阿含経十二因縁釈
第二節 世尊による十二因縁の順逆の参究
(二八五)世尊による十二因縁の順逆の参究
原文:如是我聞。一時。仏は舎衛国祇樹給孤独園に住したまえり。その時、世尊は諸比丘に告げたまわく。我は宿命を憶うに、未だ正覚を得ざりし時、独り一つの静かなる処にて、専ら精進して禅思にふけり。かくの如き念を生ず。世間は入り難し。いわゆる生あるが故に、老あるが故に、病あるが故に、死あるが故に、遷るが故に、生を受くるが故に。然るに諸の衆生は、生老死の上及びその依る所について、如実に知らず。
釈:世尊が舎衛国祇樹給孤独園におられた時、諸比丘たちに告げられた。私は宿命通によって過去世、まだ仏陀となり正等覚を得ていなかった時を思い起こす。一人で静かで妨げのない所において、一心に精進して禅修観行思惟にふけった。その時、心にこのような観念が生じた。この世間は苦難に満ちている。これらの苦難は、あるいは生によってもたらされ、あるいは老によってもたらされ、あるいは病によってもたらされ、あるいは死によってもたらされる。あるいは生命の遷謝によってもたらされ、あるいは生を受けることによってもたらされる。しかしながら、衆生たちは生老病死の過患を如実に了知せず、また生老病死の依る所の法を如実に知らない。
原文:我はこの念を作す。何の法あるが故に生あり。何の法の縁なるが故に生あり。即ち正思惟す。無間等の知を起こす。有あるが故に生あり。有の縁なるが故に生あり。また思惟す。何の法あるが故に有あり。何の法の縁なるが故に有あり。即ち正思惟す。如実の無間等の知を起こす。取あるが故に有あり。取の縁なるが故に有あり。
釈:私は禅思の中でこのような疑念を生じた。いったいどのような法が存在するからこそ生命体が出現するのか? いかなる法の縁によって生命体は出生するのか? 直ちに禅思の中で正思惟を起こした。正思惟の後に、間断と疑惑のない智慧の認知が生じ、次の理を証得した。三界の器世間があるが故に、生命体は出生する。三界の器世間という生命体の生存条件が具足するが故に、生命体は出現する。
この基礎の上で、私はさらに下に向かって思惟を進めた。いったいどのような法が具足するからこそ三界器世間の生存条件が具足するのか? いかなる法の縁によって三界器世間の有が生じるのか? そこで正思惟に入った。正思惟の後に、如実で間断のない正等の智慧の認知が生じた。五陰の世間法に対する執取があるが故に、三界器世間の有が生じる。心が五陰の世間法を執取するが故に、三界器世間の有が出現する。
この段において、仏陀は皆、理にかなった実修の経過を語り、真実の参究と実証の過程を述べている。まず参究する法に対して疑いを起こす。疑情が深く生じた時、単純な意識の思惟ではこの疑情を全く解決できない。なぜなら、それは意根が疑いを起こしているからであり、この疑いは自らが直接解決しなければならず、意識は意根に代わることはできない。そこで仏陀は定中で正思惟を起こした。すなわち、深く細やかな意根による参究である。参究の結果、間断のない正等正知が生じた。間断のない知こそが、まさに意根の知である。意識の知はしばしば間断し、特に命終の後はそうである。意根自らが参究したが故に、最終的には意根自身が間断なく真理を証知し、法の真実性を証知したのである。
もし仏陀に禅定がなかったならば、第一に意根は疑いを起こせず、ただ意識の浅はかな疑いだけである。第二に意根は自ら深く細やかに参究することができず、最終的に無間等の知を生じることはなく、ただ意識の推理分析理解判断に頼るだけであり、法の真実性を実証することはできない。それ故に、独覚仏である辟支仏は深い山中で独り修行し、禅定は非常に深く深く、思惟力も極めて深く細やかで、他の者たちを超えている。しかもそれは正思惟である。外道たちは禅定も深いが、正思惟はない。なぜなら邪見があるからであり、思惟が正しくないのである。深い禅定があれば、意念が集中し、思惟力が強大となり、大いなる智慧、如実の智を開くことができる。
仏陀は当時まだ独覚仏であり、世間に仏は出現せず、法は世に出ず、法を伝える僧もいなかった。一人で出家し山林にて、禅定と智慧は共に深く細やかであり、独りで五陰世間の生老病死の苦しみの法の由縁を思惟した。そしてまた、世間がこのように苦しいのに、なぜ衆生は自ら覚らず悟らないのかと思惟した。仏陀は衆生の苦しみを解脱させるために、禅定の中で生命が如何にして出現するかを探求したのである。
原文:またこの念を作す。取はまた何の縁か。何の法あるが故に取あり。何の法の縁なるが故に取あり。即ち正思惟す。如実の無間等の知を起こす。取法に味着し、顧念し心を縛するが故に、愛欲は増長す。彼の愛あるが故に取あり。愛の縁なるが故に取あり。取は有の縁となる。有は生の縁となる。生は老病死の縁となる。憂悲悩苦。かくの如くかくの如く、純大苦聚を集む。
釈:私はまた一つの疑念を生じた。五陰身に対する執取はまた何によってあるのか? いかなる法があるが故に執取があるのか? いかなる法を縁として執取が生じるのか? このような念を生じた後、直ちに正思惟に入った。そして如実で間断のない智慧が生じ、取着心があるのは、五陰世間法に対する貪恋と粘り気があるが故であり、心が絶えず法を顧み念じるが故に、心は法によって束縛され、五陰世間法に対する貪愛と欲望が絶えず増長することを証得した。貪愛があるが故に取着心があり、貪愛の縁なるが故に執取が生じる。執取があるが故に三界世間の有が生じ、三界世間があるが故に、その中に生命体が出生する。生命体が出生した後、老病死憂悲苦悩があり、無量の大苦が集まってくる。
この文章が示す意味は、貪愛欲望は生老病死苦の直接の根源である。それ故に貪愛こそが苦であって楽ではなく、楽の因ではなく苦の因である。衆生は顛倒してこの理を知らず、至る所で貪愛し、恋念して捨てられず、決して深く定中に入って仔細に思考したことがない。世間に何を貪恋貪愛するものがあろうか? このように貪愛した結果は何か? 楽は得られるのか? 貪愛の実質は何か? いったい何が貪愛して捨てず、執取して絶やさないほどに価値があるというのか?
もし因縁条件が具足し、独り静かな所において、一切の法、一切の心行に対し、つぶさに静かに観行すれば、一切の法には実は何も貪愛する価値がないことを如実に了知するであろう。一切の欲望は実体がなく、また苦悩であり、世間には根本的に何もなく、世間というものもない。そうすれば心は空となる。心が空になれば、苦は消滅し、楽を得て解脱するのである。肝心なのは、勇気を持って根源を追及し、一つの環節一つの環節を追究し、深く究明し、心と法がそれぞれ何であるか、何があるのかを探ることである。最終的には心と法は何ものでもなく、何もないことを発見するであろう。そうすれば世間の事は了脱し、衆生は自在に解脱するのである。
原文:諸比丘よ。意いかん。譬えば膏油及び炷を縁として、燈明は焼くことを得。数々油炷を増せば、彼の燈明は久しく住せんや。答えて言う、かくの如し、世尊。かくの如く諸比丘よ。色に於いて取味着し、顧念愛縛し、愛縁を増長すれば、取あり。取は有の縁となる。有は生の縁となる。生は老病死の縁となる。憂悲悩苦。かくの如くかくの如く、純大苦聚を集む。
釈:諸比丘よ、あなた方はどう思うか? 譬えば膏油と炷の縁によって、燈は燃焼して光明を発する。もし何度も膏油と炷を増やせば、あの燈の光は長く留まるであろうか? 比丘たちは答えた。はい、世尊。比丘たちよ、この道理と同じである。もしあなた方が色に対して取着し、その中に沈溺して抜け出せず、常に色を回顧し念い想うならば、貪愛によって縛られることになる。色に対して絶えず貪愛を増長するが故に、執取が生じる。色に執取するが故に、後世の業種が残り、未来の三界世間の有は絶えず出現する。三界世間の有があるが故に、衆生の生命は出生し、生命があるが故に老病死憂悲苦悩がある。そうすれば世間の最大の苦が集まってくる。
原文:我は時にこの念を作す。何の法無きが故に、この老病死無し。何の法滅するが故に、老病死滅す。即ち正思惟す。如実の無間等の知を起こす。生無きが故に老病死無し。生滅するが故に、老病死滅す。またこの念を作す。何の法無きが故に生無し。何の法滅するが故に生滅す。即ち正思惟す。如実の無間等の知を起こす。有無きが故に生無し。有滅するが故に生滅す。
釈:私はこの時またこのような疑念を生じた。何の法がなければ老病死がないのか? 何の法が滅すれば老病死は滅するのか? このような疑念が生じた後、私は直ちに正思惟に入った。正思惟の後に、如実で間断のない智慧が生じ、生がなければ老病死はなく、生が滅すれば老病死は滅することを知った。私はまたこのような疑念を生じた。何の法がなければ生がないのか? 何の法が滅すれば生は滅するのか? 直ちに正思惟に入った。正思惟の後に、如実で間断のない智慧が生じ、三界世間の有がなければ生はなく、世間の有が滅すれば生は滅することを知った。
これは十二因縁の逆推であり、また逆流ともいう。生死の流れに逆らうことである。前段は順推十二因縁であり、順流ともいう。生死の流転に随順することである。表面は推論のように見えるが、実は深い思量であり、浅はかな推理の作用ではない。甚深の禅定を持つ修行者で、疑念がまた深い者は、意識による浅はかな推理を用いることはできず、皆、意根が禅定中に深く思惟し参究するのである。順推は生老病死の流転に至ることができ、逆推は如何にして生老病死を滅し、かつ解脱を得るかを知ることができる。生老病死の根源を見つけ、根源から断ち切れば、生老病死は断たれる。
原文:また思惟す。何の法無きが故に有無し。何の法滅するが故に有滅す。即ち正思惟す。如実の無間等の観を生ず。取無きが故に有無し。取滅するが故に有滅す。またこの念を作す。何の法無きが故に取無し。何の法滅するが故に取滅す。即ち正思惟す。如実の無間等の観を生ず。所取の法は無常生滅なり。離欲滅尽し捨離するが故に、心は顧念せず。心は縛着せず。愛すなわち滅す。彼の愛滅するが故に取滅す。取滅するが故に有滅す。有滅するが故に生滅す。生滅するが故に老病死。憂悲悩苦滅す。かくの如くかくの如く、純大苦聚滅す。
釈:私は再び思惟した。何の法がなければ三界の有はないのか? 何の法が滅すれば三界の有は滅するのか? このような疑念を生じた後、私は直ちに正思惟に入った。正思惟の後に、如実で間断のない観行の智慧が生じ、執取がなければ三界の有はなく、執取が滅した後、三界の有は滅することを証得した。
私はまたこのような疑念を生じた。何の法がなければ執取はないのか? 何の法が滅すれば執取は滅するのか? 直ちに正思惟に入った。正思惟の後に、如実で間断のない観行の智慧が生じ、一切の所取着する法は皆無常生滅であることを証得した。無常生滅の法に対する欲望がなくなり、欲望を滅尽し、法貪と法愛を捨離し、心が再びこの五陰世間法を顧み念じず、心が五陰世間法によって縛られず、貪愛は滅する。貪愛が滅した後、世間法に対する執取は滅する。執取が滅した後、三界の有は滅する。三界の有が滅した後、生は滅する。生が滅した後、老病死憂悲苦悩は滅する。そうすれば、世間の最大の生死苦悩の大火聚は滅し、今後は再び如何なる苦受もない。
なぜ五陰世間を再び執取しなければ、三界世間の有は消失するのか? 執取性こそが意根の無明であり、意根の遍計所執性である。三界世間は意根の無明執着によって建立されたものである。意根が執着を断じ尽くし、再び五陰世間を執取しなければ、心は空しく清浄となり、再び三界の業行を造作せず、あるいは少なく造作するため、三界の業種は次第に消失する。生命の存続期においては有余涅槃の中にあり、命終の時、意根が一切の法を取らず執わなければ、如来蔵は再び如何なる法も出生できず、また意根の識種子を出生することもできない。すると意根は滅し、五陰身は消失し、今後再び五陰身を出生せず、自身に属する三界世間の有もまたそれに伴い滅し、再び出生しない。三界世間の有がなくなるが故に、後世の生命は寄る辺がなく、さらに三界の業種がないが故に、生命出生の条件と因縁は具足せず、再び生命体が出現することはない。
なぜ貪愛が滅すれば、執取性は滅するのか? 貪愛は心を深く五陰世間の中に陥れ、抜け出せなくし、五陰と分離できなくなり、必然的に世間法を執取する。もし貪愛しなければ、法に対してあってもなくても構わず、縁に随って自在であり、執取する動力もなくなる。それ故に生死輪廻は貪愛によって引き起こされる。貪愛を捨て去り、三界を愛恋しなければ、必然的に涅槃し、再び生死を繰り返すことはない。
原文:諸比丘よ。意いかん。譬えば油炷燃える燈。もし油を増さず炷を治めざれば、彼の燈明は未来に生ぜず、尽く磨滅せんや。比丘、仏に白して言う、かくの如し世尊。かくの如く諸比丘よ。所取の法に於いて、無常生滅を観察し、離欲滅尽し捨離するが故に、心は顧念せず。心は縛着せず。愛すなわち滅す。愛滅すれば則ち取滅す。乃至純大苦聚滅す。
釈:諸比丘よ、あなた方はどう思うか? 譬えば油燈に油を増やさず、また油柱を増やさなければ、あの燈の光は今後再び燃え続けず、全てが磨滅してしまうであろうか? 比丘たちは仏に言った。はい、世尊。諸比丘たちよ、このようにである。もしあなた方が自ら執取する法に対し、法の無常性と生滅性を観察すれば、心は貪欲を離れ、貪欲を滅尽し、貪欲を捨離し、再び五陰世間法を顧み念じず、これらの法に縛られなければ、貪愛は滅する。貪愛が滅すれば、心の執取性は滅する。執取が滅すれば、三界の有は滅する。三界の有が滅すれば、未来世の生は滅する。生が滅すれば老病死憂悲苦悩は滅する。すなわち巨大な純苦の聚集は滅する。
世尊はここで燈の光を生老病死の純大苦聚に譬え、燈油を貪愛煩悩に譬えている。私たちが燈炷に油を注がなければ、油燈は長くは燃えず、すぐに消えてしまう。同様に生死の大苦に対し、私たちがそれに貪愛煩悩を増やさなければ、貪愛は次第に薄れ消失し、苦は滅する。もし貪愛が絶えず増えれば、生死の大苦はますます集まり、いつ苦を滅することができようか? 覚悟した者は生死輪廻の苦の中において、再び煩悩を増やすべきではない。智慧を増やすべきであり、智慧の火をもって貪愛煩悩を照らし破り、貪愛を断じ尽くして解脱を得るべきである。
世尊が衆生に苦を滅する方法を教えられるのは、自心の取着する法に対し、常にその無常性と生滅性を観察することである。自らが執取する五陰世間が確かに生滅無常であることを証得した時、次第に五陰世間への貪愛を捨離し、再び気にかけたり拘ったりせず、最後には徹底的に貪愛を滅し、縛られなくなり、世間の生死苦から解脱する。修行の中では、念を転じ、方向を変え、心思を転じ、煩悩を転ずることに長けていれば、智慧が生じる。智慧の大火が燃え上がれば、煩悩は消滅する。智慧がなければ、煩悩は絶えず生長する。智慧があれば一切があり、智慧がなければ煩悩と苦がある。
(二八七)世尊による十二因縁の順逆の参究
原文:爾時、世尊は諸比丘に告げたまわく。我は宿命を憶うに、未だ正覚を得ざりし時、独り一つの静かなる処にて、専ら精進して禅思にふけり。かくの如き念を作す。何の法あるが故に老死あり。何の法の縁なるが故に老死あり。即ち正思惟す。如実の無間等を生ず。生あるが故に老死あり。生の縁なるが故に老死あり。かくの如く有、取、愛、受、触、六入処、名色。
釈:世尊は諸比丘に告げられた。私は往世を思い起こすに、まだ正等正覚を得ていなかった時、一人で静かな所にて、一心に専念して思惟した。内心にこのような念が生じた。いかなる法が出生するが故に、老死がそれに伴い出生するのか? いかなる法を縁として老死は出生するのか? 直ちに正思惟に入った。正思惟の後に、如実で間断のない智慧が生じ、生命体が出生したが故に老死がそれに伴い出現し、生命体が出生するが故に老死が出現することを知った。
このように一つ一つ前へ類推していくと、生命体の発生は三界器世間が出現するが故に、生命体がそれに伴い出現し、三界の有を縁として生命体は出生することを証得した。三界器世間の有が出現するのは、衆生が五陰世間法を執取するが故に、有がそれに伴い出現し、衆生の執取を縁として有は出生する。
衆生が五陰世間に貪愛があれば、執取現象が出現する。貪愛があるが故に執取現象が出現するからである。衆生は五陰世間に受があるが故に貪愛があり、受があるが故に貪愛が出生する。衆生は六根が六塵に触れるが故に受が生じ、触があるが故に受が出生する。衆生は外六入と内六入があるが故に触があり、内外六入があるが故に触が生じる。衆生は名色があるが故に六入がそれに伴い出生し、名色を縁として六入が生じる。
原文:何の法あるが故に名色あり。何の法の縁なるが故に名色あり。即ち正思惟す。如実の無間等を生ず。識あるが故に名色あり。識の縁なるが故に名色あり。我この思惟を作す時、識に斉(いた)りて還る。彼を過ぐること能わず。
釈:私はまたこのような念を生じた。いかなる法が出現するが故に名色は出生するのか? いかなる法を縁として名色は出生するのか? 直ちに正思惟に入った。その後、如実で間断のない智慧が生じ、阿頼耶識があるが故に名色が生じ、阿頼耶識を縁として名色が生じることを知った。私はこのような思惟を行っている時、阿頼耶識の所に至り、それより前は思惟することができなかった。なぜなら、その前には何の法もないからである。すなわち、阿頼耶識を出生する法は何もなく、あるいは阿頼耶識の出生を促す如何なる法もない。前には阿頼耶識を超える法はない。これは生死の流れに逆らって根源を追及するものであり、生死の源は阿頼耶識の所にある。阿頼耶識から流転して生死が生じる。
原文:いわゆる識を縁として名色あり。名色を縁として六入処あり。六入処を縁として触あり。触を縁として受あり。受を縁として愛あり。愛を縁として取あり。取を縁として有あり。有を縁として生あり。生を縁として老病死あり。憂悲悩苦。かくの如くかくの如く、純大苦聚を集む。
釈:阿頼耶識を縁として名色がある。名色を縁として六入処の発生がある。六入処を縁として触の発生がある。触を縁として受の発生がある。受を縁として愛の発生がある。愛を縁として執取がある。執取を縁として三界の有がある。有を縁として生がある。生を縁として老病死憂悲苦悩がある。かくして三界生死の大苦が集まる。
なぜ阿頼耶識から流転して生死が生じるのか? 意根に無明があるからである。五陰世間法を所有したいと欲する。阿頼耶識は意根の無明と業種に順従し、三界世間と五陰身を出生し、生死がその中に宛然と存在する。十二因縁は無明を縁として生死流転が生じ苦を生む。十因縁は生死流転に逆らい無明を滅して苦を滅する。十二因縁の生死流転があるのは、衆生の意根に無明があるからである。無明を縁として、阿頼耶識は無明を借りて一連の生死の連鎖を出生し、衆生を苦海の中に押しやる。一方、十因縁による生死流転の逆は、生老病死の現象から絶えず根源を尋ね阿頼耶識の所に至る。もし阿頼耶識を証得し、阿頼耶識が如何にして五陰名色を出生するかを知れば、菩薩となり、大乗の修行に入る。
もし十二因縁と十因縁の各々の分岐を実証すれば、中乗の聖人である辟支仏独覚仏となる。辟支仏たちは十因縁の各分岐を実証しているが、阿頼耶識の所においては、ただ実有として推算するだけで、阿頼耶識を証得しておらず、阿頼耶識が何処で如何なる作用を起すかを見つけていない。それ故に阿頼耶識の実証とはならず、この点は大乗菩薩の実証とは本質的な差がある。
原文:我は時にこの念を作す。何の法無きが故に則ち老死無し。何の法滅するが故に老死滅す。即ち正思惟す。如実の無間等を生ず。生無きが故に老死無し。生滅するが故に老死滅す。かくの如く生、有、取、愛、受、触、六入処、名色、識、行を広説す。
釈:私はこの時またこのような疑念を持った。何の法がなければ老死はないのか? 何の法が滅すれば老死は滅するのか? 直ちに正思惟に入った。その後、如実で間断のない智慧が生じ、生がなければ老死はなく、生の現象が滅すれば老死は滅することを知った。このように思惟を進めると、三界の有が消失すれば生は出現せず、三界の有が滅すれば生は滅することを証得する。取がなければ三界の有はなく、取が滅すれば三界の有は滅する。
貪愛がなければ取はなく、貪愛が滅すれば取は滅する。受がなければ貪愛はなく、受が滅すれば愛は滅する。触が消失すれば受は消失し、触が滅すれば受は滅する。六入処がなければ触はなく、六入処が滅すれば触は滅する。名色がなければ六入処はなく、名色が滅すれば六入処は滅する。六識の業種がなければ名色は滅し、六識の業種が滅すれば名色は滅する。身口意の業行がなければ六識の業種はなく、身口意の業行が滅すれば老死は滅する。
原文:我はまたこの思惟を作す。何の法無きが故に行無し。何の法滅するが故に行滅す。即ち正思惟す。如実の無間等を生ず。無明無きが故に行無し。無明滅するが故に行滅す。行滅するが故に識滅す。識滅するが故に名色滅す。名色滅するが故に六入処滅す。六入処滅するが故に触滅す。触滅するが故に受滅す。受滅するが故に愛滅す。愛滅するが故に取滅す。取滅するが故に有滅す。有滅するが故に生滅す。生滅するが故に老病死。憂悲悩苦滅す。かくの如くかくの如く、純大苦聚滅す。
釈:私はまたこのような思惟を行った。何の法がなければ業行はないのか? 何の法が滅すれば業行は滅するのか? 直ちに正思惟に入った。その後、如実で間断のない智慧が生じ、意根の無明がなければ業行はなく、意根の無明が滅すれば業行は滅することを証得した。業行が滅すれば六識の業種は滅する。六識の業種が滅すれば未来世の名色は滅する。名色が滅すれば六入処は滅する。六入処が滅すれば触は滅する。触が滅すれば受は滅する。受が滅すれば愛は滅する。愛が滅すれば取は滅する。取が滅すれば有は滅する。有が滅すれば生は滅する。生が滅すれば老病死憂悲苦悩は滅する。かくしてこのような大苦の聚集は滅する。
十二因縁の生死循環は、結局のところ意根の無明によるものである。意根が張本人である。それ故に生死輪廻を離れ、解脱を得るためには、必ず意根の無明を破り断じ尽くし、意根が再び三界世間を妄想して行くことがないようにしなければならない。そうすれば身口意の業行は滅する。意根が一切の法は皆空であり無我であると証得すれば、もはや如何なる法をも執取する理由もなく、動力もなくなる。取着がなければ苦はなく、解脱自在である。
意根が五陰世間に対して心行がなく、意欲がなく、攀縁がなく、執取がなければ、再び六識に指図して更なる身口意の業行を造作することはなく、七識心は皆清浄となり、無為となり、寂静となる。三界の業は終わり、業種がなければ、未来世には再び五陰世間はなく、名色もなくなる。こうして暫時寂滅する。未来無量劫の後、大乗の法縁が熟せば、再び寂滅涅槃から出生し、菩薩道を践行し、自らを度し他を度し、仏道を完成し、真の寂滅の処である無住処涅槃に入り、再び灰身泯智する必要はない。
意根の無明の破砕は、我見を断ち須陀洹果を証得することから始まり、さらに辟支仏果を証得するに至る。三界の生死無明の種子は断じ尽くされるが、なお無始無明と塵沙無明が未来の成仏の道の修証において少しずつ破られ、ついに断じ尽くされると、大覚世尊となる。ただ三界無明を断じ尽くすだけでは、覚悟のほんの一部に過ぎず、大覚ではなく、究竟覚ではない。仏道を学ぶ上で発心は重要であり、発心が大きければ大きいほど、覚悟は大きく徹底し、成仏は速やかである。
原文:我は時にこの念を作す。我は古仙人の道を得たり。古仙人の径。古仙人の道跡。古仙人はこの跡より去りし。我は今これに随いて去る。譬えば人あり。曠野に遊び、荒を披きて路を覓(もと)む。忽ち故道に遇う。古人の行く処。彼は則ち随いて行く。漸く進みて、故城邑を見る。古王の宮殿。園観浴池。林木清浄。
釈:私は十二因縁の前後を思惟して通達した後、心中にこのような思いを持った。私は今、古代の聖人たちが歩んだ道を歩んでいる。古の先聖たちが歩んだ径路を歩んでいる。古の先聖たちはこの道を通って去った。私は今、彼らに従って歩んでいる。譬えばある人が深山の曠野を遊歴し、荒草を劈(ひら)いて道を求める。突然、古い道を見つけた。それは古人が通った所である。そこでこの人は古人が通った所に従って歩み、一歩一歩前に進むと、古い都市と古代の王の宮殿を見た。そこには大観園と浴池があり、山林の灌木は皆清浄であった。
原文:彼はこの念を作す。我は今まさに往きて王に白し知らしめん。即ち往きて王に白す。大王よ知るべし。我は曠野に遊び、荒を披きて路を求めしに、忽ち故道を見る。古人の行く処。我は即ち随いて行く。我随いて行きし已(おわ)りて、故城邑を見る。故王の宮殿。園観浴池。林流清浄。大王よ往くべし。その中に居止せよ。王は即ち彼に往く。その中に止住す。豊楽安隠。人民熾盛。
釈:この人は思った。私は今、宮殿に行き大王に一言申し上げ、大王に知らせよう。そこでこの人は大王に拝謁し、大王に言った。大王よ、あなたは私が曠野の中を遊歴し、荒草を劈いて通路を求めていたところ、突然古い道を見つけたことを知るべきである。それは古人が通った径路である。私はその道に従って前に進んだ。歩いていると古い都市を見た。そこには古い王宮があり、中には大観園と泉流の浴池があり、林木は清浄であった。大王はそこに行き、その中に居住すべきである。そこで大王は王宮に行き住み、そして国を治めた。それ以来、国は豊かになり、人民は豊かで安穏で幸せであった。
仏がこの話を譬えにしたのは、自ら十二因縁を探究したこの過程が、過去の古の聖人たちが用いた方法と同じであり、歩んだ道も同じであり、探究した結果も同じであり、得た結論も一致していることを示すためである。古の聖人賢者たちは真理を証得し、仏陀は今また同様に真理を証得し、皆解脱を得て、生死の大患を出離し、安穏なる涅槃の城に至り、安穏なる楽しみを享受する。古仙人の道とは八正道を指す。故城邑古王宮殿は涅槃の境界を表す。私は古仙人の道に従い、無明の尽きる所に至り、無明を滅すれば、生老病死憂悲苦悩は滅する。曠野に遊び荒を披いて路を求めるのは、十二因縁の道を修行することが非常に困難で容易ではなく、粘り強く忍耐強い意志を持ち、絶えず模索し探求しなければ、生死の源と奥秘を探究し、生死の源を断ち切り、涅槃解脱に至ることができることを表す。
原文:今我はかくの如し。古仙人の道を得たり。古仙人の径。古仙人の跡。古仙人の去る処。我は得てこれに随いて去る。いわゆる八聖道。正見正志。正語正業。正命正方便。正念正定。我は彼の道より、老病死を見る。老病死集。老病死滅。老病死滅道跡。生有取を見る。愛受触。六入処名色。識行。行集行滅。行滅道跡。
釈:仏は言われた。私は今もこのように古仙人の修行の道を見つけた。古仙人の修行の跡、古仙人の帰する所。この道は八正道である。正語、正見、正念、正定、正思惟、正業、正命、正精進。私はこの八正道に従い、老病死の苦を見た。老病死苦の集起を断ち、老病死苦の滅を証得し、老病死苦滅の道を修めた。生の苦を見た。生苦の集起を断ち、生苦の滅を証得し、生苦滅の道を修めた。有の苦を見た。有苦の集起を断ち、有苦の滅を証得し、有苦滅の道を修めた。
私は取の苦を見た。取苦の集起を断ち、取苦の滅を証得し、取苦滅の道を修めた。愛の苦を見た。愛苦の集起を断ち、愛苦の滅を証得し、愛苦滅の道を修めた。受の苦を見た。受苦の集起を断ち、受苦の滅を証得し、受苦滅の道を修めた。触の苦を見た。触苦の集起を断ち、触苦の滅を証得し、触苦滅の道を修めた。六入処の苦を見た。六入処苦の集起を断ち、六入処苦の滅を証得し、六入処苦滅の道を修めた。名色の苦を見た。名色苦の集起を断ち、名色苦の滅を証得し、名色苦滅の道を修めた。六識業種の苦を見た。六識業種苦の集起を断ち、六識業種苦の滅を証得し、六識業種苦滅の道を修めた。身口意業行の苦を見た。身口意業行苦の集起を断ち、身口意業行苦の滅を証得し、身口意業行苦滅の道を修めた。
原文:我はこの法に於いて、自ら知り自ら覚る。等正覚を成ず。比丘比丘尼、優婆塞優婆夷、及び余の外道沙門婆羅門、在家出家の為に。彼の諸の四衆、法を聞きて正しく向かい信楽し、法の善を知り、梵行増広し、多く饒益すべき所あり。開示顕発す。仏はこの経を説き終わりたまいし已(おわ)りて、諸比丘は仏の説きたまいし所を聞き、歓喜して奉行せり。
釈:私は十二因縁というこの法門について、独りで証知し、独りで覚悟し、他によることなく、最後に無上正等正覚を修成した。私は成仏した後、比丘比丘尼、優婆塞優婆夷、及び他の外道沙門婆羅門、在家出家の四衆弟子のために、彼らがこの法を聞き、解脱の法門に信楽し、無明を滅除する正道に向かい、この法門の善果を証知し、梵行を増長し、全ての四衆弟子にとってより多くの利益があるようにした。故に私はここでこの古仙人の修証の道を開示する。仏がこの経を説き終えられると、諸比丘たちは仏の説かれたことを聞き、皆大いに歓喜し、信受奉行した。