阿含経十二因縁釈
第三章 長阿含経における十二因縁法
第一節 長阿含大縁方便経第九
原文: 爾時、仏阿難に告げたまわく、縁って生有れば老死あり。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に生ある者無からしむれば、寧ろ老死有らんや。阿難答えて曰く、無し。是の故に阿難よ、此の縁を以て、老死は生に由ることを知る。縁って生有れば老死あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏は阿難に告げた。生を縁として老死があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に生がなくなれば、老死はありうるか。阿難は答えて言った。生がなければ老死はない。仏は言った。それゆえに、阿難よ、この縁故に老死は生によるものであり、生を縁として老死があるのだと知るのである。私が説く意味はここにある。
原文:また阿難に告げたまわく、縁って有有れば生あり。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に欲有・色有・無色有無からしむれば、寧ろ生有らんや。答えて曰く、無し。 阿難よ、我れ此の縁を以て、生は有に由ることを知る。縁って有有れば生あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏はまた阿難に告げて言った。三界世間の有を縁として生があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に欲界の有・色界の有・無色界の有がなければ、生はありうるか。阿難は答えて言った。三界の有がなければ生はない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、生は三界世間の有によるものであると知る。三界世間の有を縁として生があるのだ。私が説く意味はここにある。
原文:また阿難に告げたまわく、縁って取有れば有あり。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に欲取・見取・戒取・我取無からしむれば、寧ろ有有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、有は取に由ることを知る。縁って取有れば有あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏はまた阿難に告げて言った。執取を縁として三界世間の有があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に貪欲の取がなく、我見を首とする種々の邪見の取着がなく、解脱できない非戒を解脱できる戒と見なす戒取がなく、自我の五陰に対する我取がなければ、三界世間の有はありうるか。阿難は答えて言った。これらの取着がなければ三界世間の有はない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、三界世間の有は種々の取着によってあると知る。まさに三界世間法への求取があるからこそ、三界世間の有が生じるのだ。私が説く意味はここにある。
原文:また阿難に告げたまわく、縁って愛有れば取あり。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に欲愛・有愛・無有愛無からしむれば、寧ろ取有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、取は愛に由ることを知る。縁って愛有れば取あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏はまた阿難に告げて言った。三界世間法への貪愛があるからこそ三界への執取があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に欲界への貪愛・色界への貪愛・無色界への貪愛がなければ、三界への執取はありうるか。阿難は答えて言った。執取はありえない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、三界世間への執取は三界への貪愛によるものであると知る。まさに三界世間法への貪愛があるからこそ、三界世間法への執取が生じるのだ。私が説く意味はここにある。
原文:また阿難に告げたまわく、縁って受有れば愛あり。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に楽受・苦受・不苦不楽受無からしむれば、寧ろ愛有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、愛は受に由ることを知る。縁って受有れば愛あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏はまた阿難に告げて言った。受覚を縁として貪愛があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に楽受・苦受・不苦不楽受がなければ、貪愛はありうるか。阿難は答えて言った。受がなければ貪愛はありえない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、貪愛の生起は受があるからだと知る。まさに種々の受覚があるからこそ貪愛が生じるのだ。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、当に知るべし、愛に因りて求有り。求に因りて利有り。利に因りて用有り。用に因りて欲有り。欲に因りて著(じゃく)有り。著に因りて嫉有り。嫉に因りて守有り。守に因りて護有り。阿難よ、護有るが故に、刀杖諍訟有り。無数の悪を作す。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、あなたは知るべきである。貪愛によって求取が生じ、求取によって利益が生じ、利益があるから用いようとし、用いることによって貪欲が生じ、貪欲によって執着が生じ、執着によって嫉妬が生じ、嫉妬によって守る心が生じ、守る心があるから護ろうとするのだ。阿難よ、護ろうとするが故に、刀杖や諍訟(争い)があり、こうして無数の悪業を造作する。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に護る者無からしめば、当に刀杖諍訟有りて、無数の悪を起こさんや。答えて曰く、無し。是の故に、阿難よ、此の因縁を以て、刀杖諍訟は護に由りて起こることを知る。縁って護有れば刀杖諍訟あり。阿難よ、我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、これはどういう意味か。もし一切の衆生に財・色・名・食・睡などの利益を守る心がなくなれば、刀杖の争いや諍訟の紛糾、ひいては無数の悪業を造作することはありうるか。阿難は答えて言った。利益を守る心がなければ争いや紛糾、悪業はない。仏は言った。それゆえに、阿難よ、この縁故に、刀杖の争いや諍訟は利益を護ろうとする心によって引き起こされると知る。庇護を縁として刀杖と諍訟があるのだ。阿難よ、私が説く意味はここにある。
原文:また阿難に告げたまわく、守に因りて護有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に守る者無からしめば、寧ろ護有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、護は守に由ることを知る。守に因りて護有り。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏はまた阿難に告げて言った。財・色・名・食・睡など自身の利益を守る心があるからこそ、庇護の行為があるとは、どういう意味か。もし衆生に守る心がなければ、庇護の行為はありうるか。阿難は答えて言った。守る心がなければ庇護はない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、庇護の行為は守る心によってあると知る。守る心によって庇護が生じる。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、嫉に因りて守有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に嫉む者無からしめば、寧ろ守有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、守は嫉に由ることを知る。嫉に因りて守有り。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、嫉妬があるからこそ自身の利益を守る心があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に嫉妬心がなければ、守る心行はありうるか。阿難は答えて言った。嫉妬がなければ守ることはない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、守る心は嫉妬によってあると知る。嫉妬によって守る心が生じる。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、著(じゃく)に因りて嫉有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に著する者無からしめば、寧ろ嫉有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、嫉は著に由ることを知る。著に因りて嫉有り。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、執着があるからこそ嫉妬があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に執着がなければ、嫉妬はありうるか。阿難は答えて言った。執着がなければ嫉妬はない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、嫉妬は執着によるものだと知る。執着によって嫉妬が生じる。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、欲に因りて著(じゃく)有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に欲無からしめば、寧ろ著(じゃく)有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、著(じゃく)は欲に由ることを知る。欲に因りて著(じゃく)有り。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、貪欲があるからこそ執着があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に貪欲がなければ、執着はありうるか。阿難は答えて言った。貪欲がなければ執着はない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、執着は貪欲によるものだと知る。貪欲を縁として執着が生じる。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、用に因りて欲有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に用いる者無からしめば、寧ろ欲有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の義を以て、欲は用に由ることを知る。用に因りて欲有り。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、利益が用いられるからこそ貪欲があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生が用いることをしなければ、貪欲はありうるか。阿難は答えて言った。用いる心がなければ貪欲はない。仏は言った。私はこの縁故に、貪欲は用いようとするが故に現れると知る。用いようとするからこそ貪欲が生じる。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、利に因りて用有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に利無からしめば、寧ろ用有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の義を以て、用は利に由ることを知る。利に因りて用有り。我の説く所の者は、義此に在り。
阿難よ、求に因りて利有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に求むる者無からしめば、寧ろ利有らんや。 答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、利は求に由ることを知る。求に因りて利有り。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、利益があるからこそ用いようとする心があるとは、どういう意思か。もし一切の衆生に利益がなければ、用いようとする心はありうるか。阿難は答えて言った。利がなければ用はない。仏は言った。阿難よ、私はこの道理によって、用は利益があるが故に現れると知る。利益があるから用いようとする。私が説く意味はここにある。
阿難よ、貪求があるからこそ利益というものがあるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に貪求がなければ、利益というものはありうるか。阿難は答えて言った。求めることがなければ利益というものはない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、利益は求取によってあると知る。求取があるからこそ利益が生じる。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、愛に因りて求有り。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に愛無からしめば、寧ろ求有らんや。 答えて曰く、無し。阿難よ、我れ此の縁を以て、求は愛に由ることを知る。愛に因りて求有り。我の説く所の者は、義此に在り。また阿難に告げたまわく、愛に因りて求有り。守護に至るまで。受もまた是の如し。受に因りて求有り。守護に至るまで。
釈:阿難よ、貪愛があるからこそ求取があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に貪愛がなければ、求取心はありうるか。阿難は答えて言った。貪愛がなければ求めることはない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、求取は貪愛によるものだと知る。貪愛を縁として求取が生じる。私が説く意味はここにある。仏はまた阿難に告げて言った。貪愛によって求取が生じ、守護に至る。受もまた同様で、受によって求取が生じ、守護に至る。
原文:仏阿難に告げたまわく、縁って触有れば受あり。此れ何の義ぞ。阿難よ、若し眼無く色無く眼識無からしめば、寧ろ触有らんや。 答えて曰く、無し。若し耳・声・耳識、鼻・香・鼻識、舌・味・舌識、身・触・身識、意・法・意識無からしめば、寧ろ触有らんや。答えて曰く、無し。
阿難よ、若し一切の衆生に触無からしめば、寧ろ受有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ是の義を以て、受は触に由ることを知る。縁って触有れば受あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:仏は阿難に告げて言った。触を縁として受があるとは、どういう意味か。阿難よ、もし一切の衆生に眼根と色塵がなく、眼識もなければ、触はありうるか。阿難は答えて言った。根・塵・識がなければ触はない。仏は言った。もし一切の衆生に耳根・声塵・耳識、鼻根・香塵・鼻識、舌根・味塵・舌識、身根・触塵・身識、意根・法塵・意識がなければ、触はありうるか?阿難は答えて言った。根・塵・識がなければ触はない。
仏は言った。阿難よ、もし一切の衆生に触がなければ、受はありうるか。阿難は答えて言った。触がなければ受はない。仏は言った。阿難よ、私はこの道理によって、受は触によってあると知る。触を縁として受がある。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、縁って名色有れば触あり。此れ何の義ぞ。若し一切の衆生に名色無からしめば、寧ろ心触有らんや。 答えて曰く、無し。 若し一切の衆生に形色相貌無からしめば、寧ろ身触有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、若し名色無からしめば、寧ろ触有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ是の縁を以て、触は名色に由ることを知る。縁って名色有れば触あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、名色を縁として触があるとは、どういう意味か。もし一切の衆生に名色がなければ、心で触れることはありうるか。阿難は答えて言った。名色がなければ触はない。仏は言った。もし一切の衆生に形ある色体や相貌がなければ、身で触れることはありうるか。阿難は答えて言った。形色がなければ身触はない。仏は言った。阿難よ、もし名色がなければ、触はありうるか。阿難は答えて言った。名色がなければ触はない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、触は名色によってあると知る。名色を縁として触がある。私が説く意味はここにある。
原文:阿難よ、縁って識有れば名色あり。此れ何の義ぞ。若し識母胎に入らざれば、名色有らんや。答えて曰く、無し。若し識胎に入りて出でざれば、名色有らんや。答えて曰く、無し。若し識胎を出でて、嬰孩壊敗せば、名色増長を得んや。答えて曰く、無し。阿難よ、若し識無からしめば、名色有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、我れ是の縁を以て、名色は識に由ることを知る。縁って識有れば名色あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、識(阿頼耶識)を縁として名色があるとは、どういう意味か。もし阿頼耶識が母胎に入らなければ、名色はありうるか。阿難は答えて言った。識が胎に入らなければ名色はない。仏は言った。もし阿頼耶識が母胎に入っても出なければ、名色はありうるか。阿難は言った。胎を出なければ名色はない。仏は言った。もし阿頼耶識が母胎を出たが、嬰児の色身が壊死すれば、名色は増長できるか。阿難は言った。名色は増長できない。仏は言った。阿難よ、もし阿頼耶識がなければ、名色はありうるか。阿難は言った。阿頼耶識がなければ名色はない。阿難よ、私はこの縁故に、名色は阿頼耶識から出生すると知る。阿頼耶識を縁として名色がある。私が説く意味はここにある。
これは十因縁の法義であり、名色が生じる最も直接的な因縁は阿頼耶識であることを明らかにしている。六識は名色が生じる助縁に過ぎず、六識が清浄になり、もはや業行を造作しなければ、阿頼耶識は名色を生じることができず、生死は終結する。阿頼耶識は入胎から出胎まで、生命の各段階において名色に伴い、名色を絶えず増長・変異させる。一旦名色の縁がなくなれば、阿頼耶識はもはや名色を増長し、名色に伴うことができなくなる。
十因縁の識を六識と誤解する者もいるが、入胎の時点で六識は消滅し、六識は来世に赴くことはできない。入胎後の長い期間、六識は生じず、眼識は出胎後に初めて生じることもある。ゆえに、入胎・住胎するのは六識ではなく阿頼耶識である。仏は十因縁において、名色が生じる根本因は阿頼耶識であると直接指摘し、阿頼耶識は名色の依り所であり源である。
原文:阿難よ、縁って名色有れば識あり。此れ何の義ぞ。若し識名色に住せずんば、則ち識住処無し。若し住処無くんば、寧ろ生老病死・憂悲苦悩有らんや。答えて曰く、無し。阿難よ、若し名色無くんば、寧ろ識有らんや。答えて曰く、無し。 阿難よ、我れ此の縁を以て、識は名色に由ることを知る。縁って名色有れば識あり。我の説く所の者は、義此に在り。
釈:阿難よ、名色を縁として阿頼耶識がある、すなわち阿頼耶識が顕現し、阿頼耶識を見ることができるとは、どういう意味か。もし阿頼耶識が名色の上に住まなければ、阿頼耶識には住処がなくなる。もし阿頼耶識に住処がなければ、衆生の生老病死憂悲苦悩はありうるか。阿難は言った。阿頼耶識に住処がなければ、生老病死はない。仏は言った。阿難よ、もし名色がなければ、阿頼耶識を見ることができ、阿頼耶識の顕現はありうるか。阿難は言った。名色がなければ、阿頼耶識は顕現できない。仏は言った。阿難よ、私はこの縁故に、阿頼耶識は名色を縁として住処があり、名色を縁として阿頼耶識が顕現すると知る。私が説く意味はここにある。
「縁名色有識」の「有」は、生じるという意味ではなく、顕現する・見えるという意味である。なぜなら阿頼耶識は不生不滅であり、名色によって生じるものではない。名色も何らかの法を生じることはできず、ましてや阿頼耶識を生じることはできない。もし名色がなければ、阿頼耶識は依り所がなく、阿頼耶識は名色に依り名色の上に住むことによって初めてその作用を顕現させることができる。仏は後で、もし阿頼耶識が名色に住まなければ住処がなく、住処がなければ名色がなく、名色がなければ生老病死がないと解釈している。十因縁の法義は甚深であり理解し難いが、正しく理解すべきである。
原文:阿難よ、是の故に名色は識を縁とす。識は名色を縁とす。名色は六入を縁とす。六入は触を縁とす。触は受を縁とす。受は愛を縁とす。愛は取を縁とす。取は有を縁とす。有は生を縁とす。生は老死憂苦悲悩を縁とす。大苦陰集。阿難よ、斉(ひと)しく是を以て語と為し。斉しく是を以て応と為し。斉しく是を以て限と為し。斉しく此を以て演説と為し。斉しく是を以て智観と為し。斉しく是を以て衆生と為す。阿難よ、諸の比丘此の法に於いて、如実に正観して、無漏の心解脱を得ん。阿難よ、此の比丘当に慧解脱と名づくべし。
釈:阿難よ、それゆえに名色は阿頼耶識を縁としてあり、阿頼耶識は名色を縁として住処と機能を持つ。名色があれば六入を生じ、六入があれば触を生じ、触があれば受を生じ、受があれば愛を生じ、愛があれば取を生じ、取があれば三界の有を生じ、有があれば生があり、生があれば老病死憂悲苦悩があり、純大苦陰が集積する。阿難よ、これこそが正しい言葉であり論義である。これこそが最も修習すべき法義である。これこそが最も究竟な法門である。これこそが真実に仏法を宣演することである。これこそが智慧ある観察である。これこそが衆生を救う法宝である。阿難よ、諸比丘がこの法において、如実に正しく観察し、煩悩を断じ尽くして心が解脱する。阿難よ、このように正観する比丘を慧解脱の阿羅漢という。
慧解脱の阿羅漢は、その解脱の智慧が禅定の修行に勝り、その禅定は初禅に至るのみで、二禅あるいは四禅以上の甚深な禅定を具えない。命終の時には主に解脱の智慧によって三界を捨て離れ涅槃に入る。解脱の智慧は五蘊が苦・空・無常・無我であることを完全に徹底して証得し、我執などの一切の貪瞋痴の煩悩を断じ尽くし、一念の無明が滅尽し、五蘊が即時に滅する。慧解脱とは智慧のみで禅定がないという意味ではなく、禅定が深くはなく、解脱が主に禅定によるのではなく、解脱の智慧によって三界の法を滅尽するという意味である。慧解脱の阿羅漢は最低限、初禅定を有していなければならない。もし初禅定がなければ、煩悩を断じ尽くすことはできず、心が無漏となることはなく、煩悩を断じ尽くせなければ解脱はできない。
原文:是の如く解脱したる比丘は、如来の終わりも知り、如来の終わらざるも知り、如来の終わり且つ終わらざるも知り、如来の終わらず終わらざらずも知る。何を以ての故に。阿難よ、斉しく是を以て語と為し。斉しく是を以て応と為し。斉しく是を以て限と為し。斉しく是を以て演説と為し。斉しく是を以て智観と為し。斉しく是を以て衆生と為す。是の如く尽く知りて已(おわ)りて、無漏の心解脱の比丘は知らず見ず。是の如く知見せん。
釈:このように解脱した比丘は、如来が涅槃に入ることも知り、如来が涅槃に入らないことも知り、如来が涅槃に入りかつ入らないことも知り、如来が涅槃に入らず入らないのでもないことも知る。なぜそう言うのか。阿難よ、このように説くことが正しい言葉であり、このように説くことが最も適切であり、このように説くことが最も究竟であり、このように説くことが法を演説することであり、このように説くことが智慧の観察であり、このように説くことが衆生を救うことだからである。心解脱の比丘はこのように如来の涅槃・不涅槃をことごとく知った後、煩悩が尽き、心が解脱する。しかし、その他の比丘はこのような知見を知らず見ない。
原文:阿難よ、夫れ我を計る者、斉(あた)い幾名(いくつ)か我見と為す。名色と受と、倶に計りて以て我と為す。或る人は言う、受は我に非ず。我は受なりと。或いは言う、受は我に非ず。我は受に非ず。受法は我なりと。或いは言う、受は我に非ず。我は受に非ず。受法も我に非ず。但だ愛は我なりと。
釈:阿難よ、我が存在すると計る者には、どのようなものを我見というのか。名色五陰と受覚の全てを我と見なす、これが我見である。ある者は言う、受覚は我ではないが、我は受であると。またある者は言う、受覚は我ではなく、我も受ではないが、能受(受ける作用)という法こそが我であると。またある者は言う、受覚は我ではなく、我も受ではなく、能受・所受(受ける作用・対象)という法も我ではないが、愛こそが我であると。
原文:阿難よ、彼我有りと見る者、受は我なりと言う。当に彼に語るべし、如來は三受を説く。楽受・苦受・不苦不楽受。当に楽受有る時は、苦受無く、不苦不楽受無し。苦受有る時は、楽受無く、不苦不楽受無し。不苦不楽受有る時は、苦受・楽受無し。
釈:阿難よ、どのような法の中に我が存在すると見て、受覚が我であると言う者には、彼らにこう言うべきである。如來は三種の受を説いている。楽受・苦受・不苦不楽受である。楽受がある時には苦受も不苦不楽受もなく、苦受がある時には楽受も不苦不楽受もなく、不苦不楽受がある時には楽受も苦受もない。
我が存在すると計るという意味は、凡夫の心は常に五蘊十八界を恒常で主宰的な法と誤って計ることであり、この法は世俗法としての我を指し、非世俗の第八識如来蔵を指すものではない。衆生は無始劫以来、第八識の存在を知らず、七識の存在すら知らず、真識・仮識も知らない。ゆえに、文中の「我」を第八識とすることは全て誤った説であり、事理と事実に背く。凡夫は決して名色五陰を第八識と見なしたことはなく、受を第八識と見なしたこともない。五陰や受が第八識であるか否かに関わらず、そうである。さらに言えば、第八識には名色も受もない。何を根拠に受が第八識である、受は第八識でないと言うのか。是でも非でも正理に背く。
原文:所以然(ゆえん)は何ぞや。阿難よ、楽触縁って楽受を生ず。若し楽触滅せば受も亦滅す。阿難よ、苦触縁って苦受を生ず。若し苦触滅せば受も亦滅す。不苦不楽触縁って、不苦不楽受を生ず。若し不苦不楽触滅せば受も亦滅す。
釈:そう言う所以は、阿難よ、楽触の縁によって楽受が生じ、もし楽触が滅すれば楽受も滅する。阿難よ、苦触の縁によって苦受が生じ、もし苦触が滅すれば苦受もまた滅する。不苦不楽触の縁によって不苦不楽受が生じ、もし不苦不楽触の縁が滅すれば不苦不楽受もまた滅する。
原文:阿難よ、両木相い擦(す)るが如くんば、則ち火生ず。各々異なる処に置けば、則ち火無し。此れ亦是の如し。楽触縁に因りて、故に楽受を生ず。若し楽触滅せば、受も亦倶に滅す。苦触縁に因りて、故に苦受を生ず。若し苦触滅せば、受も亦倶に滅す。不苦不楽触縁に因りて、不苦不楽受を生ず。若し不苦不楽触滅せば、受も亦倶に滅す。阿難よ、此の三受は有為無常。因縁より生じ、尽き滅する法。朽ち壊れる法。彼は我に有らず。我は彼に有らず。当に正智を以て如実に之を観るべし。
釈:阿難よ、たとえば二本の木が互いに擦れ合えば、火が生じる。二本の木を別々に置けば火は生じない。受もまた同様である。楽触の縁によって楽受が生じ、もし楽触が滅すれば楽受もまた滅する。苦触の縁によって苦受が生じ、もし苦触が滅すれば苦受もまた滅する。不苦不楽触の縁によって不苦不楽受が生じ、もし不苦不楽触が滅すれば不苦不楽受もまた滅する。阿難よ、この三種の受は有為の無常法であり、因縁から生じ、滅尽する法であり、腐朽・衰壊する法である。ゆえにこれらの法は我ではなく、私もこれらの法ではない。あなたがたはこのように正しく如実な智慧をもって観察すべきである。
原文:阿難よ、彼我有りと見る者、受を以て我と為す。彼は則ち非なり。阿難よ、彼我有りと見る者、受は我に非ず。我は受者なりと言う。当に彼に語るべし、如來は三受を説く。苦受・楽受・不苦不楽受。若し楽受我なりと為せば、楽受滅する時、則ち二我有り。此れ則ち過ちと為す。若し苦受我なりと為せば、苦受滅する時、則ち二我有り。此れ則ち過ちと為す。若し不苦不楽受我なりと為せば、不苦不楽受滅する時、則ち二我有り。此れ則ち過ちと為す。
釈:阿難よ、我が存在すると見る者で、受を我とする者は、その見解は正しくない。阿難よ、我が存在すると見る者で、受は我ではないが、我こそが受であると言う者には、これらの者を救うために、彼らにこう言うべきである。如來は三種の受を説いている。苦受・楽受・不苦不楽受である。もし楽受が私であるなら、楽受が滅する時には二つの我(苦受の我と不苦不楽受の我)が存在することになり、これは正しくない。もし苦受が私であるなら、苦受が滅する時には二つの我(楽受の我と不苦不楽受の我)が存在することになり、これは正しくない。もし不苦不楽受が私であるなら、不苦不楽受が滅する時には二つの我(苦受の我と楽受の我)が存在することになり、これは誤りである。
原文:阿難よ、彼我有りと見る者、受は我に非ず。我は受なりと言う。彼は則ち非なり。阿難よ、彼我を計る者、此の説を作(な)す。受は我に非ず。我は受に非ず。受法は我なりと。当に彼に語るべし、一切受無し。汝何を以て受法有りと言うや。汝は受法なるか。対(こた)えて曰く、是に非ず。是の故に阿難よ、彼我を計る者、受は我に非ず。我は受に非ず。受法は我なりと言う。彼は則ち非なり。
釈:阿難よ、我が存在すると見る者で、受は我ではないが、我こそが受であると言う者は、この知見は誤りである。阿難よ、我が存在すると計る者がこう言う。受は私ではない、私も受ではない、しかし受という法こそが私であると。このような者には、彼にこう言うべきである。一切の法に受はない。なぜ受法があると言うのか。あなたは受法なのか。その者は答えて言うであろう。私は受法ではない。それゆえに阿難よ、我が存在すると計る者で、受は私ではない、私も受ではない、しかし受法こそが私であると言う者の見解は誤りである。
原文:阿難よ、彼我を計る者、是の言を作(な)す。受は我に非ず。我は受に非ず。受法は我に非ず。但だ愛は我なりと。当に彼に語るべし、一切受無し。何を以て愛有らんや。汝は愛なるか。対(こた)えて曰く、非なり。是の故に阿難よ、彼我を計る者、受は我に非ず。我は受に非ず。受法は我に非ず。愛は我なりと言う。彼は則ち非なり。阿難よ、斉しく是を以て語と為し。斉しく是を以て応と為し。斉しく是を以て限と為し。斉しく是を以て演説と為し。斉しく是を以て智観と為し。斉しく是を以て衆生と為す。
釈:阿難よ、我が存在すると計る者がこう言う。受は私ではない、私も受ではない、受法も私ではない、しかし愛こそが私であると。このような者には、彼らにこう言うべきである。一切の法に受はない。どうして愛があると言うのか。あなたは愛なのか。相手は答えて言うであろう。私は愛ではない。それゆえに、阿難よ、我が存在すると計り、受は私ではない、私も受ではない、受法も私ではない、しかし愛こそが私であると言う者の見解は誤りである。阿難よ、このように説くことが正しい言葉であり、このように説くことが法と相応し、このように説くことが最も究竟であり、このように説くことが正法を演説することであり、このように説くことが智慧的な観察であり、このように説くことが衆生を救うことである。
原文:阿難よ、諸の比丘此の法に於いて如実に正観して、無漏の心解脱を得ん。阿難よ、此の比丘当に慧解脱と名づくべし。是の如く心解脱したる比丘は、我有りも亦知り、我無きも亦知り、我有り我無きも亦知り、我有らず我無からずも亦知る。何を以ての故に。阿難よ、斉しく是を以て語と為し。斉しく是を以て応と為し。斉しく是を以て限と為し。斉しく是を以て演説と為し。斉しく是を以て智観と為し。斉しく是を以て衆生と為す。是の如く尽く知りて已(おわ)りて、無漏の心解脱の比丘は知らず見ず。是の如く知見せん。
釈:阿難よ、諸比丘がこれらの法において如実に正しく観察すれば、無漏を得て心が解脱するであろう。阿難よ、心が無漏の比丘は慧解脱阿羅漢と呼ばれるべきである。このように心が解脱し無漏となった比丘は、我が存在する法も知り、我が存在しない法も知り、我が存在し我が存在しない法も知り、我が存在せず我が存在しないのでもない法も知る。なぜそう言うのか。阿難よ、ただこのように説くことが正しい言葉であり、このように説くことが法と相応し、このように説くことが最も究竟であり、このように説くことが正法を演説することであり、このように説くことが智慧的な観察であり、このように説くことが衆生を救うことだからである。かくして心解脱の比丘は非我の法をことごとく証知した後、煩悩が尽き、心が解脱する。その他の比丘は非我の知見を知らず見ない。
原文:仏阿難に語りたまわく、彼我を計る者、斉(あた)い已に定と為す。彼我を計る者、或いは言う、少色は我なりと。或いは言う、多色は我なりと。或いは言う、少無色は我なりと。或いは言う、多無色は我なりと。阿難よ、彼少色は我なりと言う者、定めて少色は我なりとす。我の見る所是なり。余りは非なりと。
釈:仏は阿難に言った。我が存在すると計る者たちは、我の境界についてすでに定めている。我が存在すると計る者たちは、ある者は少部分の色が私であると言い、ある者は大部分の色が私であると言い、ある者は少部分の無色が私であると言い、ある者は大部分の無色が私であると言う。阿難よ、少部分の色が私であると言う者は、固く執着して少部分の色が私であるとし、私が見たものは正しく、その他私が見ていないものは正しくないとする。
原文:多色は我なりと言う者、定めて多色は我なりとす。我の見る所是なり。余りは非なりと。少無色は我なりと言う者、定めて少無色は我なりと言う。我の見る所是なり。余りは非なりと。多無色は我なりと言う者、定めて多無色は我なりとす。我の見る所是なり。余りは非なりと。
釈:大部分の色が私であると言う者は、固く執着して大部分の色が私であるとし、私が見たものは正しく、その他私が見ていないものは正しくないとする。少部分の無色が私であると言う者は、固く執着して少部分の無色が私であるとし、私が見たものは正しく、その他私が見ていないものは正しくないとする。大部分の無色が私であると言う者は、固く執着して大部分の無色が私であるとし、私が見たものは正しく、その他私が見ていないものは正しくないとする。
原文:仏阿難に告げたまわく、七識住。二入処。諸の沙門婆羅門言う。此の処は安隠(あんのん)なり。救いと為し、護りと為し、舎(いえ)と為し、燈(ともしび)と為し、明(あかり)と為し、帰(よりどころ)と為し、虚妄ならず、煩わしからずと。
釈:仏は阿難に告げて言った。七種の識住処と二種の入処がある。あなたがたは知るべきである。諸沙門婆羅門は、この七種の識住処と二種の入処は安穏な処であり、救護されるべき処であり、家屋であり、明灯であり、光明であり、帰依すべき処であり、真実で虚妄でない処であり、煩悩のない処であると言う。
原文:云何が七ぞ。或る衆生は、若干種の身、若干種の想。天及び人。此れ是れ初の識住処。諸の沙門婆羅門言う。此の処は安隠なり。救いと為し、護りと為し、舎と為し、燈と為し、明と為し、帰と為し、虚妄ならず、煩わしからずと。
阿難よ、若し比丘初の識住を知り、集を知り滅を知り、味を知り過を知り、出要を知り、如実に知らば。阿難よ、彼比丘言わん、彼は我に非ず。我は彼に非ずと。如実に知見せん。
釈:如何が七種の識住処か。第一の識住処は欲界の人と天において、欲界の人と天の色身を持つ衆生であり、身の種類は異なり、心の想いは異なる。諸沙門と婆羅門は、人と天の住処は安穏であり、救護されるべきであり、住まうべき家屋であり、照らす明灯であり、光明であり、依止すべき処であり、虚妄でなく真実に存在する処であり、煩悩のない処であると言う。
阿難よ、もし比丘たちが第一の識住処を知り、識住処の集起と滅去を知り、識住処の貪着・粘着を知り、識住処の過患を知り、如何に識住処を出離するかを知り、この識住処をことごとく如実に知れば、比丘たちは言うであろう。識住処は私ではない、私は識住処ではないと。私は如実にこの理を知見する。
原文:或る衆生は、若干種の身にして一想。梵光音天是(ここ)なり。或る衆生は、一身にして若干種の想。光音天是なり。或る衆生は、一身にして一想。遍浄天是なり。或る衆生は、空処に住す。或る衆生は、識処に住す。或る衆生は、不用処に住す。是を七識住と為す。
釈:第二の識住処は色界初禅天の梵光音天の天人であり、天人の色身は若干種であるが、想いはただ一種である。第三の識住処は二禅天の光音天の天人であり、天人の色身はただ一種であるが、想いは若干種である。第四の識住処は三禅天の遍浄天の天人であり、天人の色身はただ一種、想いもただ一種である。第五の識住処は無色界の空無辺処天の天人であり、彼らには色身がなく、非常に微細な想いのみがある。第六の識住処は識無辺処天の天人であり、彼らも同様に色身がなく、さらに微細な想いのみがある。第七の識住処は無所有処天の天人であり、彼らには色身がなく、その想いはさらに微細で知り難い。これが七種の識住処である。
原文:或る沙門婆羅門言う。此の処は安隠なり。救いと為し、護りと為し、舎と為し、燈と為し、明と為し、帰と為し、虚妄ならず、煩わしからずと。阿難よ、若し比丘七識住を知り、集を知り滅を知り、味を知り過を知り、出要を知り、如実に知見せば。彼比丘言わん、彼は我に非ず。我は彼に非ずと。如実に知見せん。是を七識住と為す。
釈:ある沙門婆羅門はこれらの住処は安穏であり、救護されるべきであり、家屋であり、明灯であり、光明であり、依止・帰依すべき処であり、虚妄でなく煩悩がない処であると言う。阿難よ、もし比丘たちが七種の識住処を知り、七種の識住処の集起・滅尽を知り、七種の識住処の貪着と過患を知り、七種の識住処を出離する要道を知り、これらの住処をことごとく如実に知見すれば、比丘たちは言うであろう。七種の識住処は私ではない、私は七種の識住処ではないと。この七種の識住処を如実に知見することが、七種の識住である。
七種の識住処は、それぞれ欲界の人と天、および色界と無色界であり、これは三善道の衆生の住処を指す。三悪道の衆生の住処ではない。三善道は衆生の安穏な処であり、三悪道は衆生の不安穏で苦しむ処である。七種の識住処は全て安穏な処である。この識は何の識を指すのか。もし阿頼耶識を指すならば間違いはないが、二乗は主に阿頼耶識を説かず、主に六識を説き、第七識は非常に少なく説く。ゆえに七種の識住処は主に六識の住処を指し、第七識の住処もある。なぜなら無想天の住処には六識がなく、ただ七・八の二識のみがあるからである。
原文:云何が二入処ぞ。無想入。非想非無想入是なり。阿難よ、此の二入処。或る沙門婆羅門言う。此の処は安隠なり。救いと為し、護りと為し、舎と為し、燈と為し、明と為し、帰と為し、虚妄ならず、煩わしからずと。阿難よ、若し比丘二入処を知り、集を知り滅を知り、味を知り過を知り、出要を知り、如実に知見せば。彼比丘言わん、彼は我に非ず。我は彼に非ずと。如実に知見せん。是を二入と為す。
釈:如何が二種の入処か。無想天入処と非想非非想天入処が二種の入処である。阿難よ、この二種の入処について、ある沙門婆羅門は安穏な処であり、救護されるべき処であり、家屋であり、明灯である処であり、光明である処であり、帰依すべき処であり、虚妄でなく煩悩がない処であると言う。阿難よ、もし比丘たちがこの二入処を知り、二入処の集起と滅尽を知り、二入処の貪着と過患を知り、二入処を出離する要道を知り、かつ如実に二入処を知見すれば、比丘たちは言うであろう。二入処は私ではない、私は二入処ではないと。如実にこの理を知見することが、二入である。
無想とは無想定あるいは無想天処を指す。この定中には意識がなく、意識の想いがない。ゆえに無想定という。この定中には意識はないが、意根は存在し、意根はなお色蘊を我と執着し、なお束縛があり、我見を断っていない。無想定中の色身と意根が私でないと認識して初めて、無想入処と呼ばれ、無想定と無想天を超越する。同様に、非想非非想入処もこの理である。非想非非想定と非想非非想天も究竟ではなく、意識の少部分の作用と意根の作用が私でないと認識しなければ解脱できない。
原文:阿難よ、また八解脱有り。云何が八ぞ。色を観じて色と為す。初解脱。内に色想無く、外の色を観ず。二解脱。浄解脱。三解脱。色想を度(わた)り、有対想を滅し、雑想を念わず。空処に住す。四解脱。空処を度り、識処に住す。五解脱。識処を度り、不用処に住す。六解脱。不用処を度り、有想無想処に住す。七解脱。滅尽定。八解脱。阿難よ、諸の比丘此の八解脱に於いて、逆順に遊行し、出入自在なり。是の如き比丘は倶解脱を得ん。
釈:阿難よ、また八種の解脱がある。如何が八種の解脱か。第一の解脱は、心に色想があり、色への貪りがあるが、色の不浄を観じて、色が不浄であると証得した時、心が解脱する。第二の解脱は、心に色想がなく、外の色の不浄を観じて、色が不浄であると証得した時、心が解脱する。第三の解脱は、身心ともに清浄を得て解脱する。第四の解脱は、色想を超越し、色に対する想いを滅し、色もその他の雑想も思わず、空無辺処定に住して、心が解脱する。第五の解脱は、空無辺処を越えて、識無辺処定に住して、心が解脱する。第六の解脱は、識無辺処を越えて、無所有処定に住して、心が解脱する。第七の解脱は、無所有処を越えて、非想非非想定に住して、心が解脱する。第八の解脱は、滅尽定に住して、心が解脱する。
阿難よ、諸比丘はこの八種の解脱について、順次第に従って入るにせよ、逆の次第に入るにせよ、入定と出定が自在である。このような比丘は八種の解脱を全て証得し、倶解脱の阿羅漢と呼ばれ、解脱の智慧と四禅八定を全て具える。