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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 1753

第八章 十二因縁を断つ鍵となる環節

第一節  十二因縁の生死の連鎖及び順逆の生死の門

一、十二因縁の生死の連鎖

無明(末那識の無明)――行(身口意の行い)――識(六識及び業種)――名色(来世の五蘊)――六入(六根)――触(六根が六塵に触れること)――受(六識の受、これにより末那識の受を引き起こす)――愛(六識の愛、主に末那識の貪愛)――取(六識の取、主に末那識の取)――有(三界五蘊の世間法)――生(五蘊身が三界世間に出生すること)――老病死苦(五蘊身の滅)。

生死は無明によって生じ、末那識の無明が無量の生死の現行を引き起こす。末那識は無明の故に心を動かし念を起こし、選択をなし、業行を造作しようとする。そこで六識が出生し末那識の願いを満たして身口意の業行を造作する。よって三界世間の業種が残される。三界の業種がある故に、必ず来世に三界中を流転する。死後の中有の段階で末那識は業に随って胎に入り、最初の名色が生じる。その後六入が次第に具足し、触が現れる。触に随って、識の受覚が現れる。受がある故に貪愛が止まず、そこで受と塵境を執取し、業種が残され、来世の有が必ず続いて出生し存在する。来世の生が現れ、老病死が必然的に現れる。

名色は、最初は末那識と受精卵であり、最後は五陰身である。入胎時は末那識と阿頼耶識が入胎し、受精卵と和合して名色となる。完全な名色とは六識、六根に六塵を加えた十八界である。では名色はどの識によって出生するのか? どの識を借りて出生するのか? 前世の六識を必要とする。なぜなら六識の造作は来世の五陰身の業種を残すことができ、種子があって初めて五陰身があるからである。名色が具足して初めて、内外六入の触があり、その後今世の六識が出生する。六入が具足して初めて六識があり、六入が具足する時五陰身が具足し、六識は身口意行を造作できるようになる。業行があれば種子があり、種子があれば果がある。業行の後に業種が残り、来世の五陰身を資潤する。衆生はこのようにして生々不息(生死を繰り返す)のである。

生死輪廻の苦から解脱しようとするならば、十二の生死の連鎖を解き放たねばならない。最も重要な問題は種子である。六識がもはや業行を造作しなければ、業種を残さない。六識が業行を造作しないかどうかは完全に末那識の思心所によって決まる。末那識の思心所がもはや業行を造作することを選択しなければ、六識は身口意の業行を造作せず、種子を残さない。末那識の思心所が業を造作しないようにするためには、末那識の無明を破らねばならない。末那識の無明を破るためには、四聖諦の法を修習し、十二因縁を修習し、定中で深細な観行を行い、五陰世間が空で無我であることを証得した後、次第に生死の連鎖が解かれ、解脱を得るのである。

二、十二因縁を断つ鍵となる環節

十二因縁は三世に通じる。無明、行、識は前世の支分であり、名色、六入、触、受、愛、取は今世の支分であり、有、生、老死は来世の支分である。この理を思惟する際には順と逆の二つの方法がある。十二因縁に順って思惟すれば、末那識が無明によって行いを起こし生じた六識の身口意行が、来世の五陰の生老病死苦を引き起こすことを理解できる。十二因縁に逆らって思惟するには二つの分岐がある。一つの分岐は名色から前世の六識が造作した業行が残した業種を遡り、さらに末那識の無明に遡る。もう一つの分岐は名色から生死の源である阿頼耶識に遡る。

このうち逆因縁の第一分岐は、老死から始めて遡り、順に生、有、取、愛、受、触、六入、名色、六識、行、無明に至る。今世で生死を断つ重点はどこにあるか? 取、愛、受、触の四つの環節にある。なぜなら名色と六入は必ず用いねばならず、今滅除することはできない。もし滅除しようとするならば自殺し死なねばならず、たとえ自殺して死んでも来世の生老病死は避けられない。一方、六識の業種は前世に造作した身口意行が落としたものであり、たとえ懺悔しても名色五陰を滅除することはできない。では来世で生死を解脱しようとするならば、触、受、愛、取の四つの環節に重点を置いて修行すべきであり、後の三つの環節は触から流転して出たもので、全て直接または間接に触を縁として生じる。故に触は非常に重要な一環節である。

触とは六根が六塵に触れることであり、内六入が外六入に触れることである。その後六識が出生して了別を加え、さらに受が生じ、そこで貪瞋が現れ、六塵境界への執取もそれに伴って現れる。これらの業行は今世と来世の生老病死苦を引き起こす。どうすれば六塵への触を避けられるか? それには末那識の攀縁性を減らし滅除せねばならない。末那識が六塵を攀縁しなければ、もはや六塵に触れようとせず、もし六塵に触れなければ後には何も起こらず、心は清浄となる。故に鍵はやはり末那識にある。

どうすれば末那識がもはや六塵を攀縁しないようにできるか? 一つは禅定を修めること、二つ目は理を明らかにすることである。定中で六塵境界の無常と生滅性を観行し、理を明らかにすれば無明を断除できる。無明がなければ末那識はもはや六塵境界を攀縁せず、六塵境界に興味を持たなくなり、自動的に攀縁が減り、触の回数と時間が減り、次第に心が清浄となる。心が清浄になれば受がなく、受がなければ愛がなく、愛がなければ取がない。

衆生は無始劫以来、六根が六塵に触れることに慣れており、全てを降伏し除去するのは難しい。時には生存の必要で触れざるを得ない場合もあり、あるいは受動的に触れることもある。一旦触れた後は、受を減らすか、受けないようにせねばならない。触れた時に無心であれば、受がなく、受がなければ愛さず、愛さなければ取らない。少受または無受を実現するためには、禅定が必要であり、観行の智慧も必要である。そうして心が空となり、相を離れ、境界を受けず、心が清浄となり、境界を取着することもなくなる。

もし境界を受けないことが困難で、完全には実現できないならば、境界を感受する際に、なるべく貪瞋を生じさせず、受の無常と虚妄を思索し、境界の生滅と無常を思索すれば、心は降伏し、貪瞋は減らせる。愛と受は繋がりが密接で、受の際に貪愛を生じさせないのは難しい。この時には必ず禅定が必要であり、定力が強くなければ愛を降伏できず、ましてや断除できない。そして愛を断除するには初禅以上の禅定がなければならない。一切の法の修行過程において、禅定を離れることはできない。禅定が浅ければ煩悩は降伏できず、ましてや断除できず、解脱は望めない。

愛を降伏するこの環節で失敗したならば、愛するものを取着することはほぼ避けられない。取着しないようにするのは非常に難しい。取が滅するのは三果の修行が円満になった時であり、四果ではもはや取着しない。一瞬の取は避けられないかもしれないが、瞬間の後には智慧によって断除される。もし常にこのような現象が起こるならば、解脱があまり堅固でない阿羅漢であり、臨終の無余涅槃の前に不断に加行を行い、瞬間に滅度し涅槃に入るのである。

まとめると、触、受、愛、取の四つの環節は全て重要である。前の環節を降伏し断除して初めて、後の環節が生じない可能性がある。故に解脱の最も重要な鍵はやはり触という環節である。一切の法の修行において、環境は重要な要素の一つである。諸仏菩薩が修行する際は、全て寂靜で僻静な場所で、人も事も邪魔せず、触も少なく、功夫の進展は速く、成道も速い。故に我々の修行はやむを得ず随縁する場合でも、静修の因縁条件を多く作り、触の因縁をなるべく減らすことが修行に適しており、賑やかな場所では道業を成就することはできない。

無明という支分は三世に通じる。前世は無明の故に後の十一支分があり、今世も無明の故に触受愛取が絶えず、来世も無明の故にこれらのプログラムが続いて運作され、三世の生死が絶えない。無明はどの環節で断除されるのか? 実は仏在世の時、十二因縁を修行した者の多くは四聖諦を修行しており、証果を得た者さえもいた。我見を断除した上でさらに十二因縁を修行し、無明はすでに断除されていたが、究竟徹底していなかった。故に十二因縁を修行して縁覚辟支仏の果位を証得することは阿羅漢の果位より高く、無明をより多く断除し、禅定と智慧は阿羅漢より深い。無明は多くのレベルに分かれており、辟支仏も究竟に無明を断じたわけではなく、諸仏のみが究竟に無明と生死を了断したのである。

三、苦を滅する鍵となる環節 

もし生老病死憂悲苦悩を滅除しようとするならば、十二因縁法の中でどの環節が最も重要か? あるいは十二因縁法の中でどの環節が最も直接的に生老病死憂悲苦悩を引き起こすか? 取であると言う者もいれば、貪愛であると言う者も、受であると言う者も、触であると言う者も、六入であると言う者も、名色があるからだと言う者も、六識であると言う者も、行であると言う者も、無明であると言う者もいる。

まず、取を滅すれば、もはや取着せず、来世の有は現れず、生死はここで消滅する。故に取は比較的重要である。取がなければ、来世が出生する因縁条件がない。もし取を滅しようとするならば、どうすればよいか? もしある人が非常に貪愛しているならば、取を滅することはできるか? 全くできない。故に貪愛を滅除することも重要である。貪愛の滅除は我見を断った後に初禅定を修めて初めて可能となり、貪愛を滅除する者は三果・四果の人である。

しかし、もしある人が絶えず受を続けるならば、貪愛は生じないように滅除できるか? 全くできない。故に受を滅することも重要である。どうすれば受を滅するか? 受は境界に触れることによって生じる。触を減らし、滅するだけで受を減らし、滅することができる。故に触を滅することも重要である。どうすれば触を滅するか? 内六入があれば絶えず触れざるを得ず、触れなければ非常に苦しい。触れないわけにはいかない。故に内六入を滅することが重要である。

どうすれば内六入を滅するか? 内六入は名色から来ており、名色があれば内六入がある。故に名色を滅することが重要である。どうすれば名色を滅するか? 名色は前世の業種から来ており、業種は六識が造作した身口意行が残したものである。もし六識が身口意行を造作しなければ、三界の種子はなく、来世の名色五陰の出生もなく、生死は終わる。故に六識及び六識の身口意行を滅除することが重要である。どうすれば六識を滅するか? 六識の出生は末那識によって決まる。末那識が身口意行を造作しようとすれば、六識は必ず出生し末那識の心行に従って造作する。末那識が三界世間法に心を有し、三界世間を行ずるのは、末那識の無明による。末那識に無明さえあれば、必ず心行があり、必ず業行を造作しようとする。

故に末那識の無明を滅除することが重要である。無明が一度滅すれば、三界五陰世間は必ず滅尽し、塵さえ現れない。どうすれば無明を滅尽するか? 修行はまず末那識の心行を降伏し、六識の身口意行を降伏し、六入の触を降伏し、受覚を降伏し、貪欲を降伏し、取着心を降伏し、その後で初めて断除し、滅尽に至る。降伏の過程とは、三十七道品を修行し八正道を修行する過程であり、戒定慧を修行する過程である。降伏した後、戒律が厳明になり、禅定が向上し、智慧が増進し、身心が軽安となり、やがて初めて脱胎換骨する。その後法眼浄となり、初果を証し、三昧に入る。二度目の脱胎換骨は初禅定を修めた後であり、煩悩が次第に脱落断除され、我執が断じ尽くされた時、三界世間の苦から解脱する。

一つの環節を降伏すれば、他の環節も次第に降伏される。一つの環節を断除すれば、他の環節も次第に断除される。この中で無明の断除が最も根本的である。無明を断たなければ、他の全ての環節は断じ尽くされず、再び根を張り芽を出す。禅定がある時は触が減り、受も減り、愛も減り、取も減り、これらの環節は降伏される。しかし無明を断たなければ、これらの環節は再び増盛する。出離心が生じないのは、苦を認識していないからであり、苦を認識できないのは無明があるからであり、無明が比較的重いからである。

これらの生死煩悩、生死無明の鍵は、全て末那識にある。末那識を降伏し、末那識の無明を断除することが最も重要である。末那識に無明があれば攀縁し、その後選択をなし、その後六識が出生し、その後身口意行を造作し、その後業種が残され、その後再び名色に投胎し出生し、新たな生死が現れる。このように循環反復し、終わりがない。我見を断じ初果を証することは、初めて末那識の無明を断除するが、末那識の無明の一部のみを断じ、比較的粗重な部分だけである。

四、十二因縁順生死門

十二因縁の第一支は無明である。衆生には皆無明があり、無明は生死の根源であり、生死を造り出す因である。無明とは何か? 無明とは心中の暗闇であり、分からず理解しないことである。何が分からないのか? 生老病死が分からず、五陰十八界が分からず、四聖諦と十二因縁法が分からず、法界実相が分からず、生を了し死を脱し究竟に仏となる理が分からない。これら全て分からないことが無明である。

無明があれば無明の業行がある。十二因縁の第二支は行であり、無明縁行である。末那識に無明がある故に万法に攀縁し、さらに種々の身口意行を生じさせる。こうして必ず業種が残される。そこで十二因縁の第三支行縁識により、六識の業種が現れる。業種があれば必ず来世の名色を生じる。身行とは五陰身の種々の造作、生産、商売、事業、政治、色身の存在維持などの行為を指す。口行とは言語の覚観、思惟、言行の造作などの行為を指す。意行とは妄想、計画、心の中の打算、思量、回憶、推理、判断、想像などの心理活動を指す。

衆生の一切の行為は身・口・意のこの三行の造作を離れられない。無明がある故に、身口意行は貪瞋痴の煩悩と相応し、造作されたものは染汚の業行であり、染汚の業種は阿頼耶識に収蔵され、将来業種が熟して来世の果報身が出生する。よって生死苦悩が絶えない。六識が造作した業種がある故に来世の果報があり、そこで十二因縁の第四支識縁名色が生じる。名色とは何か? 名とは名のみの法で形色がなく、入胎時には第七識を指し、六根が円満した時は七つの識妄心、すなわち受想行識の四陰を指す。色とは受精卵であり、身体を表し、名色は身心五陰を表す。色身と識心を合わせて名色という。

十二因縁第五支は名色縁六入である。六入とは六塵がそこから入ってくる六根である。名色が増長すれば五根が生じ、元々ある末那識と合わせて六入となる。名色がある故に六入が生じる。第六支は六入縁触である。根の存在は六塵に触れるためである。故に六入があれば必ず触がある。眼根が色塵に触れ、耳根が声塵に触れ、鼻根が香塵に触れ、舌根が味塵に触れ、身根が触塵に触れ、末那識が法塵に触れる。六入と六塵が相触れた後、六識が生じ、受があり、覚観と了別がある。

触の後に受が生じる。故に十二因縁第七支は触縁受である。この受はまず受け入れ、領納し、感受することである。その後苦楽受と不苦不楽受がある。例えば耳根が声塵に触れ、耳識と意識が出生して了別し、苦・楽・不苦不楽の感受がある。音楽を聞けば楽受があり、争い声を聞けば苦受がある。触縁受は六根が六塵に触れた結果である。受の後に貪愛が生じる。故に十二因縁第八支は受縁愛である。受が生じた後、さらに進んで喜厭の思想情緒が生じ、更なる見聞覚知を望む。

貪愛が生じた後、塵境を執取し、塵境に対して取舍の心行が生じる。故に十二因縁第九支は愛縁取である。好きな塵境が永遠に存在し失われないことを望み、好きでない境界はすぐに消え現れないことを望む。占有と執取の心行がある故に、阿頼耶識は末那識の執取に従い、三界の器世間と来世の五蘊身が生じる。故に十二因縁第十支は取縁有である。三界には欲界、色界、無色界の五蘊十八界がある。欲界には男女があり、男女の欲があり、生存資具、財・色・名・食・睡がある。色界には性別の分かれない天人の五蘊十八界があり、色界天の宮殿がある。無色界には六・七・八の三つの識と法塵があり、色身と五塵境がない。故に無色界という。末那識が三界法を執取する故に、三界法が感召され、三界の生死苦が現れる。

十二因縁の第十一支は有縁生である。三界有の因縁が具足した故に、生命は三界に出生する。生存条件が具足して初めて生命は出生し、具足しなければ出生しない。例えば湿生の衆生は必ず湿った環境でなければ生存できず、生命体が出生する。もしある場所が非常に乾燥し水分がなければ、湿生の衆生は出生できない。湿った環境で初めて蚊が生まれる。故に四生九有の衆生は因縁条件が具足した時に初めて出生する。末那識が執取すればするほど因縁が早く具足し、生命が早く出生する。

生があれば必ず死がある。不老不死など全くない。故に生命が出生した後は次第に成長し老死し、生老病死苦が現れ、全ての憂悲苦悩、純大苦聚が現れる。故に十二因縁最後の支は生縁老死である。外道は仙道を修め永遠に死なないことを望むが、実際には衆生はどれだけ長く生きても最終的には必ず死ぬ。生老病死は一つの生命循環周期である。万物には生住異滅があり、人には生老病死があり、宇宙の器世間には全て成住壊空の循環周期がある。あらゆる衆生は生まれた以上は死があり、これは避けられない。以上が順十二因縁であり、順生死門である。

五、十二因縁逆生死門

十二因縁を逆にすると、逆にすれば生死を逆にして生死を了え、生死苦から解脱する。逆十二因縁第一支は老死支である。なぜ老死の現象が現れるのか? 生があるからである。生があれば必ず老い必ず死ぬ。逆因縁第二支は生支である。なぜ生があるのか? 生命がなぜ世間に出現できるのか? 末那識が三界法を執取する故に、三界器世間が現れ、五蘊身がそれに従って現れる。第三支は有支、第四支は取支である。衆生はなぜ三界世俗法を執取するのか? 内に貪愛があるからである。第五支は愛支である。なぜ貪愛があるのか? 三界の中の六塵境界に覚受があり、感受があるからである。感受があれば貪愛が生じる。第六支は受である。なぜ受が現れるのか? 触があるからである。六根は常に六塵に触れ、七識が触れた境に対して覚受がある。

第七支は触支である。なぜ触があるのか? 六入がある故に、六塵と相触れる。第八支は六入支である。なぜ六入があるのか? 名色がある故に、名色が増長すれば六入がある。第九支は名色支である。なぜ名色があるのか? 六識が不断に身口意行を造作し、業種を蔵し、必ず業種に相応した名色が出生するからである。第十支は識支である。なぜ六識の業種が現れるのか? 末那識の心行が絶えず、六識に不断に身口意行を造作させ、六識の業種を蔵すからである。第十一支は行支である。なぜ身口意の業行が絶えないのか? 末那識に無明があり、世間に攀縁が絶えず、十二因縁の循環反復を引き起こす。最後の支は無明である。これが十二因縁の逆推である。

十二因縁の逆推にはもう一つの十因縁法がある。逆推は名色まで遡り、本を尋ね源を溯り、根本的な思惟が生じる。名色の真の源は何か、生命の源はどこか、名色はどのように出生したか? 名色は結局どこから来たのか? 辟支仏たちはここまで遡ると、名色の本源は阿頼耶識であり、名色は阿頼耶識から出生したことを知る。さらに阿頼耶識から遡ると法はなく、阿頼耶識が生死の源である。行縁識支と無明縁行支は名色出生の助縁に過ぎない。中有身において、末那識は阿頼耶識を連れて投胎する。阿頼耶識がなければ末那識も存在せず、投胎もできない。では名色の源は阿頼耶識であり、名色縁識という。

衆生には無明があるが、もし無明だけがあって阿頼耶識がなければ名色は出生せず、無明さえない。故に衆生出生の直接の根源は阿頼耶識である。阿頼耶識がなければ無明もなく、生老病死もなく、三界世間もない。阿頼耶識が受精卵を生じたからである。では受精卵という名色は、阿頼耶識に依って初めて生長し変異する。故に名色は直接阿頼耶識から来ており、阿頼耶識も名色を借りて初めて顕現する。

名色を離れれば、阿頼耶識は顕現し作用できない。これを識縁名色、名色縁識といい、識と名色は互いに依存する。阿頼耶識が存在する故に、修行で十二因縁の無明を滅し涅槃に入った後、何もかも無い断滅空になるのではなく、涅槃の本際である阿頼耶識が存在する。十二因縁の各支は全て阿頼耶識を根本依とする。そうでなければ無因で唯縁という謬論となる。これにより四果阿羅漢と縁覚仏は敢えて無余涅槃に入るのであり、涅槃は断滅空ではないからである。

六、末那識の十二因縁における決定的な役割

衆生に生老病死の純大苦聚があるのは、全て無明があるからであり、この無明は末那識の無明である。末那識に無明がある故に思心所があり、その後六識の身口意行が現れ、身口意行があれば業種が現れる。十二因縁第二・第三支分は全て末那識によって現れる。六識の身口意行は末那識に随順してあり、落謝した種子も末那識の心行によってある。故に来世の名色は末那識の無明攀縁によってある。故に末那識は生死に対して絶対的な主導的役割を持ち、他の法に対しても推進作用を持つ。末那識が染汚であれば六識も染汚となり、種子も染汚となり、名色の苦受も多く、特に三悪道の苦が多い。

名色が増長した後、六入が出生する。六入と六塵の触は末那識が主導する。末那識が攀縁すればするほど触が多くなり、生死業も多くなる。攀縁が少なければ触も少なくなり、生死業も少なくなる。触の後の受、愛、取は、六識の受愛取はあるが、実際に決定的な作用を果たし、次の支を引き出すのは末那識の受愛取である。末那識に受愛取がなければ、次の支分は現れない。最後の三支の有、生、老死は完全に末那識の取によって現れる。故に生死輪廻の出現において、末那識は決定的な役割を果たす。

十二因縁は末那識が生死の根であることを明らかにしている。解脱と沈淪は末那識による。生死を了脱しようとするならば、末那識の問題を解決し、末那識の無明を破らねばならない。末那識はまた四聖諦苦集滅道の根でもある。苦は末那識の無明心行が六識に業を造らせて来たものであり、集は末那識が六識に業を造らせて落とした種子から来たものであり、滅は末那識の無明心行を滅除することであり、道は末那識が法を証得して得たものである。

末那識が生死輪廻においてこれほど巨大な決定的な役割を果たすならば、末那識は一切の心所法を具足し、全ての善心所法と煩悩心所法、及び不善不悪の心所法を具足している。末那識の心所法は五識の心所法を決定し、意識の心所法を決定する。末那識の心所法が変われば、六識の心所法も変わり、一切の法がそれに従って変わる。もし末那識の心所法を変えなければ、六識の心所法が変わっても再び元に戻る。末那識の煩悩が絶えなければ、意識が煩悩を断っても再び煩悩が生じる。末那識に禅定がなければ、六識に禅定があっても長く続かず、必ず再び散乱する。故に末那識は十二因縁において決定的な役割を果たし、末那識を修行することは極めて重要である。

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