禅定の修めと参禅証道(第一部)
第二章 禅定の内実
第一節 禅定の定義
一、定の意味
定とは不動を意味し、静中の定とは心が動かず、身が動かず、口が動かない状態を指す。日常の身体活動における定とは、行住坐臥の際に身体は動いていても、心が一つの対象に専一に集中していることをいう。定力が高まるほど身体の動作は遅くなり、同時に心は散乱せず、一つの境界に縁って動かない。したがって、念仏や真言誦持、経典読誦、礼拝を行う際には、単に速度を求めるのではなく、質を求めるべきである。質とは心の清浄、定力の増強、煩悩の軽減、心の明瞭さを指し、修行の理をより深く理解することを意味する。定を得ることは功徳であり、この定力によって智慧が開かれるのである。
深層の念仏の定とは念仏三昧であり、念仏の定によって智慧が発起し、明心見性に至る。真言誦持も同様で、真言によって心念を摂持し、心を定めて動かさず、煩悩を降伏させ智慧を生じさせる。礼拝の速度も遅くし、それによって心を摂め、心が乱れて縁を攀じることなく、一つの念に、一つの境界に専注するべきである。しかし礼拝を単なる身体鍛錬と見なしてはならず、そうすると至誠の心が生じず、功徳もなく、定を得ることも不可能である。
集中力とは一種の定であり、全注意力を一つの事物・問題に集中させることは、心が定まって散乱しない状態である。しかしこの種の定の中には、言語・文字・音声や、心の分析・思惟活動が存在する。公案(かんあん/看話頭)に必要な禅定は、言語・文字・音声がなく、分析・思惟もなく、ただ一つの念が長く心に懸かり、公案を見失わない状態である。この定はより深沈(じんちん)であり、日常の仕事にあまり影響せず、未到地定や初禅定に容易に達し、世俗法への執着を減少・軽減させる。この定が長く深くなれば、公案を参究(さんぎゅう)できるようになる。一つの言葉の義理を参究するには、参究する心の活動が伴い、より深い定が必要で、心の働きがより微細にならなければ智慧は生じない。
行住坐臥のいずれにおいても定を修めることができる。心を一つの境界に住して動かさない状態を心一境性(しんいっきょうしょう)と呼び、この時心は他のことに気を取られない。目で色(しき)を見ても心は動かず、心の中で真言を唱え念仏し、経文を暗誦するか、あるいは観想(かんそう)し、修持する善法に専注する。念仏・真言の功夫が深まると、心の念いが連なり一片となり、綿々と密接に続き、外境が心に入らず、見ても見えず、聞いても聞こえず、心の念いが一点に集中し、視て見えず、聴いて聞こえず、食して味わわず、心が財・色・名・食・睡の五欲や六塵(ろくじん)に留まらない状態に達する。もし公案を見つめる(看話頭)、公案を参究する(参話頭)、参禅の功夫がこの程度に達し、時節因縁が具(そな)われば、疑情(ぎじょう)を打破して参究を突破(破参)できる。
この公案を見つめ参究する定が熟練した後は、今後いかなる法理を思惟する際にも活用できる。例えば仏が開示された一言、あるいは仏法上の一つの道理が心に明らかでない時、その言葉や道理を深く脳裏に懸け、特に分析せず、ただ深く懸けておく。やがて時至れば、突然醒悟してその言葉の意味が明らかになる。定力が深まるほど、智慧の開発も深まる。公案を参究するこの定を用いれば初禅定まで修められ、さらに深く修行を続けられる。
二、定中の意識の覚知性
いわゆる定とは、六識の乱動から規則的な動きへ、さらに体系的な動きへ、そして深細な動きへ、最後には不動へと至る過程である。速い動きから遅い動きへ、微細な動きへ、そして不動へと至る。例えるなら孫悟空が妖怪を静止させる際、「定(とまれ)」と唱えると妖怪が動かなくなるように、真の定、深層の定とは不動である。
欲界定や初禅定では、意識の覚知性が非常に強く、専心して仏法を思惟できる。二禅以上の定では、五識が滅し、意識心は比較的深細で、定境を単独で了別する覚知性は微弱であり、内心には深細な喜びの心があるが、反観力は劣り、自らの心の働きをよく了別できず、定から出て初めて先ほどの状態を知る。意識の覚知性が非常に深細であればあるほど、了別性は弱まり、ほとんど仏法を思惟・観行できなくなる。しかし意識には知性が存在し、滅してはいない。
二禅以上の定中、一般の人は仏法を思惟できず、参禅もできない。極めて訓練を積んだ者ならば可能かもしれない。二禅以上の定中、普通の人の意識では末那識(まなしき/意根)の存在を発見できず、意根の覚性も発見できない。道種智(どうしゅち)を有する菩薩ならば意根の運行の相を発見できるかもしれない。特殊な人は二禅において、意識で深細な思惟ができるが、あまりに深細すぎる。
あらゆる定中、末那識である第七識にも覚性があり、了別性がある。ただ意識では発見が難しい。この時、意識には見分(けんぶん)・相分(そうぶん)・自証分(じしょうぶん)・証自証分(しょうじしょうぶん)の四分(しぶん)が全て存在する。定がない時、意識の思惟は粗雑で、乱雑無章、浅薄で、まとまりがない。定がある時、意識の思惟は統一され、細密で、深く、専一となる。それゆえ智慧の出生を促し、事物の本質を発見できるのである。
三、いわゆる禅定とは、即ち末那識(意根)を降伏させる程度のことであり、末那識が効果的に降伏され、縁を攀(よ)じることが少ないか全くない状態になって初めて禅定が現れる。智慧から入っても禅定を修めることができる。心で周囲の六塵(ろくじん)が虚妄であること、自我の見聞覚知が虚妄であること、思想・念いが虚妄であること、感受が虚妄であること、一切の法が全て虚妄であることを理解すれば、内心の攀縁は少なくなる。内心の攀縁が少なくなれば心念も減り、精力を集中して仏法を思惟できるようになり、容易に仏法を証得する。これが正念(しょうねん)によって禅定に入る方法である。正念とは仏法に対する正しい認識であり、五蘊(ごうん)が虚妄で空(くう)であることを知り、自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)が五蘊の身中で永遠に生滅せずに運作していることを知る。時節因縁が具われば、自性清浄心を証得できるのである。
四、定と静の区別
定は静を含む。静は定の最初の段階であり、定の最初の表現形態である。まずは身が静かで動かないこと。次に心念が沈静化し、心が静かで動かないこと。その後さらに進むと、定は深まり、単なる身心の静けさではなく、ある法が心から消失し始め、心念はより一層専注・統一され、ついには心念さえも消失して見えなくなる。二禅定以上では五識が消失し、四禅定以上では呼吸・脈拍・心拍が停止して見えなくなる。定が深まるほど現れる法は少なくなる。法の多寡は末那識(意根)によって決定され、定の深浅は末那識を降伏させたか否か、末那識が攀縁する法の多寡の問題による。