衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 2301

第四節 苦しみを滅ぼして解脱する道

(二九〇)行を観じて触を縁として受からの解脱を得る

原文:たとえば二本の木が互いに擦れ合う。和合して火が生ずる。もし二本の木が離れ散れば、火もまたそれに従って消える。かくのごとく、あらゆる受は触を縁として集まる。触によって生じ、触によって集まる。もしそれぞれの触が集まるゆえに、それぞれの受もまた集まる。それぞれの触の集まりが滅ぶゆえに、それぞれの受の集まりもまた滅び止む。清涼にして静まり没する。多聞の聖弟子がこのように観ずるならば、色より解脱し、受・想・行・識より解脱し、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみより解脱する。私は彼が苦より解脱を得たと説く。仏がこの経を説き終えられると、諸比丘は仏の説かれたことを聞き、歓喜して奉行した。

釈:仏は説かれた。たとえば二本の木が互いに接触して摩擦すれば、やがて火が生じる。もし二本の木が離れれば、火もまたそれに従って消える。このように、あらゆる受は触を縁として集まり、触によって生じ、触によって集まるのである。もし一つ一つの触が集まる時には、一つ一つの受もまた集まる。一つ一つの触の集まりが滅んだ後には、一つ一つの受の集まりもまた滅び、心は清涼に止まり静かに寂する。多聞の聖弟子がこのように行を観ずれば、色蘊より解脱し、受・想・行・識蘊より解脱し、生・老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみより解脱するであろう。このようにして、私は彼らが苦より解脱を得たと説くのである。

仏は二本の木が互いに摩擦して火を生ずる譬えを用いて、触が集まれば受も集まるという縁起の理を示された。二本の木が摩擦すれば火が生じるが、もし二本の木が接触しなければ、触の因縁がなくなり、火は生じない。衆生の苦悩の因縁は触によって生じる。もし触という因縁がなければ、もはや触れず、受もなくなる。触の因縁がなければ、受の感覚もなくなるのである。

いずれの受であれ、触を縁とするものが積もり集まれば、受の集まりが生じる。縁が絶えず集まれば絶えず集まり、集まりがあれば触があり、触があれば受がある。触が生じ、触が集まれば、受の集まりが生じる。受が生じる条件はまず接触することであり、接触は縁の作用である。縁がなければ接触することはできない。あらゆる事物は縁によってこそ生じ存在するが、その縁は前世の業縁によって生じるのである。触が滅べば受も滅び、受の集まりが滅んだ後には心が滅して止み、清涼となり、静まり没する。

仏は衆生に、触の集まりこそが受の集まりであることを認識させようとされた。触があれば受があり、触は虚妄であり、受もまた虚妄である。受は意識心を主として生じるものであり、触は六根と六塵が触れ合って生じる。この中には縁が必要であり、それによってこそ触れ合う。したがって、あらゆる事物の生起には縁起が必要であり、縁がなければ生起せず、縁があれば生起する。縁起の法もまた虚妄であり、衆縁の和合によって生じるものであり、すなわち真実ではない。ただ第八識の如来蔵のみが条件に依らずして存在し、集起する因縁の法ではないのである。

(二九一)内触法を観察して解脱を得る

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。私は内触法を説く。あなたがたはそれを観取するか。時に一人の異なる比丘が座より立ち上がり、衣服を整え、頭を礼して足を礼し、合掌して仏に白した。世尊、お説きになった内触法は、私はすでに観取いたしました。時にその比丘は仏の前で、かくかくしかじかと自ら記して説いた。かくかくしかじかと、世尊は喜ばれなかった。その時、尊者阿難が仏の後ろで扇を執って仏に扇いでいた。仏は阿難に告げられた。聖なる法と律における内触法は、この比丘の説くものとは異なる。阿難は仏に白した。今こそまさにその時でございます。ただ願わくは世尊、諸比丘のために、賢聖の法と律における内触法をお説きください。諸比丘は聞いた後、受け奉行いたします。

釈:世尊は諸比丘たちに告げられた。私が説く内触法を、あなたがたは観察できるか。その時、外から新しく来た一人の比丘が座から立ち上がり、衣服を整え仏足を礼し、合掌して仏に申し上げた。世尊のお説きになった内触法を、私はすでに観察いたしました。時にこの比丘は仏の前で種々の説法をして自らを証明したが、彼のどの説も世尊はお喜びにならなかった。その時、尊者阿難が仏の後ろで扇子を手に取って仏に扇いでいた。仏は阿難に告げられた。賢聖の法と律に説かれているあの内触法は、この比丘の説く内触法とは異なると。阿難は仏に申し上げた。今こそちょうどお説きくださる時でございます。ただ願わくは世尊、比丘たちのために賢聖の法と律のような内触法をお説きください。比丘たちはお聞きした後、信受奉行すべきです。

内触法とは何か。それは勝義根の内側の触である。眼が色に触れ、耳が声に触れ、鼻が香に触れ、舌が味に触れ、身が触塵に触れ、意が法に触れる。触れた後に識が生じ、識が再び塵に触れる。

原文:仏は阿難に告げられた。善いかな。よく聞け。まさに汝のために説かん。この諸比丘が内触法を観取するには、かくのごとく思惟すべきである。もし衆生の所有する種々の衆苦が生ずるならば、この苦は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるか。かくのごとく観取する時には、この苦が億波提(取)を因とし、億波提を集とし、億波提を生とし、億波提を転とすることを知るべきである。

釈:仏は阿難に告げられた。よろしい、あなたがたはよく聞きなさい。私は今あなたがたのために説く。あなたがた比丘たちが内触法を観察するには、このように思惟すべきである。もし衆生のあらゆる種々の苦悩が生じた時、これらの苦悩の因は何か? 苦悩は何の法が集まったために生じるか? 何の法が生じたためにこれらの苦悩があるか? 何の触が生じたためにこれらの苦悩があるか? このように内触法を観察する時には、これらの苦悩は取を因として現れることを知るべきである。取が集まれば苦悩も集まる。取が生じれば苦悩も生じる。取が流転すれば苦悩も流転するのである。

原文:また比丘よ、内触法を観取し、さらに億波提(取)は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるか。それを観取する時には、億波提は愛を因とし愛を集とし、愛が生じ愛が触れることを知るべきである。また比丘よ、内触法を観取し、さらに愛は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを知るべきである。かくのごとく観取する時には、世間が念う、諦正の色(色蘊)において、それに愛が生じて生じ、繋がれて繋がり、住して住することを知るべきである。

釈:また、比丘よ、あなたがたが内触法を観察する時には、何の法が取を生じる因か? 何の法が集まれば取が集まるか? 何の法が生じれば取が生じるか? 何の法が触れれば取が触れるか? を観察すべきである。あなたがたが観察する時には、貪愛が原因で取が生じることを知るべきである。貪愛が集まれば取も集まる。貪愛が生じれば取も生じる。貪愛が触れれば取も触れる。

諸比丘よ、内触法を観察する時には、さらに貪愛の生じる原因は何か? 何の法が集まれば貪愛が集まるか? 何の法が生じれば貪愛が生じるか? 何の法が触れれば貪愛が触れるか? を観察すべきである。このように観察する時には、世間の人が心に念じている精細純正の色蘊において、貪愛が生じれば色蘊も生じることを知るべきである。心念が貪愛に繋がれる時、色蘊も繋がれる。心念が貪愛に縛られる時、色蘊も縛られるのである。

これは世尊が説かれた十二因縁法の一部である。先に触の集まりが受の集まりの因であると説かれたが、ここでは愛の集まりが取の集まりの因であると説かれている。愛があれば取があり、取があれば生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみの苦がある。貪愛があるゆえに、六塵に執着し、取った後に有が生じ、有があれば生があり、生じた後には苦が出てくるのである。

原文:もし諸沙門・婆羅門が、世間の念う諦正の色(色蘊)について、常なる想い、恒なる想い、安穏なる想い、病なき想い、我の想い、我所有の想いを持って見るならば、この色に対する愛は増長する。愛が増長すれば、億波提(取)が増長する。億波提が増長すれば、苦が増長する。苦が増長すれば、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみから解脱せず。私は彼が苦から解脱しないと説く。

釈:もし沙門・婆羅門が世間の人が憶念する精細純正の色・声・香・味・触・法について、常なる想い、恒なる想い、安穏なる想い、病なき想い、我の想い、我所有の想いを持ち、これらの知見を生じた後には、色・受・想・行・識に対する貪愛は増長する。貪愛が増長すれば、取は増長する。取が増長すれば、苦は増長する。苦が増長すれば、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみからは解脱できず、私は彼らが苦からは解脱しないと説く。

恒とは永遠に変わらず滅しないこと、安穏とは固定して永遠に変わらないこと、永遠に我のものであること、病なしとは過患がないという意味である。衆生はこの六根・六塵・六識を過患のあるものとせず、我であるとし、我の所有であるとするならば、それを追求し、貪愛し、掴み取ろうとする。そうすれば生死輪廻は絶えない。もしこれらの法がすべて過患があり、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみを生じることを知れば、もはやこれらの法を追求することはなくなる。

これらの念いがあると、色への愛は増長し、ますます貪るようになる。貪愛が増長すればするほど、生死を断つことはできず、苦悩は多くなる。この貪愛が増長すれば、執取も増長し、三界の有もまた増長せざるを得なくなる。三界の有が増長すれば、生命は絶えず、苦は絶えず増長する。貪愛が重ければ重いほど苦は多く増長し、ますます生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみから解脱できなくなる。衆生は皆、楽を求めるが、結果は皆苦しむことになる。なぜなら衆生は常に苦の因を造作しているからである。貪愛があれば苦がある。阿羅漢には貪愛がなく、執取もない。ゆえに生老病死の苦はもはやないのである。

原文:たとえば道端に、清涼な池の水があり、香りと味が具わっている。ある人がその中に毒を入れた。陽春の月、諸々の道行く者は、風熱と渇きに迫られ、競って飲もうとする。ある人が言葉をかける。士夫よ、これは清涼な池である。色も香りも味も具わっている。しかし中に毒がある。汝らは飲むな。もし飲むならば、汝らを死なせるか、あるいは死に近い苦しみを与えるであろう。

釈:仏は譬えて説かれた。たとえば道端に清涼な池があり、池の水は香りが具わっている。ある人が毒を池の水に入れた。春が訪れ、天候が暖かくなる時、道行く人々は炎熱のため非常に喉が渇き、この池の水を飲みたくなる。ちょうど水を飲もうとする時、そばの人が彼に言う。この清涼な池の水は、色も香りも味も具わっているが、水の中には毒がある。飲んではいけない。もし飲めば死ぬか、あるいは大病を患うであろうと。

原文:しかし渇いた者は信じずに飲む。美味を得るが、しばらくして死ぬか、死に近い苦しみを受ける。かくのごとく沙門・婆羅門は、世間に愛すべき端正なる色(色蘊)を見て、常なる見解、恒なる見解、安穏なる見解、病なき見解、我・我所有の見解を持ち、ついには生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみから解脱できない。

釈:しかし水を飲もうとする人は、喉が渇きすぎてそばの人の戒めを信じず、ついに飲んでしまう。水を飲む時は清涼で美味しいと感じるが、飲んだ後毒が発現し、その人々はあるいは直ちに死に、あるいは苦しんで死にかける。清涼池の譬えと同じく、沙門・婆羅門は世間に愛すべき端正なる色蘊を見て、恒常不滅のものとし、安穏不変のものとし、何の過患もないものとし、我および我所有のものとする。これらの知見があるゆえに、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみからは解脱できないのである。

原文:もし諸沙門・婆羅門が、世間に愛すべき端正なる色(色蘊)を観察し、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく、殺のごとく、無常・苦・空・非我と見るならば、彼の愛は離れる。愛が離れるゆえに億波提(取)は離れる。億波提が離れるゆえに苦は離れる。苦が離れるゆえに生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみは離れる。

釈:もし沙門・婆羅門が世間に愛すべき端正なる色蘊を見て、これらの色相を病患のごとく、癰のごとく、芒刺のごとく、殺戮のごとく、すべて無常・苦・空・無我であると観察すれば、貪愛は離れる。貪愛が離れれば、取は離れる。取が離れれば、苦は離れる。苦が離れれば、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみは離れる。

原文:たとえば道端の清涼な池の水があり、香りと味が具わっている。ある人がその中に毒を入れた。陽春の月、諸々の道行く者は風熱と渇きに迫られ、競って飲もうとする。ある人が言葉をかける。この水には毒がある。汝らは飲むな。もし飲むならば、汝らを死なせるか、あるいは死に近い苦しみを与えるであろう。彼は思う。この水には毒がある。もし飲むならば、私を死なせるか、あるいは死に近い苦しみを与えるであろう。私はしばらく渇きを忍び、乾いた炒り飯を食べ、水を取って飲まないであろう。

釈:たとえば道端の清涼な池の水があり、香りと味が具わっている。ある人が毒を水中に入れた。道行く人が喉が渇いて水を飲もうとする時、他の人が彼らにこの水には毒がある、飲んではいけない、もし飲めば直ちに死ぬか、あるいは死ぬほど苦しむだろうと告げる。水を飲もうとする人は、ここにある水には毒がある、毒のある水は飲めない、飲めば死ぬ、それではしばらく渇きを耐えよう、ただ乾いた炒り飯だけを食べ、水は飲まないと考える。そこでこれらの道行く人は立ち去り、毒水を飲まない。ゆえに中毒して死ぬことはない。

では我々は今後、心の中で警戒して覚えておくべきである。もう毒水を飲んではいけない。一念の貪愛が生じれば自らに言う。私はもう貪愛してはならない、もう毒水を飲んではいけない。何かの法が好きになれば自らに言う。私はもう好きになってはならない、好きになれば毒水を飲むようなものだ。何かを惜しめば自らに言う。私はもう惜しんではいけない、惜しめば毒水を飲むようなものだ。徐々にこの貪愛は薄れ、やがては滅び、最後には苦はなくなる。このように少しずつ自らを戒め、最終的には解脱の道へと進むことができるのである。

原文:かくのごとく沙門・婆羅門は、世間に愛すべき色(色蘊)を、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく、殺のごとく、無常・苦・空・非我と観察し、ついには生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみから解脱する。それゆえ阿難よ、この法についてかくのごとく見、かくのごとく聞き、かくのごとく覚り、かくのごとく知るべきである。過去・未来に対してもまたこの道のごとく、かくのごとく観察すべきである。

釈:かくのごとく、沙門・婆羅門は世間に愛すべき色蘊を、病のごとく、癰のごとく、刺のごとく、その無常・苦・空・非我性を観察すれば、このように貪愛から遠ざかるであろう。生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみから解脱できるであろう。阿難よ、それゆえにこの内触法についてかくのごとく見、かくのごとく聞き、かくのごとく覚り、かくのごとく知るべきである。過去・未来の内触についてもかくのごとく扱い、かくのごとく観察すべきである。観察に観察を重ね、ついには一切の法は無常・苦・空・無我であることを証得する。そうすればもはや貪愛も執取もせず、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみは滅び、心は解脱し、清涼・寂静となる。

(二九二)苦を滅する道

原文:その時、世尊は諸比丘に告げられた。いかに思量し観察して苦を正しく尽くし、苦の果てに究竟するか。苦を尽くし苦の果てに究竟する時、衆生の所有するあらゆる苦、種々の差別を思量する。この諸々の苦は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるか。取を因とし取を集とし、取が生じ取が触れることを思量する。もしそれらの取が滅びて余すところなければ、衆苦は滅びる。彼が依る苦を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修行する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち取が滅びることである。

釈:世尊は諸比丘に告げられた。いかに思量し観察すれば完全徹底的に苦を滅尽し、究竟苦の果てに到達できるか。究竟苦の果てに到達しようとする時には、衆生のあらゆる苦、およびこれらの苦の種々の差別相を思量すべきである。これらの苦は何の因縁によって現れるか、何の法の集起によって感召されるか、何の原因によって生じるか、何の法の触によって生じるかを思量する。

最後に、取が原因で苦が現れること、取の集起が苦を現出させること、取の生起が苦を生じさせること、取の触が苦を生じさせることを思量する。もしそれらの取がことごとく滅尽して残るものなくば、一切の苦はことごとく滅びる。比丘たちは苦を滅ぼす修道の方法を修習し、如実に了知すべきであり、また苦を正しく尽くす方向に向かう助道法や次要法を修行すべきである。こうして比丘たちは苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達できる。これが取を滅ぼす方法である。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、その取は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。その取は愛を因とし愛を集とし、愛が生じ愛が触れることを思量する。その愛が永遠に滅びて余すところなければ、取もまたそれに従って滅びる。彼が依る取を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち愛が滅びることである。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、取は何の因縁によって現れるか、何の法が集まって取が現れるか、何の法が生じて取が生じるか、何の法が触れて取が生じるかを思量すべきである。最後に取の現れは貪愛が原因であること、貪愛の集起の因縁によって生じること、貪愛が生じれば取が生じること、貪愛が触れれば取が生じることを思量する。貪愛が滅べば取はそれに従って滅びる。比丘たちは修習する取着を滅除する道の跡と路を如実に了知すべきであり、また苦を滅ぼす方向に向かう法と苦を滅ぼすのを助ける次要法を修行すべきである。これが比丘が次第に苦を正しく尽くす方向に向かう方法であり、究竟苦の果てに到達できる。すなわち貪愛が滅尽することである。

衆生がもし取を滅ぼし、もはや諸法に執着しなければ、衆苦は滅びる。究竟的にいかに苦を滅ぼすか、その中で修めるべき道は何か、我々は如実に了知すべきである。如実に苦を滅ぼす修行方法を了知することは、苦を正しく尽くす方向に向かう向法と次法を修習することである。すなわち三十七道品、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道を含む。向とは苦を滅ぼす方向に向かうことであり、次とは次要の助けとなる法である。主たる法は五蘊を観察して我見を断つことである。向法・次法を修習する目的は我見を断つ準備をし、見道の前提条件を満たすためであり、はじめて理にかなって観察・観行し、ついには我見を断つことができるのである。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、その愛は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。その愛は受を因とし受を集とし、受が生じ受が触れることを知る。その受が永遠に滅びて余すところなければ、愛もまた滅びる。彼が依る愛を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち受が滅びることである。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、貪愛は何の因縁によって生じるか、何の法の集起によって生じるか、何の法が生じて生じるか、何の法が触れて生じるかを思量すべきである。思量観察の後、貪愛は受の因縁によって生じること、受が集まって生じること、受が生じれば貪愛が生じること、受が触れれば貪愛が生じることを知る。もし受が永遠に滅尽すれば、貪愛は滅びる。比丘たちは修習する愛を滅ぼす修道の軌跡を如実に了知すべきであり、また向法と助道法を修習すべきである。こうして比丘たちは苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達できる。すなわち受覚を滅除することである。

受の前には触がある。触れなければ受は生じず、受がなければ貪愛はない。貪愛がなければ取はない。衆生は毎日絶えず触れている。六根が六塵に触れなければ耐えられないと感じる。なぜ耐えられないと感じるのか? 無明のためである。触の根源は無明である。真の修行人のみが意根を降伏させ、攀縁を止め、空を証得して、はじめてもはや触れたくなくなり、寂静に耐えられるようになるのである。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、その触は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。その触は六入処を因とし、六入処を集とし、六入処が生じ六入処が触れることを知るべきである。それらの六入処が滅びて余すところなければ、触もまた滅びる。彼が依る六入処を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、さらに触は何の因縁法によって現れるか、何の法が集起して生じるか、何の法が生じた後に引き起こされるか、何の法が触れた後に生じるかを思量すべきである。観察の後、触は六入処の因縁によって現れること、六入処の集起によって現れること、六入処の生起が触の現れを引き起こすこと、六入処が触れることによって触が生じることを知るべきである。ただ六入処が滅尽してはじめて、触は滅びる。比丘たちは自らが修習する六入処滅尽の軌跡を如実に了知すべきであり、苦を正しく尽くす方向に向かう向道法と次要法を修習すべきである。これが比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達することである。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、それらの六入処は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。それらの六入処は名色を因とし、名色を集とし、名色が生じ名色が触れることを知るべきである。名色が永遠に滅びて余すところなければ、六入処もまた滅びる。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、六入処は何の因縁法によって生じるか、何の法の集起によって生じるか、何の法の生起によって生じるか、何の法が触れて生じるかを思量すべきである。観察の後、六入処は名色の因縁によって生じること、名色の集起によって生じること、名色の生起が六入処の生起を引き起こすこと、名色が触れることが六入処の生起を引き起こすことを知るべきである。名色がことごとく滅尽して残るものない時、六入処はそれに従って滅尽する。

原文:彼が依る名色を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち名色が滅びることである。

釈:比丘たちは自らが修習する名色を滅ぼす道の跡を如実に了知すべきであり、また向道の法と次要の助道法を修習すべきである。これが比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達することである。すなわち名色を滅尽することである。

名色五陰があれば六入がある。衆生がいれば六入がある。六根が不完全な者を除けば、六入処が現れる因縁は名色があるためである。名色はいつから現れるか? 受精卵から現れ、母胎を出て肉身に成長し、死に至るまでの期間、すなわち一期の名色である。五陰とは色・受・想・行・識であり、色は身体、名は七つの識と七つの識の機能作用である。五陰が衆生を構成し、衆生を名色といい、名色をまた五陰ともいう。名色すなわち受精卵があれば、眼・耳・鼻・舌・身の五根が成長する。五根が成長すれば触れ、触れれば受があり、受があれば愛があり、愛の後には取があり、取があれば有があり、有があれば生があり、生の後には老・病・死・憂い・悲しみ・悩み・苦しみがある。これは生死の因縁の連鎖である。

比丘がさらに苦を滅ぼし究竟苦の果てに到達しようと観察する時には、六入の因はすべて名色によるものであり、名色が集まれば六入が集まり、名色が生じれば六入が生じ、名色が触れれば六入が触れることを思量すべきである。名色を永遠に滅尽して残るものなければ、六入は滅びる。いかに名色を滅ぼすか? これには向法・次法・助道の法を修習し、修習した後に一つ一つ観行すれば、名色を滅ぼし、五陰を滅ぼすことができる。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、名色は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。その名色は識を因とし識を集とし、識が生じ識が触れることを知るべきである。それらの識が滅ぼされ余すところなければ、名色もまた滅びる。彼が依る識を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち識が滅びることである。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、名色は何の因縁によって生じるか、何の法が集起して生じるか、何の法が生じて名色が生じるか、何の法が触れて名色が生じるかを思量すべきである。

観察思量の後、名色の生起は六識の業種の因縁によること、六識の業種が集起することによって生じること、六識の業種が現れれば後世の名色の生起を引き起こすこと、六識の業種が触れることによって後世の名色が生じることを知る。六識の業種がもし滅尽して残るものなければ、名色はそれに従って滅尽する。比丘たちは修習して六識の業種を滅尽する道の跡を如実に了知すべきであり、向道の法と次要の助道の法を修習すべきである。これが比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達することである。すなわち六識の業種を滅尽することである。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、それらの識は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。それらの識は行を因とし行を集とし、行が生じ行が触れることを知るべきである。諸々の福行を作れば、善き識が生じる。諸々の不福なる不善の行を作れば、不善なる識が生じる。無所有の行を作れば、無所有の識が生じる。これがそれらの識が行を因とし行を集とし、行が生じ行が触れることである。それらの行が滅ぼされ余すところなければ、識もまた滅びる。彼が依る行を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち行が滅びることである。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、六識の業種は何の因縁によって生じるか、何の法が集起して六識の業種が現れるか、何の法が生じて六識の業種が生じるか、何の法が触れて六識の業種が生じるかを思量すべきである。観察思量の後、六識の業種は身口意の行の因縁によって生じること、身口意の行が集起して六識の業種が生じること、身口意の業行が生じれば六識が生じること、身口意の業行が触れれば六識の業種が生じることを知る。

もし福行・善行を造作すれば、善き六識の業種が生じる。もし非福行・不善の行を造作すれば、不善なる六識の業種が生じる。もし不善でも悪でもない行を造作すれば、不善でも悪でもない六識の業種が生じる。これを身口意の行の因縁、身口意の行の集まりが六識の業種の生起を決定し、身口意の行が生じ、行が触れることによって六識の業種が生じるという。もし身口意の行が滅尽して業行がまったくなくなれば、六識の業種はそれに従って滅尽する。比丘たちは修習する行を滅ぼす修道の道を如実に了知すべきであり、向道の法と助道の法を修習すべきである。ゆえに行が滅べば比丘は苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達する。

なぜなら六根における身口意の業行が絶えなければ、六識の業種は絶えず生じ、業種が残されれば未来世の名色がある。もし何の身口意の業行もなければ、六識の業種は生じず、業種が残らなければ未来世の名色はない。名色が生じた後には六入があり、六入があれば触があり、触があれば受があり、受があれば貪愛があり、貪愛があれば執取があり、それから三界の有が現れ、五陰身が生じ、これによって生命は絶えず、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみが再び循環し始める。これはすべて身口意の業行が絶えない結果である。

原文:また比丘よ、苦を正しく尽くし苦の果てに究竟することを思量し観察する時、それらの行は何を因とし何を集とし、何が生じ何が触れるかを思量する。それらの行は無明を因とし、無明を集とし、無明が生じ無明が触れることを知るべきである。それらの福行は無明を縁とし、非福行もまた無明を縁とし、非福でも福でもない行もまた無明を縁とする。

釈:また、比丘が苦を正しく尽くし、究竟苦の果てに到達しようと思量し観察する時には、身口意の業行は何の原因によって生じるか、何の法が集起して身口意の業行が現れるか、何の法が生じて身口意の業行が生じるか、何の法が触れて身口意の業行が生じるかを思量すべきである。思量の後、身口意の業行は無明のゆえに現れること、無明が集起して身口意の業行が生じること、無明が生じれば身口意の業行が生じること、無明が触れれば身口意の業行が現れることを知る。福業を造作する身口意の業行は無明のゆえに生じ、非福不善の身口意の行は無明のゆえに生じ、さらに福でもなく福でない心行でもない身口意の業行は無明のゆえに生じる。

原文:それゆえ知るべきである。それらの行は無明を因とし、無明を集とし、無明が生じ無明が触れる。それらの無明が永遠に滅びて余すところなければ、行もまた滅びる。彼が依る無明を滅ぼす道の跡を如実に知り、それに向かう次第の法を修習する。これを比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、苦の果てに究竟すると名づける。すなわち無明が滅びることである。

釈:それゆえ比丘たちは知るべきである。身口意の業行は無明を因縁として生じ、無明の集起によって生じ、無明の生起によって生じ、無明が触れることによって生じる。もし意根の無明が永遠に滅尽して残るものなければ、身口意の業行はそれに従って滅尽する。比丘たちは修習する無明を滅尽する道の跡を如実に了知すべきであり、向道の法と助道の法を修習すべきである。こうしてはじめて比丘が苦を正しく尽くす方向に向かい、究竟苦の果てに到達するといえる。すなわち無明を滅尽することである。

原文:仏は比丘に告げられた。あなたがたはどう思うか。もし無明を喜ばずして明が生じたならば、再びその無明に縁って、福行・非福行・無所有行を作るであろうか。

釈:仏は比丘たちに言われた。あなたがたはこのことをどう考えるか。もしあなたがたが無明を喜ばず、心に明が生じたならば、その後、再び意根の無明によって福行や非福行、あるいは非福行でも非非福行でもない捨行を造作するであろうか?

明と無明は二つの対立する面である。無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明が少し減れば残りは明である。もしすべて明であれば、無明はない。天秤の両端のようである。無明が高ければ明は低い。無明があれば明はなく、明があれば無明はない。無明がなければ、六識はもはや身口意の行を造作せず、業種を残さず、再び生を受けることもなく、名色もなくなる。名色がなければ六入はない。六入がなければ触れず、触れなければ受がない。受がなければ貪愛せず、貪愛しなければ掴み取ろうとしない。掴み取り占有しようとしなければ、生存の条件がなく、三界の有もなくなる。有がなければ名色は生じず、そうなれば老病死・憂い悲しみ悩み苦しみはすべて滅び、再び現れることはない。生死の苦の問題は解決される。

こうして比丘たちは三界を出離し、解脱を得る。しかしこの解脱はまだ究竟の解脱ではない。ただ一念の無明を一時的に滅しただけの解脱であり、なお極めて多くの微細な無明が滅しておらず、したがって微細な生死の苦が滅していない。ゆえに解脱は究竟ではない。仏の解脱こそが究竟の解脱である。いかにして仏のように究竟解脱するか? それならば三界を出ず、大誓願を発し、大乗を修習し続け、五蘊身を保ち、自らを度し他を度し、上求下化し、一切の法を円満して、はじめて究竟の解脱を得るのである。

原文:比丘は仏に白した。いいえ、世尊。なぜならば、多聞の聖弟子は無明を喜ばずして明を生じる。無明が滅びれば行が滅び、行が滅びれば識が滅び、かくのごとくついには生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみが滅びる。かくのごとくかくのごとく、純大苦聚は滅びるからである。

釈:比丘は世尊に答えた。無明がなければもはや何の行も造作しません、世尊。なぜなら多聞の聖弟子がもし無明を喜ばず、無明が滅びて明が生じるならば、無明が滅びれば身口意の業行も滅び、身口意の業行が滅びれば六識の業種も滅び、六識の業種が滅びれば、生老病死・憂い悲しみ悩み苦しみ、かくのごとくついには純大苦聚もことごとく滅びるからです。

原文:仏は言われた。善いかな善いかな、比丘よ。私もまたかくのごとく説く。汝らもまたこれを知る。あれこれの法によってあれこれの法が起こり、あれこれの法があれこれの法を生じ、あれこれの法があれこれの法を滅ぼす。滅びて止み清涼となり静まり没する。もし多聞の聖弟子が無明を離欲して明を生じるならば、身体の範囲において受けるべき覚りが生じる。身体の範囲において受けるべき覚りが生じた時、如実に知るべきである。もし寿命の範囲において受けるべき覚りが生じるならば、寿命の範囲において受けるべき覚りが生じた時、如実に知るべきである。身体が壊れ寿命が尽きようとする時、これらのあらゆる受と一切の覚りは、滅尽して余すところない。

釈:仏は言われた。よろしい、比丘たちよ。私もまたこのように説く。あなたがたもまたそうであることを知っている。あれこれの法によって他のあれこれの法が集起し、他のあれこれの法を生じ、他のあれこれの法を滅ぼし、最後に心は寂滅無為となり、心は清涼に止み静まる。もし多聞の聖弟子が無明を滅ぼし、心が離欲して明を生じるならば、色身には解脱の受と覚りが現れる。もし色身に解脱の受と覚りが現れたならば、如実に了知すべきである。もし寿命に解脱の受と覚りが現れたならば、その時には如実に了知すべきである。身が壊れ命が終わろうとする時、身心のあらゆる受と一切の覚りは滅尽して余すところなくなる。

原文:たとえば力士が新しく焼き上がった瓦器を取り、熱いうちに地に置く。しばらくして散り壊れ、熱の勢いはことごとく滅びる。かくのごとく比丘よ、無明を離欲して明を生じ、身体の範囲における受けるべき覚りを如実に知り、寿命の範囲における受けるべき覚りを如実に知る。身体が壊れ命が終わる時、一切の受けるべき覚りは悉く滅びて余すところない。

釈:たとえば一人の大力士が新しく焼き上がった瓦器を取り、瓦器がまだ熱いうちに地面に落とす。瓦器はたちまち砕け散り、瓦器の熱さもすべて消える。身体の範囲の受覚と寿命の範囲の受覚もまたこのようであり、たちまち消え失せる。かくのごとく比丘よ、無明を滅尽し離欲した阿羅漢の心に明が生じ、色身のすべての受覚を如実に了知し、寿命の受覚を如実に了知する。身が壊れ命が終わる時、これらすべての受覚は完全に消滅して余すところない。

ページトップへ戻る