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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年09月17日 閲覧数: 1890

第六章  中阿含大縁経(抜粋)

原文:阿难。要如何观察我耶。阿难。对于受。或以受是我之我。或以受实非我之我。不得感受者。即是我之我。阿难。如是观察我。或以受实非我之我。又不得感受者。亦非我之我。我应依我之领纳。即受之法。始是我之我。阿难。如是观察我。

解釈:仏はおっしゃる:阿難よ、どのようにして我を観察すべきなのか。阿難よ、受に対する観察には三つある。一つは、ある人が受を五陰我の中の我だと考えること。もう一つは、ある人が受は確かに五陰我の中の我ではなく、何ら感受しないものこそが、いわゆる五陰我の中の我だと考えること。阿難よ、ある人々はまさにこのようにして我を観察する。第三は、ある人が受は確かに五陰我の中の我ではなく、また何ら感受しないものも五陰我の中の我ではなく、私は我の領納する働き、すなわち受の法こそが、いわゆる五陰我の中の我だと依り所とすべきだと考えること。阿難よ、ある人々はこのようにして我を観察するのである。

この抜粋部分は、受が我であるか我に非ざるかという角度から十二因縁法を説いたものであり、仏は冒頭で三種の人の三種の観察法と、そこから導かれる三種の結論を説いたが、いずれも正しくない。この後、仏はなぜ正しくないのかを弁証していくことになる。仏が挙げる論拠は十分で、反駁の余地がない。

原文:阿难。此中对于言受是我之我者。不得不如是言。友。此受有三。是乐受苦受。不苦不乐受。此等三受之中。汝见何为我耶。阿难。若于某时。领纳乐受。其同时不领纳苦受。又不领纳不苦不乐受。其时应唯领纳乐受。

解釈:阿難よ、受は五陰我の中の我だと言う第一種の人に対しては、こう言わざるを得ない:善き友よ、この受には三つある。楽受、苦受、不苦不楽受である。この三つの受の中で、あなたはどの受を我と見るのか。阿難よ、もし或る時に楽受を領納していれば、その同時には苦受を領納せず、また不苦不楽受も領納しない。その時には楽受のみを領納しているのである。

原文:阿难。若又于某时。领纳苦受。其同时不领纳乐受。又不领纳不苦不乐受。其时应唯领纳苦受。阿难。若又于某时。领纳不苦不乐受。其同时不领纳乐受。又不领苦受。其时应唯领纳不苦不乐受。

解釈:阿難よ、もしまた別の時に苦受を領納していれば、その時には同時に楽受を領納することはできず、同時に不苦不楽受を領納することもできず、その時には苦受のみを領納している。阿難よ、もしまた或る時に不苦不楽受を領納していれば、その時には同時に楽受を領納することはできず、同時に苦受を領納することもできず、不苦不楽受のみを領納しているのである。

仏のこの部分の説示によって、我については観察しやすくなる。もし受を我とすれば、受には三種あり、我も三種あることになる。しかし同一の時には一種の受しか存在できず、その場合、この受だけが我であり、他の二種の受は我ではないということになる。すると矛盾が生じる。明らかに受を我とするのは正しくないのであり、これによって受は我ではないことが示される。もし受が我であるなら、三種の受は同時にすべて我であるはずだが、三種の受は同時に存在することができず、互いに対立している。これは受を我とすることが誤りであることを示している。

有人は、受はもちろん第八識という我ではないと言うだろう。しかし、これらの文字と観察の内容は、第八識と結びつけることができるだろうか。明らかにできない。声聞人はすべて現前で第八識を観察することができないので、受が第八識であるか否かを証明することはできない。たとえ受が第八識ではないと証明できたとしても、受が我に非ざることの証得にはまだ至っていない。なぜなら、この我は第八識を指すのではなく、主宰することができる五陰我を指すからである。とりわけ、まだ我見を断していない凡夫の声聞人は、第八識を開悟して実証することができないのだから、受は第八識に非ずというような結論を導き出すことは不可能である。もし観行の次第が顛倒していれば、実証はあり得ない。誰も第八識を想像して現前で観察することなどできないからである。想像したものは推測や憶想と呼ばれるものであり、何の働きもない。

原文:阿难。乐受实是无常有为。缘起之法。灭尽之法。败坏之法。离欲之法。灭法也。阿难。苦受亦实是无常有为。缘起之法。灭尽之法。败坏之法。离欲之法。灭法也。阿难。不苦不乐受。亦实是无常有为。缘起之法。灭尽之法。败坏之法。离欲之法。灭法也。

解釈:阿難よ、楽受は確かに無常な有為法であり、種々の因縁によって生起する法であり、滅尽しうる法であり、敗壊する法であり、この受に対する貪欲から離れうる法であり、滅する法である。阿難よ、苦受も確かに無常な有為法であり、種々の因縁によって生起する法であり、滅尽しうる法であり、敗壊する法であり、欲から離れうる法であり、滅する法である。阿難よ、不苦不楽受も確かに無常な有為法であり、種々の因縁によって生起する法であり、滅尽しうる法であり、敗壊する法であり、この受に対する貪欲から離れうる法であり、滅しうる法である。

原文:若领纳乐受。还是思惟。此是我之我者。彼又依于乐受之灭。实应不得思惟。我之我灭。若领纳苦受。还是思惟。此是我之我者。彼又依于苦受之灭。实应不得思惟。我之我灭。若领纳不苦不乐受。还是思惟。此是我之我者,彼又依于不苦不乐受之灭。实应不得思惟。我之我灭。

解釈:もし楽受を領納している時に、なおこの楽受を領納するものが我であると考えるならば、楽受が滅するのを見た時、確かに楽受を領納する我が滅したとは考えるべきではない。もし苦受を領納している時に、なお苦受を領納するものが我であると考えるならば、苦受が滅するのを見た時、確かに苦受を領納する我が滅したとは考えるべきではない。もし不苦不楽受を領納している時に、なお不苦不楽受を領納するものが我であると考えるならば、不苦不楽受が滅するのを見た時、確かに不苦不楽受を領納する我が滅したとは考えるべきではない。

原文:对如是言。受是我之我者。要于现见之法。观察我是无常。乐苦皆归于消灭之生灭法。阿难。是故依此。不可能观察。受是我之我。

解釈:第一種の人、すなわち受は五陰我の中の我だという説に対しては、現前に接触しうる法の中で、この我は無常であり、楽受・苦受はいずれも消滅しうる生滅法に帰着すると観察すべきである。阿難よ、それゆえ、受が無常な生滅の現象であるということに基づけば、受が五陰我の中の我であると観察することは不可能である。

原文:阿难。此中又言。受实非我之我。不得感受者。即是我之我。对彼应如是言。友。无一切所受之处。于其处。还得思惟有我耶。世尊。实不然。阿难。是故依此。不可能观察。受实非我之我。不得感受者,即是我之我。

解釈:阿難よ、第二種の人はさらにこう言う:受は確かに五陰我の中の我ではなく、受以外の感受しない想・行・識こそが五陰我の中の我である、と。このような不正な見解を持つ人に対しては、こう問うべきである:善き友よ、一切の受するところがないところ、すなわち色・想・行・識のところにおいて、あなたはなお色想行識に我があると考えるのか。阿難は答えて言う:実に色想行識を我と考えるべきではありません。仏は言う:阿難よ、それゆえ、このような説き方に基づけば、受は確かに五陰我の我ではなく、受以外の色想行識こそが我であると観察することは不可能である。

原文:阿难。此中又言。受实非我之我。我之我亦非不得感受者。我应依我之领纳。即我之我是受法。对彼应如是言。友。一切感受完全消灭时。即无一切受。由此受之灭。还得有思惟。于此有我之我耶。世尊。实不然。是故阿难。依此不可能观察。受实非我之我。不得感受者。亦非我之我。我应我之领纳。即我是受法。

解釈:阿難よ、第三種の人はさらにこう言う:受は確かに五陰我の我ではなく、私もまた受に非ざる色想行識ではなく、私は我の領納性に依り所とすべきであり、すなわち五陰我の中の我は受の法である、と。このような観念を持つ人に対しては、こう言うべきである:善き友よ、一切の感受が完全に消滅した時には、一切の受はない。この受の滅によって、なおここに我の我があると考えることができるのか。阿難は答えて言う:受は確かに我ではありません。仏は言う:阿難よ、それゆえ、領納しうる受に依り所とすることによっては、受は確かに我ではなく、受を離れた色想行識も我ではなく、私は我の領納性を受け、すなわち領納が我であり、我が領納しうる受の法であると観察することは不可能である。

衆生が考える我には五種ある。第一は色我であり、色陰を我とし、我は色陰であり、色陰が我であると考える。第二は受我であり、受を我とし、我は受であり、受が我であると考える。第三は想我であり、想を我とし、我は想であり、想が我であると考える。第四は行我であり、行を我とし、我は行であり、行が我であると考える。第五は識我であり、識を我とし、我は識であり、識が我であると考える。衆生が受を我とすれば、心の中に受我という我の思想観念が生じる。衆生が我見を断していない時には、五種の我のいずれか一つを我とし、残りを我所とするか、あるいは五受陰のすべてを我とする。これが我見の範疇である。

原文:阿难。是故比丘。不观察受是我。亦不观察。不得感受者是我。又不观察。我应依我之领纳。即我之我是受法。不观如是之我者。彼于世间之任何者。皆不执着。不执着故。无有恐怖。无有恐怖故。唯独般涅槃。自知生已尽。梵行已立。所作已作。更无后有。

解釈:阿難よ、それゆえ、比丘たちは受を我とすべきではなく、また色想行識を我とすべきでもなく、我の領納性に依り所ともすべきではなく、我は受の法であるという観念を持つべきでもない。これらの法を我としない人は、いかなる法に面しても執著を生じさせず、心の中に恐怖がない。恐怖がないがゆえに、ただ涅槃を証取するのみであり、自ら生死がすでに尽きたことを証知し、清浄な梵行がすでに確立され、この一生で修すべき解脱がすでに修了し、もはや後世の有を受けることはない。

原文:阿难。如是。心解脱之比丘。不问如来。死后有耶。若彼执着是言者。彼则非正。不问如来。死后无耶。若彼执着是言者。彼则非正。

解釈:阿難よ、このように、心解脱の比丘は如来に問わない、私は死後に後世の有がまだあるのか、と。もし比丘が執著して死後にも三界の有があると考えるならば、その人はまだ正知見を具足しておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。心解脱の比丘はまた如来に問わない、私は死後に一切の法が存在しなくなるのか、と。もし比丘が執著して自分が死ねば一切の法が滅すると考えるならば、その人はまだ正知見を具足しておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。

原文:不问如来。死后亦有亦无耶。若彼执着是言者。彼则非正。不问如来。死后亦非有。亦非无耶。若彼执着是言者。彼则非正。

解釈:心解脱の比丘はまた如来に問わない、私は死後に後世の有があり、かつ後世の有がないのか、と。もし自分が死ねば有もあり無もあると執著するならば、その人には正知見がなく、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。心解脱の比丘はまた如来に問わない、私は死後に後世の有がなく、かつ後世の有がないのでもないのか、と。もし自分が死ねば後世の有が非有であり、かつ非無であると執著するならば、その人はまだ正知見を具足しておらず、阿羅漢の正位に入っておらず、心解脱の阿羅漢ではない。

すでに正位に入った四果の阿羅漢は、心が解脱し、一切が解脱し、知見も解脱しており、死後に有があるとも、死後に無があるとも、有もあり無もあるとも、非有非無であるとも考えず、心の中で一切の不正知見を泯絶し、もはや死後の有無を執著しない。自分の死後が有であるか無であるか、あるいは非有非無であるかを執著するのではなく、一切の思いと執著が滅尽して初めて解脱を得ることができ、命終して無余涅槃に入るのである。

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