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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 12:43:09

第七章  禅定に関する雑談

第一節  禅定は真如ではない

一、六祖大師の禅定に対する見解

定には世俗的な定と真如心が本具する大定とがある。座禅によって修する定は世俗的な定であり、出入りがあり、生滅がある。これは意識の妄心が入る定である。一方、真如が本具する楞厳大定は修する必要がなく、ただ証得すればよい。

六祖大師が座禅による修定を重視しなかったと言う者がいるが、実はそうではない。六祖大師は座禅による修定を重視しなかったのではなく、説法はすべて真如心を中心としており、世俗法の禅定の境地と真如という禅心を厳密に区別し、衆生が世俗法を真如と誤解して仏法を誤解することを防いだ。なぜなら、衆生は真如の体性を理解せず、座禅で定に入った状態こそが真如を見ること、すなわち明心見性であると誤解することが多いからである。こうして定を真如という禅と誤解するのは大きな誤りである。したがって六祖大師は壇経の中で、座禅による世俗的な禅定を強調せず、直接衆生を導いて真如大定、楞厳大定、出入りのないナーガの常定を明らかにし、衆生の大智慧を開発した。もし世俗的な四禅八定だけを認めるならば、正定が具足せず、智慧が開けず、真の解脱を得ることはできない。

二、女人出定の公案

一人の女人が世尊のそばで定に入ったが、皆が不如法であると考えた。文殊菩薩が三度指を鳴らして女人を出定させようとしたが、女人は出定しなかった。文殊菩薩はさらに彼女を天上に挙げ、他の仏国土に挙げたが、それでも出定せず、いかなることをしても女人を出定させることができなかった。七仏の師でさえ一人の普通の女人を出定させることができず、皆は理解できず、世尊にどうすれば女人を出定させられるかと尋ねた。

世尊は言われた:「下方の世界に網明菩薩という者がいる。その者がこの女人を出定させることができるであろう。」そこで世尊は網明菩薩を呼び寄せた。網明菩薩が女人の耳元で指を一度鳴らすと、女人はたちまち出定した。皆はますます理解できなかった。初地の菩薩がこんなに簡単に女人を出定させられるのに、等覚の菩薩はなぜできないのか? それに文殊菩薩はとっくに仏の果位を得て仏として示現すべきであり、神通と定力は仏に匹敵するはずなのに、一人の普通の女人に対処するのに初地の菩薩に及ばないとは、ここに一体どんな奥義があるのか?

六祖大師は言われた:「ナーガは常に定中にあり、不定の時はない。」これは本心である第八識が常に定中にあり、決して出定したことがないという意味である。衆生も本来第八識の中におり、第八識という楞厳大定を決して離れたことはない。そして衆生が後に修する覚知心の定も、第八識を離れて存在することはできず、第八識に依って初めて入定し出定するのである。世尊は如来であり、如来は性徳であり、性徳は第八識である。

女人は五陰の覚知心を表し、網明菩薩は無明を表す。衆生は常に定中にあるが、無明があるために定中から出て、根身器界を現起する。心が明るく無明がない時は、常に定中にあり出定しない。したがって文殊菩薩には無明がなく、女人を出定させることができない。網明菩薩は初地の菩薩であり、まだ無始無明の随眠が断尽しておらず、塵沙惑も断尽していないので、女人を出定させることができる。衆生の世界は第八識が無明に縁って出現する。無明を滅すれば、衆生は自性の本心に回帰し、出定せずに常に定中にある。

三、座禅で修定または観照する時、身体に軽安や快適さが現れたら、それは定が得られた良い現象である。心が定を得ると、身体の状態は変わってくる。もし人の心理状態が常に世間人の境界と相応しているならば、禅定はない。心が専一に観照の中にあり、世間のことを一時的に忘れれば、欲界天の境界と相応する。こうして欲界天人の色身が人間の色身と相互に交錯し摩擦し、身体の感受は非常に快適で軽安となり、同時に身体が非常に大きく感じられる。観照が深まるほど、心の念いはますます専一になり、定はますます深まり、身体と心の感受はますます美妙になる。

もし欲界の欲望を淡く見るようになれば、色界の定が現前し、色界天人の色身が現れ、人の色身と交錯し摩擦する。その感受はさらに美妙で、身体はさらに大きくなる。その時は自分が人の中で最も楽しい存在に思え、まるで天人のような快楽を感じる。その後は人世间や欲界の五欲六塵を好まなくなり、貪欲は断たれる。

このような状況は定境に属し、開悟して本心を見る智慧の境界ではない。本心を見るには境界がなく、ただ智慧が現れることであり、一つの真理を発見し、本心がどのように作用するかを知ることである。多くの人が自分の定境を開悟と見なしたり、たまたま心が静まった時、何もない状態を見て開悟と見なしたりするのは、いずれも明らかな誤悟である。

第二節  禅定と智慧

一、定慧を増長する方法

定を修める比較的速い方法は、一つの法義を深く思惟し、その法義を一点に凝縮して心の中に懸け、散らさず、時々刻々懸けておくことである。そうすれば心は散乱しない。この法義に興味を持てば持つほど、心はより専注し、定力はより良くなる。その後は専注して思考する習慣が身につき、智慧は急速に増長する。普段から自分を訓練し、頭を多く使って思考し、一つの事柄をはっきり考えてから表現すべきである。もしはっきり考えられないなら、他人の助けを得たい場合を除き、なるべく他人に知らせないようにする。頭を使って思考する時、禅定力を強めると同時に智慧を生み出すことができる。

二、もし定力が不足していれば、仏法を思惟観行することができず、読書は走馬灯のようで要領を得ない。修定する時は深く定に入ることを恐れず、深く定に入っても問題ない。出定してから仏法を参究思惟すれば、内心は清浄で、心の動きは細やかになり、観行は非常に力強くなる。禅定がないか定が浅いよりははるかに利益が大きい。定は深ければ深いほど良い。定の中で身心が転換した後、再び参禅して思惟観行すれば、非常に力強く、思うがままに観行が非常に速く、しかも適切に行える。

外道が四禅八定を修めた後、仏の説法を聞いてその場で証果するのは、甚深な禅定の恩恵を受けて、出定して法を聞き思惟観行するためであり、智慧は急速に生じる。禅定のない人は、少し理を理解しただけで満足し、観行の智慧が生じず、二十年経っても依然として同じ場所に足踏みし、道業は全く増進できない。また、ある者は定を修めて定の境界に執着し、定の中で享受し、感覚を弄び、様々な境界があることが殊勝であると思い、修行が何のためか、修定が何のためかを知らない。こうした人は純粋に感覚を弄んでいるだけで、修行ではない。

三、何も思わないことは智慧を生じさせない

一部の仏教を学ぶ者は、ただ安住していることが万事うまくいき、仏法が成就したと思っている。彼らはこれが単に修定の方法に属し、しかも外道の方法に近く、決して仏法を証得して智慧を生じさせることはできないと知らない。

現在でたらめに修行する者は非常に多く、真の修行とは何か、修行の目的が結局何なのかを知らない。そこで様々な発明創造が出てきて、ある者は言う:「修行とはただ安住し、念を起こさず、そうすれば明心見性し、成仏できる。」知らないのは、これこそ外道の修行方法であり、せいぜい成功した外道になれるだけだということだ。しかし現代の人は過去の外道のように定力や出離心が全くなく、したがって外道の定さえ修めることができず、明心見性の般若大智慧はおろか、影さえ見えない。

ただ安住し、ただ知覚し、何も思惟せず、何も考えない。こうした修行は良いのか? これは外道が修める定であり、彼らは心に念を起こさなければ生死を解脱し涅槃を得られると考えている。しかし静坐して何も思わなければ、智慧を得ることはできず、智慧がなければ生死輪廻から出離することはできない。

しかし時々無念の定を修め、出定後に身体が軽くなり精神が愉快になり、煩悩が減少し、心の動きが細やかになる。この機会にちょうど仏法を思惟観行すれば、この定は思惟観行と煩悩降伏に大いに役立つ。ただひたすらこうした修行にふけり、貴重な修道の時間を無駄にすべきではない。

四、正定だけが智慧を生む

智慧を生じさせる定は正定であり、覚知があり専一な禅定であって、意識の覚知を滅除する外道の定ではない。外道の定の中では智慧を生じさせることはできない。なぜなら外道が定を修めるのは六識を圧伏し、六識の作用を滅除するためであり、意識は何の法義も思惟せず、ただ一切法が空であることを証得しようとし、六識をすべて空じるためである。意識が空じられれば思惟できず、思惟する主体も内容もなく、意根は何の法義も了別できず、従って思量すべきこともなく、ただ身体に執着し定境に執着し、頑空に執着するだけである。そうすれば無我の智慧は一切生じず、心中に我があり、我見が断たれず、生死を了脱することはできない。参禅して明心見性し般若智慧を得ることもできず、ましてや識を転じて智とし究竟成仏することもできない。

修定する時、もし外道の定の要素が多ければ、修定は貴重な修行時間の浪費であり、臨終に至って一生の修行が何もならず、何の智慧もなく、依然として生死の業縁に随って輪廻を続けていることに気づくであろう。多くの者は自分の禅定が良いことを誇りにさえし、一度定に入ると何も知らなくなるか、何か不思議な事が現れる。しかし結局これらはすべて跡形もなく消え失せ、依然として何も得られない。修定の目的は心を静め、それから専心して仏法を思惟観行し、仏法を証得して解脱の智慧を得ることである。解脱の智慧を得られなければ、その禅定は追求する価値がない。

心に正念を持たねばならない。禅定を修めた後は、真如を念じ、五陰が無我であることを念じ、一切法が無常であることを念じる。心に仏法を念じることが正であり、心の念いが散乱していれば正ではない。身体と識心がどちらも我ではないと知っているなら、それは思惟観行の結果であるべきである。今まさにすべてのことをしようとしている心が我ではないと観察すること、これが観行である。何かをしながら自問する:「どうしてこれが私なのか? どうして私ではないのか?」これが観行である。定中の観察が意根に深く入り、意根が観行に参与しそれに相応する。こうした修行によって初めて道を証得する望みがある。

五、自らを観察し自省する定力を如何にして持つか

意識がもし自分の色身から飛び出して自分自身を観察し、傍観者の立場から自分を観察できるなら、それは意識の証自証分の機能であり、意識の反照作用であり、反観力であり、慧力とも呼ばれる。自分の心の行いや煩悩習気をはっきりと照見できる。力と呼ばれる以上は強さがあり、心中の疑惑を解き、問題を解決できる。これが正しい修行である。もちろん問題が解決されたなら、その中には意根の力があり、意根が意識を借りて自分の心の行いの状態も観察し、それによって自らを変えると決心し、如来蔵が助けて変えてくれるのである。

一日中あぐらをかいて座禅する者たちは、どう座りどう定に入っても、依然として自心を観察できず、反観できず、覚照力や慧力がなく、依然として五陰が無我であることを知らず、無我の解脱智慧を生み出せず、生死の大事を解決できない。我々は四念住の方法に従ってよく修行すべきであり、きっと大いなる収穫があり、徐々に五陰の作用がどれも不実であり我ではないことを如実に観察できるようになる。

意識心が身体から飛び出して自分自身を観察して初めて、何か覚ることができ、色身と完全に融合すると覚照力を失う。我々が自分の心の行いを点検する時も、心を飛び出させて自分自身を反観しなければ、自分の心の行いを観察できる。最終的に観るものと観られるもののどちらも我ではないと観察し、心を捨の状態に置き、心の中で一切の相を消滅させる。その無我・不実という結論を自然に導き出さねばならず、無理に当てはめたりこじつけたりしてはならない。

六、禅定は外道に通じ、修すれば束縛されると言う者がいる。しかし外道は禅定の楽しみを享受するが、仏教徒は智慧を開き生死の苦しみを解脱するために用いるのは差し支えない。例えるなら鋭い刃物を、外道は殺生に使い、仏教徒は大衆のためや自活のために野菜を切ったり果物を剥いたりする。外道が使うものを仏教徒が必ず避けて使わないとは言えず、それは愚かな者の考えである。同じ事理でも、外道は悪用し、仏教徒は善用する。これほど便利なことはないのか? 一切の法を衆生は悪用するが、仏はすべて善用する。仏教を学ぶことは何と善いことではないか? 一切の事理は、よく学べばよく用いることができ、事理に障りがあるのではなく、鍵は使いこなせるかどうかにある。使いこなせれば、一切の法は円融し、一切の法は無碍となる。

七、多くの人は禅定は修めにくく、心が静まらないと言う。しかしある者は禅定が深すぎて、深く念想がなくなり、覚知が微弱になり、身心が麻痺し、ぼんやりとして智慧が出ず、命終も大きな問題となる。したがって如何に正しく禅定を修行するかは、明心見性を望む我々にとって非常に重要である。               

第三節  禅定と煩悩

一、煩悩を圧伏することと断除することの違い

煩悩を圧伏することと断除することは、二つの概念であり、修行の二つの段階である。両者は大きく異なり、あるいは非常に異なっている。煩悩を圧伏するには禅定だけでよく、一旦禅定が退失すると煩悩は現れる。一方、煩悩を断除するには初禅以上の禅定に加え、我見を断つ智慧が必要であり、定慧が結合して初めて煩悩を断除できる。四禅八定を修めた者は、禅定が非常に高く、貪欲などの煩悩をすべて断ったように見え、心は非常に清浄である。しかし禅定が消えると煩悩が現前し、命終後は依然として生死輪廻の中にあり、身体を替えた後、禅定が現れない時は貪欲などの煩悩が引き続き現行し、再び淫欲心によって胎を受けて生を受けるが、禅定のない者よりは煩悩が軽微である可能性がある。もし我見を断って証果していなければ、いわゆる貪欲煩悩の断除は断除ではなく、圧伏であり、一時的に現起しないだけで、今後現起しないとは限らない。禅定が消えると、煩悩は直ちに出現する。

二、初禅定を具足して初めて煩悩を断除できる

初禅定の中で身心の感受が非常に美妙であるため、欲界愛に興味がなくなり、こうして欲界愛を降伏または断除できる。初禅定の中で内心に喜悦があるため、瞋心を降伏または断除できる。したがって初禅の功徳受用がなければ、貪愛と瞋恚を断除することはできない。しかし前提として、まず我見を断つという智慧がなければならない。この前提がなければ、初禅定を修めても貪愛と瞋恚を断除することはできず、煩悩を圧伏することしかできず、断ることはできない。一旦定力が消えると、煩悩は再び現れる。したがって煩悩を断つとは、初禅定を得た後であり、その前には必ず三結を断たねばならない。いかなる法の証得も、禅定と智慧の結合であり、どちらも欠かせず、前提として福徳も必要である。

三、外道にも禅定はあるが、解脱の智慧や法界実相智はない。智慧を具足するには、禅定の中で理にかなって四聖諦や法界実相を思惟観行する必要があり、正思惟が非常に重要である。

すべての禅定は意根の執着や煩悩を降伏させることができるが、煩悩を断除し執着を滅尽することはできない。なぜなら煩悩の断除、執着の滅尽には、禅定だけでなく、智慧の認知を具足し、理にかなって真理を思惟し、真理を証得することが必要だからである。つまり禅定と智慧の両方を兼ね備えて初めて、煩悩と執着を断除し解脱を得て、仏道を成就できる。

四、八正道:正見、正語、正業、正命、正思惟、正精進、正念、正定。八正道の修行が満足すると、八邪道から離脱し、聖性に相応し、証果して聖賢の列に入ることができる。もしある者が狡猾、陰険、卑劣、心術不正、手段を選ばず、嘘や欺瞞に満ちているなら、明らかに八正道の要求に合わず、正語ではなく、正思惟せず、正念がなく、正業を謀らず、心が正定していない。この者は八正道を持たない。それゆえ道理を滔々と語り、筋道が立っているからといって、その者が真の見識を持ち、我見を断ち初果や二果を証得したとは言えない。

邪念が盛んな者は、禅定を持つことはありえない。禅定のある者は心の念いが清浄で正直であり、妄想が少なく、攀縁が少なく、浮ついた思惟がなく、心の意図は端正であり、邪な心を持つことはありえない。したがってある者が心術不正で計略が多いのは、心が定中にないことを示し、禅定がないのである。

小乗の八正道における正信は、必ず苦・空・無常・無我を信じなければならない。大乗の八正道における正信は、必ず自身に不生不滅の自性清浄心である如来蔵があることを信じ、それによって成仏できることを信じ、如来蔵が五陰身及び一切法を生じることを信じなければならない。大乗の正信が円満になり、菩薩の六度を修めて初めて明心して証悟できる。

衆生は愚痴な者が多く、いつも人に籠絡されることを好み、大言壮語の理屈を好み、侃々諤々と語る者を崇拝する。真理は口先の言葉ではない。道は口先にはない。侃々諤々と語る者に道があるとは限らない。もし道があるなら、過去の文人墨客である胡適らは、皆弁舌爽やかで、文章は迫力があり、仏法著作や禅宗著作は身の丈ほどもあり、長篇大論は人を羨ませずにはおかないが、彼らには道がなかった。 

第四節  参禅における禅定の役割

仏法の探求において、各人の禅定力の差によって、人々が仏法を思惟する力にも差が生じる。禅定力の大きい者が仏法を思考することを参究といい、定力が弱く定力のない者が仏法を思考することを研究という。

研究は定力がないか定力不足の表れである。定力が不足していると意根は力を発揮して参与できず、意識が単独で思惟分析推理判断するしかない。したがって法義の表面を漂うだけで、法義の深層に深く入って深い意味を探求できず、得られる結果も比較的浅薄で、漠然と語るだけで真髄を得られない。定力がない時は心神が分散し、発散的な思惟であり、力がなく、蜻蛉が水を点すようで、専一に深く入り込み、法のいきさつをはっきりさせることができない。結果として実証がなく、実証の具体的な方法や手順を示すことができない。

一方、参究の思惟活動は、一定の禅定力がある状況下で行われる。思惟は深く細やかで専一的で深く透徹しており、まず意識が心を用い、次に意根が参与し、最後は意根の思想活動が主となり、意根の働きが最も大きい。こうした心の用い方は非常に力強く、直接法義の深みに達し、細部まで明らかに理解でき、疑情さえも克服できる。結果は深く信じて疑わず、思想の結縛を断ち切る。参究の結果は、他人から見て完璧であり、他人に修行の手がかりを与え、他人の考えを導き、自利利他の目的を達成できる。

古来、研究を好む者は文人墨客が多い。なぜなら文人墨客は定が浅く情が深く、文字の表面で文章を弄ぶことを好み、仏法に浅く触れただけで止まり、深い淵に潜って宝を掴むことができず、ただ淵の端で清水をすくうだけだからである。深い淵に入りたいと思っても、定力が不足していると、その思惟は錐の先のように鋭く力を込めることができず、法の中に深く入って深い意味を得ることができない。したがって唐宋時代の李白・白居易・蘇東坡らの仏教学思想は、仏教の発展を影響し牽引できず、民国時代およびそれ以前の文人である胡適・豊子愷らに至っては、禅宗著作は豊富で洋洋洒洒たるものがあるが、語ることも皮相に過ぎず、禅宗の皮裏に触れることはできず、その著作は一度読むのも煩わしく、一言でその落ち着くところが分かり、広く学ぶ者にとって何ら参考にならず、仏教に影響を与えるどころではない。

研究を好む者は、定が浅く言葉が多く、文字は豊富だが思想は貧困で、著作は身の丈ほどあっても糠が多く栄養は少ない。参究する者は定が深く言葉が少なく、思想は深く透徹しており、文字は少なくても真髄が多い。例えば達磨大師、傅大士、宝志公、そして唐宋時代の禅師たちは、その著作は限られているが、一言は重く、一つの言葉は無限に味わえ、数十年も参究させることができる。その言葉はその行いと合致し、その行いはその言葉と合致し、言行は永遠に一致し、表裏一体であり、道者の風格を充分に体現している。禅師の著作や語録は、禅師の修行の過程と心得を体現するだけでなく、人としての品格と菩薩の風格を含蔵しており、いずれも実修実証の成果であり、仏教の宝蔵であり、大衆に無限の利益をもたらす。

したがって自己を救い衆生を救い、仏教の発展を牽引するには、ただ定中で深く参究実証し、成果を証得し、自利利他して初めて仏教の発展を推進できる。 

第五節  禅定と睡眠

一、如何にして睡眠の質を良くするか

睡眠が良くないのは、意根の攀縁が重く、心が空しく清浄でなく、煩悩が重く、思慮が多いためである(身体の質が良くない場合は除く)。もし禅定が比較的よく修まり、仏法を熏習する力が大きく、心中がすべて仏法であれば、世俗法を多く考え多く気にかけることはなく、心を落ち着かせ清らかにすることができる。もし精進して仏法を学び、心中がすべて仏法であれば、眠っている時も夢の中はすべて仏法であり、心に他のことは一切入らず、睡眠は非常に清明になる。禅定を多く修めることも、睡眠の質の向上に役立つ。座禅だけが修定ではなく、行住坐臥すべて修定であり、自分の意根が世俗事に攀縁しないよう訓練し、四念住経に従って修行すれば、禅定は急速に向上し、内心の攀縁はすべて軽減される。

生死が切迫した心があれば、世間法を気にしなくなる。生活が幸せすぎると出離心は強くならない。常に一切法の無常性を観照すれば、出離心を持て、道心は堅固になる。したがって常に自分が世俗法から少し離れているか、出離心があるか、道心が強まっているかを観察すべきである。自分に不足している部分を多く見つけ、それを補う方法を考え、早く明心し我見を断つことを目指すべきである。このことは非常に重要である。

二、禅定がある時は、睡眠は少なくなり、身体は多くの睡眠を必要としない。なぜなら禅定そのものが六識の活動を少なくし、四大の栄養の消耗を少なくするからである。禅定は意根の攀縁を少なくし、色身の活動を減らし、全身の神経系統への牽引と制御を減らし、大脳神経系統と五臓六腑及び全身が活動を減らし四大の消耗を減らすため、身体は疲労せず、意根も睡眠を貪らなくなる。

禅定が深まるほど、必要な睡眠は少なくなり、ついには完全に睡眠を必要としなくなる。なぜならこの時意根は非常に静かで、何か造作をしようと思わず、したがって大脳神経系統を過度に動員することもなく、身根の活動や識心の活動はほとんどない。意根が定まるほど攀縁は少なくなり、調節制御活動は減り、四大の消耗は減り、睡眠や食事を必要としなくなる。

ある者は日常の仕事で、仕事量は少なくないが心の念いは非常に少なく、彼の消耗は少なく、それほど多くの食事を必要とせず、それほど多くの睡眠を必要とせず、依然として精力が充実している。これは四大のエネルギーを最も消耗するのはやはり意根の心の活動であり、六識自体の消耗はそれほど多くないことを示している。したがって六識の仕事量は全く少なくないが、意根の心の念いが少なければ、活動量は減り、仕事は疲れないと感じる。

これにより、意根は色身の状況を時々刻々掌握し理解でき、時々刻々調節制御し指揮でき、その了別は非常に鋭敏で、意識は身体の様々な状態を知らず、意根の暗示や警覚を必要とすることが分かる。

三、神経衰弱の治療法:座禅する時または静かにしている時、非常にゆっくりと般若心経または薬師咒を唱え、唱えながら観想する。観想は仏光が頭部、特に後頭部を照らし、仏光は金色で、絶えず頭部または後頭部に流れ込む。さらに黒色または灰色の業障の気が、絶えず頭頂から排出されるのを観想する。睡眠が改善し、もう黒い気を観想できなくなったら、観想を続ける必要はない。定力が良ければ良いほど効果があり、定力が比較的良い者はこの方法が非常に効果的である。同時に定力を強め、定が速く得られる。金色の仏光が頭頂の四方八方から入るのを観想してもよく、直射でも斜めでもよく、定力が強まるほど観想の範囲は広がる。こうして定力を急速に強めることもできる。自分で想像し、都合の良いように観想すればよい。身体の他の部位の病気もすべてこの方法に従って観想できる。他人のために観想することもできるが、代わりに業債を背負うことになる。

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