阿含経十二因縁釈
第三節 十二因縁は誰が作るのか
(二八八)舎利弗と摩訶拘絺羅の十二因縁問答
原文:時に、尊者舎利弗と尊者摩訶拘絺羅は耆闍崛山に在り。尊者舎利弗は晡時に禅より覚め、尊者摩訶拘絺羅の許に至る。互いに挨拶を交わし、傍らに坐す。尊者摩訶拘絺羅に告げて言う「問いがございます。お時間いただければお答え願えますか」と。尊者摩訶拘絺羅は尊者舎利弗に言う「尊者、お尋ねください。知る者は答えるでしょう」と。尊者舎利弗が問う「尊者摩訶拘絺羅よ、老いはあるか」と。答えて「ある」と。
釈:尊者舎利弗がある日の午後、禅定より起きて尊者摩訶拘絺羅の住処に至り、互いに挨拶を交わした後、傍らに坐し摩訶拘絺羅に言う「お尋ねしたいことがございます。お答えいただけますか」と。摩訶拘絺羅は「尊者、どうぞお尋ねください。知る限りお答えします」と。舎利弗が問う「尊者はどうお考えですか、世に老いという現象は存在しますか」と。拘絺羅は「存在します」と答えた。
原文:尊者舎利弗重ねて問う「死はあるか」と。答えて「ある」と。更に問う「いかに。老死は自ら作るか。他が作るか。自他共作か。非自非他、無因の作か」と。答えて「尊者舎利弗よ、老死は自ら作らず、他も作らず、自他共作せず、また非自非他作でもなく、無因に作られず。然るに生を縁として老死あり」と。
釈:舎利弗が重ねて問う「世に死という現象は存在しますか」と。拘絺羅は「存在します」と答える。舎利弗が更に問う「老死という現象は自然に生じるのか、他縁によって作られるのか、自然と他縁の共作か、あるいは自然でも他縁でもなく無因に生じるのか」と。拘絺羅は答える「老死は自然に作られるものではなく、他縁によって作られるのでもなく、自然と他縁の和合でもない。また自然と他縁の和合でないわけでもなく、無因に生じるのでもない。しかし生を縁として老死が生じるのである」と。
原文:「かくの如く、生・有・取・愛・受・触・六入処・名色は自ら作るか、他が作るか、自他共作か、非自他無因作か」と問う。答えて「尊者舎利弗よ、名色は自ら作らず、他も作らず、自他共作せず、非自他作でもなく無因作でもない。然るに名色は識を縁として生ず」と。
釈:舎利弗が更に問う「同様に、生・有・取・愛・受・触・六入処・名色は自然に生じるのか、他縁によるのか、自然と他縁の共作か、あるいは無因に生じるのか」と。拘絺羅は答える「名色は自然に作られるものではなく、他縁によって作られるのでもなく、自然と他縁の和合でもない。また自然と他縁の和合でないわけでもなく、無因に生じるのでもない。しかし識を縁として名色が生じるのである」と。
原文:重ねて問う「その識は自ら作るか、他が作るか、自他共作か、非自他無因作か」と。答えて「尊者舎利弗よ、その識は自ら作らず、他も作らず、自他共作せず、非自他作でもなく無因作でもない。然るに識は名色を縁として生ず」と。
釈:舎利弗が問う「その識は自然に生じるのか、他縁によるのか、自然と他縁の共作か、無因に生じるのか」と。拘絺羅は答える「識は自然に作られるものではなく、他縁によって作られるのでもなく、自然と他縁の和合でもない。また自然と他縁の和合でないわけでもなく、無因に生じるのでもない。しかし名色を縁として識が生じるのである」と。
原文:尊者舎利弗重ねて問う「先に名色は自ら作らず云々と説きながら、今また識が名色を縁とすると言う。この義はいかに」と。尊者摩訶拘絺羅答えて「譬えを説かん。智者は譬えによりて解を得るが如し。三本の蘆が空地に立ち、互いに依りて立てるが如し。一つを去れば二つも立たず、二つを去れば一つも立たず。互いに依りて立ち、識と名色もまたかくの如く、互いに依りて生長す」と。
釈:舎利弗が問う「先に名色は識を縁とすると説きながら、今また識が名色を縁とすると言うのはどういうことか」と。拘絺羅は答える「譬えを申し上げましょう。智者は譬えによって道理を悟ります。三本の葦が互いに支え合って立つように、識と名色も相互に依存し合って生じるのです」と。
原文:尊者舎利弗言う「善哉善哉。尊者摩訶拘絺羅よ、世尊の声聞弟子中、智慧明達し、善く調御し畏れず、甘露法を見、身をもって証する者、尊者摩訶拘絺羅はかくの如き深甚なる義理を弁じ、種々の難問に悉く答えられる。無價の宝珠の如く、世に尊ばれる。我今尊者摩訶拘絺羅を尊び、善利を得、諸の梵行もまた善利を得ん」と。
釈:舎利弗は讃嘆して「素晴らしい。摩訶拘絺羅尊者よ、あなたは世尊の声聞弟子中最も智慧明達し、自らを調御し、仏法の甘露を証得された方です。あなたの深遠な法義を説く弁舌は、あらゆる難問に応答され、無價の宝珠の如く尊ばれます。私はあなたから善き利益を得、他の修行者もまたあなたの説法によって利益を得るでしょう」と。
(二八九)五蘊に厭離して解脱を得る方法
原文:時に世尊、諸比丘に告げたまう「無明なる凡夫は四大の身に厭離するも、識には厭離せず。何となれば、四大身に増減あり、取捨あるを見るも、心意識に対し、無明の凡夫は厭離できず。長夜、我がものと執着し『我、我が所有』と見る故なり」と。
釈:仏は比丘たちに説かれた「無明の凡夫は四大から成る色身には厭離心を起こすが、識には離欲できない。なぜなら色身の無常は見えても、心意識への執着は深く、永劫にわたり『我がもの』と保惜する故である」と。
原文:「凡夫は寧ろ四大身に我執すとも、識に我執すべからず。四大身は十年二十年、百年と住するも、心意識は刹那に転変し、猿の林間を遊ぶが如く、所々に攀縁し、生滅を繰り返す」と。
釈:「凡夫は色身を数十年保つも、心意識は瞬時に変化する。猿が枝から枝へ移る如く、常に移り変わるものである」と。
原文:「多聞の聖弟子は縁起を観察し、楽触は楽受を生じ、苦触は苦受を生ずると知る。触の滅する時、受も滅し、寂静を得る。かくの如く五蘊に厭離し、解脱して『我生は尽き、梵行は立ち、所作は成じ、後有を受けることなし』と知る」と。
釈:「聖弟子は縁起を観じ、諸受が因縁生であると悟る。触の滅に従い受も滅し、五蘊に厭離して解脱し、もはや輪廻なきことを証知する」と。