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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-14 00:40:57

第五節 参禅による悟りの前提条件

一、六波羅蜜は参禅の基礎

頓悟の前提は漸修である。頓悟を遂げた者は皆、長短さまざまな漸修の過程を経ており、漸修なくして頓悟はない。頓悟を目指すなら、基礎を固めねばならない。菩薩の六波羅蜜がその基礎と条件である。菩薩となるには、相応の菩薩としての条件を備える必要があり、理由なく菩薩になれるわけではない。無量劫にわたる生死の大事を解決することは簡単なことではなく、必ず相応の代償を払って初めて成し遂げられる。

これらの条件が満たされれば、必ず頓悟できる。なぜなら悟りに人数制限はなく、世俗の善きことには限りがあるかもしれず、時には不正や縁故に頼らねばならないこともあるが、悟りによって心を明らかにするこの法はそうではない。条件を満たす者が誰でも悟りを得られ、他人が阻むことはできない。だからこそ自らを修め、自らを完成させ、聖賢に近づき、さらに近づき、ついには聖賢の群れに入らねばならない。

現代の仏教徒には焦燥感があり、基礎を築かず、六波羅蜜を修めず、直接に参禅し、すぐに悟ろうとする。多くの人の心構えは、七階建ての建物の七階だけを欲しがり、一階も二階も不要とするようなものである。世尊は繰り返し菩薩の六波羅蜜を説き、福徳と戒律は非常に重要であり、心性を調伏することも極めて重要だと述べている。しかし仏教徒たちはこれらを顧みず、ただ最後の般若慧だけを求める。これは得られるものではない。智慧を得るにはいくつかの前提条件が必要で、福徳の資糧が具足し、戒律も受持しなければならず、そうして初めて定が具足し、最後に慧が生まれるのである。

理の修行や慧の修行にのみ心を用い、基礎となる福徳と戒律に心を用いなければ、修行で成就を得ることは不可能である。私たちは仏の教えを信じ受け入れ、仏が為せと命じたことを必ず努力して成し遂げねばならない。帰依、受戒、持戒、心性の調伏はすべて重要であり、これらの条件を省いて直接に結果を得ようとしてはならない。世俗の染汚が重い者が聖人になれるはずがない。修行者と聖人との差が大きすぎてはならない。ゆえに五戒、八斎戒、菩薩戒はすべて受持すべきであり、心が世俗の法から少しでも離れて初めて道を証し、聖人の列に入ることができる。

二、参禅の前に十分な福徳を積む

仏教修行では参禅による悟りを急いではならない。多くの基礎的なもの、資糧道の糧がまだ備わっておらず、菩薩の六波羅蜜が修められていないなら、しばらく参禅すべきではない。参じても意識心が推測や憶測を巡らすだけで、参究し通すことはできない。仏教初心者は福徳の修行に重点を置き、福を多く修め、戒定慧が円満になってから参禅すべきである。そうすれば参じればすぐに成功し、悟りを得やすい。もし福徳が具足していなければ、修めているうちに落伍し、様々な業障に阻まれ、退転するか足踏みするかのどちらかである。

頭脳明晰な若者がいるが、福を修めない。どんなに聡明でも向上せず、道心を退失させる者は大勢いる。逆に、ある高齢者は自分の余命が短いと感じ、寿命が長くないと悟り、修行に非常に精進し、積極的に布施して福徳を積む。たとえ鈍く記憶力が悪くても、修行についていくことができ、智慧も増長していく。私たちは福を修めることを軽視してはならない。福を修めることは重要ではなく思えるかもしれないが、実は非常に重要であり、修行の第一関門である。福徳が十分にあれば、怨親債主もあなたに手出しできず、全く妨げられず、業障に阻まれにくくなる。

福徳を積むことは容易ではない。私たちは多生多劫にわたり心の慣性勢力が大きく、貪欲で吝嗇な心理作用が強いため、自分の財産を布施するのが惜しい。普段は福徳を無駄に消耗しないよう注意し、あるいは消耗を少なくし、世俗の生活では享受を減らすべきである。さらに福徳を損なわないよう注意し、できるだけ多く他人のために尽くし、他人に自分のために尽くさせないようにすべきである。多く他人を恭敬し、軽蔑せず、人に対して優位に立とうとせず、他人の恭敬やお世辞を求めず、人には柔らかい言葉、和やかな言葉を多くかけ、人に尽くして見返りを求めないなどである。特に父母や師匠を怒らせたり悩ませたりせず、父母や師匠に余計な心配をかけさせず、できるだけ父母や師匠に孝行することである。そうすれば福を得るのが多く早い。

福を修め福を得る最も大きく最も早い方法は仏供養である。毎日仏供養を堅持すべきである。すべての精進料理、生でも調理済みでも、仏に供えることができる。新しい衣類や布団も仏に供えられ、様々な野菜果物、油・米・麺類も仏に供えることができる。礼仏も福徳を積む良い方法であり、経典を読み座禅で定を修めることも福を修めることである。あらゆる面の福を、私たちは修め積むべきである。布施の福を修めること、財物の布施、衆生を助ける無畏施。法施は、まだ何の仏法の証量もない時は、仏典を選び、人に仏典を紹介し、インターネットで仏典を発信するか、正しく有益な仏法と確信できるものはすべてインターネットに掲載し、他の人に宣伝する。道友を正法の学習に紹介でき、もし他人が利益を得れば、自分の福徳が増す。他人があなたのおかげで法益を得れば、自分は福が増す。逆に、他人が法を聞くのを妨げれば、自分の福徳を損ない、未来世に悪果報がある。

三、先に我見を断ってから参禅するのが最も省力

如来蔵を参究するには、定力を十分に修めてから参じるのが最善である。そうすれば五陰の様々な活動に対して疑情が生じやすくなる。定力が不足していると、五陰の虚妄性が観行し通せず、我見が断たれず、如来蔵の体性が思惟しきれず、疑情が生じにくい。重要な点は五陰虚妄の理が徹底せず、心が五陰のすべての活動を否定していないと、五陰の様々な活動が当然存在すべきもの、自然にあるものだと思い込み、そうなると五陰の動力源を疑うこともなく、五陰がどのように現れるかを観行することもなく、五陰と同時に存在する如来蔵を参究し探し求めることもできなくなる。小乗の基礎がしっかりしていれば、我見を断ち、わざわざ疑情を起こさずとも、制心一処の定力があれば、疑情が自然に生じ、それから如来蔵を参究するのは容易に手に馴染み、契入しやすくなる。

我見を断つ時は、行住坐臥および談話笑いの中の自らの五陰全体の虚妄性を観察し、色身の虚妄性および意識心の虚妄性を観察する。知見上、理論上では身体は私ではなく、六識と作主識も私ではなく、私は形も相もないと知ってはいても、意根はまだ認めておらず、意識心は自らが虚妄であると知っていても実際の作用はなく、主導するのは依然として意根であり、身口意行の造作は意根が決定する。意根は真理を知らず、内心では依然として意識を私とし、五識と意識の微細な機能作用を真実不滅と認め、自らの作主性を真実不滅と認める。こうなると参禅は大変な手間となる。

真に我見を断つには、深く禅定に入り、細やかに思惟し、繰り返し意根を薫習させ、意根に五陰の自分が確かに虚妄で不実であることを了知させねばならない。因縁が熟した時、意根は五陰の機能作用が真実ではなく私ではないと認め、その時内心に大きな変化が起こる。その後で参禅して真心如来蔵を探し求めれば、証悟は比較的容易になる。

先に我見を断ってから参禅すれば、参じるのは比較的楽になる。五陰が完全に死んで初めて疑情が生じ、疑情を抱いて参禅すれば、証悟は速い。定力が不足していれば疑情は生じず、慧力が不足しても疑情は生じない。常に自らの努力の方向が正しいか、方法が適切か、六波羅蜜の条件に何が不足しているかを点検し、それから菩薩の六波羅蜜を円満にする方法を考え、将来必ず真の大乗菩薩となるべきである。

普段から自らの菩薩六波羅蜜の条件がどれだけ具足しているか、何が不足しているかを点検し、不足している条件は努力して補い、これらの条件をできるだけ完成させるべきである。また自らの心性と願力、心量がどれだけ拡大したか、眼界がどれだけ広がったかを点検する。私たちが修めるべき内容は実に多く、それぞれの内容を着実に一歩一歩実際に修持しなければならない。そうすれば知らず知らずのうちに層層増進し、大乗の真実義の菩薩となることができる。衆生を悲憫できる者は必ず真の菩薩であり、真の菩薩は必ず実義菩薩である。ゆえに菩薩の標識をまとめれば、慈悲喜捨であり、これが菩薩の最も根本的な基準である。

四、我見を断って初めて如来蔵に触証できる

如来蔵に触証する前に、まず暖・頂・忍・世第一法が現れる。暖頂忍世第一法とは、如来蔵を参究するか、あるいは阿含経の五陰無我の理を修学し、内心で徐々に五陰を我と否定し、智慧が徐々に清明になり、徐々に明らかになり、最後に完全に五陰は我ならず我に異ならずと認め、我見を断除し、世間の凡夫を超越し、世間第一の人となることを指す。五陰を完全に否定した後にのみ、七識を我と否定した後にのみ、六根六塵六識を否定した後にのみ、真実の我を証得し、悟りによって心を明らかにすることができる。かつて禅宗の祖師は「五陰を打ち殺せば汝に法身を活かすことを許す」と言った。これも同じ意味である。先に五陰の真実性を否定し、五陰を我とする我見を断って初めて、清浄で真実の法身が生き生きと心中に顕現し、即座にこれが自性であり、これが如来蔵であり、これが法身であると確認する。一死一活の後、成仏の基礎が築かれる。

両者の間は極めて短い時間内に、あるいは五陰を否定した瞬間に如来蔵を見つけることもあるかもしれないが、それも我見を断った後のことである。一般に人は明心の時あるいは後に我見を断つと言うが、実際には五陰と七識を否定しなければ如来蔵を証得できない。なぜなら五陰七識の霧が如来蔵の顕現を遮り、魚目混珠で一時的に真偽を弁別できないからである。一旦我見を断ち、偽を否定すれば、真が躍り出て、如来蔵を証悟する。もし偽の五陰を否定しなければ、智慧の眼が現れず、如来蔵を識別できず、引き続き参究し、我見を断除してからでなければ、五陰十八界に属さない如来蔵を見つけることができる。おそらくこれは一瞬のことである。

五、「桶底脱落」の前提条件

かつての参禅者は、第八識を見つけて悟道した時、桶底脱落と言った。桶とは何か。楞厳経で仏は人の身体を肉桶に喩え、形が桶のようだと説かれた。衆生はこの肉桶を自分自身とし、真実に存在して滅しない我とする。参禅者が第八識を悟った時、第八識が真実であり永遠に消えず真の自分であり、五蘊身は第八識が顕現させた仮の殻に過ぎず真実ではなく我ではないが、第八識という我に異ならないと知る。こうして彼は五蘊を我と認めず、五蘊身という肉桶を否定し、五蘊の重荷を下ろす。この時心身ともに空となり、軽安無比となる。これを桶底脱落と喩える。

桶底脱落の前提条件は:戒定慧が具足し、福徳が具足し、菩薩の六波羅蜜も修め終え、入道の資糧もすでに具足し、時節因縁が熟した時に初めて桶底脱落できる。この時同時に小乗の初果を証得し、三縛結を断ち、永遠に三悪道に堕ちない。小乗初果は五蘊十八界が苦空無常無我であることを証得するが、第八識を悟った時も五蘊十八界が我ではなく虚妄・空幻・不実であると知る。ゆえに大乗果を証得すると同時に小乗果も証得するが、小乗果を証得しても必ずしも大乗果を証得できるわけではない。これが大乗仏法が小乗仏法を含む道理である。

六、六波羅蜜を満足して念仏する時に初めて証悟できる

念仏の心には二種類ある。一つは真心、もう一つは妄心。二者が和合して一緒に作用して初めて私たちは念仏できる。念仏というこの法の中に、私たちは真心第八識を見つけて明心開悟し、般若智慧を得ることができる。もし妄心を見つけたなら、それは錯悟であり、大多数の人は妄心を真心と錯認する。福徳・禅定・智慧の資糧が不足しているため、真心を見つけることは不可能で、妄を真と認めるしかない。

現前の一瞬の念の中にも、真心と妄心が一緒に和合して作用している。五陰のいかなる法の中にも、真妄が和合して一緒に作用している。例えば眼が色を見、耳が声を聞き、鼻が香を嗅ぎ、舌が味を嘗め、身が触を覚え、意が法を思う。六根の門ではすべて真妄が和合して一緒に作用し、真もあれば妄もある。大多数の人はただ妄心を認めるだけで、まだ真心を認識できない。なぜなら妄心は見つけやすく、多くの福徳・禅定・智慧を必要とせず、あまり修行しなくても知ることができるからである。ゆえに錯悟の人は山野に満ち、真悟の人は極めて少ない。

念仏する時は八つの識が和合して作用し、七つの妄心と一つの真心である。菩薩の六波羅蜜の条件が満たされていないと、念仏する時の妄心を真心として担ってしまう。その結果はどうなるか。いかなる人もいかなる法門を修めても、仏が説かれた証悟の法門から離れることはできない。いかに修行しても、証悟しようとすれば、必ず菩薩の六波羅蜜の条件を満たさねばならない。この六度は誰も越えられない。たとえ極楽世界に往生した後、花開見仏して無生を悟る時も、この六度を満たさねばならず、そうでなければ花は開かず、仏を見て法を聞き無生を悟ることはできない。十方世界の仏法は皆同じであり、ある条件に達すればある果位であり、達しなければある果位の菩薩ではない。

仏教徒の仏法の真実義に対する理解は、どれほどが無自覚であり、どれほどが誤った認識や誤解か。現在の衆生の仏法に対する認知度からすれば、たとえ過去世に真の祖師が再来し、真実の仏法道理を開示しても、衆生に信受されるのは難しい。衆生が過去の祖師大徳の説法を認めるのは、彼らがすでに名声と地位を持っているからであり、衆生自身が祖師大徳たちの説く法を真に理解しているからではない。もし彼らが今再来して名声がなければ、やはり否定され散々である。

衆生は名声の大小しか認めず、真の仏法を理解しない。これが今や普遍的な現象である。もし真に祖師大徳の仏法を信受するなら、衆生はとっくに今の様子ではない。祖師大徳の書籍を捧げて読んでも、いったいどれだけ真実の義理を理解しているのか。真に理解した時は、悟りに近づいている。理解しないのは、依然として盲信・信仰・崇信の段階にあり、正信ではない。正信の程度まで修めるのは非常に容易ではない。

七、参禅に必要ないくつかの条件

いわゆる参禅とは、観行思惟によって如来蔵を参究し、真如仏性を証得することである。参禅は人を探す道理と同じである。人を見つけようとすれば、まずその人を知っているか、あるいはその人の写真を持ち、心にその人の姿を知って初めて見つけられる可能性がある。次にどこを探すかを知らねばならない。もし目的もなく盲目的に探せば、大海で針を探すようなもので、希望は確かにかすかである。またその人が現れそうな場所をすべて把握し、どこに人が隠れられるか、どこに隠し通路や仕掛けがあるかを知らねばならない。第三に、適切な交通手段、時間、旅費が必要である。さらにその人を見分ける眼力がなければ、たとえ向かい合って出会っても見分けられない。最も良く最も確実なのは、その人に会ったことがあり、その場所を知っている人に道案内してもらうことである。これが最も早い道である。ゆえに一人の人を見つけるのも容易ではない。ましてや私たちが無始劫以来ずっと認識も了知もしなかった真如仏性は、なおさら難中の難である。

ゆえに参禅は基礎を固め、必要な条件をすべて備えるべきである。基礎を固めるとは菩薩の六波羅蜜を修行することであり、一度でも欠ければ証悟できず、参禅も力が入らない。人を探す方法と比べると、参禅で真如心如来蔵を探すにもいくつかの段階が必要である。

まず如来蔵の体性を理解しなければならない。大般若経や心経、金剛経などを薫修し、正知見を備えてから初めて如来蔵を探し求め始められる。

次に、如来蔵がどこに現れるかを知らねばならない。般若を学び、如来蔵が五陰の様々な活動の中に現れ、六根が六塵に触れる中に現れることを明らかにする。いわゆる生縁処々、処々生縁である。妄法が現れる所には必ず如来蔵が顕現し、一つの法の出生はすべて真妄和合である。真妄和合の所は重要な観察点であり、この知見は必ず備えなければならず、非常に重要である。

さらに、如来蔵が五陰の活動の中に現れる以上、五陰の体性もすべて理解しなければならない。七つの識に色身が加わって五陰となる。ゆえに七つの識が鍵であり、七つの識の体性も理解しなければならない。そうすれば真法が明らかになり、妄法も明らかになり、真妄が和合する時、様々な五陰の妄法の中から真法を見つけられる。

これらはすべて正知見である。正知見があっても、福徳も必要であり、相応の定力で参究しなければならない。最も重要なのは、善知識の導きと助けである。そうすれば無駄な道を歩まず、盲目に工夫を重ねることもない。定力を具足させようとすれば、持戒と忍辱が前提であり、さらに精進修持の心も備えねばならない。これらが菩薩の六波羅蜜のおおよその内容と条件である。具体的な内容は自ら細心に経典を参照し、細心に体会し、具体的に実践しなければならない。最後に時節因縁が具足する時を待って初めて、第八識如来蔵を見つけ、明心悟道できる。ゆえに菩薩となる条件を満たすことが、私たちが現在努力すべき方向であり、修行の着手点である。修行は性急に進めてはならず、一歩一歩着実に、一段階ずつ進むべきである。脚力が不足すれば走れず、急功近利の思想は克服せねばならない。

八、菩薩の条件を具足して初めて証悟できる

看話頭を参究し通せば明心開悟し、般若大智慧を得て、真の実質的な菩薩証量を持つ菩薩となる。そして般若大智慧を得ることは、菩薩の六波羅蜜を修行した結果である。ゆえに看話頭の前には必ず菩薩の六波羅蜜を修行し、菩薩の六波羅蜜を具足しなければならない。もし戒律を受持せず、布施を修行せず、菩薩の福徳が具足せず、修行の精進度が不足し、世俗の境界に対する忍辱度が不足し、如来蔵の法に対する認可度が足りず、禅定も修持されず、如来蔵般若の理も十分に理解していなければ、看話頭は苦悩の種であり、一生参究しても依然として無駄骨である。

真の菩薩となる前に、自らの心行・心性・心量が菩薩に相応するか、菩薩の大業を担えるかを点検する。禅定が不足していれば、いわゆる看話頭もただ言葉を繰り返すだけであり、心は一つの言葉の前に留まらず、言葉の中や末尾で堂々巡りする。このような修行に何の意味があるのか。仏教徒の修学がすべて個人的なもので、一種の利己的な心理を抱き、少しも他人を利する心がなければ、利己的で狭量な心は菩薩の心性と決して相応せず、菩薩が備えるべき福徳を集めることができず、真の意味での菩薩にはなれない。

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