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禅定の修めと参禅証道(第一部)

作者: 更新時間:2025-07-13 22:52:15

第五節 禅定修習の最初の着手方法

一、禅定修習を始めたばかりの頃は、朝から晩まで一つの経典を専念して唱えるか、一つの真言を唱えるか、あるいは念仏を唱え、他の思いを一切せずにいると、時が経つにつれて心は安定し、精神は集中され、心に余念がなくなり、定力が生じてきます。修行においては止観双修(止と観を同時に修めること)が必要であり、禅定に偏ってもいけませんし、智慧に偏ってもいけません。禅定と智慧を等しく修めることで初めて仏法を成就できます。禅定はあっても智慧がなければ仏法は成就できず、智慧はあっても禅定がなければ仏法を成就することはできません。禅定と智慧の両方を備えることによって、あらゆる仏法は必ず証得できるのです。仏法を学ぶ人々の中には、理論的な知識だけを専攻して禅定を修めない人もいれば、禅定だけを専修して仏法の知見を学ばず、仏法を思惟しない人もいます。この両者とも偏っています。もし禅定の修習と智慧の修習を結びつけることができれば、実際に仏法を体証し、必ず成就することができるでしょう。

深く思惟し観行する時こそが、禅定と智慧の双修であり、定慧等持(禅定と智慧が等しく保たれること)なのです。もし専心して思惟することができ、心に雑念がなければ、明心頓悟(心の本性を明らかにし、突然悟ること)に至る前には、わざわざ禅定を修める必要はありません。しかし、すべての人がこれを成し遂げられるわけではないので、その場合は特に禅定を修める必要があります。座禅による静中の定(静かな中での禅定)は、五蘊(色・受・想・行・識)の活動における定力を強め促進することができます。時間がある限り修めるようにしましょう。一方、智慧のある人は禅定も比較的容易に修めることができます。心の内で万法が虚妄であることを知り、縁を攀じる(執着する)ことが少ないため、禅定は非常に順調に速やかに進み、知らず知らずのうちに心の念が集中して散乱しなくなります。これは前世の根基によるものです。智慧のない人が禅定を修めるのは比較的困難で、心が非常に散漫で、縁を攀じる心が強すぎて、何もかもを真実であると捉えてしまうためです。

二、趣ある境を想う禅定修習法

禅定を修める際には、趣ある境を想い描き、注意力の全てをそこに投入し、自分自身や周囲の一切を忘れ去り、その後でその境を捨て去ることもできます。心の念の一つ一つがその境が虚妄であることを知り、それに惑わされることなく、しかも心を一処に専一にすることができれば、こうして入定するのも非常に速いものです。例えば、西方極楽世界の図を観想したり、仏菩薩の微細な相貌を観想したり、自分が少しずつ仏菩薩の相貌に変わっていくのを観想したり、自分が少しずつ他の場所へ飛翔していくのを観想したり、自分が生存環境を少しずつ改造し、ますます美しくなっていくのを観想したり、自分自身の気が任脈全体、あるいは督脈全体、または任督二脈(気の通り道)を通るのを観想したり、などなど、身心に有益なものであれば何でも観想に用いることができます。心を一つの境に趣かせれば、必ず禅定を得ることができます。あるいは、呼吸を整えた後、何の方法も用いずに心が静まり、直接入定することもできます。あるいは、呼吸を観じる方法や呼吸を数える方法を用いても、速やかに心を落ち着かせることができます。修行の過程では、常に経験を総括し、多くを体得するよう心がけることで、如何に速やかに禅定を修めるかを理解し、自分に合った禅定修習法を見つけ出すことができるのです。

三、妄想が飛び交う状態を解決する方法

普段、経文を唱えたり、念仏を唱えたり、真言を唱えたりするのが非常に熟練していると、口では非常に楽に唱えられても、心の中では相変わらず妄想が飛び交い、このように禅定がなければ法益を得ることはできません。なぜそうなるのか、どうすればこの問題を解決できるのでしょうか?この状態は、意識心が唱えたり暗誦したりする内容にすでに非常に熟練しており、記憶力も非常に良いため、意根(末那識、深層の思量作用)による深く細かな思量や考究を経ずとも流暢に誦することができるということです。こうして意根が暇になり、他の法塵(認識対象)に縁を攀じる精力が生じるため、妄想が生まれてしまうのです。このように経文を唱えながら妄想が飛び交うため、禅定は成就できず、経文の義理を静かに深く思惟して明らかにすることもできず、修行の受用は非常に小さくなってしまいます。

解決方法は:唱えることや暗誦することを遅くすることです。遅ければ遅いほど良く、そうすることで意根をしっかりと縛り付け、意根が他の法に縁を攀じる精力を持たなくなり、もはや妄想を打つことができなくなります。私たちは経文を唱えるにせよ、念仏を唱えるにせよ、真言を唱えるにせよ、礼拝するにせよ、速度は遅くすべきです。そうすれば、意根は他の法に縁を攀じることができず、心は定まり、ついには一心不乱(心が一処に乱れず)に達することさえ可能です。皆さんもぜひ試してみてください。これは非常に優れた方法で、効果が良く、禅定が得られるのが速く、気息をよく調えることができ、気を傷つけることもなく、身体も効果的に調えることができます。

修行は速度や量を求めるものではなく、質を求めるものです。質とは三昧(禅定)であり、心の境地であり、止(心を止めること)と定(禅定)なのです。禅定がある時、思惟は深く細やかになり、智慧が開かれ、最終的に仏法上の最大の利益を得ることができるのです。

四、心を一処に制すれば、何事も成し遂げられないことはない

世俗の言葉にこうあります:心を一処に制すれば、何事も成し遂げられないことはない(制心一処、無事不辦)。考えてみてください。錐(きり)の先端が地中に深く刺さるのと、板が地中に深く刺さるのと、どちらが深いでしょうか?答えは間違いなく錐の先端が地中に深く刺さる方です。禅定を修めるのはこの理にかなっています。心を一つの境に住まわせ、心力を専一に分散させず、定心を深め、一つの義理を細やかに思惟すれば、その義理を貫通することができ、それによって智慧が生じるのです。禅定がない時、心はあの板のように面積が広く、力が分散しているので、土中に深く入ることはできません。禅定を修めるとは、心を一処に縁じ(向け)、精力を集中させることによって、何事も成し遂げられないことはないようにするのです。

禅定修習の特例として、心念が専一で定力が深ければ仏法を証得し、智慧を得られることを証明するものがあります。釈迦仏に周利槃陀伽(チューラパンタカ)という弟子がいました。前世の業縁によって招いた果報により、頭脳が非常に愚鈍で、後を学べば前を忘れ、前を学べば後を忘れ、一言学べば一言忘れる状態でした。世尊は彼がこのように愚鈍なのを見て憐れみを起こし、二文字を唱えるように教えました:「箒(はうき)」。周利槃陀伽は毎日、何をしていても心の中で「箒」の二字を唱え続け、ついには心が清浄になり、禅定の中で小乗の理を思惟することができ、最終的に四果の阿罗汉(悟りの最高位)を証得しました。周利槃陀伽が箒を唱え、心に雑念がなかったこと、この定力によって、世尊が説かれた仏法の道理を思惟し、悟りの果を得たのです。ですから私たちも禅定を修めるには心を一境に住まわせ、心を一念に縁じ、長く続け、絶え間なく堅持していけば、定力は生じ、最終的に観行思惟は成功するでしょう。この一境一念とは、一句の仏号(例:南無阿弥陀仏)、一つの真言、あるいは一つの短い経典でも構いません。何をしていても心の中は経典や真言であり、念仏であり、心中で人間界への貪りや執着を捨て去れば、定力は必ず生じるでしょう。

五、如何にして浄念を熟達させ継続させるか

歩行・坐臥・物事を行う際に浄念(清浄な念い)を持つことはできますが、浄念は一つの念いではなく、少なくとも二つの念いがあり、三つの念いが普通です。もし禅定を得ようとするならば、心の中で何をしていても、主たる念い、つまり重点となるものを持ち、この主念を保ち失わないようにすること、それが禅定なのです。他の念いは軽く帯びているだけで構いません。これは確かに一定の功夫(修行の積み重ね)が必要で、一つの固定された課程として練習することができ、熟練すれば心は楽に省力になります。あまり技巧は必要なく、世俗の法に対する執着を薄くすれば、浄念は保持され続けるでしょう。意根がこの念いを主とし、他の法に分心することが少なければ、意識もまたそれに従ってこの念いに定まり、他のことには心を用いることが少なく軽微になります。普段から興味を減らし、重要でないことには対処するという心構えでいるのが良いでしょう。

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