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阿含経十二因縁釈

作者: 釋生如 カテゴリ: 二乗の解脱 更新時間: 2026年08月19日 閲覧数: 3675
<h3 style="text-indent: 2em;">第三節  十二因縁は誰のために作られるのか</h3><h4 style="text-indent: 2em;">(二八八)舎利弗と摩訶拘絺羅の十二因縁の対話</h4>

原文:尔时。尊者舍利弗。尊者摩诃拘絺罗。在耆阇崛山。尔时尊者舍利弗。晡时从禅觉。诣尊者摩诃拘絺罗。共相问讯庆慰已。于一面坐。语尊者摩诃拘絺罗。欲有所问。宁有闲暇见答与不。尊者摩诃拘絺罗语尊者舍利弗言。仁者且问。知者当答。尊者舍利弗问尊者摩诃拘絺罗。云何尊者摩诃拘絺罗。有老不。答言有。

解釈:尊者的舎利弗は、ある日の午後、禅定から起き上がり、尊者の摩訶拘絺羅の住処を訪れ、互いに挨拶を交わし慶慰し終えてから、一方に座り、摩訶拘絺羅に言った。「お尋ねしたいことがあります。お答えいただく暇はおありでしょうか」。摩訶拘絺羅は尊者の舎利弗に言った。「どうぞお尋ねなさい。知っていることはお答えしましょう」。舎利弗は拘絺羅に問うた。「尊者、あなたはどうお考えですか。世間に老という現象はあるでしょうか」。拘絺羅は「ある」と答えた。

原文:尊者舍利弗复问。有死不。答言有。复问云何。老死自作耶。为他作耶。为自他作耶。为非自非他。无因作耶。答言尊者舍利弗。老死非自作。非他作。非自他作。亦非非自他作。无因作。然彼生缘故有老死。

解釈:舎利弗はさらに問うた。「世間に死という現象はあるでしょうか」。拘絺羅は「ある」と答えた。舎利弗はさらに問うた。「あなたはどうお考えですか。老死という現象は、自然に生じるものなのでしょうか、それとも他の縁・他の因によって作り出されるものなのでしょうか。あるいは自然と他の縁が共同で作り出すものなのでしょうか。あるいは自然に生じるのでもなく他の縁による作り出しでもなく、何の縁因もなく現れるものなのでしょうか」。拘絺羅は答えた。「老死は自然に生じる現象ではなく、他の縁に依って作り出されるものでもなく、自然と他の縁とが和合して作り出すものでもなく、しかしまた自然と他の縁とが和合して作り出すのでないとも言えず、何の縁由もないままに作り出されるものでもありません。しかしながら生がある縁故に、老死が随伴して生じるのです」。

原文:如是生有。取爱受触。六入处名色。为自作。为他作。为自他作。为非自他无因作。答言。尊者舍利弗。名色非自作。非他作。非自他作。非非自他作无因作。然彼名色缘识生。

解釈:舎利弗はさらに問うた。「同じように、生・有・取・愛・受・触・六入処・名色というこれらの現象は、自然に生じるものなのでしょうか、それとも他の縁・他の因によって作り出されるものなのでしょうか。あるいは自然と他の縁とが和合して作り出すものなのでしょうか。あるいは自然と他の縁とが和合して作り出すのでもなく、無因無縁に現れるものでもないのでしょうか」。拘絺羅は舎利弗に答えた。「生という現象は自然に生じるものではなく、他の縁に依って作り出されるものでもなく、自然と他の縁とが和合して作り出すものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に生じるものでもありません。しかしながら三界有がある縁故に、生という現象が現れたのです」。

三界有は自然に生じるものではなく、他の縁に依って生じるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生じるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に生じるものでもありません。しかしながら執取がある縁故に、三界有が現れたのです。執取という現象は自然に生じるものではなく、他の縁に依って作り出されるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生じるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に生じるものでもありません。しかしながら貪愛がある縁故に、執取という現象が生じたのです。貪愛は自然に生じるものではなく、他の縁に依って生じるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生じるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら受がある縁故に、貪愛が生じたのです。

受は自然に生じるものではなく、他の縁に頼って生まれるものでもなく、自然と他の縁とが和合して現れるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら触がある縁故に、受が生じたのです。触は自然に生じるものではなく、他の縁に依って現れるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生じるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら六入処がある縁故に、触が生じ出されたのです。

六入処は自然に生じるものではなく、他の縁に依って生まれるものでもなく、自然と他の縁とが和合して作り出されるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に現れるものでもありません。しかしながら名色がある縁故に、六入処が現れたのです。名色は自然に生じるものではなく、他の縁に依って生じ出されるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生まれるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生じるのでないとも言えず、無因無縁に生まれるものでもありません。しかしながら六識の業種がある縁故に、名色が生じ出されたのです。

原文:复问。彼识为自作。为他作。为自他作。为非自非他无因作。答言尊者舍利弗。彼识非自作。非他作。非自他作。非非自他作无因作。然彼识缘名色生。

解釈:舎利弗はさらに問うた。「その六識の業種は自然に生じるものなのでしょうか、それとも他の縁に依って生じ出されるものなのでしょうか。あるいは自然と他の縁とが和合して作り出されるものなのでしょうか。あるいは自然でも他の縁でもなく、無因無縁に生じ出されるものなのでしょうか」。拘絺羅は舎利弗に答えた。「六識の業種は自然に生じるものではなく、単に他の縁に依って生じるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生まれるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生まれるのでないとも言えず、無因無縁に生じ出されるものでもありません。しかしながら六識は名色がある縁故に生じ出されたのです」。

原文:尊者舍利弗。复问尊者摩诃拘絺罗。先言名色非自作。非他作。非自他作。非非自他作无因作。然彼名色缘识生。而今复言识缘名色。此义云何。尊者摩诃拘絺罗答言。今当说譬。如智者因譬得解。譬如三芦立于空地。展转相依。而得竖立。若去其一。二亦不立。若去其二。一亦不立。展转相依。而得竖立。识缘名色亦复如是。展转相依。而得生长。

解釈:舎利弗はさらに拘絺羅に問うた。「あなたは先ほど、名色は自然に生じるものではなく、他の縁に依って生じるものでもなく、自然と他の縁とが和合して生まれるものでもなく、また自然と他の縁とが和合して生まれるのに随うのでないとも言えず、無因無縁に生まれるものでもなく、しかしながら名色は六識の業種がある縁故に生まれた、と言われました。今また、六識は名色がある縁故に生じた、とも言われます。これはどういう道理なのでしょうか」。

拘絺羅は答えた。「今、譬喩を話しましょう。智慧ある人は、譬喩によってその道理を領解するものです。譬えば三本の葦が空き地に立つには、必ず三者が互いに依り合って、はじめて立つことができます。一本の葦を取り去れば、残りの二本も立つことができません。二本の葦を取り去れば、残った一本も立つことができません。三者が互いに依り合って、はじめて立つことができるのです。識が名色を縁とするのもまたこのようであり、互いに依り合って、はじめて生長することができるのです」。

名色の五陰は六識の業種を縁としてはじめて生まれることができ、この道理はこうです。六識が絶えず身口意行を造作するため、業種が残され、五陰世間は滅することができず、後世にも三界の中で引き続き五陰身が生まれます。後世の業種がまだあるため、中陰身があり、後世の名色があります。意根は中陰身の中で業種に随って六道輪廻の中を流転し、阿頼耶識とともに投胎することとなり、後世の最初の名色が生じます。名とは意根の第七識であり、色とは受精卵です。六識は名色を縁として生じます。この道理はこうです。衆生の胎児期の名色が引き続き成長した後、六入処が成熟し、六根が六塵に触れると、六識が名色の五陰身の中に生まれます。こうして名色は六識と互いに依存する関係となり、互いに生まれ運行し続けることができるため、生死が絶えなくなるのです。

十因縁の中には、識が名色を縁とし、名色が識を縁とするという説もあります。ここでの識は六識の識ではなく、阿頼耶識の識、第八識の識です。その意味は、阿頼耶識は名色五陰の縁に依ってはじめて五陰世間の中に自らの運行と造作を持つことができ、また名色も阿頼耶識を縁としてはじめて生まれ、発展し、絶えず運行することができる、というものです。依るべき阿頼耶識がなければ、名色の生起はなく、名色がなければ阿頼耶識は無余涅槃の状態にあるのです。

原文:尊者舍利弗言。善哉善哉。尊者摩诃拘絺罗。世尊声闻中。智慧明达。善调无畏。见甘露法。以甘露法具足身作证者。谓尊者摩诃拘絺罗。乃有如是甚深义辩。种种难问。皆悉能答。如无价宝珠。世所顶戴。我今顶戴尊者摩诃拘絺罗。亦复如是。我今于汝所。快得善利。诸余梵行。数诣其所。亦得善利。以彼尊者善说法故。我今以此尊者摩诃拘絺罗。所说法故。当以三十种赞叹。称扬随喜。

解釈:舎利弗は讃嘆して言った。「素晴らしい、素晴らしい。摩訶拘絺羅尊者よ。あなたは世尊の声聞弟子の中で智慧が明達し、自心をよく調伏し、恐れるところがなく、仏法の甘露を証見し、解脱の甘露法を完全に証得したため、身をもって証することができる方です。すなわち、我が身はすでに尽き、梵行はすでに確立され、なすべきことはすでになし、自ら知る、後有を受けないことを。あなたはこのような甚深な法義に対する無碍な弁才を具え、他人の種々の問難にも、すべて解して応じ答えることができます。あなたは無価の宝珠のように世人に頂戴されています。私が今、尊者の摩訶拘絺羅を頂戴するのもまたこのようです。私は今あなたのところで善法の利益を得ました。またその他の梵行者たちも、あなたに何度も教えを請い交流することによって善利を得ています。尊者であるあなたがよく法を説かれる縁故に、私は今、拘絺羅尊者の説かれた法教に対して、三十種の讃嘆を与え、功徳を称揚し、功徳を随喜すべきです」。

<h4 style="text-indent: 2em;">(二八九)いかにして五蘊に厭離を生じ解脱を得るか</h4>

原文:尔时。世尊告诸比丘。愚痴无闻凡夫。于四大身厌患。离欲背舍。而非识。所以者何。见四大身。有增有减。有取有舍。而于心意识。愚痴无闻凡夫。不能生厌。离欲解脱。所以者何。彼长夜于此。保惜系我。若得若取。言是我我所相在。是故愚痴无闻凡夫。不能于彼生厌。离欲背舍。

解釈:仏は諸比丘たちに告げて言われた。「心性が愚痴で解脱法に対して見聞のない凡夫は、自分の四大から成る色身に対して厭離心を生じ、色身への種々の欲望を離れ、色身を背棄し、色身を顧みることができます。しかし彼らは識心に対してはそうではなく、識心に対して離欲・背棄・捨離することができません。なぜでしょうか。凡夫たちは、四大から成る色身に増減の変化があること、無常であり固定不変ではないことを見ることができるため、色身に対して取着することも捨てることもできるからです。

しかし自分の意識心と意根に対しては、愚痴で見聞のない凡夫は厭離心を生じることができず、離欲と解脱ができません。なぜそうなるのでしょうか。彼らが長い生死の長夜において、自分の心識をことのほか愛惜し、識心を我として繋縛し、所得があり所取があり、これが我であり我のものであり、我が識の中にあり、識が我の中にあり、我と識が互いに存在していると言うからです。それゆえ、愚痴で見聞のない凡夫は識心に対して厭離し離欲することができず、識心を背棄捨離することができないのです」。

仏は「愚痴無聞の凡夫」という言葉を使われました。これを聞くのを好まない人もいますが、仏は人を罵辱しているのではなく、事実を陳述されているのです。凡夫とはまさに愚痴で見聞のない者です。正法を聞いたことがなく、無明が深重であることが愚痴無聞なのです。見聞があれば愚痴は破除され、智慧を持つようになります。

色身は衆生に見破られやすいものです。生滅変異が比較的明白だからです。色身は地・水・火・風の四大種子が和合して生じたもので、地大は堅硬な性質を持ち、筋肉・骨・筋・髪・爪・歯・皮膚などの物質はいずれも堅硬性を有し、地大の種子を含んでいます。堅硬性がなければ、行住坐臥ができません。水大は湿潤な性質を持ち、身体表面の皮膚や内臓器官・血液・汗・尿などはいずれも湿性を有し、水大の種子を含んでいます。火大は温暖性を持ち、身体の内外に温度があり、これが火性で、火大の種子を含んでいます。人が死ぬと火大がなくなり、死体は冷たくなります。風大は流動性を持ち、呼吸や血液の流れ、気脈の運行はいずれも風性の作用で、風大の種子を含んでいます。風性がなければ、血液は流れず、飲食物も流れて消化吸収し排泄することができません。

 すべての色法は、地・水・火・風が一定の割合で和合して成るもので、どの成分が多いかによって、物質はその性質が主となり、和合の割合が異なれば、形成される物質も異なり、身体の各部位の器官も異なります。私たちの色身だけでなく、宇宙世界のすべての物質も四大から成り、四大の和合の割合が異なれば、形成される物質も異なります。色声香味触法の六塵はいずれも四大から成り、いずれも色法に属しますが、表現の形式が異なるだけで、色法を識別する識心が異なるのです。四大種子は如来蔵の中に存在し、如来蔵が四大種子を輸送して色身を形成するので、色身は如来蔵によって出生されたものです。

身体の増減の変化、たとえば太ったり痩せたりすること、身体器官の移植や摘出など、こうした増減の変化があるということは、この身体が仮のもので実のないものだということを示しています。色身の生滅変異性を見破ることができれば、厭離心を生じることができ、離欲と背捨もでき、随順したくなくなり、もはや保惜愛護しようとは思わず、身体はどうでもよいもの、ただの仮の皮袋であり、真実の我ではないと感じるようになります。

しかし愚痴で見聞のない凡夫衆生は、識心に対しては厭離を生じることができず、離欲もできず、背捨もできません。その根源はどこにあるのでしょうか。衆生は識の作用を貪執するのが好きだからです。識の作用は比較的逼真で人を引きつけるため、絶えず抓取し、自分のものにしてしまうのです。色身のすべての功能作用は、識があってこそ生じます。たとえば行住坐臥は、身識がなければ行うことができず、行住坐臥は身識の起こす作用であり、生命活動は行住坐臥といった事業から離れられないため、衆生は貪恋するのです。身識があって動くことができ、眼識があって見ることができ、耳識があって聞くことができ、鼻識があって香を嗅ぐことができ、意識心があって思考分別・分析判断・推理・妄想を起こすことができ、各々の識が配合して種々の作用を生じ、意識心と前五識がともに分別し、ともに作用します。これらの功能作用は真真切切で、生き生きと感じられ、これが我と我のものであるため、貪恋して捨てないのです。

識心が我でないことは証しにくいものです。ありありと、一切法を了知する我があるように感じられ、とても真実で、私は確かにここに座って法を聞いており、私の眼は色を見ることができ、接触する一切の物質色法を確かに見ることができ、私は確かに音声を聞くことができる、と、眼耳鼻舌身の見聞覚知の作用を虚妄であるとは思わず、そこで抓んで放さないのです。意識の種々の作用についてはなおのこと虚妄であると認めることができず、意識は確かに思考することができ、妄想を起こすことができ、推理することができ、計画することができると感じるため、衆生は識心を虚妄のものと見ることができません。しかし、この関門を通過しなければ、大小の果を証得することはできません。

それゆえ仏は言われます。愚痴無聞の凡夫は四大の色身に対して厭離を生じることができ、離欲することができ、背捨もできますが、自分の識心に対しては離欲することができず、厭離を生じることができず、背捨することができず、自分の心を好み、事ごとに自分の心に従って行おうとし、自分の心に対して離欲することができません。この識心に確かにこれらの功能作用があると感じているからです。

衆生は生生世世、生死の長夜において我を保惜繋縛し、常に己の意に順い、自分を愛護し、自分の識心を保惜してきました。私は何を得たい、私は何を所有したい、私は何を占有したい、というのはいずれもこの識心の意志であり、そこでこの識心の功能作用を我とし、真実に存在する、永遠不滅の自己とみなすのです。実は識心はいくつかの場合には滅します。たとえば法を聞いているとき、聞いているうちに眠ってしまい、その後何を話したかも分からなくなりますが、このとき識心は滅して存在しません。眠って夢も見ないとき、このとき六識心も滅して存在しません。目が覚めると、これらの識心はまた現起し、滅があり生があり、生じ滅することができ、識心は常に生滅の過程の中で変化しているのです。

 一方、阿頼耶識の功能作用は、常にそのように存在しており、変化がなく、外縁に依る必要がなく、功能作用に変化がありません。阿頼耶識は常に一切法を生じさせ、一切法を変現することができ、誰にも神様を妨げることはできません。あれこそが真実なのです。入定していようが眠っていようが、どんな状況であっても、神様は常に存在しており、常に神様の功能体性の作用があります。前六識はそうはいかず、常に生滅変化しているのです。

原文:愚痴无闻凡夫宁于四大身。系我我所。不可于识。系我我所。所以者何。四大色身。或见十年住。二十三十。乃至百年。若善消息。或复小过。

解釈:仏は言われます。愚痴無聞の凡夫は、四大から成る色身を我と我のものと繋縛することはあっても、識心を我と我のものと繋縛することはできません。なぜそう言えるのでしょうか。四大から成る色身は、世に十年、二十年、三十年乃至一百年住して滅去するだけであり、もし色身をよく手入れすることができれば、住世が一百年を超えることもあるかもしれないからです。

原文:彼心意识。日夜时克。须臾转变。异生异灭。犹如猕猴。游林树间。须臾处处。攀捉枝条。放一取一。彼心意识。亦复如是。异生异灭。

解釈:しかし心意識は日夜時刻を分かたず、須臾のうちにも流転し、刹那刹那に変化が生じており、この時に生じて彼の時に滅し、ここに生じて彼処に滅します。猿猴が林樹の間を遊び歩くようで、ほんのわずかの間に多くの場所を巡り、木に登って枝条を抓み取り、この枝を放せば別の枝を抓み取り、いつも暇がありません。人々の言う心意識もまたこのようであり、異生異滅で、この時に生じて彼の時に滅し、ここに生じて彼処に滅し、この法に生じて彼の法の上に滅し、彼の法の上に生じてこの法の上に滅し、この身の上で消え、彼の身の上でまた生じ、日夜時刻、種々の転変が絶えることがなく、異時に生じ、異地に生じ、異類に生じるのです。

凡夫の我見で最も重いのは、識心の功能作用を我とし、我のものとみなすことであり、この我見が最も断除しにくいのです。色身の我見の断除はいくらか容易で、色身の生滅変異の現象は観察しやすく、識心と分けることができるからです。識心の生滅変異の現象は観察し了解しにくく、五陰身の一切の功能作用はいずれも識心のものであり、あまりに綿密で連続しているため、真実に感じられ、自分が作用している、自分の作用であると感じられ、識心の受想行識の作用を自分から分けて見破ることが難しいのです。

もし識心を我と我のものとみなすと、臨終の時に、識心をしっかり抓もうとし、一心に見聞覚知しようと望み、見聞覚知が次第に消えていくことを恐れ、識心の功能作用がますます微弱になり、身体がますます役に立たなくなっていくのをありありと感知しながらも、識心を滅したくなく、非常に苦痛を感じ、死という現象を受け入れることができません。このようであっても、凡夫は自分の識心が無常で生滅変異するものだとは思わず、なおこれらの作用が引き続き働くことを望んでいるのです。

原文:多闻圣弟子于诸缘起。善思惟观察。所谓乐触缘生乐受。乐受觉时。如实知乐受觉。彼乐触灭。乐触因缘生受。亦灭止。清凉息没。如乐受。苦触喜触。忧触舍触因缘。生舍受。舍受觉时。如实知舍受觉。彼舍触灭。彼舍触因缘生舍受。亦灭止。清凉息没。

解釈:多聞の聖弟子は一切の縁起法に対してよく思惟し観察しなければなりません。楽触の因縁が聚合するとき、楽受が生じることを観察します。楽受を感じているときは、楽の受覚を如実に了知しなければなりません。楽触が滅したとき、楽触の因縁から生じた受覚も滅し止まり、心は清涼となり息止し滅没します。楽受と同じように、苦触が生じたときは苦の覚受を如実に了知し、さらには喜触・憂触・捨触の因縁が喜の覚受・憂の覚受と捨の覚受を生じたとき、喜受・憂受と捨受を如実に了知しなければなりません。喜触・憂触と捨触の因縁が滅したとき、喜触・憂触と捨触も滅し、心は清涼で寂止します。

原文:彼如是思惟。此受触生。触乐触缚。彼彼触乐故。彼彼受乐。彼彼触乐灭。彼彼受乐亦灭止。清凉息没。

解釈:多聞の聖弟子はかくのごとく思惟すべきです。これらの受触が触の楽受と触の繋縛を引き生じるため、一つ一つの触の楽受が生じるとき、一つ一つの楽受が生じます。一つ一つの楽触がすべて滅した後には、一つ一つの受楽も滅し、心は清涼で寂止します。

多聞の聖弟子は諸縁起に対してよく思惟観察することができます。世間の一切法は因縁所生であり、因縁所生でない法は一つもなく、因と縁があれば世間法は集起し、無因無縁なら法は現起しません。縁が異なれば、生じる法も異なり、衆生の色身も異なり、生存環境も異なります。縁はどこから来るのでしょうか。身口意業から形成された種子です。多聞の聖弟子は諸縁起に対してよく思惟観察することができますが、凡夫は思惟観察が得意ではなく、五陰の上に現れる一切法はすべて正常で、当然のことだと考えています。聖弟子は縁起を観察するとき、生老病死の由来と因縁を深く究め、最初のその縁起まで探究し続けます。

楽受を例にとって因縁生法を説明すると、苦触・喜触・憂触・捨触はいずれも縁生によって生じた感受であり、苦楽憂喜捨、これらの受の生起はいずれも触がある縁故であり、苦の触・楽の触・喜の触・憂の触・捨の触があってはじめて種々の感受があり、これらの触の縁がなければ、これらの心の感受は生じません。それゆえ、苦楽憂喜捨の触はいずれも虚妄であり、感受も虚妄で、生滅変化無常なのです。すべての縁生の背後には、原因があり、奥義があるのです。 

捨受とは何でしょうか。苦とも楽とも感じず、心地よいとも苦痛とも感じず、自分を忘れたかのようで、それ以上の感受がなく、これを捨受と言います。いつ捨受が生じるのでしょうか。坐禅の中で生じる捨受が比較的多いのです。折に触れて自分を忘れたかのようになり、周囲の一切を忘れ、楽の受も生じず、苦の受も生じません。そのときが捨受です。心に定があるときには、はっきりと感じることができます。私は今まさに苦受の中にいる、私は今まさに楽受がある、私は今まさに喜受がある、私は今まさに憂愁の感受がある、私は今確かにこれらの感受を知っており、如実に覚知している、と。もし苦楽憂喜捨の触が滅すれば、苦楽憂喜捨の受も消滅して去ります。滅した後は寂静に落ち着き、止息し、心は清涼となり、寂静となります。

原文:如是。多闻圣弟子于色生厌。于受想行识生厌。厌故不乐。不乐故解脱。解脱知见。我生已尽。梵行已立。所作已作。自知不受后有。

解釈:かくのごとく、多聞の聖弟子は色陰に対して厭離心を生じ、受陰・想陰・行陰・識陰に対して厭離心を生じます。厭離する縁故に色受想行識を楽しまず、色受想行識を好まないため、心は解脱し、こうして解脱の知見が具足され、そこでこう言います。我が生命はまもなく終わり、清浄な梵行はすでに確立され、我がこの一生でなすべきことはすべてなし終え、私は自ら知る、死後には未来世の三界世間はなく、未来世の三界法はないであろうと。

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