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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 21:50:48

第十一章  観行に関する質疑応答

第一節  如何に観行を実修するか

一、問:如何に実修するのか。実修とは、常に自らを観照することなのか。

答:修行の目的は生死を解脱し、輪廻の問題を解決し、最終的に仏道を成就することである。この目的を達成するには、仏の教えに従って修学の方法を実践し、努力して実行し、その後、仏の説かれた法を証得して解脱を得、不滅の真我である如来蔵を証得しなければならない。それによって生死の大事を解決するのである。仏は如何にして我々に修行を教えられたのか。仏が在世の時に説かれた法は、一つは五陰を解脱させる四聖諦の法と十二因縁の法、もう一つは般若実相の法である。

我々はこれらの理論内容を理解し、その後、これらの道理に従って一つ一つ実際に観行し思惟する。思惟が通達した後、初めて仏が指し示す様々な結論を証得できる:一つは五陰無我、もう一つは真我実相の般若である。このような結果に至るには、修行を通じて相応の条件を満たさなければ証得できず、それによって解脱を得る。これらの条件とは布施、持戒、忍辱、精進、禅定、般若という菩薩の六波羅蜜であり、総じて戒定慧である。

八識の法義は必ず学ばねばならず、参禅の方法は掌握して使いこなせなければならず、禅定は必ず修め、福德は必ず具足せねばならない。要約すれば菩薩の六波羅蜜の条件をすべて満たす必要がある。福德が十分で、禅定も十分になった時、般若の正理がある程度明らかになり、その時初めて参禅し、話頭を参じ、公案を参じて、如何に第八識を尋ね求めるかを知ることができる。因縁が具足すれば、第八識を証得し、それによって明心開悟するのである。証悟した後、大智慧を得て、次第に心が解脱し、般若智、別相智、道種智、一切種智を具足し、最終的に仏果を円満するのである。

二、問:話頭を見る時は、精神を内に収斂し、内に向かって収摂するのか。

答:注意力を話頭に集中すべきで、他のことに気を取られてはならない。話頭が脳中にあるなら、注意力を脳中に集中する。頭部が張るなら、別の場所に置く。時々話頭が外の音声に付いて流れていくなら、そっと引き戻し、音声に従って流れ去ってはならない。これが精神を内に収斂し、内に向かって収摂することである。

話頭を見る時は、意識が清明である限り絶え間なく見続け、あらゆる時中で話頭を見守る。そうすれば念々が一つにまとまり、功夫は自然に熟練して力が生じ、疑情が生じやすくなる。疑情が生じた後、話頭を参じる段階に移り、自性如来蔵を参究する心を起こす。因縁が具足すれば悟道できるのである。

三、問:毎日自らを観照し、妄念が起きてもそれに従わず、次第に力がついてきた。無観無照こそが真の観照なのか。

答:これは一面的な修定の方法であり、参禅の方法ではない。参禅とは、心の中に話頭と疑情を持たねばならず、心の中に話頭の念があるのであって、無念ではない。無念は死水のようなもので、生命力がなく、真心如来蔵を証得できない。なぜなら、そこには尋ね求める心がなく、探究する心がないからであり、真理を発見できない。故に明心を望むなら、無念の定を求めてはならず、心の中に参禅の念を持つべきで、空に落ちてはならない。

四、問:観行とは、如来蔵が如何に身体を生じさせ、如何に七識に随順するかを観察することなのか。

答:これらはすべて、如来蔵を証得した時に観察するものであり、あるいは悟後長い期間をかけて行う観察である。悟前はまだ如来蔵を見つけていないため、現量でそれを観察することはできず、推測に過ぎない。推測分析の要素が多く、結果は真実の如くならず、往々にして正しい結論を得られない。推測分析で出した結論は、自分自身で確信を持てず、心が虚ろで、心が落ち着かず、足が地に着かず、ある真理を確信を持って証得できず、大智慧の生起を阻害し、後の観察智が生じにくい。

観行は虚妄の法に対する思惟と、真実の法である如来蔵に対する参究に分けられる。如来蔵に対する参究は、五陰身の運行の上で如来蔵が何処に現起するかを参究し、それを見つけた後で初めて、それが如何なる作用を起すか、如何に五陰身と七識を生じるか、如何に七識に随順して万法を生じるかを観察するのである。

五、問:時々動中の定が清清しく静かで、心の感覚はまるで大きな空白の幕のようであり、見聞覚知は幕の上に現れる映像のようなものだ。ただし空白の幕と映像はどちらも意識の境界である。例えば、まるである人が空白の幕の上にさらさらと一筆一筆落書きを描いているように、清静で自在である。この感覚は主に耳根や眼根から生じる根識と意識にあり、自分は虚無の意識の流れか肉体のように感じられ、家族や親人を見ると見知らぬ感覚があり、存在する世間も見知らぬものに感じられ、自分が世間に属していないような感覚があり、出離したい感覚がある。心は清静だが虚ろで、出離したい感覚がある。この感覚はどういうことなのか。

答:この感覚は禅定の中での観行の感悟である。禅定の中では五陰世間を非常に客観的に観察でき、世間の煩悩や情緒を降伏させ、世間への情執を減らし、親人への貪愛を軽減し、心が清浄になる。禅定が比較的深くなると、心は非常に清浄になり、思惟観行は深く細かくなり、法に対する認知は明晰で深くなり、理解が適切になる。故にあらゆる法の証得は必ず心に雑念がなく、専心一意の状態で感知され証得されるものであり、意根が自ら証明したものである。意根が自ら世事の虚妄無常を感知し証明した時、初めて真の出離心を発起し、虚妄の世事を追求せず、転じて無上の仏道を求めるのである。

六、問:私は普段歩いている時、自分の「受」に意を用いて訓練し、境に対して何の罣碍(けがい)も起さず、念が「想」の段階に入ることを許さない。これは着力が内相分にあるのか、それとも外相分にあるのか。このように念を「受」の段階に制御し、「想」に入らせないのは、将来、我執を破る上で受用となるのか、それとも法執を破る上で受用となるのか。

答:ここの受と想は主に六識の受想を指す。六識が対応了別するのはすべて内六塵である。我々が対治すべきは自らの内心であり、内外相分の区別は問題ではない。外相分には我々は接触できず、多くの人は内外相分の区別を知らない。実際に我々が接触する一切の法は内相分である。

心を受の段階に制御する。この受は、最初は塵境を受け入れる領受領納であり、その後が苦楽憂喜捨の感受である。もし感受であれば、想(了別)の後に現れる。阿羅漢は一般に受を最初の接受領納の段階に留め、それ以上に了別し執取しない。そうすれば次の感受がなく、心の苦受や楽受もなくなる。これが修行であり、貪愛を滅し、苦を滅することができる。これは我執、自我への貪着を破る上で非常に有益であり、同時に次第に法執を破り、一切の法への執着を減らす。このような修行は非常に得策である。

このような修行は同時に修定の方法でもある。定があれば煩悩を圧伏または降伏できることを証明する。定がなければ、心はさらに分別執取を続け、その後苦楽受を生じ、さらに貪取や厭棄が生じ、業行が現れる。業行が現れれば業種が生じ、将来業報が生じ、生死を了脱できず、三界を出離できない。阿羅漢たちは皆これを理解しているため、彼らは六塵境界を了別せず、六塵への覚受を可能な限り減らし軽減し、心を清浄無染にし、三界の生死の束縛を受けず、生死輪廻の苦から出離するのである。菩薩の修行は、弘法衆生を度するため、常に生心動念する必要があるため、修定はやや困難である。しかし菩薩は六塵境界がすべて自心の現れであり、唯識所変であることを知っているため、境界が自分を纏縛することを恐れない。

時間がある時は、少し身心を収摂し、自心と六塵境界を反観すれば、定力が現前し、一切の法に惑わされず、臨終にも顛倒しない。これは大福徳大智慧によって支えられる故である。この修定の方法は、我執を断つにも、法執を断つにも有益である。いわゆる執着とは、すべて意根が五陰世間を執取することを指す。禅定の状態では、意根は攀縁執取が少なくなり、六識は了別せず、あるいは了別が少なくなり、六識は造作せず、あるいは造作が少なくなり、そうして初めて意根と意識を降伏させることができる。

七、問:意識が次第に熏習されると、意根は将来、我及び我の所有がなく、全体が第八識であることを認めるようになるのか。七識が存在すれば万法が生じ、七識がなければ無余涅槃である。意根が何処に行っても、第八識はその場所で万法を生じる。このようなことなのか。

答:意識が絶えず法を学び、意根を熏習し続けると、意根は思量を起こし、日夜参究し、ある日無我と無我所の道理を知り、我見を断ずることができる。しかし禅定がなければ意根を熏習できず、意根はよく思量できず、意識の思惟も浅く、実証できない。世間の全体がすべて第八識であることを証得するのは、地上の菩薩の唯識種智の智慧の境界である。開悟したばかりの者はこのような甚深な智慧を持つことはできず、観行してもこのような結果は出せず、想像するだけである。七識が存在すれば万法があり、七識の存在がなければ無余涅槃の境界である。意根は万法を生じる動力であり、意根が何に攀縁すれば、第八識はそれに合わせて何の法を変現する。第八識が何を見るかによって、第七識もそれに従って何を見る。このように絶えず観行を続ければ、意根は十八界の虚妄を認めるようになる。

第二節  如何に第八識を証得するか

一、問:もし常に第八識に依止し、第八識に転依すれば、時間が経てば意根は受け入れるようになるのか。

答:第八識を証得した後でなければ、第八識に依止し、第八識に転依することはできない。まだ第八識を証得していなければ、真に依止することはできず、頼ることもできず、ましてや真に転依することはできない。これは単なる相似法に過ぎない。しかしこれにも作用はあり、我見を断つのはやや早くなり、心は清静になる。しかし真の智慧を生じさせるには、必ず定の中で自ら実際に観行し、真に証悟しなければ問題を解決できない。画餅では飢えを癒せない。第八識の証悟は、意根が自ら思量参究して証得するものであり、親証という。禅定がなければ、意識の思惟は意根に熏染できず、意識の浅い念では意根が真に受け入れることはない。必ず禅定の中で意根に参究に参与させて初めて親証でき、その後次第に第八識の清浄性に転依するようになる。転依とは意根が指揮して出す身口意行である。意根が証得しなければ転依できず、身口意行は依然として元のままで、変化はない。

二、問:私は普段、五蘊と周囲の一切を第八識の中に置いている。このようにすれば次第に五蘊を空と見て、第八識を見つけられるのか。

答:五蘊と周囲の一切は本来、第八識を離れずに存在しており、第八識の外には出ていない。わざわざ第八識の中に置く必要はなく、その必要はない。さらに、第八識を見つけていない時に、どうして第八識の中に置くと言えるのか。想像された第八識は修行の益が大きくない。仏法を学ぶ際には、あまりにも仏法を解釈しすぎないようにし、実証には大きな障害となる。正しい修行方法は、できるだけ早く禅定を修め、定の中で参究観行し、意根を動かすべきであって、意識の推理分析や想像だけに頼るべきではない。定の中で意識が深く細かく思惟観察し、これらの法がすべて生滅無常で変異するものであり、我でも我の所有でもないことを知り、意根を導いて参究する。証得すれば五蘊を空と見ることができ、その後参禅を通じて第八識を見つけ証得するのである。

第八識を証得した後、再び現観して第八識が如何に五蘊を生じるかを知れば、五蘊が確かに空であり、生滅し、無我であることを知り、五蘊がすべて第八識によって生じたものであることを照見する。これが『般若心経』で説かれる、五蘊皆空の真理を照見するということである。第八識を見つけるには、定の中で参禅参究する方法によって初めて第八識を証得できる。

三、問:第八識を証得するために、まず五陰十二処十八界をすべて空と見て、我ではないと否定し、私が現れるのを待つ。これで良いのか。

答:第八識の我は待って現れるものではなく、参究して現れるものである。修行は受動的に待つことではなく、積極的に悟りの条件を円満にし、積極的に参禅して初めて開悟明心できる。参禅、話頭参、公案参を通じてあの真我第八識を見つけるのであり、五陰十八界を観透するだけでは不十分であり、我見を断つだけでは不十分である。我見を断った後も参禅を続け、参究して現れれば明心見性できる。実は第八識は常に現れているが、我々には定慧がなくてそれを見つけられないだけである。定慧がある時は、積極的にそれを尋ね求めなければならず、待っていても来ない。

四、問:如来蔵と妄念が不二であると確定し、一切の一切が如来蔵を離れず、すべて如来蔵の妙用であることを非常に確信し、もはや疑いを持たない。これは明心見性と言えるのか。

答:これらの内容はすべて悟前の推理、推測、想像であり、少しの証拠もない。どうして疑いを断てるのか。仏経や他人の理論を手に取り、自分で思惟理解したものを自分の見解や見解と見なすのは、親証とは大きな隔たりがあり、何の関係も参究もない。理論は所詮理論であり、知見は所詮知見であり、結局は自分の真実の智慧ではなく、明心見性とは程遠い。今多くの人は自分で考えただけで高い証量があると思っているが、実は理解すら適切にできていない。

明心見性を望むなら、具体的に妄念と如来蔵が如何に不二であるかを証得し、現前に如来蔵が運作の中で如何に妙用を起すかを観察でき、如来蔵が如何に五陰の運行に配合するか、それが何処で作用するかを知らなければならない。これらはすべて参禅によって初めて知ることができ、知った時が明心である。明心した後、初めてどれが如来蔵かを知り、その後現前にそれを観察し、より多くの体性を理解し、より多くの智慧を得ることができる。如来蔵が一切の法に作用することを知るのは明心見性に属さない。これは理論知見であり、書物に非常に明らかに書かれており、我々は熏習を経て初めて知るものであり、これは証悟ではない。

五、問:我々が一つの念が次々と続く時、これらの妄想の念は七識が作用している。如何にして第八識如来蔵の存在を感じることができるのか。念と念の間の短い隙間が無念であり、無念の時が八識のものである。修定の訓練を受けていないと、念は絶え間なく遷流する。修定の練習によって念を遅くし、次第に遅くして無念に至れば、第八識が現れるのか。

答:無念の時は第八識だけではなく、七つの識、第六識もある。なぜなら一切の法はすべて第八識によって生じ現れているからである。妄想を打つ時もそうであり、妄想を打たない無念の状態もそうであり、第八識によって生じ現れている。第八識は至る所にあり、常に存在している。第七識も常に至る所に存在しており、そうでなければ色陰、受陰、想陰、識陰、行陰はなく、無念の時こそ五陰がすべて存在するため、意根である第七識が存在する。同時に第六識も存在し運行しており、色身に受覚があり、了別性があり、知性があり、自分が無念であることを知るのは第六識の知性の作用である。もし色を見、声を聞き、香を嗅ぐなどの機能作用があれば、五識も存在し運行しており、八つの識がすべて存在する。

故に、念の間に念がない時だけ第八識が現れるのではなく、第八識は常に至る所に存在している。この状態に修めたからといって第八識であり開悟したとも言えない。中間に念がないというのは主に意識心を指し、念を離れた意識心であり、意識が時折念や妄想のない境界に属する。無念であり、念のないものが第八識だとは言えない。ここにはやはり八つの識、少なくとも三つの識がある。

理論がまだ通達せず、禅定がまだ深くなく、六波羅蜜がまだ不足している時は、いつも如来蔵が何処で何の作用をしているか考えてはならない。推測や推理、想像は真の修行を遅らせ、道業を阻害し、智慧の生起を妨げる。厳格に修行の次第に従い、菩薩の六波羅蜜を次第に完成させ、持戒すべき時は持戒し、禅定を修めるべき時は修定し、理論を完成させるべき時は完成させる。各方面の条件がほぼ整ったら、初めて定の中で参禅を始める。禅定がない時は最終的な結果を考えてはならない。

六、問:妄想の念を通じて、第八識が作用していることを知るだけで、第八識が如何に作用するかを明らかに知り、それを現出させることができるか。

答:第八識の作用を明らかに知りたければ、菩薩の六波羅蜜をすべて修め、条件を具足させ、参禅の方法で明心し、第八識を証得して初めて、第八識が如何に起用するかを知ることができる。実は第八識は常に現れていて、一度も途切れたことはなく、隠れたこともない。ただ無明に覆われているために証得できないだけである。我々は今、菩薩となる条件を努力して整え、福徳と定慧を多く積み重ねれば、第八識を証得できる。いつも推測したりあちこちで第八識を聞いたりしてはならない。それは修行に害こそあれ益はなく、知ることは証得に及ばない。知れば知るほど証得しにくくなり、偷心が死なず、智慧は生じない。

七、問:死屍を引きずるのは妙明真心如来蔵なのか。如来蔵は自ら悟り証得するしかないのか。

答:死屍を引きずるのは妙明真心如来蔵である。これは結論であり、我々は参禅してこの結論の正しさを証明しなければならない。その後、妙明真心如来蔵が如何に死屍を引きずり、如何に作用し、如何に五陰万法を生じ、如何に七識の運作に配合するかを知る。六祖が開悟した時に言った五つの何期自性に合致しなければならない。修行とは実証を通じてこれらの理論の正しさを証明することであり、そうして我々は其の然る所以を知る証悟の菩薩となるのである。

如来蔵の証悟は自らが苦労して参禅した結果であり、他人から直接答えを見つけることはできない。なぜなら答えを知っても何の功徳も受用がないからである。参究と証明の過程こそが智慧を増長する鍵であり、身心世界の転換が起こる。故に他人に結果を求めてはならず、必ず自らが千辛万苦して参禅参究し、果実を収穫し、如来蔵が何処にあり、何の作用を起しているかを参究しなければならない。そうして初めて大智慧が生じ、解脱の功徳受用がある。意識が賢ければ賢いほど理解しやすくなるが、証得しにくくなる。賢さはかえって賢さの誤りとなる。賢さは永遠に智慧に及ばない。

八、問:我見が徹底的に断たれた後、如来蔵は自ら現れ出るのか。

答:これは偷心が死んでいない考え方であり、近道をして努力と代償を払いたくないという考え方は決して持ってはならない。得をしたところが失いの場である。一しおの寒さに骨の髄まで徹しなければ、梅花の香りは鼻を打たない。

如来蔵は本来明るく存在し運行しているが、ただ無明の覆いによって証得できないだけである。最も深刻な覆いは五陰十八界を真実の我と見なすことである。この我見が真実の如来蔵を隠し覆う。我見が徹底的に断たれると、大疑情が生じやすくなり、疑うようになる:五陰の我が虚妄であるなら、なぜ五陰の作用があるのか。参究を通じて五陰の背後にある主宰者である真心如来蔵を見つけ、様々な意識境界を如来蔵として悟ることはなくなり、悟りを誤りにくくなる。

我見を断つには、日常の活動の中で五陰の虚妄を認め、六識の虚妄を認め、十八界の虚妄を認めなければならない。五陰十八界の虚妄の法の中の様々な我、様々な六識がすべて虚妄であり、真実の我ではないことを認める。意識はできれば身心の外に跳び出て身心の虚妄を観察するのが良い。これには内心に高度な警戒心が必要であり、自心を反観する能力が強ければ強いほど、我見を断ちやすい。

第三節  第八識の理体に対する認知

一、問:第八識は常に見ているのか。意根の見は一点一点であり、これらの点が識であり、第八識が流注する種子によって形成された識なのか。

答:無余涅槃の中以外では、第八識には見性がある。意根は第八識に随って見、六識に随って見る。しかし三つの識の見には差がある。いわゆる点々とは刹那刹那の生滅変異であり、識の種子は電子のように一つ一つ絶えず流注し、意根に識別性がある。種子の流注が滅すれば、識もそれに従って滅し、そうすれば何も知らなくなる。識の種子は第八識が流注したものである。

二、問:七転識は身体の内側にもなく、身体の外側にもない。如来蔵は形も相もなく、至る所に存在し、恒常不変で、万法を生じることができる。故に法が現れる所には、識がその所で了別する。これが種子の流注なのか。

答:七つの識自体も形も相もない。故に七識が身体の内外にあるとも言えない。『楞厳経』の第一巻にこの問題は説かれている。如来蔵は六根の処で内六塵を変現し、他の処所にはない。なぜなら他の処所で内六塵を変現できないからである。故に六根が六塵に触れることが鍵となる。根塵識の三者和合触、ここに十八界がすべて揃い、五陰の機能もある。これ以外に六塵を変現できる処所はない。法が現れる所には如来蔵があり、第七識があるが、必ずしも六識があるとは限らない。七識が何処に現れ、何処で了別すれば、如来蔵はその所で識の種子を送り、七識の運行に配合し、五陰が正常に運行するようにする。

三、問:如来蔵は体であり、妄法は用である。如来蔵は法界に遍満し、妄法はそれに依って一切の相がある。一切の相を離れれば如来蔵の妙用は現れない。故に一切の妄法もまた真空から生じた妙有であり、如来蔵が如如不動であることを知り、相は如来蔵が変じたものである。このようなことなのか。

答:この知見は良く、理論は良いが、さらに参禅して如来蔵の体、相、用を証悟する必要がある。如来蔵の本体は形も相もないが、如来蔵が生じた一切の法はすべて如来蔵の相と用である。如来蔵の用にはさらに七大種子、業種、如来蔵の心所法が含まれる。定力を修めてから、話頭を参じ、死屍を引きずるのは誰かと参じ、因縁が具足すればなぜそうなのかを悟明できる。如来蔵は虚空に遍満するわけではない。なぜなら如来蔵は色法ではなく、虚空中に存在できないからである。虚空中に如来蔵があれば、それは虚空ではない。逆に、虚空は如来蔵の中にあり、如来蔵の中の非常に微細な色辺の色法である。

四、問:それぞれの人が如来蔵を持っている。人と人との間の如来蔵は互いに相容れ、互いに重なり合うのか。

答:衆生の間の如来蔵は互いに相容れるが、互いに重なり合うわけではない。如来蔵には形も相もないため、重なり合うことはできず、形や相のある法でなければ重なり合うかどうかを論じられる。しかし衆生の如来蔵の間には相互に緊密な配合関係があり、共同で衆生の生存環境を生成し、現れ、執持する。如来蔵の間には相互に連絡があり、連絡方法は独特で、範囲は非常に広い。道種智を得てから初めて、その中の秘密を少しずつ掘り起こすことができる。

五、問:衆生の如来蔵は、多くの電球が集まっているようで、光と光が互いに融け合って妨げない。二人が握手する時、如来蔵は融合し、握手しない時は如来蔵は分かれるのか。

答:我々が最も重要に知るべき点は、如来蔵は形も相もなく、相や形のある五陰身や物質色法のように重なり合ったり、触れ合ったり、和合したりできないことである。如来蔵と如来蔵は決して融合しない。如来蔵は灯に喩えられ、その発する灯光は光と光が互いに融け合って妨げない。互いに我々がまだ知り得ない緊密な配合関係があり、互いに各自が持つ業種を知っている。手と手は握れるが、如来蔵の間は融合できない。

六、問:如来蔵は形も相もなく、大きくて知り尽くせず窮め尽くせず、世間の万法はすべてその中にある。それぞれの人にそれぞれの人の世界があり、それぞれの人の世界はそれぞれの人の如来蔵が現しているのか。

答:如来蔵に大小はなく、大きいと言うのは小さいと言うことである。どれほど大きく言っても小さいのであり、大小があると言うのは形や相があることになる。どれほど大きくても小さく、どれほど小さくても大きい。相がなく万相を包羅する法に大小があるはずがない。包羅も物質色法の包羅ではない。

それぞれの人の五蘊世間の一切は、すべて自らの如来蔵が現したものであり、他人の如来蔵とは関係ない。しかし完全に関係がないわけでもない。それぞれの人が接触する一切の六塵境界はすべて自らの如来蔵が変現した内相分であるが、これらの内相分は外相分に基づくものである。外相分はすべて共業の衆生の如来蔵が共同で変現したものであり、それぞれの共業衆生の如来蔵と関係がある。もし他の衆生が大善または大悪であれば、外相分に影響し、それによってそれぞれの人の内相分にも影響する。故に衆生の如来蔵の間には繋がりがある。

七、問:如来蔵の法を学ぶ用途は何か。

答:如来蔵があることを知り、如来蔵を証得して初めて、徹底的に五陰無我を知り、無明を断尽し、生死を了脱し、解脱を得て、生死輪廻の苦から出ることができる。如来蔵があることを知らず証得しなければ、万法を実有と見なし、そうすれば貪愛を取り除けず、無明を取り除けず、徹底的に生死を了脱できず、究竟の解脱を得られない。無明は衆生を執着させ、業を造らせ、苦しみを受ける。如来蔵の法を学べば無明を断尽し、生死を徹底的に解決できる。如来蔵を証得し、世間と出世間の真実相を知れば、大智慧が生じ、この智慧によって仏道を成就し、永遠に生死がなくなる。

八、問:第八識を親証した後、初めて第八識の体性を次第にすべて知り、心行が真に転換するのか。

答:第八識を親証した後は、現前にその運作と運作の中で現れる清浄な体性を観察できる。そうして第八識の清浄無為性を次第に明らかに知り、修学の手本を得る。同時にますます深く自らの五陰身と一切の法の幻化不実性を観察し、内心の煩悩と執着性が次第に軽減され、心行は次第に転換する。

第八識を証得していない時は、第八識の運作過程を観察できず、その清浄無為性を現前に観察できず、内心に依止するものがなく、心行は転換できない。第八識が何処にあるか知らず、それを識別できなければ、現前に観察了別できない。故に証悟は非常に重要である。真心を証得し、真心に依止して初めて、妄心は次第に清浄になり、次第に降伏され、降伏した後初めて心が自在を得る。真心を証得し、五陰世間の一切の法がすべて真心によって現れた仮相であることを知れば、五陰のために悪業を造らず、五蘊のために貪瞋痴の業を造らなくなる。無明を破れば何が真で何が妄かを知り、これ以後妄を真と見なさず、煩悩は降伏される。

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