阿含経十二因縁釈
第五節 世間の集と滅
(二九三)仏が異なる比丘のために縁起の法を説く
原文:爾時世尊告異比丘。我已度疑。離于猶豫。抜邪見刺。不復退転。心無所著故。何処有我。為彼比丘説法。為彼比丘。説賢聖出世。空相応縁起随順法。所謂有是事故是事有。是事有故是事起。
釈:世尊は他より来たる比丘に告げられた。私はすでにすべての疑いを滅し尽くし、解脱の法に対する躊躇いを離れ、すでに邪見の毒刺を抜き取り、無上菩提の道においてはもはや退転することはない。心に住著する所がないがゆえに、いずこに我があるとも見ず、かの比丘たちのために法を説き、かの比丘たちのために賢聖たちが証得した出世間の空に相応する縁起随順の法を説く。縁起随順の法とは、これあるがゆえにこれあり、これあるがゆえにこれ起こる、と説かれるものである。
原文:所謂縁無明行。縁行識。縁識名色。縁名色六入処。縁六入処触。縁触受。縁受愛。縁愛取。縁取有。縁有生。縁生老死憂悲悩苦,如是如是。純大苦聚集。乃至如是。純大苦聚滅。
釈:これがいわゆる十二因縁の法である。無明があるがゆえに身口意の行が生じ、身口意の行があるがゆえに六識の業種が生じ、六識の業種があるがゆえに後世の名色が生じ、名色があるがゆえに六入が生じ、六入があるがゆえに触が生じ、触があるがゆえに受が生じ、受があるがゆえに愛が生じ、愛があるがゆえに取が生じ、取があるがゆえに有が生じ、有があるがゆえに生があり、生があるがゆえに老病死憂悲苦悩があり、その後、生死の大苦が集まり、修行をとおして、生死の大苦聚は消滅する。
度疑とは、仏がすでに無明を断じ尽くし、一切の疑惑がなくなり、心が非常に確かに一切の法を知り、世間・出世間の一切の法がどのような道理であるか、これらの法の実相が何であるかを知ることを意味する。衆生はまだ度疑しておらず、疑惑が多すぎ、わからない法が多すぎる。ゆえに事相においては皆、迷いと執着に陥っている。これらすべては無明に由来する。無明の範囲は広く、衆生の無明の疑惑は数えきれないほど多い。もし数量で計算するならば、衆生の無明は十方世界の塵ほどもある。
無明には三種類ある。一念無明、無始無明、塵沙無明。悟りを開いた後も、なお成仏の道においてわからない法は塵や砂のように多い。等覚菩薩でさえもなお一品の無明が破れておらず、破り尽くして初めて仏となる。長く無明にいることは、長く暗闇にいることに等しい。最も根本的な邪見は我見である。なぜなら、我があるがゆえに、すべての煩悩が現れ、一切の邪見は我に由来する。我見が断たれると、他の邪見は一つ一つ連なって断たれる。世尊は邪見の刺を抜き取り、一切の正しくない見解をことごとく断じ尽くし、無明を断じ尽くされた。無明があれば邪見がある。悟りを開いてもなお邪見はあり、仏に成って初めて邪見はなくなる。
原文:如是説法。而彼比丘猶有疑惑猶豫。先不得得想。不獲獲想。不証証想。今聞法已。心生憂苦悔恨。蒙没障碍。所以者何。此甚深処。所謂縁起。倍復甚深難見。所謂一切取離。愛尽無欲。寂滅涅槃。
釈:世尊がこのように法を説かれたが、あの比丘はなおもいくらかの疑惑と躊躇いがあり、決断することができなかった。彼は先に、自分が法眼浄を得た、解脱を得た、証果を得たと思い込んでいたが、実際には彼は法を得ず、証果せず、解脱を得ていなかった。今、世尊が十二因縁の法を説かれるのを聞き、心に憂い、苦しみ、悔恨が生じ、心は惑い、障礙を生じた。なぜこのようになったのか。十二因縁の法は彼が以前に修学した四聖諦の理よりもはるかに甚深で証し難いからである。証し難い点は、十二因縁の法を修する最後には一切の三界の法への執着を離れ、三界への貪愛を滅尽し、貪欲を断じ尽くし、寂静涅槃を得る必要があることにある。
原文:如此二法。謂有為無為。有為者若生若住。若異若滅。無為者不生不住。不異不滅。是名比丘諸行苦。寂滅涅槃。因集故苦集。因滅故苦滅。断諸径路。滅于相続。相続滅滅。是名苦辺。比丘。彼何所滅。謂有余苦。彼若滅止。清凉息没。所謂一切取滅。愛尽無欲。寂滅涅槃。
釈:有為と無為というこの二つの法は、比丘の置かれた一切の行苦と寂滅涅槃という二つの状態を示している。有為法は生住異滅の現象が存在し、無為法には生住異滅の現象が存在しない。比丘が涅槃に入る前は有為であり、すべての五蘊の行苦が滅した後は涅槃の無為となる。諸行苦の因が集起するとき苦が集起し、行苦の因が滅すれば苦が滅する。こうして生死に通じる道を断ち切り、生死の相続を断ち切る。生死の相続が滅すれば苦の辺際に到達する。
比丘よ、阿羅漢や辟支仏たちはどの法を滅したのか。無明煩悩を断除した後に残る苦を滅除した。有余の苦がもし滅除され止息すれば、一切の行が止滅し、心は清凉、息止、滅没を得る。これがいわゆる一切の取の心行を滅し尽くし、貪愛が永遠に尽き、もはや貪欲がなくなり、寂滅涅槃の楽を得るということである。仏がこの経を説き終わられると、比丘たちは仏の説かれたことを聞き、歓喜して奉行した。
阿羅漢や辟支仏たちの修行の最後には、一切取離、愛尽、無欲、寂滅、涅槃となり、心は一切の法に執着せず、一切の法に固執せず、より多くの法を所有しようと望まない。これが取滅である。取が滅すれば貪愛がなくなり、貪愛も尽きれば無欲となる。この三界世間に対してはもはや何の考えや追求もなくなる。もしなお考えや意欲があれば、意根の執着は断たれず、来世がまだあり、愛が尽きず、欲が離れなければ、寂滅涅槃することはできない。ゆえに無欲の後は寂滅であり、寂滅すれば涅槃となる。こうして五陰がことごとく滅し尽くされ、ただ一つの無生住異滅の涅槃心である第八識だけが残る。これが涅槃の境界である。
四聖諦の法と十二因縁の法は小乗の有為法であり、小乗の有為法は無為法である阿頼耶識を離れることはできない。仏は一切の法の出生は有為であり、住も有為であり、変異は有為であり、滅失も有為であると説かれる。宇宙の大千世界はみな生・住・異・滅があり、すべて有為法である。無為とは生ぜず住せず、異ならず滅しないことである。どの法がそうなのか。ただ第八識のみがそうである。ゆえに阿羅漢や辟支仏が無余涅槃に入れば無為となる。なぜなら有為である七識心と行がないからである。身口意行というこれらの有為法の中に無為法が含まれており、そうでなければ有為法も現れない。有為と無為の二つが同時に運行し、有為が滅すれば、無為一つが残る。これが寂滅涅槃である。
有為があれば苦がある。一切の苦は結果である。果があれば因がある。身口意行が因である。因が造り出されると、果は未来世に現れる可能性があり、あるいは現在に現れる可能性もある。ただ因縁が具足すれば、果は現れる。もし因縁が具足しなければ、因として、種子として蓄えられ、将来結果する。修行とは因を植えることである。果はいつ現れるのか。因縁がいつ具足するかによって、果を得る時が決まる。悟りの因縁とは何か。それは菩薩の六波羅蜜である。菩薩の六波羅蜜を円満にすれば、明心の果が現れる。速やかに果を得ようとするならば、速やかに菩薩の六波羅蜜という因縁を具足させる。もし菩薩の六波羅蜜の修行を重視しなければ、明心の因縁は具足せず、いつの生いつの世でいつ明心するかは定かではない。
ある者は修行の果を命終の時に得ようとし、命終の時に西方極楽浄土に往生できることを願う。しかし命終の時に極楽浄土に往生する因縁は必ずしも具足するとは限らない。誰も命終の時に往生の因縁が必ず具足することを保証することはできない。仏が保証を与えなければ、誰が保証しても無意味である。ただし、現世に生きている間に往生の因縁を具足できることを保証し、生きている間に極楽世界が自分の三昧の中に現れるか、あるいは阿弥陀仏が自分の三昧の中に現れるならば、この三昧力と仏の加持力によって、命終に往生を保証することができる。
(二九四)六触入処における解脱と係縛の差別
原文:爾時。世尊告諸比丘。愚痴無聞凡夫。無明覆。愛縁系。得此識身。内有此識身。外有名色。此二因縁生触。此六触入所触。愚痴無聞凡夫。苦楽受覚。因起種種。云何為六。眼触入処。耳鼻舌身。意触入処。
釈:世尊は諸比丘たちに告げられた。愚痴無聞の凡夫は無明の覆障があるがゆえに、貪愛の障縁によって自分の六識身を係縛されている。内に六識身があり、外に名色五陰がある。内外の六入の二者が和合して触を生じ、六つの触入処で触が生じた後、愚痴無聞の凡夫は種々の苦受と楽受の覚受を生じる。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処、これを六触入処という。
衆生の心はみな無明に覆われている。もし無明を取り除けば、心の地に光明が透け、一切の事理は明らかとなる。仏の心には覆いがなく、心は光明を放って天を照らし地を照らし、十方法界はすべて明るい。あらゆる凡夫の心には愛の因縁による係縛があり、それゆえ眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、意識身がある。この六識身を識身という。愛がなければこれらの識身はない。六識身があれば十一種類の色法および心法に触れ、苦楽捨受を生じる。
衆生は無始劫来の貪愛によってこの六識身がある。六識がなぜ身の内の識なのか。勝義根の内で生じる識だからである。名色がなぜ外身に属するのか。名色は外入であり、勝義根の外から勝義根に入り、六識と触れて受覚を得る。その後、身口意行は絶えず、六識は絶えない。もし六根が六塵に触れなければ、六識は滅し、六識が滅すれば種々の受覚はなくなり、何もなくなる。ここまでで、十二因縁のこの連鎖は明らかとなり、五陰身の一切の活動は明らかとなる。意根の無明がもし滅しなければ、身口意行は常に現れ、こうして業種は絶えず蓄積され、未来世の名色は絶えず生じる。これが来世の名色が生じる因である。
原文:若黠慧者無明覆。愛縁系得此識身。如是内有識身。外有名色。此二縁生六触入処。六触所触故。智者生苦楽受覚。因起種種。何等為六。眼触入処。耳鼻舌身意触入処。
愚夫黠慧彼於我所。修諸梵行者。有何差別。比丘白仏言。世尊是法根。法眼法依。善哉。世尊。惟願演説。諸比丘聞已,当受奉行。
釈:もし聡明で智慧ある者が無明に覆われ、貪愛の因縁によってこの六識身を係縛されれば、このように内に六識身があり、外に五陰名色がある。二者が和合して触した後、六入触処があり、この六処で触があるがゆえに、聡明で智慧ある者は種々の苦楽受を生じる。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処である。
愚痴な凡夫と聡明で智慧ある者は六入触処においてともに苦楽等の種々の受がある。もし彼らがともに我が法の中で諸々の梵行を修めるならば、彼らの間にどのような差別があるのか。比丘たちは仏に申し上げた。世尊よ、あなたは法の根源であり、法の眼目であり、法の依り所です。どうか世尊よ、この意を開演してください。比丘たちは聞いた後、信受奉行いたします。
原文:爾時。世尊告諸比丘。諦听善思。当為汝説。諸比丘。彼愚痴無聞凡夫。無明所覆。愛縁所系。得此識身。彼無明不断。愛縁不尽。身壊命終。還復受身。還受身故。不得解脱生老病死。憂悲悩苦。所以者何。此愚痴凡夫。本不修梵行。向正尽苦。究竟苦辺故。是故身壊命終。還復受身。還受身故。不得解脱生老病死。憂悲悩苦。
釈:この時、世尊は諸比丘たちに告げられた。よく聞き、細かに思惟せよ。今まさに汝らのために説こう。諸比丘よ、あの愚痴無聞の凡夫は無明に覆われ、貪愛の因縁に係縛され、この六識身を得る。彼らは無明煩悩を断たず、貪愛の因縁が尽きないため、身壊命終の時、再び生を受けて六識身を受用する。愚痴無聞の凡夫がなおも六識身を受けるがゆえに、生老病死憂悲苦悩を解脱することはできない。なぜこのようになるのか。あの愚痴無聞の凡夫は、もともと清浄な梵行を修めず、正しく苦を尽くす方向に向かわず、究竟の苦の辺際に至ろうとしないからである。それゆえ身壊命終すれば再び生を受け、再び生を受けるがゆえに、生老病死憂悲苦悩を解脱することはできない。
原文: 若黠慧者。無明所覆。愛縁所系。得此識身。彼無明断。愛縁尽。無明断愛縁尽故。身壊命終。更不復受。不更受故。得解脱生老病死。憂悲悩苦。
釈:もし聡明で智慧ある者が無明に覆われ、貪愛の因縁に係縛され、六識身を得たとしても、この智慧ある者は修行によって梵行を修め、無明を断除し、愛縁はそれに伴って断ち尽くされ、もはや貪愛しなくなる。無明を断除し愛縁が断ち尽くされたがゆえに、智慧ある者は身壊命終した後、再び六識身を受けず、再び入胎することはない。再び生を受けないがゆえに、生老病死憂悲苦悩を解脱する。
原文:所以者何。彼先修梵行。正向尽苦。究竟苦辺故。是故彼身壊命終。更不復受。更不受故。得解脱生老病死。憂悲悩苦。是名凡夫及黠慧者。彼於我所。修諸梵行。種種差別。
釈:なぜこのようになるのか。智慧ある者は精進して梵行を修めるがゆえに、正しく苦を尽くす方向に向かい、究竟の苦の辺際に至る。それゆえ身壊命終の時には再び生を受けることはない。再び生を受けないがゆえに、生老病死憂悲苦悩を解脱する。これが愚痴無聞の凡夫と智慧ある者が我が法の中で梵行を修めることによって生じる種々の差別である。
凡そ智慧ある者は、理由なく智慧があるのではない。彼には前世の基礎があり、かつて清浄な梵行を修めたことがある。ゆえに今世において正しく苦を尽くす方向に向かい、滅苦の辺際に至り、ついには究竟の苦の辺際に達し、解脱を得る。一方、前世に梵行を修めたことがなく今世初めて法を聞いた者は、精進して修行しなければ無明を断除できず、来世がまだある。衆生の仏法の学び修行には速い者と遅い者がおり、これはみな前世の根基と一定の関係がある。同じく仏法を学び修めても、ある者は受け入れが早く、ある者は非常に遅い。その差別は前世の根基の違いにあるが、最後には皆、大解脱を得る。たとえ三悪道の衆生が仏法を聞いても、理解しなくとも種子を植えることになる。再び人間に転生した時、彼は他の者よりも根が利くようになる。
(二九五)世間の集滅の因縁
原文:爾時。世尊告諸比丘。此身非汝所有。亦非余人所有。謂六触入処。本修行願。受得此身。云何為六。眼触入処。耳鼻舌身。意触入処。
釈:世尊は諸比丘たちに告げられた。汝らが今持つこの色身は汝らに属するものではなく、また他の人に属するものでもない。六触入処が絶えず運行して滅せず、自らの種々の願行を満たすことによって、受生を得てこの色身がある。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処である。
原文:彼多聞聖弟子於諸縁起。善正思惟観察。有此六識身。六触身六受身。六想身六思身。所謂此有故。有当来生老病死。憂悲悩苦。如是如是。純大苦聚集。是名有因有縁世間集。
釈:あの多聞の聖弟子は一切の縁起法について、よく正しく如理に思惟観察する。六識身があるがゆえに、六触身、六受身、六想身、六思身がある。いわゆるこれあるがゆえにこれありとは、六識身があるがゆえに未来世の生老病死憂悲苦悩があるという意味である。かくのごとく、純大苦が集まり、これを有因有縁世間集という。
仏は衆生に六識身、六触身、六受身、六想身、六思身があると説かれる。六識身とは眼識、耳識、鼻識、身識、意識である。六受身とは眼触生受、耳触生受、鼻触生受、舌触生受、身触生受、意触生受である。六触身とは眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触である。六想身とは眼触生想、耳触生想、鼻触生想、舌触生想、身触生想、意触生想である。六思身とは眼触生思、耳触生思、鼻触生思、舌触生思、身触生思、意触生思である。思とは択択決定と行為造作を意味する。たとえば、眼根が色塵に触れて思が生じるとは、眼識が択択を生じ、かつ行為造作があり、さらに運行を続けることであり、これは行蘊に属する。
眼が色を見るとき、眼識には思と行があり、択択と行為造作がある。耳が声を聞くとき、耳識には択択と行為造作があり、分別があることが行為造作であり、六思身といい、また六行ともいい、行蘊ともいう。ゆえに思は行を含む。思と想は異なる。想は了別執取の行為、あるいは第六識・第七識の妄想、分別、打算などの思想活動である。この思は主に択択と択択後の行為造作にある。六識の行為造作は身口意行である。しかし択択の後、静止寂滅し、身口意行の造作がないこともある。
これあるがゆえにこれありとは、十二因縁を説いている。前の連鎖が因で、後の連鎖が果である。第二の連鎖から始まり、各連鎖は前の連鎖の果であると同時に次の連鎖の因でもある。最後の大苦聚はただ果であって因ではない。最初の無明はただ因であって果ではない。前の因がない、つまり無始より存在する。十二因縁は縁起の法である。世間の一切の法はみな縁起の法である。もし因も縁もなければ、一切の法は現れない。これを有因有縁世間集といい、世間は因縁によって集まる。有因有縁世間滅、滅もまた有因有縁であり、理由なく滅するのではない。
しかし、一つの法だけは因縁の中にない。因縁によって生じたものではない。それは万法の因であり、万法はそれがあるがゆえに現れる。それは阿頼耶識、第八識である。それはいかなる縁によっても存在しているのではなく、それを生む法はなく、法爾として存在している。ただこの法の存在にはなぜかはなく、原因はない。それ以外の一切の法の存在にはすべてなぜかがあり、因縁がある。第八識があるがゆえに、世間の一切の仮相が建立される。宇宙、虚空、大千世界、衆生の五陰身、それは万法の因であり、また万法の根、万法の縁である。それ自体には根も縁もない。
原文:謂此無故。六識身無。六触身。六受身。六想身。六思身無。謂此無故。無有当来。生老病死。憂悲悩苦。如是如是。純大苦聚滅。
釈:有因有縁世間集の意味は、この因縁が無いがゆえに、六識身がなくなり、続いて六触身、六受身、六想身、六思身も消滅する。この因縁が消滅したがゆえに、未来の生老病死憂悲苦悩がなくなり、かくのごとく純大苦聚もまた滅する、ということである。
原文:若多聞聖弟子。於世間集世間滅。如実正知。善見善覚善入。是名聖弟子招此善。得此善法。知此善法。入此善法。覚知覚見世間生滅。成就賢聖出離。実寂正尽苦。究竟苦辺。所以者何。謂多聞聖弟子世間集滅如実知。善見善覚善入故。
釈:もし多聞の聖弟子が世間の集と世間の滅について如実に正しく認知し、よく観察し、よく覚悟し、よくこの法に入ることができれば、その聖弟子はこの善法を招集し、この善法を得、この善法を知り、この善法に入り、世間の生と滅を覚悟し証見し、賢聖の出離果を成就し、真実に寂滅の正尽苦を証得し、究竟の苦辺に到達することができる。なぜこのように言うのか。多聞の聖弟子が世間の集、世間の滅を如実に知り、よく観察し、よく覚悟し、よくこの法に入るがゆえである。
これ無ければ彼無しの道理とは、たとえば無明がなければ身口意行がなくなる。行がなければ六識の業種がなくなる。六識の業種がなければ名色がなくなる。名色がなければ六入がなくなる。六入がなければ触がなくなる。触がなければ受がなくなる。受がなければ貪愛がなくなる。貪愛がなければ取がなくなる。取がなければ有がなくなる。有がなければ生がなくなる。生がなければ老病死憂悲苦悩がなくなる。無明がなければ生老病死がなくなる。中間のいずれかの連鎖が断たれても、十二因縁全体の生死の循環は断たれる。
生死苦楽の鍵は執取するか否かにある。執取が絶えなければ、苦悩は絶えない。なぜなら、何を掴んでも苦を掴み、何を掴んでも刺を掴み、何を掴んでも毒薬を掴むことになるからである。執取し貪愛することは苦を掴むことに等しい。貪愛は苦であり、貪愛の集は苦の集であり、取の集は苦の集である。我々は決して覚えておかねばならない。取る限り、苦を取っており、毒薬を取っており、最終的に害を被るのは自分自身である。
世間の苦集、苦滅の道理を知り、賢聖の出離果を成就する。この知は意識の理論上の知だけでは不十分である。主に意根が知らねばならない。なぜなら意根は主人となり決断する識であり、意根が知って初めて苦業を造らないように択択し、苦を滅し苦集を断ち、生死を解脱できるからである。意識が苦を知り、意根が知らなければ、相変わらず主人となって苦因を造る。意根が一切の身口意行を決定するからである。意識は決定的な作用を持たず、苦を知ってもどうしようもない。ゆえに法を学ぶには意根を修め、学んだことを意根の心の中に植え付けねばならない。意識心も確かに重要であるが、意根はさらに重要である。