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阿含経十二因縁釈

作者:釈生如更新時間:2025年02月27日

第八章 十二因縁を断じる鍵となる環

第一節 十二因縁の生死連鎖と順逆生死門

一、十二因縁の生死連鎖

無明(意根の無明)→行(身口意の行い)→識(六識および業種)→名色(来世の五蘊)→六入(六根)→触(六根が六塵に触れる)→受(六識の受、意根の受を引き起こす)→愛(六識の愛、主に意根の貪愛)→取(六識の取、主に意根の取)→有(三界五蘊の世間法)→生(五蘊身が三界世間に出生)→老病死苦(五蘊身の滅)。

生死は無明によって生じ、意根の無明が無量の生死を現行させる。意根は無明によって心を動かし、選択を起こし、業行を造作しようとする。これにより六識が生じて意根の願いを満たす身口意の業行を造作し、三界世間の業種が残される。三界の業種が存在すれば、必ず来世に三界を流転する。死後の中有段階で意根は業に随って胎内に入り、最初の名色が生じる。その後六入が次第に具足し、触が現れる。触の後に識の受覚が生じ、受があれば貪愛が止まず、受と塵境を執取し、業種が残され、来世の有が継続して出生・存在し、来世の生が現れ、老病死が必然的に生じる。

名色は最初は意根と受精卵、最終的には五陰身である。入胎時は意根と阿頼耶識が胎内に入り、受精卵と和合して名色となる。完全な名色は六識・六根・六塵を合わせた十八界である。名色はどの識によって生じるのか。前世の六識によって生じる。六識の造作が来世の五陰身の業種を残すため、種子があれば五陰身が生じる。名色が具足すれば内外六入の触が生じ、今世の六識が生まれる。六入が具足すれば五陰身が具足し、六識は身口意行を造作できる。業行があれば種子が生じ、種子があれば果報が生じ、業行後に業種が残り、来世の五陰身を潤す。衆生はこのように生死を繰り返す。

生死輪廻の苦から解脱するには、十二の生死連鎖を断じなければならない。最も重要なのは種子である。六識が業行を造作しなければ業種は残らない。六識が業行を造作しないかは意根の思心所が決定する。意根の思心所が業行を選ばなければ、六識は身口意の業行を造作せず種子を残さない。意根の無明を打破すれば、意根の思心所は業を造作しなくなる。意根の無明を打破するには四聖諦を修習し、十二因縁を修習し、定中の深細な観行により五陰世間の空無我を証得すれば、生死連鎖が解かれ解脱を得る。

二、十二因縁を断じる鍵となる環

十二因縁は三世に通じる。無明・行・識は前世の支分、名色・六入・触・受・愛・取は今世の支分、有・生・老死は来世の支分である。この理を思惟するには順逆二つの方法がある。順に十二因縁を思惟すれば、意根が無明によって行を起こし六識の身口意行が来世の五蘊の老病死苦を生じさせることを理解できる。逆に十二因縁を思惟するには二つの分派がある。一つは名色から前世の六識が造作した業種を遡り、さらに意根の無明に至る。もう一つは名色から生死の源である阿頼耶識を遡る。

逆因縁の第一分派は老死から遡り、生・有・取・愛・受・触・六入・名色・六識・行・無明に至る。今世で生死を断じる要点はどこか。取・愛・受・触の四つの環にある。名色と六入は現世で用いねばならず、滅除すれば自殺に等しい。仮に自殺しても来世の老病死は免れず、六識の業種は前世の身口意行によるもので、懺悔しても名色五陰を滅除できない。来世の解脱を求めるなら、触・受・愛・取の四環に重点を置き修行すべきである。後ろ三つの環は触から流転したもので、直接間接に触を縁として生じるため、触が極めて重要な環である。

触は六根が六塵に触れること、つまり内六入が外六入に触れることである。その後六識が生じて了別し、受が生じ貪瞋が現れ、六塵境界への執取が生じる。これらの業行は今世・来世の老病死苦を招く。六塵に触れないためには、意根の攀縁性を減少・滅除すべきである。意根が六塵を攀縁しなければ触を望まず、触がなければ後続の事象は生じず、心は清浄となる。鍵は意根にある。

意根が六塵を攀縁しなくなるには、禅定を修めることと理を明らかにすることである。定中で六塵境界の無常・生滅性を観行し、理を明らかにすれば無明を断除できる。無明がなければ意根は六塵境界を攀縁せず、自動的に攀縁が減り触の機会が減り、心が清浄となる。心が清浄なら受がなく、受がなければ愛がなく、愛がなければ取がない。

衆生は無始劫来六根が六塵に触れる習慣があり、全てを降伏・除去するのは困難である。生存のため触れざるを得ない場合や受動的な触れもある。一旦触れたら受を減らすか無受とする。触れても心がなければ受がなく、受がなければ愛がなく、愛がなければ取がない。少受・無受を実現するには禅定と観行の智慧が必要で、心が空になり相を離れ境界を受けず、心が清浄なら境界を執取しない。

境界を無受とするのが困難な場合、境界を感受する際に貪瞋を生じさせず、受の無常・虚妄を思惟し、境界の生滅・無常を思惟すれば心は降伏し貪瞋が減少する。愛と受は密接に関連し、受の際に貪愛を生じないのは困難である。この時は必ず禅定が必要で、定力が強ければ愛を降伏させ断除できる。愛を断除するには初禅以上の禅定が必要である。一切の修行過程で禅定を離れることはできず、禅定が浅ければ煩悩を降伏できず、まして断除できず解脱は望めない。

愛を降伏する環で失敗すれば、愛するものを執取することはほぼ避けられない。取を滅するには三果を円満に修め、四果ではもはや執取しない。一瞬の取は避けられないが、瞬間後に智慧で断除する。この現象が続くなら解脱が不堅固な阿羅漢で、臨終の無余涅槃前に不断に加行し、瞬間的に滅度・涅槃する。

要約すれば、触・受・愛・取の四環が全て重要である。前の環を降伏・断除して初めて次の環が生じない。解脱の鍵は触の環にある。一切の修行で環境は重要な要素である。諸仏菩薩が修行したのは寂静な場所で、人や事の妨げがなければ触が少なく功夫が進み速やかに成道する。我々の修行でも縁に随う必要がある場合、静修の因縁条件を多く作り触の因縁を減らすべきで、賑やかな場所では道業を成就できない。

無明の支分は三世に通じる。前世は無明により後の十一支分が生じ、今世も無明により触・受・愛・取が続き、来世も無明によりこのプログラムが継続する。無明はどの環で断除されるか。仏世に十二因縁を修行した者の多くは四聖諦を修習し、証果を得た者で、我見を断じた上で十二因縁を修行し、無明は既に断じられているが不徹底であった。故に十二因縁を修して縁覚辟支仏の果位を得るのは阿羅漢より高く、無明をより多く断じ、禅定と智慧は阿羅漢より深い。無明は多くの層があり、辟支仏も無明を究竟的に断じず、諸仏のみが無明と生死を究竟的に断じる。

三、苦を滅する鍵となる環

老病死憂悲苦悩を滅除するには、十二因縁法のどの環が最も重要か。ある者は取と言い、貪愛と言い、受と言い、触と言い、六入と言い、名色と言い、六識と言い、行と言い、無明と言う。

まず取を滅すれば、来世の有が現れず生死は消滅する。故に取は重要である。取がなければ来世出生の因縁条件がない。取を滅するにはどうするか。貪愛が強い者が取を滅せるか。全くできない。故に貪愛の滅除も重要である。貪愛の滅除は我見を断じた後初禅定を修めて初めて可能となり、貪愛を滅するのは三果・四果の者である。

しかし受が続けば貪愛は滅せない。故に受を滅するのも重要である。受を滅するには境界に触れることによって生じるため、触を減らし滅する必要がある。触を滅するには内六入が存在すれば触れ続けるため、内六入を滅する必要がある。内六入を滅するには名色によるため、名色を滅する必要がある。名色は前世の業種によるため、六識が身口意行を造作しなければ三界の種子が残らず、来世の名色五陰が生じず生死は断たれる。故に六識及びその身口意行を滅除するのが重要である。六識を滅するには意根が決定する。意根が身口意行を造作しようとすれば六識は必ず生じ意根に随順する。意根が三界世間法に心を留めれば、無明がある限り心行は必ず存在し業行を造作しようとする。

故に意根の無明を滅除するのが重要である。無明が滅すれば三界五陰世間は必ず滅尽し塵も残らない。無明を滅尽するには、まず意根の心行を降伏させ、六識の身口意行を降伏させ、六入の触を降伏させ、受覚を降伏させ、貪欲を降伏させ、執取心を降伏させる必要がある。その後断除し滅尽する。降伏の過程は三十七道品・八正道を修し、戒定慧を修する過程である。降伏後、戒律が厳明となり禅定が向上し智慧が増進し身心が軽安すれば、やがて初めての脱胎換骨が起こり、法眼浄となり初果を証得し三昧に入る。二度目の脱胎換骨は初禅定を修めた後、煩悩が次第に脱落断除され、我執が断尽すれば三界世間苦から解脱する。

一つの環を降伏させれば他の環も次第に降伏する。一つの環を断除すれば他の環も次第に断除される。無明の断除が最も根本的で、無明を断たなければ他の全ての環は断尽せず再び芽生える。禅定があれば触が減り受も減り愛も減り取も減る。これらの環は降伏するが、無明を断たなければ再び増盛する。出離心が生じないのは苦を認識しないためで、苦を認識しないのは無明が深いためである。

これらの生死煩悩・生死無明の鍵は意根にある。意根を降伏させ無明を断除するのが最も重要である。意根に無明があれば攀縁し、選択し、六識が生じ、身口意行を造作し、業種が残り、再び名色が生まれ新たな生死が現れる。この循環は終わりがない。我見を断じ初果を証得するのは、初めて意根の無明を断じることで、一部の無明を断じるに過ぎない。その後修行を続け更に断除し、智慧三昧が増進し二果・三果を証得し、三界の無明煩悩を断尽し四果を証得する。故に初果は必ず意根の我見を断じるが、それは粗い部分のみである。

四、十二因縁順生死門

十二因縁の第一支は無明である。衆生は皆無明を持ち、無明が生死の根源であり、生死を造作する因である。無明とは心中の暗黒で、理解しないことである。何を理解しないか。生老病死を理解せず、五陰十八界を理解せず、四聖諦と十二因縁法を理解せず、法界の実相を理解せず、生死を了脱し究竟成仏する理を理解しない。これら全ての不理解が無明である。

無明があれば無明の業行がある。十二因縁の第二支は行で、無明縁行である。意根に無明があるため万法を攀縁し、種々の身口意行を生じる。これにより必ず業種が残り、十二因縁第三支行縁識が現れる。六識の業種が存在すれば必ず来世の名色が生じる。身行とは五陰身の種々の造作(生産・商売・事業・政治・色身維持など)、口行は言語の覚観・思惟・言行造作など、意行は妄想・計画・心中の計算・思量・記憶・推理・判断・想像などの心理活動である。

衆生の全ての行為は身口意の三行を離れない。無明があるため身口意行は貪瞋痴煩悩と相応し、造作されたものは染汚の業行となる。染汚の業種は阿頼耶識に収蔵され、将来種子が成熟すれば来世の果報身が生じ、生死苦悩が続く。六識の造作する業種があるため来世の果報が生じ、十二因縁第四支識縁名色が生じる。名色とは名(名称のみで形色なき法、入胎時は第七識を指し、六根円満時は七識妄心=受想行識四陰)と色(受精卵、身体を表す)を合わせたもので、五陰身を指す。

十二因縁第五支は名色縁六入である。六入は六塵が入る六根である。名色が増長すれば五根が生じ、元々ある意根と合わせて六入となる。第六支は六入縁触で、根は六塵に触れるために存在する。六入があれば必ず触がある。眼根が色塵に触れ、耳根が声塵に触れ、鼻根が香塵に触れ、舌根が味塵に触れ、身根が触塵に触れ、意根が法塵に触れる。六入と六塵が触れた後六識が生じ、受と覚観・了別が生じる。

触の後に受が生じるため、十二因縁第七支は触縁受である。この受はまず接受・領納・感受であり、苦楽受・不苦不楽受が生じる。耳根が声塵に触れ耳識と意識が生じ了別すれば、音楽を聴けば楽受、喧嘩を聴けば苦受が生じる。触縁受は六根触六塵の結果である。受の後に貪愛が生じるため、十二因縁第八支は受縁愛である。受が生じた後、更に喜厭の思想感情が生じ、更なる見聞覚知を望む。

貪愛が生じれば塵境を執取し、取舍の心行が生じる。十二因縁第九支は愛縁取である。好きな塵境が永遠に存在することを望み、嫌いな境界が直ちに消えることを願う。占有・執取の心行があれば、阿頼耶識は意根の執取に随順し、三界の器世間と来世の五蘊身が生じる。十二因縁第十支は取縁有である。三界(欲界・色界・無色界)の五蘊十八界、欲界には男女・男女欲・財色名食睡、色界には性別なき天人・天宮殿、無色界には六七八識と法塵(色身・五塵境なし)がある。意根が三界法を執取するため三界法が感召され、三界の生死苦が現れる。

十二因縁第十一支は有縁生である。三界有の因縁が具足すれば生命は三界に生じる。生存条件が具足しなければ生じない(湿生の衆生は湿潤環境でのみ出生)。意根の執取が強ければ因縁が速やかに具足し生命が速く生じる。

生があれば必ず死がある。不老不死は存在せず、生命は出生後成長・老死し老病死苦が現れ、一切の憂悲苦悩が集起する。十二因縁最終支は生縁老死である。外道が仙道を修し不死を願うが、衆生は如何に長生きしても必ず死ぬ。生老病死は生命の循環周期である。万物に生住異滅、人に生老病死、宇宙器世間に成住壊空の周期がある。衆生は生じた以上必ず死ぬ。これが順十二因縁(順生死門)である。

五、十二因縁逆生死門

十二因縁を逆に観じることは生死を逆転させ解脱する道である。逆十二因縁第一支は老死支。老死が現れるのは生があるため。逆縁第二支は生支。生命が世間に現れるのは意根が三界法を執取するため。第三支は有支、第四支は取支。衆生が三界世俗法を執取するのは内心に貪愛があるため。第五支は愛支。貪愛があるのは三界の六塵境界に受覚があるため。第六支は受支。受が現れるのは触があるため。第七支は触支。触があるのは六入があるため。第八支は六入支。六入があるのは名色があるため。第九支は名色支。名色があるのは六識が不断に身口意行を造作し業種を残すため。第十支は識支。六識の業種が現れるのは意根の心行が不断で六識に身口意行を造作させるため。第十一支は行支。身口意業行が不断なのは意根に無明があり世間を攀縁するため。最終支は無明である。

十二因縁の逆推に十因縁法という別法がある。名色まで遡り、生命の源を思惟する。名色の本源は阿頼耶識であり、名色は阿頼耶識から生じる。阿頼耶識より前には法がなく、阿頼耶識が生死の源である。行縁識支と無明縁行支は名色出生の助縁に過ぎない。中有で意根が阿頼耶識を連れて入胎する。阿頼耶識がなければ意根も存在せず入胎できない。故に名色の源は阿頼耶識(名色縁識)である。

衆生に無明があっても阿頼耶識がなければ名色は生じず、無明すら存在しない。故に衆生出生の直接の根源は阿頼耶識である。阿頼耶識がなければ無明も老病死も三界世間もない。受精卵という名色は阿頼耶識に依って生長する。名色は阿頼耶識に直接由来し、阿頼耶識も名色によって顕現する。名色を離れれば阿頼耶識は顕現・作用できない(識縁名色・名色縁識)。阿頼耶識が存在するため、十二因縁の無明を滅して涅槃に入っても断滅空ではなく、涅槃本際の阿頼耶識が残る。十二因縁各支は阿頼耶識を根本依とする。四果阿羅漢と縁覚仏が無余涅槃に入れるのは涅槃が断滅空でないためである。

六、意根の十二因縁における決定的役割

衆生に老病死の苦があるのは全て無明のためで、この無明は意根の無明である。意根に無明があれば思心所が現れ、六識の身口意行が生じ、業種が残る。十二因縁第二・第三支は意根によって現れる。六識の身口意行は意根に随順し、業種は意根の心行による。来世の名色は意根の無明攀縁による。故に意根は生死を主導し、他法を推進する。意根が染汙すれば六識も染汙し、種子も染汙し、名色の苦受(特に三悪道)が増す。

名色が増長し六入が生じると、六入と六塵の触は意根が主導する。意根の攀縁が多いほど触が多く生死業が増す。触後の受・愛・取は六識のものだが、次の支分を生じさせる決定因は意根の受愛取である。最後の有・生・老死は完全に意根の取による。故に生死輪廻の出現において意根は決定的役割を果たす。

十二因縁は意根が生死の根であることを明らかにする。解脱も沈淪も意根次第である。生死を了脱するには意根の問題を解決し無明を打破せねばならない。意根は四聖諦苦集滅道の根でもある。苦は意根の無明心行が六識に業を造作させ、集は意根が六識に業を造作させ種子を残し、滅は意根の無明心行を滅し、道は意根が法を証得することである。

意根が生死輪廻にこれほど決定的な役割を果たすなら、意根は一切の心所法(善・煩悩・無記)を具足する。意根の心所法が五識・意識の心所法を決定する。意根の心所法が変われば六識の心所法も変わり一切法が変化する。意根の心所法を変えなければ、六識の心所法が変わっても再び元に戻る。意根に煩悩があれば意識が煩悩を断じても再び生じる。意根に禅定がなければ六識の禅定は持続せず散乱する。故に意根の修行が極めて重要である。

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