禅定の修めと参禅証道(第一部)
十一、祖師偈語篇
(一)五祖伝法偈:有情来下種、因地果還生。無情亦無種、無性亦無生。
釈:有情とは衆生を指す。衆生は第八識を持ち、五蘊あるいは四蘊があり、識心の活動があり、寿命を持つ生命体である。無情とは第八識がなく、七つの識がなく、五陰がなく、識心の分別活動がなく、衆生ではない。因地とは、第八識という心の地があるからこそ果実を収穫できる。有情衆生の身に法の種を蒔けば、これらの種は第八識によって貯蔵され、将来縁が熟す時、第八識が種子を出力し、果報が形成される。無情物の身に種を蒔いても無駄である。無情物には識心がなく受け入れ領受せず、第八識も法種を貯蔵しないため、永遠に開花結果しない。一切の法は有情であれ無情であれ、それ自体に自体性がないため、自ら生じることはなく、すべて第八識が様々な縁によって生じ顕現する。
(二)悟了同未悟、不動即如如。狂心歇下時、無缺亦無足。
坐禅して禅心を見、行住また同じ根に復す。爾来一境に帰す、何ぞ須いん浅深を問わん。
悟了同未悟とは、明心開悟した後も、人は依然として以前の人であるが、ただ心の行いが変わり、定慧が増長したことを意味する。
不動即如如とは、如来蔵は未悟前の如来蔵と同じく、依然として境に対して如如不動である。
狂心歇下時、無缺亦無足とは、生滅妄覚の知心が真如に依止し、一気に休息して再び外に攀縁せず、外に貪求しない。自らの如来蔵が本来自ずから一切の法を具足し、少しも欠けることなく、多く出ることもなく、一切の種子が役立つことを知るからである。
坐禅して禅心を見、行住また同じ根に復すとは、坐禅時のみならず行住坐臥においても自心本性を見ることができ、一切時中において如来蔵の運作と妙用を観察できる。
爾来一境に帰す、何ぞ須いん浅深を問わんとは、これら一切の境界はすべて如来蔵に帰入し、すべて如来蔵の起用であるから、様々な境界に浅深の違いがあるかどうかを問う必要はない。
(三)黄龍禅師の偈に云く:「春は百花あり秋は月、夏は涼風あり冬は雪。若し閑事心頭に掛かること無ければ、これ即ち人間の好時節。」 これは禅師たちが牢関を突破した境界を描写したものである。牢関を過ぎた者は心が清浄を得、内心はもはや世間に貪着しない。彼らは世間に生きながら、一事も心に掛けず、一法にも未練を持たず、自我の五陰に執着せず、自ら証得した真如にも執着せず、内心は坦々蕩々として一物も留めない。人間に生きながら、春夏秋冬の四季を経験するが、心中には一法も情に当たるものはない。景は景、色は色、人は人、物は物であり、一切の法は各々法位に住して私と関わりなく、世間に生きながら飲食を摂るが世間に貪着せず、心は既に解脱を得て拘執がない。
(四)達磨祖師の偈「一華開いて五葉」とは、禅宗という一法脈が六祖に伝わった後、五つの流派に分かれたことを指す:法眼宗・雲門宗・曹洞宗・臨済宗・偽仰宗。結果自然に成るとは、禅宗が伝わり続けることにより、後世自然に無数の人々が悟りを得ることを意味する。