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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2025年12月18日 閲覧数: 4436

第五節  世間の集と滅

(二九三)仏が異比丘に縁起法を説く

原文:尔时世尊告异比丘。我已度疑。离于犹豫。拔邪见刺。不复退转。心无所著故。何处有我。为彼比丘说法。为彼比丘。说贤圣出世。空相应缘起随顺法。所谓有是事故是事有。是事有故是事起。

解釈:世尊は他のところから来た一人の比丘に告げて言われた。私はすでに疑いを度(わた)し終えており、解脱法に対する躊躇いを離れ、邪見 (mithyā-dṛṣṭi) の毒刺を抜き取り、無上菩提の道においてすでに退転することはなくなった。心に住著するところがないがゆえに、どこに我があろうか、と。その比丘のために法を説き、その比丘のために、賢聖たちが証得した出世間の空に相応する縁起随順の法を説かれた。縁起随順の法とは、この事があるがゆえに彼の事が現れ、この事の存在によって彼の事が生じ出してくるということである。

原文:所谓缘无明行。缘行识。缘识名色。缘名色六入处。缘六入处触。缘触受。缘受爱。缘爱取。缘取有。缘有生。缘生老死忧悲恼苦,如是如是。纯大苦聚集。乃至如是。纯大苦聚灭。

解釈:これがいわゆる十二因縁法である。無明があるがゆえに身口意行が生じ、身口意行があるがゆえに六識の業種が生じ、六識の業種があるがゆえに後世の名色が生じ、名色があるがゆえに六入が生じ、六入があるがゆえに触が生じ、触があるがゆえに受が生じ、受があるがゆえに愛が生じ、愛があるがゆえに取が生じ、取があるがゆえに有が生じ、有があって生があり、生があれば老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があり、その後、生死の大苦が集まってくる。さらには修行によって、生死の大苦聚が消滅するのである。

度疑という意味は、仏がすでに無明を断じ尽くし、一切の疑惑がなくなり、心の中で一切の法を非常に確かに知り、世間・出世間の一切の法がどのような道理であるか、これらの法の実相が何であるかを知っているということである。ところが衆生はまだ度疑しておらず、疑惑があまりにも多く、分からない法があまりにも多いので、事相において迷いと執拗さがある。これはすべて無明に由来する。無明の範囲は非常に広く、衆生の無明と疑惑は数え切れないほどであり、もし数量で計算するならば、衆生の無明は十方世界の塵埃ほどにも多い。

 無明には三種ある。一念無明、無始無明、塵沙無明である。たとえ開悟した後でも、成仏の道において分からない法がまだたくさんあり、塵や砂のように多い。等覚菩薩でさえまだ一品の無明を破っておらず、破り尽くして初めて成仏できる。長く無明にあることは、長く暗黒にあることである。最も根本的な邪見 (mithyā-dṛṣṭi) は我見 (satkāya-dṛṣṭi) である。我があるがゆえに、すべての煩悩が現れ、一切の邪見はすべて我によって来る。我見 (satkāya-dṛṣṭi) を一たん断てば、その他の邪見も一つ一つそれに従って断たれていく。世尊は邪見の刺を抜き取り、一切の正しくない見解をすべて断じ尽くし、無明をすべて断じ尽くされた。無明があれば邪見 (mithyā-dṛṣṭi) があり、開悟した後でもなお邪見がある。仏になって初めて邪見がなくなるのである。

原文:如是说法。而彼比丘犹有疑惑犹豫。先不得得想。不获获想。不证证想。今闻法已。心生忧苦悔恨。蒙没障碍。所以者何。此甚深处。所谓缘起。倍复甚深难见。所谓一切取离。爱尽无欲。寂灭涅槃。

 解釈:世尊はこのように法を説かれたが、その比丘にはなおいくらかの疑惑と躊躇いがあり、決断できなかった。彼は先に一つの考えを持っていた。すなわち自分は法眼浄を得た、解脱を獲得した、証果したと思っていたが、実際には彼は法を得ておらず、証果しておらず、解脱を得ていなかった。今、世尊が十二因縁法を説かれるのを聞いて、心の中に憂苦と悔恨が生じ、心は迷い解せず、心に障礙が生じた。なぜこのようになるのか。十二因縁法は、彼が従前修学していた四聖諦の理よりもさらに甚深で証し難いからである。証し難いところは、十二因縁法を修めて最後には一切の三界法の取著を離れ、三界への貪愛を滅し尽くし、貪欲を断じ尽くし、寂静涅槃を獲得しなければならないところにある。

原文:如此二法。谓有为无为。有为者若生若住。若异若灭。无为者不生不住。不异不灭。是名比丘诸行苦。寂灭涅槃。因集故苦集。因灭故苦灭。断诸径路。灭于相续。相续灭灭。是名苦边。比丘。彼何所灭。谓有余苦。彼若灭止。清凉息没。所谓一切取灭。爱尽无欲。寂灭涅槃。

解釈:有為と無為というこの二つの法は、比丘のいる一切の行苦と寂静涅槃という二つの状態を示している。有為法には生住異滅の現象が存在し、無為法には生住異滅の現象が存在しない。比丘が涅槃する前は有為であり、五蘊のすべての行苦が滅した後、涅槃して無為となる。諸行苦の因が集起すれば苦が集起し、行苦の因が滅すれば苦が滅する。このようにして生死に通じる径路を截断し、生死の相続を截断する。生死の相続が滅すれば苦の边际に到達する。

比丘よ、阿羅漢や辟支仏たちはどの法を滅したのか。無明煩悩を断除した後に余る苦を滅除したのである。有余の苦がもし滅除され止息すれば、一切の行が止滅し、心は清凉を得、息止し、滅没する。これがすなわち、一切の取の心行を滅除し、貪愛が永く尽きて、もはや貪欲がなくなり、寂静涅槃の楽を得るということである。仏がこの経を説き終えられてから、比丘たちは仏の所説を聞き、歓喜奉行した。

阿羅漢や辟支仏たちが修行の最後に至るのは、一切取離、愛尽、無欲、寂静、涅槃であり、心が一切の法を取著せず、一切の法を執着せず、より多くの法を所有することを望まない、これが取滅である。取が滅すれば貪愛がなくなり、貪愛も尽きて無欲となり、この三界世間に対してもう何の考えも追求もなくなる。もしまだ考えや意志があれば、意根の執が断たれず、次の世がまだあることになる。愛が尽きず、欲が離れなければ、寂静涅槃できない。だから無欲の後こそ寂静であり、寂静こそ涅槃である。このように五陰 (pañca-skandha) がすべて滅し尽くすと、生住異滅のない涅槃心である第八識だけが残る。これが涅槃の境界である。

四聖諦法と十二因縁法は小乗の有為法であり、小乗の有為法は無為法である阿頼耶識 (Ālayavijñāna) を離れられない。仏は一切の法の出生は有為であり、住も有為であり、変異は有為であり、滅失も有為であると説かれた。宇宙の大千世界にはすべて生・住・異・滅があり、すべて有為法である。無為とは生ぜず住せず、異ならず滅しないことである。どの法がこのようであるか。第八識だけがこのようである。だから阿羅漢と辟支仏は無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入った後は無為となる。有為の七識心と行がなくなったからである。身口意行というこれらの有為法の中には無為法が含まれている。さもなければ有為法も現起してこない。有為と無為の二つが同時に運行しており、有為が滅すれば、無為が一つ残る。これが寂静涅槃である。

有為であれば苦がある。一切の苦はすべて結果であり、果があれば因がある。身口意行が因であり、因が造作されると、果は未来世に現れることもあれば、現在現れることもある。縁さえ具足すれば果は現れ、縁が具足しなければ、因として、種子として存在し、将来結果する。修行とは因を種えることである。果はいつ現れるのか。縁がいつ具足するか、その時に果を得る。開悟の縁とは何か。菩薩六度である。菩薩六度を円満すれば、明心の果が現れる。速やかに果を得たいなら、速やかに菩薩六度という縁を具足しなければならない。もし菩薩六度の修行を重視しなければ、明心の縁は具足せず、どの生のどの世のいつ明心するかは定かでなくなる。

ある人々は修行の果を命終の時に得るように計画し、命終に西方極楽世界へ往生することを求める。しかし命終時に極楽世界へ往生する縁は必ずしも具足するとは限らず、誰も命終時の往生の縁が必ず具足すると保証することはできない。仏が保証を与えていないなら、誰が保証しても無駄である。現世生きている間に往生の縁を具足できると保証できる場合を除いては。生きている間に極楽世界が自分の三昧 (samādhi) の中に現れること、あるいは阿弥陀仏が自分の三昧 (samādhi) の中に現れることがあり、このような三昧力と仏の加持力によって、初めて命終の往生を保証できるのである。

(二九四)六触入処における解脱と繋縛の差別

原文:尔时。世尊告诸比丘。愚痴无闻凡夫。无明覆。爱缘系。得此识身。内有此识身。外有名色。此二因缘生触。此六触入所触。愚痴无闻凡夫。苦乐受觉。因起种种。云何为六。眼触入处。耳鼻舌身。意触入处。

解釈:世尊は多くの比丘たちに告げて言われた。愚痴無聞の凡夫は無明の覆障があるため、貪愛の障縁によって自分の六識身が繋縛されている。内には六識身があり、外には名色五陰 (pañca-skandha) があり、内外の六入の二者が和合して触を生じ、六つの触入処に触が生じた後、愚痴無聞の凡夫は種々の苦受と楽受の覚受を生じる。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処、これを六触入処と名づける。

衆生の心はみな無明に遮障されている。無明を取り除けば、心地から光明が透け出て、一切の事理がすべて明らかになる。仏の心には覆いがなく、心は光明を放って天を照らし地を照らし、十方法界がすべて明るく通じている。凡夫は一人一人の心の中に愛の因縁の繋縛があり、それゆえに眼識身、耳識身、鼻識身、舌識身、意識身がある。この六識身を識身と呼ぶのであり、愛がなければこれらの識身はない。六識身があれば十一種の色法および心法に触れ、苦楽捨受 (upekṣā-vedanā) が生じる。

衆生は無始劫来の貪愛によってこの六識身を持っている。六識はなぜ身の内の識なのか。勝義根 (indriya) の内に生じた識だからである。名色はなぜ外身に属するのか。名色は外入であり、勝義根 (indriya) の外から勝義根に入り、六識と相触れるからである。そうすると受覚があり、その後、身口意行が絶えず、六識が絶えない。もし六根が六塵に触れない時は六識は滅し、六識が滅すれば種々の受覚はなく、何もなくなる。ここまで語ると、十二因縁のこの鎖について我々は明確になり、五陰 (pañca-skandha) 身の一切の活動についても明確になる。意根の無明が滅しなければ、身口意行はいつも現起してこざるを得ず、こうして業種が絶えず累積され、未来世の名色が絶えず生起してくる。これが来世の名色出生の因である。

原文:若黠慧者无明覆。爱缘系得此识身。如是内有识身。外有名色。此二缘生六触入处。六触所触故。智者生苦乐受觉。因起种种。何等为六。眼触入处。耳鼻舌身意触入处。

愚夫黠慧彼于我所。修诸梵行者。有何差别。比丘白佛言。世尊是法根。法眼法依。善哉。世尊。惟愿演说。诸比丘闻已,当受奉行。

解釈:もし聡明で智慧のある人が無明に覆障され、貪愛の因縁によってこの六識身が繋縛されているなら、このように内には六識身があり、外には五陰 (pañca-skandha) の名色があり、二者が和合して触れた後に六入触処があり、この六処に触があるがゆえに、聡明で智慧のある人も種々の苦楽受を生じる。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処である。

愚痴な凡夫と聡明で智慧のある人は、六入触処においていずれも苦楽などの種々の受がある。もし彼らがみな我が法の中で諸々の梵行を修めるなら、彼らの間にはどのような差別があるのか。比丘たちは仏に白して言った。世尊は法の根源であり、法の眼目であり、法の所依であります。善哉、世尊。願わくはこの意を演説したまえ。多くの比丘たちは聞いた後、信受奉行すべきであります。

原文:尔时。世尊告诸比丘。谛听善思。当为汝说。诸比丘。彼愚痴无闻凡夫。无明所覆。爱缘所系。得此识身。彼无明不断。爱缘不尽。身坏命终。还复受身。还受身故。不得解脱生老病死。忧悲恼苦。所以者何。此愚痴凡夫。本不修梵行。向正尽苦。究竟苦边故。是故身坏命终。还复受身。还受身故。不得解脱生老病死。忧悲恼苦。

解釈:この時、世尊は多くの比丘たちに告げて言われた。お前たちは仔細に聞き、細やかに思惟せよ。今、お前たちのために解説しよう。多くの比丘たちよ、あの愚痴無聞の凡夫は無明に遮障覆われるがゆえに、貪愛の因縁に繋縛されて、この六識身を生じている。彼らは無明煩悩を断じないので、貪愛の因縁は断じ尽くすことができず、身壊命終の時に、さらに引き続き生を受けて六識身を受用する。愚痴無聞の凡夫がなお六識身を受ける以上、生老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) から解脱できない。なぜこのようになるのか。あの愚痴無聞の凡夫は、もともと清浄な梵行を修行せず、正しく苦を尽くす方向へ向かい、究竟の苦の边际に到達することを望まないからである。それゆえ身壊命終の後もなお再び身を受け、なお身を受けるがゆえに、身壊命終しても生老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) から解脱できないのである。

原文: 若黠慧者。无明所覆。爱缘所系。得此识身。彼无明断。爱缘尽。无明断爱缘尽故。身坏命终。更不复受。不更受故。得解脱生老病死。忧悲恼苦。

 解釈:もし聡明で智慧のある人が無明に遮障覆われていても、愛縁に繋縛されたがゆえに、やはり六識身を出生している。しかし、この智慧のある人は梵行を修行することによって無明を断除でき、愛縁もそれに従って断じ尽くされ、もはや貪愛しなくなる。無明を断除し愛縁が断じ尽くされたがゆえに、智慧のある人は身壊命終の後、二度と六識身を受けず、もはや入胎することはない。再び受生しないがゆえに、生老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) から解脱するのである。

原文:所以者何。彼先修梵行。正向尽苦。究竟苦边故。是故彼身坏命终。更不复受。更不受故。得解脱生老病死。忧悲恼苦。是名凡夫及黠慧者。彼于我所。修诸梵行。种种差别。

解釈:なぜこのようになれるのか。智慧のある人は精進して梵行を修行するので、正しく苦を尽くす方向へ向かい、究竟の苦の边际に到達する。それゆえ身壊命終の時に、引き続き受生することがない。再び受生しないがゆえに、生老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) から解脱する。これが愚痴無聞の凡夫と智慧のある人が我が法の中で梵行を修行することによって生じる種々の差別である。

智慧のある人はすべて、縁もゆえなく智慧を持っているのではない。前世の基礎があり、かつて清浄な梵行を修行したことがあるので、今世において正しく苦を尽くす方向へ向かい、滅苦の边际まで歩み、最後に究竟の苦辺に到達して解脱を得ることができる。前世に梵行を修行したことがなく今世初めて法を聞いた人は、精進して修行しなければ無明を断除することは不可能であり、次の世がまだあることになる。衆生が仏法を学んで修行するには速い者と遅い者があり、これはいずれも前世の根基と一定の関係がある。同じように仏法を修学しても、受け入れるのが非常に速い人もいれば、非常に遅い人もいる。差別は前世の根基の違いにあるが、最後にはすべて大解脱を得ることになる。たとえ三悪道の衆生が仏法を聞いても、解しなくても種子を植え付けており、再び人間の身に転生した時には、他の人より根が鋭利である。

(二九五)世間集滅の因縁

原文:尔时。世尊告诸比丘。此身非汝所有。亦非余人所有。谓六触入处。本修行愿。受得此身。云何为六。眼触入处。耳鼻舌身。意触入处。

解釈:世尊は多くの比丘たちに告げて言われた。お前たちの今の色身はお前たちの所有ではなく、他の人の所有でもない。六触入処が絶えず運行して滅せず、自身の種々の願行を満足させることによって、初めて受生し、この色身を得たのである。六触入処とは何か。眼触入処、耳触入処、鼻触入処、舌触入処、身触入処、意触入処である。

原文:彼多闻圣弟子于诸缘起。善正思惟观察。有此六识身。六触身六受身。六想身六思身。所谓此有故。有当来生老病死。忧悲恼苦。如是如是。纯大苦聚集。是名有因有缘世间集。

解釈:あの多聞の聖弟子は一切の縁起法に対して、善く正しく如理に思惟観察することができる。六識身があるがゆえに、六触身、六受身、六想身、六思身がある。いわゆる此有故彼有という意味は、六識身があるがゆえに未来世の生老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) があるということである。このように純大苦が集まってくる。これを有因有縁に世間が集まると名づける。

仏は衆生に六識身、六触身、六受身、六想身、六思身があると説かれた。六識身とは眼識、耳識、鼻識、身識、意識である。六受身とは眼触生受、耳触生受、鼻触生受、舌触生受、身触生受、意触生受である。六触身とは眼触、耳触、鼻触、舌触、身触、意触である。六想身とは眼触生想、耳触生想、鼻触生想、舌触生想、身触生想、意触生想である。六思身とは眼触生思、耳触生思、鼻触生思、舌触生思、身触生思、意触生思である。思とは決択決定と行為造作である。たとえば眼根が色塵に触れて思を生じ、眼識が決択を生起し、かつ行為造作があり、さらに引き続き運行する。これは行陰に属する。

眼が色を見る時、眼識には思と行があり、決択と行為造作がある。耳が声を聞く時、耳識には決択と行為造作があり、分別があることが行為造作である。これを六思身と呼び、六行とも呼び、行陰とも呼ぶ。だから思は行を含む。思と想は異なる。想は了別執取の行為であり、あるいは六七識の妄想、分別、打算などの思想活動である。この思は主に決択と決択後の行為造作にある。六識の行為造作が身口意行であるが、決択の後、静止寂静で身口意行の造作がないこともある。

此有故彼有とは、十二因縁を説いているのである。前の鎖が因であり、後の鎖が果である。第二の鎖から、各鎖は前の鎖の果であると同時に次の鎖の因でもある。最後の大苦聚は果だけであって因ではなく、最初の無明は因だけであって果ではなく、前の因がないので、無始から有るものである。十二因縁は縁起法であり、世間の一切の法はすべて縁起法である。もし無因無縁なら、一切の法は現れない。これを有因有縁に世間集と呼ぶ。世間は因縁によって集まったものである。有因有縁に世間滅もあり、滅もまた因と縁があってのことであり、縁もなくゆえもなく滅するのではない。

しかし一つの法だけは因縁の中になく、因縁所生ではなく、神様は万法の因である。万法は神様があるがゆえに現れる。神様はいかなる縁によっても存在するのではなく、神様を生じさせる法はなく、神様は法爾如是の存在である。この法の存在だけにはなぜもなく、原因もない。その他の一切の法の存在にはすべてなぜかがあり、因縁がある。第八識があるがゆえに、世間の一切の仮相が建立されている。宇宙、虚空、大千世界、衆生の五陰 (pañca-skandha) 身、神様は万法の因であり、万法の根、万法の縁でもあるが、神様自身には根も縁もない。

原文:谓此无故。六识身无。六触身。六受身。六想身。六思身无。谓此无故。无有当来。生老病死。忧悲恼苦。如是如是。纯大苦聚灭。

解釈:有因有縁に世間集という意味は、この因縁が無ければ六識身がなくなり、引き続いて六触身、六受身、六想身、六思身もそれに従って消滅するということである。この因縁が消滅したがゆえに、未来の生老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) がなくなり、このように純大苦聚も滅するのである。

原文:若多闻圣弟子。于世间集世间灭。如实正知。善见善觉善入。是名圣弟子招此善。得此善法。知此善法。入此善法。觉知觉见世间生灭。成就贤圣出离。实寂正尽苦。究竟苦边。所以者何。谓多闻圣弟子世间集灭如实知。善见善觉善入故。

解釈:もし多聞の聖弟子が世間の集と世間の滅に対して、如実に正しく認知し、善く観察し、善く覚悟し、善くこの法の中に入ることができるなら、聖弟子はこの善法を招集し、この善法を得て、この善法を知り、この善法の中に入り、世間の生と滅を覚悟し証見することができ、賢聖の出離の果を成就し、寂静を真実に証得して正しく苦を尽くし、究竟の苦辺に到達する。なぜこのように言うのか。多聞の聖弟子は世間の集、世間の滅をすでに如実に了知し、善く観察し、善く覚悟し、善くこの法に入ることができるからである。

此無故彼無の道理とは、たとえば無明がなければ身口意行がなく、行がなければ六識の業種がなく、六識の業種がなければ名色がなく、名色がなければ六入がなく、六入がなければ触がなく、触がなければ受がなく、受がなければ貪愛がなく、貪愛がなければ取がなく、取がなければ有がなく、有がなければ生がなく、生がなければ老病死憂悲苦悩 (śoka-parideva-duḥkha-daurmanasyopāyāsa) がない。無明がなければ生老病死がない。途中のどの鎖が断れても、十二因縁全体の生死の循環はすべて断れる。

生死苦楽の鍵は執取 (upādāna) するか否かにある。執取 (upādāna) が絶えなければ苦悩も絶えない。何を抓み取ろうと苦を抓んでいるのであり、何を抓み取ろうと刺を抓んでいるのであり、何を抓み取ろうと毒薬を抓んでいるのである。執取 (upādāna) と貪愛は苦を抓むことであり、貪愛は苦であり、貪愛の集は苦の集であり、取の集は苦の集である。我々は決して忘れてはならない。取った以上、苦を取著し、毒薬を取著しており、最終的に害するのは自分自身なのである。

世間の苦集、苦滅の道理を知り、賢聖の出離の果を成就する。この知は、意識の理論上の知だけではまだ不十分であり、主に意根が知らなければならない。意根は作主し決断する識であるから、意根が知って初めて、苦業を造作しないと決択でき、苦を滅し苦集を断じ、生死を解脱できる。意識は苦を知っても意根が知らなければ、相変わらず作主して苦因を造作する。身口意行の一切を決定するのは意根であり、意識は決定的な役割を果たさないので、苦を知ってもどうにもならない。だから法を学ぶには意根を修めなければならず、意根の心の中まで学び込まなければならない。意識心も非常に重要ではあるが、意根はさらに重要なのである。

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