそ、仏法を学ぶ者は必ず所成を得る。慧有りて定なき者は狂慧であり、狂慧の者には必ずしも徳がなく、その見解は必ずしも真実確かではなく、煩悩は畢竟降伏され得ない。故に必ずしも徳があるとは言えない。定有りて慧なき者は愚を守り、頑なで通じない者は道がない。定有り慧有る者は、必ず解脱を証し、真実の法益を得、仏法における大丈夫である。

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