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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年07月12日 閲覧数: 2227

第三節 十二因縁は誰が作るのか

(二八八)舎利弗と摩訶拘絺羅の十二因縁に関する問答

原文:爾時。尊者舎利弗。尊者摩訶拘絺羅。耆闍崛山に在り。爾時尊者舎利弗。晡時に禅より覚めて。尊者摩訶拘絺羅の所に詣る。共に問訊慶慰して已りて。一側に坐す。尊者摩訶拘絺羅に語りて曰く。問わんと欲する所有り。寧ろ閑暇有りて答えるを見たもうや否や。尊者摩訶拘絺羅、尊者舎利弗に語りて曰く。仁者暫く問え。知る者は当に答うべし。尊者舎利弗、尊者摩訶拘絺羅に問う。如何が尊者摩訶拘絺羅。老い有るや。答えて曰く有り。

釈:尊者舎利弗がある日の午後、禅定より起きて、尊者摩訶拘絺羅の住処に赴き、互いに挨拶を交わした後、片側に座り、摩訶拘絺羅に言った:「お尋ねしたい問題がありますが、お答えいただくお時間はございますか」。摩訶拘絺羅は言った:「尊者、どうぞお尋ねください。私が知っていることはお答えいたします」。舎利弗は拘絺羅に問うた:「尊者はどうお考えですか、世間に老いという現象はありますか」。拘絺羅は「あります」と答えた。

原文:尊者舎利弗また問う。死有るや。答えて曰く有り。また問う如何が。老死は自ら作るか。他が作るか。自他が共に作るか。或いは非自非他、無因に作るか。答えて尊者舎利弗に曰く。老死は自ら作るに非ず。他が作るに非ず。自他が共に作るに非ず。また非自非他が作るに非ず。無因に作るに非ず。然るに彼の生を縁として老死有り。

釈:舎利弗がまた問うた:「世間に死という現象はありますか」。拘絺羅は答えて:「あります」。舎利弗がまた問うた:「では、老死という現象は自然に存在するものですか、それとも他縁・他因によって造作されたものですか。あるいは自然と他縁が共同で造作したものですか。それとも自然でもなく他縁による造作でもなく、何の因縁もなく現れるものですか」。拘絺羅は答えて言った:「老死は自然に存在する現象ではありません。他縁によって造作されたものでもありません。自然と他縁が和合して造作したものでもありません。しかしながら自然と他縁が和合して造作したものでもなく、何の縁由もなく造作されたものでもありません。しかしながら生がある縁故に、老死が相随って生じるのです」。

原文:是の如く生・有・取・愛・受・触・六入処・名色は。自ら作るか。他が作るか。自他が共に作るか。非自他無因に作るか。答えて曰く。尊者舎利弗。名色は自ら作るに非ず。他が作るに非ず。自他が共に作るに非ず。非自他が作るに非ず無因に作るに非ず。然るに彼の名色は識を縁として生ず。

釈:舎利弗がまた問うた:「同様に、生・有・取・愛・受・触・六入処・名色、これらの現象は自然に存在するものですか、それとも他縁・他因によって造作されたものですか。あるいは自然と他縁が和合して造作したものですか。それとも自然と他縁が和合して造作したものでもなく、無因無縁に現れるものでもないのですか」。拘絺羅は舎利弗に答えて言った:「生という現象は自然に存在するものではありません。他縁に依存して造作されたものでもありません。自然と他縁が和合して造作したものでもありません。また自然と他縁が和合してあるのでもなく、無因無縁にあるのでもありません。しかしながら三界の有がある縁故に、生という現象が現れるのです」。

三界の有は自然に存在するものではありません。他縁によって存在するものでもありません。自然と他縁が和合して存在するものでもありません。また自然と他縁が和合してあるのでもなく、無因無縁にあるのでもありません。しかしながら往々にして執取がある縁故に、三界の有が現れるのです。執取という現象は自然に存在するものではありません。他縁によって造作されたものでもありません。自然と他縁が和合して造作したものでもありません。また自然と他縁が和合してあるのでもなく、無因無縁にあるのでもありません。しかしながら貪愛がある縁故に、執取現象が生じるのです。貪愛は自然に存在するものではありません。他縁に依存して生じるものでもありません。自然と他縁が和合して生み出されるものでもありません。また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら受がある縁故に、貪愛が生じるのです。

受は自然に存在するものではありません。他縁によって生まれるものでもありません。自然と他縁が和合して現れるものでもありません。また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら触がある縁故に、受が生じるのです。触は自然に存在するものではありません。他縁に依存して現れるものでもありません。自然と他縁が和合して生み出されるものでもありません。また自然と他縁が和合してあるのでもなく、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら六入処がある縁故に、触が生み出されるのです。

六入処は自然に存在するものではありません。他縁に依って生まれるものでもありません。自然と他縁が和合して造作されるものでもありません。また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら名色がある縁故に、六入処が現れるのです。名色は自然に存在するものではありません。他縁によって生み出されるものでもありません。自然と他縁が和合して生まれるものでもありません。また自然と他縁が和合して生み出されるのでもなく、無因無縁に生まれるものでもありません。しかしながら六識の業種がある縁故に、名色が生み出されるのです。

原文:また問う。彼の識は自ら作るか。他が作るか。自他が共に作るか。非自非他無因に作るか。答えて尊者舎利弗に曰く。彼の識は自ら作るに非ず。他が作るに非ず。自他が共に作るに非ず。非自他が作るに非ず無因に作るに非ず。然るに彼の識は名色を縁として生ず。

釈:舎利弗がまた問うた:「あの六識の業種は自然に存在するものですか、それとも他縁に依存して生み出されるものですか。あるいは自然と他縁が和合して造作されたものですか。それとも自然でも他縁でもなく、無因無縁に生み出されるものですか」。拘絺羅は舎利弗に答えて言った:「六識の業種は自然に存在するものではありません。単に他縁によって存在するものでもありません。自然と他縁が和合して生まれるものでもありません。また自然と他縁が和合して生まれるのでもなく、無因無縁に生み出されるものでもありません。しかしながら六識は名色がある縁故に生み出されるのです」。

原文:尊者舎利弗。また尊者摩訶拘絺羅に問う。先に名色は自ら作るに非ず。他が作るに非ず。自他が共に作るに非ず。非自他が作るに非ず無因に作るに非ず。然るに彼の名色は識を縁として生ずと曰う。而今また識は名色を縁とすと言う。此の義如何。尊者摩訶拘絺羅答えて曰く。今当に譬えを説かん。譬えば智者は譬えに因りて解を得るが如し。譬えば三本の葦、空地に立ちて。展転相依りて、而もって立ち得る。若し其の一を取り去れば、二もまた立たず。若し其の二を取り去れば、一もまた立たず。展転相依りて、而もって立ち得る。識が名色を縁とするもまた是の如し。展転相依りて、而もって生長を得る。

釈:舎利弗がまた拘絺羅に問うた:「先ほど、名色は自然に存在するものではなく、他縁によって生み出されるものでもなく、自然と他縁が和合して生まれるものでもなく、また自然と他縁が和合して生まれるのでもなく、無因無縁に生まれるものでもないが、しかし名色は六識の業種がある縁故に生まれるとおっしゃいました。今度は六識は名色がある縁故に生まれるとおっしゃいます。これはどういう道理ですか」。

拘絺羅は答えて言った:「今、譬えを申し上げましょう。もし智慧ある人ならば、譬えによってその中の道理を悟るでしょう。たとえば三本の葦が空地に立つには、必ず三者が互いに寄りかかり合って、初めて立ち得るのです。もし一本の葦を取り去れば、残りの二本は立ちません。もし二本を取り去れば、残った一本も立ちません。三者が互いに寄りかかり合って、初めて立ち得るのです。識と名色が互いに縁となり互いに依存するのもまたこのようで、互いに依存して初めて生長し得るのです」。

名色五陰は六識の業種を縁として初めて生まれる。この道理はこうである。六識が絶えず身口意行を造作し、業種が残るため、五陰世間は滅びず、後世もまた三界の中で五陰身を続けて生じる。後世の業種がまだあるため、中陰身があり、後世の名色がある。意根は中陰身の中で業種に随って六道輪廻を流転し、阿頼耶識と共に胎に投じれば、後世最初の名色が生じる。名は意根第七識、色は受精卵である。六識が名色を縁として生じる道理はこうである。衆生の胎児期の名色が成長を続け、六入処が成熟し、六根が六塵に触れれば、六識が名色五陰身の中に生じる。こうして名色と六識は互いに依存する関係となり、互いに生じ運行し続けるため、生死は絶えない。

十因縁の中にはまた識が名色を縁とし、名色が識を縁とする説がある。ここの識はもはや六識の識ではなく、阿頼耶識の識、第八識の識である。意味は、阿頼耶識が名色五陰の縁に依って初めて五陰世間において自らの運行と造作が可能であり、名色もまた阿頼耶識を縁として初めて生じ、発展し、絶えず運行する。阿頼耶識に依るものがなければ名色の発生はなく、名色がなければ阿頼耶識は無余涅槃の状態にある。

原文:尊者舎利弗言う。善哉善哉。尊者摩訶拘絺羅。世尊の声聞中に於いて。智慧明達。善く調伏し畏れ無し。甘露の法を見る。甘露の法を以て身を具足して証する者。謂わゆる尊者摩訶拘絺羅。乃ちかくの如き甚深の義弁有り。種々の難問。皆悉く能く答う。無価の宝珠の如く。世に頂戴せらる。我今尊者摩訶拘絺羅を頂戴すること。亦た復是の如し。我今汝の所に於いて快く善利を得。諸の余の梵行も。数えその所に詣りて。亦た善利を得。彼の尊者善く法を説くが故に。我今此の尊者摩訶拘絺羅の説く所の法を以ての故に。当に三十種の讃歎を以てす。称揚し随喜せん。

釈:舎利弗が讃嘆して言った:「素晴らしい、摩訶拘絺羅よ、あなたは世尊の声聞弟子の中で智慧明達なる方、自心を調伏することに長け、畏れることなく、仏法の甘露を証見し、解脱の甘露法を完全に証得し、身をもって証する者です:『我が身はすでに尽き、梵行はすでに立ち、なすべきことはすでになされ、自ら不受後有を知る』と。あなたはかくの如き甚深なる法義無礙の弁才をお持ちで、他人の種々の問難に、全て解答応弁でき、あたかも無価の宝珠の如く世に尊ばれています。私は今、尊者摩訶拘絺羅を尊ぶのもまた同様です。私は今あなたのもとで善法の利益を得、その他の梵行もまたあなたと度々教えを請い交流する中で善利を得ました。尊者が法を説くことに長けているが故に、私は今、拘絺羅尊者が説かれた法教に対し、三十種の讃嘆をもって功徳を称揚し随喜します」。

(二八九)如何にして五蘊に厭離し解脱を得るか

原文:爾時。世尊諸の比丘に告げたまわく。愚痴無聞の凡夫は。四大の身に於いて厭患し。離欲し背捨す。而も識には非ず。所以は何ん。四大の身を見るに。増減有り。取捨有り。而も心意識に於いては。愚痴無聞の凡夫は。厭離を生ずること能わず。離欲解脱すること能わず。所以は何ん。彼は長夜此に於いて。保惜して我に係(かか)る。若し得若し取。言う是れ我なり我が所有なり相在すと。是の故に愚痴無聞の凡夫は。彼に於いて厭離を生ずること能わず。離欲し背捨すること能わず。

釈:仏は諸比丘たちに言われた:「心性愚痴で解脱法について見聞のない凡夫は、自身の四大から成る色身には厭離心を生じ、色身への種々の欲望を離れ、色身を背棄し顧みることができます。しかし彼らは識心についてはそうではなく、識心に対して離欲・背棄・捨離ができません。なぜそうなのでしょうか。凡夫たちは四大から成る色身には増減変化があること、無常であり固定不変でないことを見ることができるため、色身については執着することも捨てることもできるからです」。

「しかし自身の意識心と意根に対しては、愚痴で見聞のない凡夫は厭離心を生じることができず、離欲・解脱もできません。なぜそうなのでしょうか。彼らは長い生死の長夜の中で、自らの心識を特に愛惜し、識心を我であるとして執着し、得たり取ったりし、『これが我である、我が所有である、我は識の中にあり、識は我の中にある』などと言うからです。故に愚痴で見聞のない凡夫は識心に厭離・離欲・背捨することができないのです」。

仏陀は愚痴無聞凡夫という言葉を用いられた。たとえこれを聞いて不快に思う人もいるかもしれないが、仏は人を罵っているのではなく、事実を述べておられる。凡夫とはすなわち愚痴で見聞がない者である。正法を聞かなければ無明は深く、それが愚痴無聞である。もし見聞があれば愚痴は破られ智慧が生じる。

色身は衆生にとって比較的見破りやすい。なぜなら生滅変異が比較的明らかだからである。色身は地・水・火・風の四大種子が和合して生じる。地大には堅い性質があり、筋肉・骨・腱・髪・爪・歯・皮膚などの物質には全て堅性があり、地大種子を含む。堅性がなければ行住坐臥はできない。水大には湿潤性があり、身体表面の皮膚や内臓器官・血液・汗・尿などには全て湿性があり、水大種子を含む。火大には温暖性があり、身体内外に温度がある。これが火性であり火大種子を含む。人が死ぬと火大がなくなり、死体は冷たくなる。風大には流動性があり、呼吸や血液の流れ・気脈の運行は全て風性の作用であり風大種子を含む。風性がなければ血液は流れず、飲食も流動・消化吸収・排泄もできない。

全ての色法は地・水・火・風が一定の割合で和合して成る。どの成分が多いかによって物質の性質が決まり、和合の割合が異なれば形成される物質も異なり、身体の各部位器官も異なる。私たちの色身だけでなく、宇宙世界の全ての物質は四大から成り、四大の和合割合が異なれば形成される物質も異なる。色声香味触法の六塵は全て四大から成り、色法に属するが、表現形式が異なるため色法を識別する識心も異なる。四大種子は如来蔵の中に存在し、如来蔵が四大種子を輸送して色身を形成する。故に色身は如来蔵によって生み出される。

身体の増減変化、例えば肥満・痩身、身体器官の設置や摘出、これらの増減変化は、この身体が仮のもので実体がないことを示している。色身の生滅変異性を見破れば厭離心を生じ、離欲・背捨もできるようになる。もはや従順に従うことを望まず、保ち愛護することもなくなり、身体はどうでも良い、仮の皮袋であって真実の我ではないと感じるようになる。

しかし愚痴で見聞のない凡夫衆生は識心に対して厭離を生じることができず、離欲も背捨もできない。その根源はどこにあるのか。衆生は皆、識の作用を貪り執着することを好むからである。識の作用は比較的リアルで人を引きつけるため、絶えず掴み取り己のものとする。色身の全ての機能作用は識があるからこそ生じる。例えば行住坐臥は身識がなければ行えない。行住坐臥は身識が起こす作用であり、生命活動は行住坐臥などの事業を離れては存在しない。故に衆生は貪着する。身識があって動き、眼識があって見、耳識があって聞き、鼻識があって香を嗅ぎ、意識心があって思考・分別・分析判断・推理・妄想を打つ。各識が協力して種々の作用を生じ、意識心と前五識が共に分別し作用する。これらの機能作用は真に迫り生き生きとして感じられ、「これが私であり私の所有である」と思い、故に貪着して捨てられない。

識心が非我であることは容易には証得できない。「明らかに私というものが全ての法を了知していると感じる、とてもリアルだ。確かに私はここに座って法を聞いている。私の眼は色を見ることができ、確かに接触する全ての物質色法を見ている。確かに私は音を聞くことができる」。眼耳鼻舌身の見聞覚知作用が虚妄であるとは認めず、故に掴んで離さない。意識の種々の作用はなおさら虚妄であるとは認められない。「確かに意識は思考でき、妄想を打て、推理でき、計画を立てられる」と感じる。故に衆生は識心を虚妄であると見なすことができず、この関門を越えられなければ大小の果を得ることはできない。

故に仏は言われた:「愚痴無聞の凡夫は四大色身には厭離を生じ、離欲・背捨もできるが、自らの識心には離欲できず、厭離も背捨もできない。自らの心を好み、何事も自らの心に従って行い、自らの心を離欲することができない。なぜならこの識心には確かにこれらの機能作用があると感じるからである」。

衆生は生々世々の生死の長夜で自らを保惜し、常に己の意に順い、自らを愛護し、自らの識心を保惜する。「私は何かを得たい、私は何かを所有したい、私は何かを占有したい」、これらは全てこの識心の意欲である。故にこの識心の機能作用を我と見なし、実在し永遠不滅の自分であるとする。実際には識心は幾つかの状況下では滅する。例えば法を聞いている時、聞いているうちに眠ってしまい、後で何を言ったか分からなくなる。この時、識心は滅して存在しない。眠っていて夢も見ない時、この時六識心も滅して存在しない。目が覚めるとこれらの識心はまた現れる。滅し生じ、生じ滅し、識心は常に生滅の過程で変化している。

一方、阿頼耶識の機能作用は常にそのように存在し、変化せず、外縁に依存せず、機能作用も変化しない。阿頼耶識は常に一切の法を生じ、一切の法を変現し、誰もこれを阻むことはできない。それが真実である。入定していても眠っていても、どのような状況でも、常に存在し、常にその機能体性作用がある。前六識はそうではなく、常に生滅変化する。

原文:愚痴無聞の凡夫は寧ろ四大の身に於いて。我・我が所有に係(かか)らんとす。識に於いては係ることを得ず。所以は何ん。四大色身は。或いは十年住し、二十三十。乃至百年。若し善く消息すれば。或いはまた小しく過ぐる。

釈:仏は言われた:「愚痴無聞の凡夫は寧ろ四大から成る色身を我・我が所有と見なすが、識心を我・我が所有と見なすことはできない。なぜそう言うのか。四大から成る色身は、せいぜい十年、二十年、三十年、あるいは百年住世して滅び去る。もしよく色身を世話すれば、あるいは百年を超えて住世することもある」。

原文:彼の心意識は。日夜刻時。須臾に転変し。異に生じ異に滅す。猿猴が林樹の間に遊ぶが如し。須臾に処々に。枝條に攀(よ)じ捉(と)る。一を放ち一を取る。彼の心意識もまた是の如し。異に生じ異に滅す。

釈:「しかし心意識は日夜刻時を問わず、須臾の間に流転し、刹那刹那に変化を起こし、この時に生じあの時に滅し、この処に生じあの処に滅する。あたかも猿猴が林間に遊蕩するが如く、ほんの一時の間に多くの場所を巡り、木に登って枝を掴み、この枝を放せばまた別の枝を掴む、全く暇がない。人々が言う心意識もまたこれと同じで、異に生じ異に滅する。この時に生じあの時に滅し、この処に生じあの処に滅し、この法に生じあの法に滅し、あの法に生じこの法に滅し、この身に消え失せ、あの身にまた生じる。日夜刻時、種々に転変し、決して止むことがない。異時に生じ、異地に生じ、異類に生じる」。

凡夫の我見で最も深刻なのは、識心の機能作用を我・我が所有であると見なすことである。この我見は最も断ち難い。色身の我見はやや断ち易い。なぜなら色身の生滅変異の現象は観察しやすく、識心と分離できるからである。識心の生滅変異の現象は観察・理解し難い。五陰身の一切の機能作用は識心のものであり、あまりにも綿密で連続的であるため、リアルに感じられ、自らが作用している、自らの作用であると感じ、識心の受想行識の作用を自らから分離し見破ることは非常に難しい。

もし識心を我・我が所有と見なせば、臨命終時に、しっかりと識心を掴もうとし、一心に見聞覚知を保ちたいと願い、見聞覚知が徐々に消えていくことを恐れる。明らかに識心の機能作用がますます微弱になり、身体がますます使えなくなるのを感知するが、識心を滅することを望まず、非常に苦痛に感じ、死という現象を受け入れられない。このような状況でも、凡夫は自らの識心が無常生滅変異であるとは認めず、なおこれらの作用が継続して働くことを望む。

原文:多聞の聖弟子は諸の縁起に於いて。善く思惟観察す。所謂楽触は縁として楽受を生ず。楽受を覚る時。実の如く楽受覚を知る。彼の楽触滅すれば。楽触の因縁の生ずる所の受もまた滅し止み。清凉にして息没す。楽受の如く。苦触・喜触・憂触・捨触の因縁。捨受を生ず。捨受を覚る時。実の如く捨受覚を知る。彼の捨触滅すれば。彼の捨触の因縁の生ずる所の捨受もまた滅し止み。清凉にして息没す。

釈:多聞の聖弟子は一切の縁起法を善く思惟観察し、楽触の因縁が集まると楽受が生じることを観察する。楽受を感じる時、実の如く楽の受覚を了知する。楽触が滅する時、楽触の因縁によって生じた受覚も滅し、心は清凉に息止み滅没する。楽受と同様に、苦触が生じる時、実の如く苦の覚受を了知し、また喜触・憂触・捨触の因縁によって喜の覚受・憂の覚受・捨の覚受が生じる時、実の如く喜受・憂受・捨受を了知する。喜触・憂触・捨触の因縁が滅する時、喜触・憂触・捨触も滅し、心は清凉に寂止する。

原文:彼は是の如く思惟す。此の受は触より生ず。触は楽触に縛らる。彼彼の触楽あるが故に。彼彼の受楽あり。彼彼の触楽滅すれば。彼彼の受楽もまた滅し止み。清凉にして息没す。

釈:多聞の聖弟子はこのように思惟すべきである。これらの受触は触の楽受と触の束縛を引生する。一つ一つの触の楽受が生じる時、一つ一つの楽受が生じる。一つ一つの楽触が滅した後、一つ一つの受楽もまた滅し、心は清凉に寂止する。

多聞の聖弟子は諸の縁起を善く思惟観察できる。世間の一切の法は因縁によって生じ、一法として因縁によって生じないものはない。因縁があれば世間法は集起し、因縁がなければ法は現れない。縁が異なれば生じる法も異なり、衆生の色身も異なり、生存環境も異なる。縁はどこから来るのか。身口意業によって形成された種子である。多聞の聖弟子は諸の縁起を善く思惟観察できるが、凡夫は思惟観察を善くせず、五陰上の一切の法が現れるのは当然であり、道理にかなっていると考える。聖弟子が縁起を観察する時、生老病死の由来と因縁を深く究明し、最初のあの縁起にまで遡る。

楽受を例に因縁生法を説明する。苦触・喜触・憂触・捨触は全て縁生によって生じる感受である。苦・楽・憂・喜・捨、これらの受の発生は全て触があるためである。苦の触・楽の触・喜の触・憂の触・捨の触があって初めて種々の感受が生じる。もしこれらの触の縁がなければ、これらの心の感受は生じない。故に苦楽憂喜捨の触は虚妄であり、感受も虚妄で生滅変化無常である。全ての縁が生じる背景には原因と奥秘がある。

捨受とは何か。苦も感じず楽も感じず、快適でもなく苦痛でもなく、自分を忘れたように感じ、それ以外のこれといった感受がない。これを捨受という。いつ捨受が生じるか。座禅中に現れる捨受が多い。時折自分を忘れ、周囲の全てを忘れ、楽の受も生じず、苦の受も生じない。その時が捨受である。心に定がある時は、今私は苦受を感じている、今私は楽受を感じている、今私は喜受を感じている、今私は憂いの感受を感じている、と明確に感じられる。私は実の如くこれらの感受を覚知している。もしそれらの苦楽憂喜捨の触が滅すれば、苦楽憂喜捨の受も消え失せ滅する。滅した後は寂静に止息し、心は清凉に寂静となる。

原文:是の如く。多聞の聖弟子は色に於いて厭離を生ず。受想行識に於いて厭離を生ず。厭うが故に楽しまず。楽しまざるが故に解脱す。解脱知見。我が生は已に尽き。梵行は已に立ち。所作は已に作り。自ら不受後有を知る。

釈:このように、多聞の聖弟子は色陰に厭離心を生じ、受陰・想陰・行陰・識陰に厭離心を生じる。厭離を生じるが故に色受想行識を楽しまず、色受想行識を好まないが故に心は解脱し、こうして解脱の知見を具足する。そこで言う:「私の生命はすでに尽き、清浄な梵行はすでに立ち、この生涯でなすべきことはすでになされ、自ら我が死後に再び未来世の三界世間はなく、未来世の三界法はないことを知る」と。

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