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作品

阿含経十二因縁釈

作者:釈生如更新時間:2025年02月27日

第七節 縁起法は法界常住の法

(二九九)縁起法は法界常住の法

原文:時に異なる比丘、仏の所に来詣す。稽首礼足し、退いて一面に坐す。仏に白して言う、世尊、縁起法とは世尊の作られたものか、それとも他の人々の作ったものか。

仏、比丘に告げたまう、縁起法は我の作ったものではなく、また他の人々の作ったものでもない。しかるに彼の如来が世に出でたり出でざりしにかかわらず、法界は常住なり。彼の如来はこの法を自覚し、等正覚を成じ、諸の衆生のために分別して説き明かし、顕示したもう。いわゆる此れあるが故に彼あり、此れ起こるが故に彼起こる。すなわち無明を縁として行あり、乃至、純大苦聚を集める。無明滅するが故に行滅し、乃至、純大苦聚滅す。

釈:この時、他の部族から来た比丘が世尊に会い、低頭合掌して礼拝し、退いて世尊の側面に座り、申し上げた:世尊、縁起法は世尊が発明されたものですか、それとも他の人が作ったものですか。

仏はこの比丘に告げられた:縁起法は私が作ったものではなく、他の人々が作ったものでもない。如来が世に出現しようとしまいと、法界は常住している。すべての如来は自ら縁起法を覚り、等正覚を成就し、すべての衆生のために説き明かし、縁起法の真実を顕わされた。いわゆる「此れあるが故に彼あり、此れ起こるが故に彼起こる」、すなわち無明を縁として行が生じ、ついに生を縁として老死に至り、純大苦聚が集まる。また無明が滅すれば行も滅し、行が滅すれば六識も滅し、六識が滅すれば名色も滅し、名色が滅すれば六入も滅し、六入が滅すれば触も滅し、触が滅すれば受も滅し、受が滅すれば愛も滅し、愛が滅すれば取も滅し、取が滅すれば有も滅し、有が滅すれば生も滅し、生が滅すれば老病死憂悲悩苦の純大苦聚も滅する。

(三〇一)有無を取らざるを正見と名づく

原文:爾時、尊者サンダカチャンナ、仏の所に詣でて稽首仏足し、退いて一面に住し、仏に白して言う、世尊、世尊の説かれる正見とは何でしょうか。いかにして世尊は正見を施設されるのですか。仏、サンダカチャンナに告げたまう、世間には二種の依り所あり。有と無なり。取によって触れられるが故に、或いは有に依り、或いは無に依る。

釈:サンダカチャンナ尊者が仏に申し上げた:世尊、世尊の説かれる正見とは何ですか?世尊はどのように正見を施設されるのですか?仏はサンダカチャンナに告げられた:世間には二種の依り所がある。一つは有、一つは無である。取着によって触れられ、執着を生ずる。取着によって触れられた後、世間の人々の見解は有に依るか、無に依るかである。世間を有とするのも無とするのも正見ではない。凡ての取着は誤りで、中道ではない。

原文:もしこの取着がなければ、心は境に繋着せず、我を住せず計らず。苦が生ずれば生じ、苦が滅すれば滅す。彼に対して疑わず惑わず、他によることなく自ら知る。これを正見と名づく。これを如来の施設した正見と名づく。

釈:もし有と無の二つを取着しなければ、心は中道に住し、境に対しても有にも無にも執着せず、我に住することもなく、苦が生じれば生じ、滅すれば滅すに任せる。この中道の理に対して疑惑なく、他人の教えによらず自ら知ることを正見と名づけ、これが如来の施設した正見である。

仏は説かれた、いわゆる正見とは「他によることなく自ら知る」ことであり、この言葉は非常に重要である。自ら知るとは自証の意味で、他人の啓発による知や聞いたことによる知ではなく、自らの修行によって究明し、最終的に実証して知ることを指す。外縁による知は意識の知であって自証ではなく、正見ではない。真実の修行による意根の証こそが自証である。この言葉は極めて重要である。

原文:所以者何。世間の集を如実に正知見すれば、世間に無いものは存在せず。世間の滅を如実に正知見すれば、世間に有るものも存在しない。これを二辺を離れて中道を説くという。いわゆる此れあるが故に彼あり、此れ起こるが故に彼起こる。無明を縁として行あり、乃至、純大苦聚を集める。

釈:なぜそう言うのか?世間の集を如実に正しく知見すれば、世間が本来無いものであれば有と見做さない。世間の滅を如実に正しく知見すれば、世間が現象として有るものであっても有と見做さない。これが有無の二辺を離れた中道である。即ち「此れあるが故に彼あり、此れ起こるが故に彼起こる」。無明を縁として行が生じ、行を縁として六識の業種が生じ、六識の業種を縁として名色が生じ、名色を縁として六入が生じ、六入を縁として触が生じ、触を縁として受が生じ、受を縁として愛が生じ、愛を縁として取が生じ、取を縁として有が生じ、有を縁として生が生じ、生を縁として老病死憂悲悩苦の純大苦聚が集まる。

原文:無明が滅すれば行も滅し、乃至、純大苦聚も滅す。仏はこの経を説き終えられし時、尊者サンダカチャンナは仏の説かれたことを聞き、諸漏を起こさず、心解脱を得て阿羅漢となった。

釈:無明が滅する故に行も滅し、行が滅する故に六識の業種も滅し、六識の業種が滅する故に名色も滅し、名色が滅する故に六入も滅し、六入が滅する故に触も滅し、触が滅する故に受も滅し、受が滅する故に愛も滅し、愛が滅する故に取も滅し、取が滅する故に有も滅し、有が滅する故に生も滅し、生が滅する故に老病死憂悲悩苦も滅し、純大苦聚も滅する。仏がこの経を説き終えられると、尊者サンダカチャンナは仏の説法を聞き、一切の漏れを起こさず、心解脱を得て阿羅漢となった。

(三〇二)苦の根源

原文:アジラカッサパが仏に白して言う、瞿曇よ、苦は自ら作るものか。仏、カッサパに告げたまう、苦が自ら作るというのは無記である。カッサパまた問う、瞿曇よ、苦は他が作るものか。仏、カッサパに告げたまう、苦が他作というのも無記である。カッサパまた問う、苦は自他共作か。仏、カッサパに告げたまう、自他共作も無記である。カッサパまた問う、瞿曇よ、苦は自他非ず、無因で作られるのか。仏、カッサパに告げたまう、無因作も無記である。

釈:アジラカッサパが仏に申し上げた:瞿曇よ、苦は自ら生じたものですか?仏はカッサパに告げられた:苦が自ら生じるというのは無記である。カッサパがまた問う:では苦は他縁によって生じるのですか?仏は答えられた:苦が他縁によって生じるというのも無記である。カッサパがまた問う:苦は自と他縁の和合によって生じるのですか?仏は答えられた:自と他縁の和合によって生じるというのも無記である。カッサパがまた問う:苦は自でも他縁でもなく、無因で生じるのですか?仏はカッサパに告げられた:無因で生じるというのも無記である。

原文:カッサパまた問う、無因作とはどういうことか。瞿曇よ、苦が自作かと問えば無記と答え、他作か、自他共作か、非自非他無因作かと問えば皆無記と答える。ではこの苦は存在しないのか。仏、カッサパに告げたまう、苦がないのではない。然るにこの苦は存在する。カッサパ、仏に白して言う、善きかな瞿曇よ、苦があると説かれた。私に法を説き、苦を知り見ることを得させてください。

釈:カッサパがまた問う:無因作とはどういう意味ですか?瞿曇よ、私は苦が自ら生じるかと尋ねましたが、無記と答えられました。他作か、自他共作か、非自非他無因作かと尋ねても、全て無記と答えられました。では苦は存在しないのですか?仏はカッサパに告げられた:苦がないのではなく、苦は存在する。カッサパは仏に申し上げた:素晴らしいことです、瞿曇よ、苦があると説かれました。私に法を説き、苦諦を知り見ることを得させてください。

原文:仏、カッサパに告げたまう、もし受が即ち自受であるなら、私は苦が自作であると説くべきである。もし他受が即ち他受であるなら、それは他作である。もし受が自受他受を合わせて苦を生ずるなら、これは自他共作であるが、私はこれを説かない。もし自他によらず無因で苦が生ずるなら、これも説かない。これらの辺見を離れ、中道を説く。如来の説法は、此れあるが故に彼あり、此れ起こるが故に彼起こる。無明を縁として行あり、乃至、純大苦聚を集める。無明が滅すれば行も滅し、乃至、純大苦聚も滅す。

釈:仏はカッサパに告げられた:もし受が自らの受であるなら、苦は自ら生じると説くべきである。もし他受が他者の受であるなら、苦は他縁によって生じると説くべきである。もし受が自受と他受を合わせて苦を生ずるなら、これは自他共作であるが、私はこれを説かない。自他によらず無因で苦が生ずることも説かない。如來の説法は常に両辺を離れ、中道を説く。中道とは「此れあるが故に彼あり、此れ起こるが故に彼起こる」、即ち無明を縁として行が生じ、行を縁として識が生じ、ついに生を縁として老死に至り、純大苦聚が集まる。また無明が滅すれば行も滅し、行が滅すれば識も滅し、ついに生が滅すれば老病死憂悲悩苦の純大苦聚も滅する。

原文:仏はこの経を説き終えられし時、アジラカッサパは塵を遠く離れ、垢を離れ、法眼浄を得たり。時にアジラカッサパは法を見、法を得、法を知り、法に入り、諸の疑惑を度し、他によることなく知り、他を因とせずして度され、正法と律に対して心に畏れなく、合掌して仏に白して言う、世尊、私は今や度されました。今日より仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。生涯を優婆塞として過ごすことをお認めください。

釈:仏がこの経を説き終えられると、アジラカッサパは五陰の塵世の煩悩から遠く離れ、法眼浄を得た。この時アジラカッサパは十二因縁法を見てこれを証し、十二因縁法を知り、十二因縁法に入り、全ての疑惑を滅した。他縁によることなく法を知り、他縁によって度されることなく、正法と律に対して心に畏れがなくなった。そしてカッサパは合掌して仏に申し上げた:世尊、私は今や度されました。今より仏に帰依し、法に帰依し、僧に帰依します。一生を優婆塞として過ごしますので、お認めください。

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