衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年09月17日 閲覧数: 3180

第三章  長阿含経における十二因縁法

第一節  長阿含大縁方便経第九

原文: 尔时。佛告阿难。缘生有老死。此为何义。若使一切众生。无有生者。宁有老死不。阿难答曰。无也。是故阿难。以此缘。知老死由生。缘生有老死。我所说者。义在于此。

解釈: 仏は阿難に告げる、生に縁して老死がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に生がなくなるなら、まだ老死はあるだろうか?阿難は答えて言う:ない。それゆえに、阿難、この縁によって、老死は生によってあると知るのであり、生に縁して老死がある、私の言う意味はまさにここにある。

原文:又告阿难。缘有有生。此为何义。若使一切众生。无有欲有。色无色有者。宁有生不。答曰。无也。 阿难。我以此缘。知生由有。缘有有生。我所说者。义在于此。

解釈: 仏はまた阿難に告げて言う:三界世間の有に縁して生がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に欲界の有、色界の有、無色界の有がなくなるなら、まだ生はあるだろうか?阿難は答えて言う:三界の有がなければ生もない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、生は三界世間の有によってあると知るのであり、三界世間の有に縁してこそ生がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:又告阿难。缘取有有。此为何义。若使一切众生。无有欲取。见取戒取。我取者。宁有有不。答曰。无也。阿难。我以此缘。知有由取。缘取有有。我所说者。义在于此。

解釈: 仏はまた阿難に告げて言う:取着に縁してこそ三界世間の有がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に貪欲取がなく、我見を先とする種々の邪見 (mithyā-dṛṣṭi) の取着がなく、解脱できない非戒を解脱できる戒とする戒取がなく、自我の五陰 (pañca-skandha) に対する我取がなければ、まだ三界世間の有はあるだろうか?阿難は答えて言う:これらの取着がなければ三界世間の有もない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、三界世間の有は種々の取着によってあると知るのであり、三界世間法への求取があるからこそ三界世間の有がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:又告阿难。缘爱有取。此为何义。若使一切众生。无有欲爱。有爱无有爱者。宁有取不。答曰。无有。阿难。我以此缘。知取由爱。缘爱有取。我所说者。义在于此。

解釈: 仏はまた阿難に告げて言う:三界世間法に対する貪愛があるからこそ三界への執取 (upādāna) がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に欲界への貪愛がなく、色界への貪愛がなく、無色界への貪愛がなければ、まだ三界への執取はあるだろうか?阿難は答えて言う:執取はもはやないだろう。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、三界世間への執取は三界への貪愛によってあると知るのであり、三界世間法への貪愛があるからこそ三界世間法への執取がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:又告阿难。缘受有爱。此为何义。若使一切众生。无有乐受苦受。不苦不乐受者。宁有爱不。答曰。无也。阿难。我以此缘。知爱由受。缘受有爱。我所说者。义在于此。

解釈: 仏はまた阿難に告げて言う:受覚に縁してこそ貪愛がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に楽受、苦受、不苦不楽受がなければ、まだ貪愛はあるだろうか?阿難は答えて言う:受がなければ貪愛もないだろう。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、貪愛の生起は受があるためであると知るのであり、種々の受覚があるからこそ貪愛がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。当知因爱有求。因求有利。因利有用。因用有欲。因欲有著。因著有嫉。因嫉有守。因守有护。阿难。由有护故。有刀杖诤讼。作无数恶。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、あなたは知るべきである、貪愛によって求取があり、求取によって利益があり、利益によって用があり、用によって貪欲があり、貪欲によって執着が生じ、執着によって嫉妬が生じ、嫉妬によって守ることがあり、守る心があってこそ護ることがある。阿難、護ろうとするが故に、刀杖と諍訟があり、無数の悪を造作するのであり、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。此为何义。若使一切众生。无有护者。当有刀杖诤讼。起无数恶不。答曰。无也。是故。阿难。以此因缘。知刀杖诤讼。由护而起。缘护有刀杖诤讼。阿难。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、これはどういう意味か?もし一切の衆生に財色名食睡などの利益を守護する心がなくなれば、まだ刀杖の闘争や諍訟の紛争、さらには無数の悪業の造作はあるだろうか?阿難は答えて言う:利益を守護する心がなければ闘争紛争も悪業もない。仏は言う:それゆえに、阿難、この原故によって、私は刀杖の闘争と諍訟の紛争は利益を保護する心に縁して引き起こされると知るのであり、袒護に縁してこそ刀杖と諍訟がある。阿難、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:又告阿难。因守有护。此为何义。若使一切众生无有守者。宁有护不。答曰。无也。阿难。我以此缘。知护由守。因守有护。我所说者。义在于此。

解釈: 仏はまた阿難に告げて言う:財色名食睡などの自身の利益を守る心があるからこそ袒護の行為がある、これはどういう意味か?もし衆生に守る心がなくなれば、まだ袒護の行為はあるだろうか?阿難は答えて言う:守る心がなければ袒護もないだろう。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、袒護の行為は守る心によってあると知り、守ることによって袒護がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。因嫉有守。此为何义。若使一切众生无有嫉者。宁有守不。答曰。无也。阿难。我以此缘。知守由嫉。因嫉有守。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、嫉妬するからこそ自分の利益を守ろうとする心がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に嫉妬心がなければ、まだ守護する心行はあるだろうか?阿難は答えて言う:嫉妬がなければ守護もしないだろう。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、守る心は嫉妬に縁してあると知り、嫉妬によって守護がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。因著有嫉。此为何义。若使一切众生无有著者。宁有嫉不。答曰。无也。阿难。我以此缘。知嫉由著。因著有嫉。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、執着があってこそ嫉妬がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に執着がなければ、まだ嫉妬はあるだろうか?阿難は答えて言う:執着がなければ嫉妬もない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、嫉妬は執着に縁すると知り、執着によって嫉妬がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。因欲有著。此为何义。若使一切众生无有欲者。宁有著不。答曰。无也。阿难。我以此缘。知着由欲。因欲有着。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、貪欲があってこそ執着がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に貪欲がなければ、まだ執着はあるだろうか?阿難は答えて言う:貪欲がなければ執着もない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、執着は貪欲によってあると知り、貪欲に縁してこそ執着がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。因用有欲。此为何义。若使一切众生无有用者。宁有欲不。答曰。无也。阿难。我以此义。知欲由用。因用有欲。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、利を用いることができるからこそ貪欲がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生がもはや用いなければ、まだ貪欲はあるだろうか?阿難は答えて言う:用いる心がなければ貪欲もない。仏は言う:私はこの縁によって、貪欲は用いたいと思うが故に現れると知り、用いたいと思うからこそ貪欲がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。因利有用。此为何义。若使一切众生无有利者。宁有用不。答曰。无也。阿难。我以此义。知用由利。因利有用。我所说者。义在于此。

阿难。因求有利。此为何义。若使一切众生无有求者。宁有利不。 答曰。无也。阿难。我以此缘。知利由求。因求有利。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、利益があるからこそ用がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に利益がなければ、まだ用いたいと思う心はあるだろうか?阿難は答えて言う:利がなければ用もない。仏は言う:阿難、私はこの道理によって、用は利益があるが故に現れると知り、利益があるから用いたいと思う、私の言うのはまさにこの意味である。

阿難、求取があるからこそ利益というものがある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に貪求がなければ、まだどんな利益があろうか?阿難は答えて言う:求取がなければ利益というものもない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、利益は求取に縁してこそあると知り、求取があるからこそ利益がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。因爱有求。此为何义。若使一切众生无有爱者。宁有求不。 答曰。无也。阿难。我以此缘。知求由爱。因爱有求。我所说者。义在于此。又告阿难。因爱有求。至于守护。受亦如是。因受有求。至于守护。

解釈: 阿難、貪愛があるからこそ求取がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に貪愛がなければ、まだ求取心はあるだろうか?阿難は答えて言う:貪愛がなければ求めることもないだろう。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、求取は貪愛の故であると知り、貪愛に縁してこそ求取がある、私の言うのはまさにこの意味である。仏はまた阿難に告げて言う:貪愛によって求取があり、ひいては守護がある;受もまた同様であり、受によって求取があり、ひいては守護がある。

原文:佛告阿难。缘触有受。此为何义。阿难。若使无眼无色。无眼识者。宁有触不。 答曰。无也。若无耳声耳识。鼻香鼻识。舌味舌识。身触身识。意法意识者。宁有触不。答曰。无也。

阿难。若使一切众生无有触者。宁有受不。答曰。无也。阿难。我以是义。知受由触。缘触有受。我所说者。义在于此。

解釈: 仏は阿難に告げて言う:触があるからこそ受がある、これはどういう意味か?阿難、もし一切の衆生に眼根と色塵がなく、眼識もなければ、まだ触はあるだろうか?阿難は答えて言う:根塵識がなければ触もない。仏は言う:もし一切の衆生に耳根、声塵、耳識がなく、鼻根、香塵、鼻識がなく、舌根、味塵、舌識がなく、身根、触塵、身識がなく、意根、法塵、意識がなければ、まだ触はあるだろうか?阿難は答えて言う:根塵識がなければ触もない。

仏は言う:阿難、もし一切の衆生に触がなければ、まだ受はあるだろうか?阿難は答えて言う:触がなければ受もない。仏は言う:阿難、私はこの道理によって、受は触によってあると知り、触に縁してこそ受がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。缘名色有触。此为何义。若使一切众生无有名色者。宁有心触不。 答曰。无也。 若使一切众生无形色相貌者。宁有身触不。答曰。无也。阿难。若无名色。宁有触不。答曰。无也。阿难。我以是缘。知触由名色。缘名色有触。我所说者。义在于此。 

解釈: 阿難、名色に縁してこそ触がある、これはどういう意味か?もし一切の衆生に名色がなければ、まだ心で触れることはあるだろうか?阿難は答えて言う:名色がなければ触もない。仏は言う:もし一切の衆生に形ある色体と相貌がなければ、まだ身触はあるだろうか?阿難は答えて言う:形色がなければ身触もない。仏は言う:阿難、もし名色がなければ、まだ触はあるだろうか?阿難は答えて言う:名色がなければ触もない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、触は名色によってあると知り、名色に縁してこそ触がある、私の言うのはまさにこの意味である。

原文:阿难。缘识有名色。此为何义。若识不入母胎者。有名色不。答曰。无也。若识入胎不出者。有名色不。答曰。无也。若识出胎。婴孩坏败。名色得增长不。答曰。无也。阿难。若无识者。有名色不。答曰。无也。阿难。我以是缘。知名色由识。缘识有名色。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、識(阿頼耶識 (Ālayavijñāna))に縁してこそ名色がある、これはどういう意味か?もし阿頼耶識が母胎に入らなければ、名色はあるだろうか?阿難は答えて言う:識が胎に入らなければ名色はあり得ない。仏は言う:もし阿頼耶識が胎に入ったまま母胎から出ないなら、まだ名色はあるだろうか?阿難は言う:胎から出なければ名色はない。仏は言う:もし阿頼耶識が母胎から出たのに、嬰児の色身が壊死してしまったなら、名色は増長し得るだろうか?阿難は言う:名色は増長できない。仏は言う:阿難、もし阿頼耶識がなければ、名色はあるだろうか?阿難は言う:阿頼耶識がなければ名色もない。阿難、私はこの縁によって、名色は阿頼耶識によって出生すると知り、阿頼耶識に縁してこそ名色がある、私の言うのはまさにこの意味である。

これは十因縁法の法義であり、名色が出生する最も直接的な因縁は阿頼耶識であることを明らかにしている。六識は名色を出生させる助縁にすぎず、六識が清浄 (viśuddha/pariśuddha) になり、もはや業行を造作しなければ、阿頼耶識は名色を出生させることができず、生死は終結する。阿頼耶識は胎に入ってから出るまで、生命の各段階において名色に伴い、名色が絶えず増長し変異するようにする。ひとたび名色の縁がなくなれば、阿頼耶識はもはや名色を増長させ、名色に伴うことができない。

有人は十因縁の識は六識を指すと誤認しているが、胎に入る時に六識は消滅し、六識は胎に入って後世まで行くことはできず、胎入後の長い期間、六識は出生できない。眼識に至っては出胎後にのみ出生できるのである。だから胎に入り胎に住するのは六識ではなく、阿頼耶識である。仏は十因縁の中で、名色が出生する根本因はまさに阿頼耶識であると直接指摘し、阿頼耶識は名色の所依であり源頭である。

原文:阿难。缘名色有识。此为何义。若识不住名色。则识无住处。若无住处。宁有生老病死。忧悲苦恼不。答曰。无也。阿难。若无名色。宁有识不。答曰。无也。 阿难。我以此缘。知识由名色。缘名色有识。我所说者。义在于此。

解釈: 阿難、名色に縁してこそ阿頼耶識がある、すなわち阿頼耶識が現行し、阿頼耶識を見ることができる、これはどういう意味か?もし阿頼耶識が名色の上に住しなければ、阿頼耶識には住処がなくなる。もし阿頼耶識に住処がなければ、衆生の生老病死、憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) はあるだろうか?阿難は言う:阿頼耶識に住処がなければ、生老病死もない。仏は言う:阿難、もし名色がなければ、阿頼耶識を見ることができ、阿頼耶識の現行はあるだろうか?阿難は言う:名色がなければ、阿頼耶識は現行できない。仏は言う:阿難、私はこの縁によって、阿頼耶識は名色に縁して住処があり、名色に縁して阿頼耶識の現行があると知る、私の言うのはまさにこの意味である。

縁名色有識の「有」という字は、出生という意味ではなく、現行し見出されるという意味である。なぜなら阿頼耶識は不生不滅であり、名色によって生まれるものではなく、名色も何かの法を生み出すことはできず、まして阿頼耶識を生み出すことはできないからである。もし名色がなければ、阿頼耶識は依倚するところがなく、阿頼耶識は名色に依り、名色の上に住してこそ、はじめて運用を行うことができ、その作用が現行するのである。仏は後の方でも解釈して、もし阿頼耶識が名色の上に住しなければ、住処というものがなく、住処がなければ名色がなく、名色がなければ生老病死もないと言われる。十因縁法の法義は甚深であり、理解しやすいものではないが、正しく解すべきでもある。

原文:阿难。是故名色缘识。识缘名色。名色缘六入。六入缘触。触缘受。受缘爱。爱缘取。取缘有。有缘生。生缘老死忧苦悲恼。大苦阴集。阿难。齐是为语。齐是为应。齐是为限。齐此为演说。齐是为智观。齐是为众生。阿难。诸比丘于此法中。如实正观。无漏心解脱。阿难。此比丘当名为慧解脱。

解釈: 阿難、それゆえに、名色は阿頼耶識に縁してあり、阿頼耶識は名色に縁してこそ住処と功用がある。名色があれば六入処 (ṣaḍāyatana) が生じ、六入があれば触が生じ、触があれば受が生じ、受があれば愛が生じ、愛があれば取が生じ、取があれば三界有が生じ、有があれば生があり、生があれば老病死、憂悲苦悩、純大苦陰の集まりがある。阿難、これこそが正語と論義であり、これこそが最も修習すべき法義であり、これこそが最も究竟の法門であり、これこそが真の仏法の宣演であり、これこそが智慧ある観察であり、これこそが衆生を度する法宝である。阿難、諸比丘がこの法の中で、如実に正しく観察し、煩悩漏を断じ尽くして心を解脱させるなら。阿難、このように正観する比丘を慧解脱と名付ける。

慧解脱の阿羅漢は、その解脱の智慧が禅定の修行に勝っており、その禅定は初禅までにすぎず、二禅あるいは四禅以上の甚深な禅定を具えておらず、命終の時に主に解脱の智慧に依って三界を捨離し涅槃に入る。解脱の智慧とは、五蘊が苦・空・無常・無我であることを完全に徹底的に証得し、我執などの一切の貪瞋痴の煩悩を断じ尽くし、一念無明が滅し尽くされると、五蘊はすなわち滅する。慧解脱とは智慧のみあって禅定がないという意味ではなく、禅定があまり深くなく、解脱は禅定を主とせず、禅定に依って解脱を得るのではなく、解脱の智慧に依って三界法を滅し尽くすという意味である。慧解脱の阿羅漢は最も基本的に初禅定がなければならず、初禅定がなければ煩悩を断じ尽くすことは不可能であり、心は無漏とならず、煩悩を断じ尽くせなければ解脱できない。

原文:如是解脱比丘。如来终亦知。如来不终亦知。如来终不终亦知。如来非终非不终亦知。何以故。阿难。齐是为语。齐是为应。齐是为限。齐是为演说。齐是为智观。齐是为众生。如是尽知已。无漏。心解脱。比丘不知不见。如是知见。

解釈: このように解脱した比丘は、如来が涅槃することも知り、如来が涅槃しないことも知り、如来が涅槃するしないも知り、如来が非涅槃非不涅槃であることも知る。なぜこのように言うのか?阿難、このように言うことこそが正語であり、このように言うことこそが最も適切であり、このように言うことこそが最も究竟であり、このように言うことこそが法の演説であり、このように言うことこそが智慧ある観察であり、このように言うことこそが衆生を度するからである。心解脱の比丘はこのように如来の涅槃するしないを尽く知した後、煩悩漏が尽き、心は解脱する。その他の比丘はこのような知見を知らず見ない。

原文:阿难。夫计我者。齐几名我见。名色与受。俱计以为我。有人言受非我。我是受。或有言受非我。我非受。受法是我。或有言受非我。我非受。受法非我。但爱是我。

解釈: 阿難、我と計着する人の中で、どのようなものが我見 (satkāya-dṛṣṭi) と呼ばれるのか?名色五陰と受覚のすべてを我とする、これが我見である;ある人は受覚は我ではないが、我は受であると言い;ある人は受覚は我ではなく、我も受ではないが、受する法が我であると言い;またある人は受覚は我ではなく、我も受ではなく、能受所受の法も我ではないが、愛が我であると言う。

原文:阿难。彼见我者。言受是我。当语彼言。如来说三受。乐受苦受。不苦不乐受。当有乐受时。无有苦受。不苦不乐受。有苦受时。无有乐受。不苦不乐受。有不苦不乐受时。无有苦受乐受。

解釈: 阿難、どの見法の中に我があり、受覚は我であると言う人に対しては、彼らにこう告げるべきである:如来は三受を説かれる、楽受、苦受、不苦不楽受である。楽受がある時には、苦受と不苦不楽受はなく、苦受がある時には楽受と不苦不楽受はなく、不苦不楽受がある時には楽受と苦受はない。

我と計着するという意味は、凡夫が心の中で常に五蘊十八界を恒常で主宰ある法と誤計することである。この法とは世俗法の我を指し、非世俗の第八識如来蔵 (tathāgatagarbha) を指すものではない。衆生は無始劫以来、第八識があることを知らず、七識があることさえ知らず、真の識と偽の識も知らないので、文中の我を第八識と言い表すのは、すべて誤った言い方であり、事理と事実に背く。凡夫は名色五陰を第八識としたこともなく、受を第八識としたこともなく、五陰と受が第八識であるか否かにかかわらずそうである。さらに言えば、第八識には名色がなく、受もない。何を以て受が第八識である、受は第八識ではないと言えるのか?であるか否かはいずれも正理に背く。

原文:所以然者。阿难。乐触缘生乐受。若乐触灭受亦灭。阿难。苦触缘生苦受。若苦触灭受亦灭。不苦不乐触缘。生不苦不乐受。若不苦不乐触灭受亦灭。

解釈: このように言う理由は、阿難、楽触の縁によって楽受が生じ、もし楽触が滅すれば受もまた滅するからである。阿難、苦触の縁によって苦受が生じ、もし苦触が滅すれば受もまた滅する。不苦不楽触の縁によって不苦不楽受が生じ、もし不苦不楽触が滅すれば受もまた滅する。

原文:阿难。如两木相攒。则有火生。各置异处。则无有火。此亦如是。因乐触缘。故生乐受。若乐触灭。受亦俱灭。因苦触缘。故生苦受。若苦触灭。受亦俱灭。因不苦不乐触缘。生不苦不乐受。若不苦不乐触灭。受亦俱灭。阿难。此三受有为无常。从因缘生。尽法灭法。为朽坏法。彼非我有。我非彼有。当以正智如实观之。

解釈: 阿難、譬えば二本の木が互いに磨り触れると、そこから火が生じるが、二本の木を別々の場所に置けば、火は生じない。受もまたこのようである。楽触の縁によって楽受が生じ、もし楽触が滅すれば、楽受もまたそれに伴って滅する;苦触の縁によって苦受が生じ、もし苦触が滅すれば、苦受もまたそれに伴って滅する;不苦不楽触の縁によって不苦不楽受が生じ、もし不苦不楽触が滅すれば、不苦不楽受もまたそれに伴って滅する。阿難、この三受は有為の無常法であり、因縁の中から生じたものであり、滅し尽くされる法であり、腐敗し衰壊する法である。それゆえこれらの法は我ではなく、私はこれらの法ではない。あなた方はこのように正しい如実の智慧で観察すべきである。

原文:阿难。彼见我者。以受为我。彼则为非。阿难。彼见我者。言受非我。我是受者。当语彼言。如来说三受。苦受乐受。不苦不乐受。若乐受是我者。乐受灭时。则有二我。此则为过。若苦受是我者。苦受灭时。则有二我。此则为过。若不苦不乐受是我者。不苦不乐受灭时。则有二我。此则为过。

解釈: 阿難、我があると考える人の中で、受を我とする者は、彼らの見解は正しくない。阿難、我があると考える人の中で、受は我ではないが、我は受であると言う者がいる。これらの人を救済するために、彼らにこう言うべきである:如来は三受を説かれる、苦受、楽受、不苦不楽受である。もし楽受が我であるなら、楽受が滅する時には二つの我があることになり、苦受の我と不苦不楽受の我であり、当然これは正しくない;もし苦受が我であるなら、苦受が滅する時には二つの我があることになり、楽受の我と不苦不楽受の我であり、これは正しくない;もし不苦不楽受が我であるなら、不苦不楽受が滅する時には二つの我があることになり、苦受の我と楽受の我であり、これは誤りである。

原文:阿难。彼见我者。言受非我。我是受。彼则为非。阿难。彼计我者。作此说。受非我。我非受。受法是我。当语彼言。一切无受。汝云何言有受法。汝是受法耶。对曰非是。是故阿难。彼计我者。言受非我。我非受。受法是我。彼则为非。

解釈: 阿難、我があると考える人の中で、受は我ではないが、我は受であると言う者は、この知見は誤りである。阿難、我と計着する人はこう言う:受は我ではなく、我も受ではないが、受する法が我であると。このような人に対しては、彼にこう言うべきである:一切法に受はない、あなたはなぜ受法があると言うのか?あなたは受法なのか?その人は答えて言うだろう:私は受法ではない。それゆえ阿難、我と計着する人の中で、受は我ではなく、我も受ではなく、受法が我であると言う者の観点は誤りである。

原文:阿难。彼计我者。作是言。受非我。我非受。受法非我。但爱是我者。当语彼言。一切无受。云何有爱。汝是爱耶。对曰非也。是故阿难。彼计我者。言受非我。我非受。受法非我。爱是我者。彼则为非。阿难。齐是为语。齐是为应。齐是为限。齐是为演说。齐是为智观。齐是为众生。

解釈: 阿難、我と計着する人はこう言う:受は我ではなく、我も受ではなく、受法も我ではないが、愛が我であると。このような人に対しては、彼らにこう言うべきである:一切法に受はない、どうして愛があると言えるのか?あなたは愛なのか?相手は答えて言うだろう:私は愛ではない。それゆえ、阿難、我と計着し、受は我ではなく、我も受ではなく、受法も我ではないが、愛が我であると言う人の観点は誤りである。阿難、このように言うことこそが正語であり、このように言うことこそが法に対応し、このように言うことこそが最も究竟であり、このように言うことこそが正法の演説であり、このように言うことこそが智慧ある観察であり、このように言うことこそが衆生を度するのである。

原文:阿难。诸比丘于此法中如实正观。于无漏心解脱。阿难。此比丘当名为慧解脱。如是解脱心比丘。有我亦知。无我亦知。有我无我亦知。非有我非无我亦知。何以故。阿难。齐是为语。齐是为应。齐是为限。齐是为演说。齐是为智观。齐是为众生。如是尽知已。无漏。心解脱。比丘不知不见如是知见。

解釈: 阿難、諸比丘がこれらの法の中で如実に正観することができれば、無漏に達し、心は解脱する。阿難、心無漏の比丘は慧解脱阿羅漢と呼ぶべきである。このように心解脱無漏の比丘は、有我の法も知り、無我の法も知り、有我無我の法もすべて知り、非有我非無我の法も知る。なぜこのように言うのか?阿難、このように言うことこそが正語であり、このように言うことこそが法に対応し、このように言うことこそが最も究竟であり、このように言うことこそが正法の演説であり、このように言うことこそが智慧ある観察であり、このように言うことこそが衆生を度するからである。このように心解脱の比丘は非我の法をすべて証知した後、煩悩漏が尽き、心は解脱する。その他の比丘は非我の知見を知らず見ない。

原文:佛语阿难。彼计我者。齐已为定。彼计我者。或言少色是我。或言多色是我。或言少无色是我。或言多无色是我。阿难。彼言少色是我者。定少色是我。我所见是。余者为非。

解釈: 仏は阿難に言う:我と計度する人は、我の界限をすでに定めている。我と計度する人は、あるいは少部分の色が我であると言い、あるいは多部分の色が我であると言い、あるいは少部分の無色が我であると言い、あるいは多部分の無色が我であると言う。阿難、少部分の色が我であると言う人は、断固として固執して少部分の色が我であると考え、我の見たものが正しく、その他の我の見ていないものは正しくないとする。

原文:多色是我者。定多色是我。我所见是。余者为非。少无色是我者。定言少无色是我。我所见是。余者为非。多无色是我者。定多无色是我。我所见是。余者为非。

解釈: 多部分の色が我であると言う人は、断固として固執して多部分の色が我であると考え、我の見たものが正しく、その他の我の見ていないものは正しくないとする;少部分の無色が我であると言う人は、断固として固執して少部分の無色が我であることだけが正しく、その他の我の見ていないものは正しくないとする;多部分の無色が我であると言う人は、断固として固執して多部分の無色が我であることが正しく、その他の我の見ていないものは正しくないとする。

原文:佛告阿难。七识住。二入处。诸有沙门婆罗门言。此处安隐。为救为护。为舍为灯。为明为归。为不虚妄。为不烦恼。

解釈: 仏は阿難に告げて言う:七種の識住処と二入処がある、あなた方はこれを了知すべきである。諸沙门婆羅門は、この七種の識住処と二入処は安穏の処であり、救護のある処であり、房舎と明灯であり、光明と帰依の処であり、真実で虚妄でない処であり、煩悩のない処であると言う。

原文:云何为七。或有众生。若干种身。若干种想。天及人。此是初识住处。诸沙门婆罗门言。此处安隐。为救为护。为舍为灯。为明为归。为不虚妄。为不烦恼。

阿难。若比丘知初识住。知集知灭。知味知过。知出要。如实知者。阿难。彼比丘言。彼非我。我非彼。如实知见。

解釈: 七種の識住処とは何か?第一識住処は欲界の人と天人の中で、欲界の人と天人の色身を有する衆生であり、身の種類が異なり、心想も異なる。諸沙门と婆羅門は、人と天人の住処は安穏であり、救護され得るものであり、住み止まるべき房舎であり、照明する明灯であり、光明であり、依止の処であり、虚妄でない真実存在の処であり、煩悩のない処であると言う。

阿難、もし比丘たちが第一識住処を知り、識住処の集起と滅去を了知し、識住処の貪味・粘膩を了知し、識住処の過患を了知し、識住処から出離する方法を了知し、この識住処をすべて如実に了知するなら、比丘たちはこう言うだろう、識住処は我ではなく、私は識住処ではなく、私はこの理を如実に知見すると。

原文:或有众生。若干种身而一想。梵光音天是。或有众生。一身若干种想。光音天是。或有众生一身一想。遍净天是。或有众生。住空处。或有众生。住识处。或有众生。住不用处。是为七识住处。

解釈: 第二識住処は色界初禅天の梵光音天の天人であり、天人の色身は若干種あるが、想は一種しかない;第三識住処は二禅天の光音天の天人であり、天人の色身は一種しかないが、想は数種ある;第四識住処は三禅天の遍浄天の天人であり、天人の色身は一種のみで、想も一種のみである;第五識住処は無色界天の空無辺処天の天人であり、彼らは色身がなく、非常に微細な想のみがある;第六識住処は識無辺処天の天人であり、彼らも同様に色身がなく、より微細な想のみがある;第七識住処は無所有処天の天人であり、彼らは色身がなく、その想はさらに微細で知り難い。これが七種の識住処である。

原文:或有沙门婆罗门言。此处安隐。为救为护。为舍为灯。为明为归。为不虚妄。为不烦恼。阿难。若比丘知七识住。知集知灭。知味知过。知出要。如实知见。彼比丘言。彼非我。我非彼。如实知见。是为七识住。

解釈: ある沙门婆羅門は、これらの住処は安穏であり、救護のあるものであり、房舎であり、明灯であり、光明であり、依止し帰依できる処であり、虚妄でない処であり、煩悩のない処であると言う。阿難、もし比丘たちが七種の識住処を了知し、七種の識住処の集起と滅尽を了知し、七種の識住処の貪味と過患を了知し、七種の識住処から出離する要道を了知し、これらの住処をすべて如実に知見するなら、比丘たちはこう言うだろう、七種の識住処は我ではなく、私は七種の識住処ではなく、この七種の識住処を如実に知見する、これが七種の識住であると。

七種の識住処は、それぞれ欲界の人と天人、および色界と無色界であり、これは三善道衆生の住処を指し、三悪道衆生の住処ではない。三善道は衆生の安穏の処であり、三悪道は衆生が安穏でなく苦を受ける処である。七種の識住処はすべて安穏の処であるが、この識は何の識を指すのか?阿頼耶識を指すのであれば、間違いなく正しいが、二乗は主に阿頼耶識を説かず、主に六識を説き、第七識は非常に少なくしか説かない。だから七種の識住処は主に六識の住処を指し、第七識の住処もある。なぜなら無想天の住処には六識がなく、七八の二識しかないからである。

原文:云何二入处。无想入。非想非无想入是为。阿难。此二入处。或有沙门婆罗门言。此处安隐。为救为护。为舍为灯。为明为归。为不虚妄。为不烦恼。阿难。若比丘知二入处。知集知灭。知味知过。知出要。如实知见。彼比丘言。彼非我。我非彼。如实知见。是为二入。

解釈: 二種の入処とは何か?無想天入処と非想非非想天入処が二種の入処である。阿難、この二種の入処について、ある沙门婆羅門は安穏の処であり、救護のある処であり、房舎であり、明灯の処であり、光明の処であり、帰依の処であり、虚妄でない処であり、煩悩のない処であると言う。阿難、もし比丘たちがこの二入処を了知し、二入処の集起と滅尽を了知し、二入処の貪味と過患を了知し、二入処から出離する要道を了知し、かつ二入処を如実に知見するなら、比丘たちはこう言うだろう:二入処は我ではなく、私は二入処ではなく、この理を如実に知見する、これが二入である。

無想とは無想定あるいは無想天の処を指す。この定の中には意識がなく、意識の想がないため、無想定と呼ばれる。この定の中に意識はないが、意根はあり、意根は依然として色蘊を我と執し、依然として束縛があり、我見を断じていない。無想定の中の色身と意根が我ではないと認識してこそ、無想入処と呼ばれ、無想定と無想天を超越する。同理、非想非非想入処もこの理であり、非想非非想定と非想非非想天も究竟ではなく、意識の一部分の功用と意根の功用が我ではないと認識しなければ、解脱できない。

原文:阿难。复有八解脱。云何八。色观色。初解脱。内无色想。观外色。二解脱。净解脱。三解脱。度色想。灭有对想。不念杂想。住空处。四解脱。度空处。住识处。五解脱。度识处。住不用处。六解脱。度不用处。住有想无想处。七解脱。灭尽定。八解脱。阿难。诸比丘于此八解脱。逆顺游行。入出自在。如是比丘得俱解脱。

解釈: 阿難、また八種の解脱がある。八種の解脱とは何か?第一の解脱は、心に色想があり色貪があるが、色を観じて不浄とし、色の不浄を証得した時、心は解脱する;第二の解脱は、心に色想がなく、外色を観じて不浄とし、色の不浄を証得した時、心は解脱する;第三の解脱は、身心ともに清浄で解脱を得る;第四の解脱は、色想を超越し、色と相対する想を滅除し、色も想わずその他の雑想もなく、空無辺処定に住して、心は解脱する;第五の解脱は、空無辺処を越えて、識無辺処定に住して、心は解脱する;第六の解脱は、識無辺処を越えて、無所有処定に住して、心は解脱する;第七の解脱は、無所有処を超越し、非想非非想定に住して、心は解脱する;第八の解脱は、滅尽定に住して、心は解脱する。

阿難、諸比丘はこの八種の解脱について、次第に順に進入するのであれ、次第に逆らって進入するのであれ、入定と出定が自在であり、このような比丘は八種の解脱をすべて証得し、倶解脱の阿羅漢と名付けられ、解脱の智慧と四禅八定をすべて具足している。

ページトップへ戻る