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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-14 03:51:21

第三章 禅定を如何に修めるか

第一節 欲を減らして初めて禅定を修め得る

一、欲貪が甚だしい者は、初禅の定どころか、欲界の未到地定すら持てず、ましてや欲界の最も粗浅な定さえも持てない。つまり一片の禅定も存在しないのである。禅定を得ようとするならば、必ず欲貪を降伏させねばならない。貪とは貪愛・貪執であり、愛とは喜愛・喜楽である。三界に対しもはや喜びも楽しみも抱かなくなった時、愛は断たれる。愛が断たれれば、三界の業は即ち終わる。欲貪が断たれれば、欲界の結(煩悩の縛り)が断たれる。欲界の結が断たれれば欲界を出離でき、この時、色界の初禅定が必ず現れ、命終すれば色界天に生まれることができる。

凡そ定というものは、心が天人界の境界と相応し、人の境界とは相応しないものである。心性が人より高ければ、境界も人より高くなる。欲界定を持つ者の心は、必ずや人の欲念を淡泊にしている。色界定を持つ者の心は、欲界の人・鬼・畜生・欲界天人の境界を淡泊にしている。無色界定を持つ者の心は、色界と欲界の境界を淡泊にしている。

禅定の有無は全て心念にかかっている。心念がひとたび動けば、定は即ち消失する。心念とはこれほどに甚だしいものである。自らの禅定が修まらないと嘆く者は、己が心中の念が清浄であるかどうか、人界の人・事・物・理にあまりに密着しすぎていないか、心に念ずる全てが人界の事柄ではないか、を点検すべきである。もし念が清浄でなければ、無理に足を組んで修定しても何の役にも立たない。

詩詞歌賦、琴棋書画、各種の芸術などは、全て人界に属するものである。これらを喜び楽しみ、貪愛し、執着するならば、決して禅定は得られず、欲界を出離することはできない。我々は人界に属するものを取り出し、心でこれらから遠ざかり、貪愛せず、心にかけず、心の中でこれらを排除すれば、禅定は必ず現れる。これが禅定を修める実質と根本である。

縁覚(辟支仏)が国王であった時、何故ほんの少し因縁法を思惟しただけで縁覚果を証得し、禅定と神通力が即時に現れ、宮殿から飛び出して出家修道できたのか? それは彼の心に人界の事がなく、人界の事を好まなかったからである。国王の地位にありながら、采女や宮妃が群れをなしていても、彼の心は離欲しており、喧騒や娯楽を好まなかった。故に極めて速やかに縁覚果を証得できたのであり、これも前世における修道の根基によるものである。

二、安逸な生活を貪らなければ禅定を得られる

毎日、食べる時は食べ、飲む時は飲み、腸や胃や頭脳や内心が、ほんの一時も休むことを全く考えないのでは、どうして禅定が得られようか? 毎日、衣食住や行動が非常に贅沢で、そのような享受に心を砕き、修道に心を用いないのでは、どうして禅定が得られようか? 是非を弄するか、名声や勢力や金銭を追い求め、心を砕いて鑽営するのでは、どうして禅定が得られようか? 心が乱雑でごたごたしているのでは、どうして禅定が得られようか? 戒律を受けるよう求められると、遥か遠くに逃げ隠れするのでは、どうして禅定が得られようか?

現在の生活条件はあまりに良すぎて、皆享受に慣れきっており、過分であることを全く自覚していない。故に身体の様々な変化にも気づかず、心の散乱はなおさら気づかず、たとえ心念が清浄でなくても無自覚無知覚である。このような状態では、どうして禅定が得られようか? 前世で修めたわずかな福徳を全て享受に使い、道業に必要な福徳が不足しているのでは、道業がどうして進歩できようか? 少しの代償も払わず、少しの辛苦も払わず、一方では生活を享受しつつ、他方では道を得ようとし、全てを得ようとする。これほどの貪欲さで、どうして道が得られようか?

毎日、高栄養の滋養品を貪り食べれば、身体のエネルギーが過剰となり、内心は躁動不安となり、心は清浄でなくなる。たとえ禅定があっても消失する。胃腸が働く時、内臓が働く時、意根は必ず守護していなければならない。そうすると意根は清浄でなくなり、清閑を得られず、心を分け神を分けることになる。どんなに足を組んで静座しても、心は定まらず、足を組まない時はなおさら定まらない。

定を修める上で最も忌むべきは、胃腸が常に飲食を消化するために働いていることである。ある者は三食だけでなく夜食も取り、四食も食べる。これがどうして修行者と言えようか、何が修められようか? 決して禅定は得られない。胃腸が一日中働き、意根が常に胃腸や身根に気を配り、清閑になれないのでは、禅定は決して現れない。もしほんのわずかな口福すら捨てられないならば、道を得ることは不可能である。捨てなければ得られない。禅定による解悟を望まないならば別だが、その場合は口忌みする必要はなく、食べたい時に食べ、飲みたい時に飲み、多く福を享楽すればよい。この世の人々で、修行者の様子をしている者はほとんどいない。過去の禅師や祖師、あるいは禅を修める者の風貌は、今では全く見られない。世間の人は装うことすら肯んじず、皮も祖師に似ず、肉も似ず、骨格はなおさら似ていないのに、どうして仏法上で大いなる成就を得られようか、それは不可能である。

三、攀縁を少なくして初めて禅定が現れやすい

もし心が常に様々な境界に従って動揺し、境界に従って転じるならば、止めることができず、止がなければ観じることもできない。戒律は非を防ぎ悪を止め、心の散乱を防ぐものであり、煩悩を降伏させるために用いられる。煩悩が降伏した後、心が乱れず動かず、境界が現れても心が攀縁を少なくして初めて、定を修めることが容易になる。内心が衣食住や行動に重きを置き、愛好や願望が多く、気にかける人・事・物が多いと、心は麻のように乱れ、どうして止められようか? 趣味や愛好を減らし、心の所縁を減らせば、心は少し止まることができる。周囲の全ての人・事・物に興味を持たず、気にかけず、心の攀縁を少なくし、心を内に収め、外に散らさなければ、定は必ず現れる。

人界では、趣味や愛好が多く、人界の事柄に様々に攀縁し、時々刻刻・至る所で自己を表現しようとし、内心に常に「我」が現れ、心は寂止を得られない。命終の時に気づくであろう、この一生は実は何も得ておらず、徒労に終わったと。故に今から早くに振り返り、多く内心の宝蔵を開発し、外に貪り求めて心を乱すべきではない。人生には必ず一得一失がある。自らよく計算し、何を得ることが最大の利益か、後世に確かな保障を得られるかを考えねばならない。

四、阿羅漢が命終に至ると、意根(末那識)はもはや如何なる一法に対しても作意を生じず、思心所の運行もなく、五遍行心所法も現行しない。こうなると、如来蔵は意根の心行を了別できず、意根の識種子を輸送することもできなくなり、意根は滅する。我々の意根がもし一切の法に対し常に作意を絶やさず、思量・決断を絶やさなければ、如来蔵は絶えず六識を生じさせ、身口意は絶えず現行し、心は寂止できない。意根は興味のある法に対してのみ作意する。興味が多ければ作意も多くなり、意識は非常に忙しくなり、そうなると寂静できず、定を修めることは成功しない。

我々が禅定を修めようとするならば、世俗法に対する欲望を減らし、一切の世俗法に興味を持たず、できるだけ人界の享楽を少なくし、出離心が生じた時、禅定は速やかに修められる。もしある人・事に対していつも覚観(感覚と観察)があり、瞋恚心や貪愛があれば、それは意根の攀縁が絶えず、作意が絶えず、思量が絶えず、六識の念想が絶えないことを示しており、そうなると禅定は修めることができない。人界の欲望を減らせば欲界定が現れやすく、人界の法を貪らず愛さなければ天上の境界が現前する。いつも人界の全てが良いと思い、人界の人・事・物・理を好んでいれば、心は決して定を得られない。貪心と欲望を減らし、自分をあまり顧みず、心念を常に自分中心に回らせず、できるだけ自己を捨て、心に道業を装えば、禅定は現れやすい。

五、禅定を修めることもまた心を修めることである。貪・瞋・痴の煩悩を降伏させることが心を修めることであり、心を修めることが定を修めることである。心が清静になれば禅定は現れる。禅定が修まらない者は、必ず心の俗事が多くて振り払えず、六識が絶えず念想を起こし、一処に定まることができない。故に禅定を修めようとするならば、常に自らの内心を点検し、その中に何があるかを見て、できるだけ放せない人・事・物を排除し、そうすれば六識は寂静し、定が得られる。

我々は毎日、何をしていても、心中は必ず一法に縁り、他念を持たず、あるいは他の念は淡くし、処理が終われば捨てるべきである。世俗事はただ応対すればよく、あまり真剣にこだわるべきではない。定を修める時、我々が心念を収摂し、世俗法への攀縁を少なくできさえすれば、動中の定は必ず修まる。心は世間法に対してできるだけ隔離し、事は行えるが、行ったら捨て、心で攀縁せず、事を少なめに心にかければ、こうして定は現れやすい。努力して、毎日睡眠以外は、いつ何をしていても、心は必ず一法に縁るようにすべきである。あるいは念仏、あるいは念咒、あるいは経典を誦する、あるいは観行、あるいは参禅、あるいは公案を参究する。時が経てば、身心に自然と快適な覚受が現れ、禅定は現れる。

六、欲界の衆生が最も貪るものは何か? 欲界には五欲の楽しみ、色・声・香・味・触がある。一切の法には法塵があり、色法塵もあれば心法塵もある。心法塵とは七識心であり、また七つの識の心所法である。

衆生が最も捨て難いのは識心と心所法であり、主に受心所法と思心所法である。常に了知しようとし、常に感受を気にかければ、意根は寂静したくなくなる。これらの覚受と了知性を滅除したくないと、心は麻のように散乱し、故に定を修めることが非常に困難になる。

衆生の自我と一切の法に対する貪愛は、実は阿頼耶識を貪愛しているのである。なぜならこれらの法は全て阿頼耶識の功能作用だからである。しかし貪愛しながらも、自らが貪愛している実質が何かを誰も知らない。欲界の衆生は権利を得れば捨てず、地位を得れば捨てず、金銭を得ても捨てず、自身の様々な享受は如何なることがあっても捨てず、あまりに貪っている。仏になることが如何に殊勝で、貪るに値するかを知らず、それでも仏になろうとする心が全くない。これが深重なる無明である。

七、もし心に雑思乱想がなければ、散乱心は除去され、散乱心がなければ禅定は自然に現前する。雑思乱想は意根の攀縁の習気であり、克服が非常に難しい。何とかして意根の攀縁習気を降伏させねばならない。如何に効果的に意根の習気を降伏させるか? 意根の特徴を捉える。それは何もせずに暇になることを最も恐れる。ならばそれに意義あることを一つ見つけさせ、主にその事をさせ、この事が非常に重要だと告げる。一旦重要だと認めれば、必ず精力をその事に注ぐであろう。

どのような事が最も意義があるか? それに咒を唱えさせ、経を唱えさせ、仏を念じさせる。初めは数量と時間を定める。一旦習慣が形成されれば、もはや数量と時間を定める必要はなく、自動的に自覚的に咒を唱え、経を唱え、仏を念じ、睡眠中もその状態を保つようになり、定力は修まる。意根の精力はあまりに旺盛である。何とかしてその注意力を引きつけ、精力を集中させれば、意識は専心一志でき、意根も専ら仏法を思量できる。これは意識が如何に意根を導き、如何に意根を牽引するかにかかっている。普段何をしていても、心は必ず楞厳咒を唱えるべきである。数量を求めず、ただ専注できればよく、そうすれば加持力は非常に大きい。

できるだけ時間を捻出して定を修め、定力が少し良くなれば、五蘊十八界を思惟し、色身の無常・無我から観行を始める。五陰が活動しているまさにその時、色身とは何か、受陰とは何か(各識の受は幾つあるか)、想陰とは何か(各識の想は幾つあるか)、行陰とは何か(各識の行は幾つあるか)を分ける。六根とは何か、六塵にはどのようなものがあるか、六識は何をしているか、そしてこれらの法の生滅変異の状況を観察する。

八、集中力を多く養えば禅定を得られる

禅定とは一種の集中力に他ならない。精力を集中して目前なすべき事を良く行い、心に他念がなければ、初めて事を良く行える。まず自らが行う事に対し、高度な責任感と濃厚な興味を持たねばならず、そうして初めて一途に没頭し、問題を解決できる。集中すればするほど、解決は良くなり、深く重大な事理を発見でき、智慧はより深遠になる。

例えば、研究員、研究者、科学者たちは、自らの研究に対し非常に責任感を持ち、非常に好み、濃厚な探求心がある。故に孜々として倦まず、日を継いで夜を継いで研究し、寝食を忘れ、他を顧みず、遂には一定の成果を研究し、驚くべき発見をするのである。

心がまだ散乱している者は、昼間の行・住・坐・臥の間、心を堅持して咒を誦し、あるいは心経を誦する。空いた時間に坐禅すれば、心は静まり、後に観行して仏法を思惟できるようになる。坐禅中に仏法を思惟できるようになってから、昼間の行・住・坐・臥の中で、再び自らに簡単な仏法を思惟する訓練をさせる。初歩的な訓練として、目前行っている事を心がはっきり知るべきであり、無記・散乱・攀縁であってはならず、心は目前行っている事に住する。これは粗浅な集中である。

九、如何に智慧をもって禅定を引生するか

定を修めるにもいくつかの善巧な方法が必要であり、無理に足を組んで耐え忍べば坐って禅定を修められるものではない。一切の法への攀縁が絶えず、内心の覚観思惟が絶えず、心が寂静でなければ坐ることもできず、禅定は現れない。如何にして心を寂静させ禅定を現出させるか? 意根の攀縁を減らし、覚観思惟を減らせば、心は次第に清浄に向かい、禅定が初めて現れる。

『坐禅三昧経』には定を修める方法が多く説かれている。定を修める前に、まず智慧を通じて一切の法の虚妄を認知し、攀縁心を破る。攀縁が減れば禅定は現れる。例えば、もし眷属欲を持つ者がいれば、一つの方法で眷属想を破り、心に何の想いもなければ寂静し、心は定まることができる。もし国土や家郷に眷恋する者がいれば、国土想を破り、心中で家郷や国土を想わなければ禅定が現れる。もし心に貪愛があれば、何とかして貪愛を降伏させ、心に貪愛がなければ寂静し、禅定が現れる。もし心に瞋恚があれば、何とかして瞋恚を降伏させ、心に瞋恚がなければ寂静し、禅定が現れる。足を組む前に、まず自らの心にどんな煩悩があり、どんな念が心中に蟠踞しているかを見つけ出し、それから相応する方法を見つけて対治し、自らを説得した後、煩悩や念が現れなくなってから修定すれば容易である。このように智慧によって攀縁心を滅除すれば、心は静まり定に入る。

心が降伏され禅定が現れた後は、禅定の中で思惟観行し、煩悩に対治する。三昧を得てから煩悩を滅除できる。瞋恚が重い者は慈心観を修める。慈心観の修め方は坐禅三昧経に具体的な方法がある。貪心が重い者は白骨観を修める。人を白骨と観じれば貪心はなくなる。眷属欲があれば、眷属の生滅・虚妄・不可靠性などを思惟観行する。内心が常に国土に眷恋し、国土想があれば、国土の災害・危脆・不可靠性を思惟観行する。こうして定によって真の大智慧を引生することができる。

定と慧は実際には互いに促進し合い相補い合うものである。智慧で世間の無常性を観察すれば、心の攀縁と散乱が減り、定まりやすくなる。自らの心にどんな結縛(煩悩の縛り)があるかを観察し、それから心中の結縛が如何に法にかなわないかを思惟分析する。分析が透徹すれば、次第に結縛が解かれ、もつれなくなり、心は静まる。自らの内心が何を想っているかを理解せねばならない。理解しなければ、想っていることを破り除くことができず、心は静まらない。智慧によって禅定を導き、定を修めてから、定の中で再び思惟し、更に一歩進んだ智慧を引生する。これを三昧という。故に智慧があれば定を修めやすく、智慧がなければ定を修めにくい。禅定があればまた智慧を出しやすい。

十、五蓋を降伏して初めて初禅定を発起できる

初禅が現起する条件は五蓋を降伏することである。貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・疑を、全て効果的に降伏させねばならず、財・色・名・食・睡をできるだけ遠く離れて初めて、初禅定を発起できる。

五蓋とは:貪欲・瞋恚・睡眠・掉挙・疑である。もし内心に瞋恚があれば、思緒と覚観が常に現前し、心は平静になれず、禅定は現れない。もし内心に貪欲があれば、心に煩悩が絶えず、寂止も得られず、修定も困難である。睡眠はなお昏沈に属し、内心が濁って清浄でなければ、当然禅定を障害する。掉挙とは、内心が過去の人・事に攀縁し、追憶・回想が絶えず、希望や覚想が絶えず、これも禅定を障害する。

疑とは、心に問題があって解決できず、自らを疑い、他人を疑い、法を疑い、疑念が心に懸かり、心に詰まり、覚観が絶えることがない。当然これも禅定を障害する。悔とは、常に自らが行った過ちを想い、心に思慮が絶えず、煩悩が絶えず、念が絶えず、六識は寂静できず、禅定は現起しない。故に修定の前に、自らの内心を点検し、心の塵埃を掃除し、内心が空浄になれば、足を組むだけで定が得られ、普段心中に事がなければ、行・住・坐・臥の中でも禅定が現れる。

そして五蓋を降伏するには、出離心と強烈な修道心を生じさせねばならない。欲界世俗の物質的生活享受を貪らず、衣食や飲食も気にかけず心も用いず、住用も気にかけず心も用いず、こうして初めて心に住するところなく、欲界法から遠く離れ、色・声・香・味・触を貪愛せずに初禅定を発起できる。

今の人は皆享受にこだわり、生活の快適さや自在さを求め、面子も気にし、絶えず他人と競い比べ、心の全てが世俗に浸っている。こうなると禅定の生起を著しく障害する。衣食住が非常に贅沢で、非常に貪愛する者に禅定はあり得ない。色界初禅の天人は舌識がなく、飲食を必要としない。もし我々が食べることを好み、美味しいものを好み、味塵に貪着すれば、初禅定は現れない。色界天人は鼻識がなく、香を嗅がない。もし我々が常に香りを好み、臭いを嫌い、香塵を気にかければ、初禅定は同様に現れない。

人界の法を貪らなければ欲界天の定が現れ、人界の事に興味がなければ欲界定が生じる。人界の人・事・物を好めば欲界定は得られない。欲界天人の境界を貪らなければ色界の禅定が生じる。下界の享受と貪愛を捨てて初めて上界の禅定が現れる。これが禅定現起の法則と条件である。

もし我々が毎日欲界の事に全身全霊で投入し、あれこれ計算し続けるならば、初禅定は現起しない。何でも求め、何でも得ようとし、何でも他人より良くあろうとすれば、初禅定は現起しない。もし仏法修行で得た福報を全て物質的生活の享受に使い、道業に必要な福徳が不足すれば、道業は進歩し続けられない。福徳の一部を修道用に残し、道業に用いれば、道業は絶えず進歩できる。

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