背景 戻る

書籍
作品

仏法雑談(第二部)

作者: 更新時間:2025-07-14 02:49:10

第三章 性障と煩悩の章(2)

十三、道とは何か

問:道とは何ですか。禅師答:飯を食い、眠ること。問:私も飯を食い眠りますが、道と何が違うのですか。禅師答:お前は飯を食う時にまともに食わず、あれこれ求め、眠る時にまともに眠らず、あれこれ文句をつける。これは色・声・香・味・触を貪り求めることであり、修道ではない。

生活の中で修道するとは、祖師方のように修めるのであって、ある煩悩具足の者が言うように、生活に溶け込み、色声香味触と一体となり、貪瞋痴の煩悩に教化されて、結局は五欲の束縛から跳び出せなくなることではない。煩悩具足の者が説法すると、至る所で煩悩から離れず、自分に煩悩があるため、人に煩悩からの出離・解脱を教えることはできず、むしろ他人に自分と同じ煩悩を持つことを望む。彼には煩悩を解脱した経験がなく、煩悩から出離した経緯もないため、正しく法に従って人々を一歩一歩煩悩の深淵から離脱させるように導くことは不可能であり、また彼は煩悩を深淵とは思わず、貪り享受しているからである。

ある説法者は意図的か無意識かに世俗の煩悩を吹き込むことがある。例えば、如何に天を突き地を踏むか、如何に人より抜きん出るか、人付き合いで如何に如才なく巧みに弁じるか、自らを讃え他を貶めるか、如何に男女の欲求や瞋恚の争いを容認するかなどを吹き込み、衆生に様々な貪り取ることを誘導し、さらには弁論の話術や詭弁までも教授する。仏教の中で行われるこれらの世俗的な煩悩事は、最終的には三悪道へと導き向かわせ、無量の苦しみを受け、出る期が難しくなる。だから本当にしっかり修道したいなら、多く古い修道者である禅師や祖師方の風範に学び、彼らの日常における清心寡欲さに学び、彼らの質朴で偽りなく、名利に淡泊で、志が高く遠大で、一心に道のための道人の心に学ぶべきである。

現代人は教えられなくとも、元々煩悩が重く、加えて社会生活環境や習俗の薫染により、心は甚だしく染まって汚れ、毎日あまねく馳せ求め、六根が六塵の色・声・香・味・触・法に対し、一つの法も求めずということはなく、一つの法も取らずということはなく、五蓋の覆い障りが極めて重い。もしこの生涯で本当に突破を望むなら、早く覚るべきであり、時々刻み至る所で自心の煩悩の在り処を反観し、求めることがある度に心に念じるべきである:私は求めている、私はあまねく馳せ求めている。あまねく馳せ求めないとはどのようなものか? 古の修行者のように:山中で修道し、日に一食、少欲知足、心は常に安楽、これ以外は全て馳求の性質を持つ。

十四、重大な漏れは追求する時間の長短で判定されるのか?

ある者が言う:欲界愛を断とうとするには多くの時間を要し、しかも非常に重い造作相がある、これが重大な漏れである。一人の貪心が甚だしい者は結婚すれば解決できる、結婚には短時間しかかからず、軽微な漏れに属する。多くの時間をかけて追求するのは重大な漏れであり、短時間で追求するのは軽微な漏れである。この者の説法は事実を歪曲し、仏教の四聖諦の理と解脱の理に著しく背いている。

もし多くの時間をかけて追求することが重大な漏れだとするなら、凡夫が三大阿僧祇劫の時間をかけて成仏を追求することは、重大な漏れではないのか? もし欲界愛を断つことが重大な漏れだとするなら、無量劫にわたって欲界愛を保ち、無始劫以来ずっと六道の中で無量の貪瞋痴の煩悩業を造り、無量の生死の苦しみを受けることは重大な漏れではないのか? 貪欲心を解決する方法は結婚であって、行苦・空・無常・無我を観じて解脱を得ることではないのか? まさか結婚が欲界愛を解決する方法なのか? では瞋心を解決する方法は何であるべきか? 一瞬のうちに瞋っている人を殺せば、それで瞋心はなくなるのか?

凡夫が一瞬で人を殺すのに費やす時間は非常に短い、これは重大な漏れではないのか? 貪愛の煩悩に従うことは重大な漏れではないのか? そう言うなら、仏陀が煩悩深重な娑婆世界に来て解脱法を説くことは何の意味もなく、衆生は煩悩欲求に従えば解脱するのか? 漏れが重大か否かは、費やした時間で測るのか、それとも煩悩の軽重で測るのか? 極めて短時間貪欲にふけることは、重大な漏れではないのか? 貪欲を解決する方法は結婚か? 瞋恚を解決する方法は人を殺すことか? 誰が結婚がまさに貪欲の表れだと知らないのか? 無始劫以来、衆生が人に生まれるたびに代々結婚し、それでもずっと貪欲にふけってきたのではないか? この貪欲のために代々無量の苦しみを受ける、これは極めて明らかな事実ではないか?

どうやらこの者は本当には仏法を信受しておらず、高座に座って善知識を装い、衆生に貪欲に従い、貪瞋痴に従い、どう楽しむかは好きなようにせよ、苦集滅道を修学せず、貪欲瞋恚を断つなと教えている。なぜならそれは多くの時間を費やし、割に合わず、時を移さず楽しむのが良いからだ。是れを忍びば孰れか忍ばざらん。もし外道たちがこう言うならともかく、外道だから。しかしこれは自ら善知識や真の善知識と称し、解脱の道理を説く者である。これは明らかに衆生を皆六道に押さえつけ、自分と一緒に貪欲にふけらせようとしている。各人が造る不善業は皆、石を持ち上げて自分の足を打つようなものであり、天を仰いで唾を吐けば皆自分の顔に落ちる。古人は一字の違いで野狐の身に堕ちたが、この者の誤りは極めて大きく多い、果報は如何なるものか?

十五、修定と五蓋を除くことは漏れのある法か

ある者が言う:座禅して定を修め、五蓋を除く修行は皆、相を取って分別することであり、外道と同じ修行方法である。これは主として不了義法に属するため、真如三昧を発起できず、重大な漏れとして扱うべきであり、捨て去るべきで、修めてはならない。この見解は非常に邪で、仏教と菩薩教に著しく背き、まさに仏弟子が言うべき言葉ではない。このような知見は、この者が修道の主要内容を全く理解しておらず、究極何を如何に修めるべきかを知らず、修道の次第と過程を知らず、修道の過渡期を知らず、修行の結果と最終目標に直ちに到達できないことを示している。結果として何の道もなく、何一つ確かなものはなく、空しく高談闊論し、腹の中は空っぽである。

もし修定と五蓋を除く修行が相を取って分別することであるなら、仏法を修学することは更に相を取って分別することである。もし相を取って分別しないなら、仏法すら学ぶべきではなく、善法も修める必要はなく、四念処、三十七道品、菩薩の六度、及び戒定慧の三学を修めてはならない。学仏そのものが相を取って分別することである。そうでなければなぜ気功やキリスト教を学ばないのか? なぜキリスト教会で説法しないのか? なぜ一日中寝て過ごさずに仕事をするのか? 相を取って分別しない人などいるのか? 仏と如来蔵を除いては。しかし仏が衆生を度すことは相を取って分別することではないのか? 声聞に四聖諦を説き、辟支仏に十二因縁を説き、菩薩に六度万行を説く、これらは相を取って分別することではないのか? 初基の衆生に唯識を説かないことは相を取って分別することではないのか? 仏陀が僧団の指導権を提婆達多に渡さないことは相を取って分別することではないのか? 仏陀が王位、妻、子を捨て出家修道したことは相を取って分別することではないのか? 山で日々一麻一麦を食することは相を取って分別することではないのか? 鹿野苑で五比丘を度したことは相を取って分別することではないのか?

如来蔵を除き、衆生と仏は皆、相を取って分別することを避けられない。もし相を取って分別することが全て漏れであるなら、細菌の相を取って分別は最も軽微で、ほとんど分別できず、それほど多くの相を取れない。極度の愚痴の故に、まさか人々は細菌より漏れが多く大きいと言うのか? 種々の取捨は相を取って分別することであり、世俗界と全ての仏国土において取捨から離れられず、取捨をしない者はいない。諸仏菩薩も含まれる。ただ如何に取捨するか、何を取り何を捨てるかの問題に関わる。善く取捨し分別することは極大の智慧であり、智慧がなければ正しく取捨分別できない。

真如三昧を発起するには、一つは純粋に禅定の性質を持つ三昧、もう一つは禅定に般若智慧を加えた真如三昧であり、禅定を離れては如何なるわずかな三昧も存在しない。座禅して定を修め、五蓋を除くことは、仏が説いた修道の必修の法であり、大小乗の学人を問わず越えて修めないことはできず、定を修めなければ道を証することはできず、五蓋を除かなければ無明煩悩を断除できない。禅定を修めず五蓋を除かないことを提唱するとは、まさか仏に対立し仏陀と仏法に背こうとしているのか、それとも自分が仏より高く修道に詳しいと思っているのか? まさかずっと散乱心と浅はかな思惟推理を持ち、五蓋と一切の煩悩無明を帯びて成仏しようと望んでいるのか?

もし仏が規定した必ず修めるべき法が漏れのある法であるなら、何の法に漏れがないのか? 如来蔵には漏れがないが、お前の七識と五陰は如来蔵か? 如来蔵は五陰七識を代表できるか? 七識と五陰の漏れは如何に処理するのか? 浅はかな散乱心による情思意解で、これほど多く、これほど大きな煩悩の漏れを処理できるのか? 末法の世、世俗界と仏教界には怪人と怪事が非常に多く、全く人の想像力を超えている。それでもなお多くの人が追い求めている、何を図っているのか分からない。歳月は梭の如く、瞬く間に過ぎ去る。やはり人に依らず法に依るべきではなかろうか?

十六、薫染の力

衆生の間には互いに薫染し合う作用がある。お前がどんな人と一緒にいるかで、知らず知らずのうちに彼の習気、性格、気質、善悪の心行などに薫染される。もし一人の者が犬を飼い、いつも犬と一緒にいると、犬には犬の習性があり、人には人の習性があるが、時が経つにつれ、いつも犬の眼差し、動作、飲食、歩行坐臥の習慣を見ていると、知らず知らずのうちに犬の習性、心性に薫染され、自分では気づかない。外貌さえも非常に目立たず薫染されるかもしれない。しかし犬は更に人に薫染されやすい。なぜなら人の力は犬より強いからだ。互いに薫染し合う中で犬の受ける薫染はより多く重い。だから犬の習性は人に近づき、後世で人身に生まれ変わりやすく、人身を得れば、人の心をよく理解し、聡明で賢くなる。

犬が人に薫染されるのはもちろん良いことだが、人が犬に薫染されるとどんな結果になるのか? 類は友を呼ぶ。人はいつも犬を見ていると、外貌も密かに変化し、気づきにくい。今世は変わらないか少ししか変わらなくても、後世薫染の種子が成熟した時には変わるだろう。もしお前が犬と一緒にいることに慣れ、感情が深く、関係が非常に親密であれば、中陰身の時に、犬の境界を変現し、お前は知らず知らずのうちに犬に従って行き、犬の胎内に生まれ変わるだろう。

例えばお前がいつも吃音の人と一緒にいると、その人は言葉が滑らかでなくどもりどもり話す。お前は最初はどうでもいいと思い、お前も吃音にはならないかもしれないが、時が経つと言葉に障害が出る。時間が長ければ長いほど障害は大きくなる。これは徐々に薫染されていくからだ。薫染される面には相貌、話し方、口調、習慣、飲食習慣、歩行や坐臥の習慣が含まれる。

我々の現在の修行段階は非常に薫染されやすい。悪法は善法より薫染されやすい。なぜなら我々の心は皆煩悩が善をはるかに上回り、煩悩には慣れていて善には慣れておらず、善法には抵抗する感情があり、悪法にはかえって受け入れやすいからだ。例えば人々の中で人の是非を言う場面に出会うと興味を持ちやすく、また是非の争いに加わる。他人の善い点を讃える場面に出会うと、従いたくなく、往々にして口を閉ざして言わない。自分と関係が良く自分に利用できる人は別として、落井下石(井戸に落ちた者に石を落とす)者は常におり、雪中送炭(雪の中に炭を送る)者は稀である。だから修行して自分を変えたいなら、善人に近づくことを選び、煩悩の重い人から遠ざかり、是非の人や是非の地は皆遠ざけるべきだ。そうすれば心は次第に善に近づき、悪から遠ざかり、煩悩は降伏されやすく、煩悩業を造りにくく、悪業の種子を残さず、後世は楽になり、煩悩の障害がない。

十七、如来蔵法門を修学する意義は何か

一切の仏法の修学は、我空と法空を証得し、七識の我見・法見と我執法執を滅除し、七識の無明煩悩惑を消除するためである。各人の心には必ずこの目標指向を明確にしなければならない。そうして初めて仏法を修学し如来蔵法を修学する意義があり、そうでなければ一つの学問となり、修行と学問は二つに分断され、学問は学問、修行は修行となり、両者は無関係となる。我々はこの点をはっきりと認識すべきである。学問は無明煩悩を断除できず、かえって煩悩と束縛を増やし、無明生死の惑業さえ増やす。

なぜ学問と修行が二つに分断される現象が現れるのか? 根本的な問題は禅定と如実の観行が欠け、身心世界との照合と連携が不足していることにある。その一つの誤った見解は、菩薩が煩悩を断たないことが問題の直接の根源だというものである。修行の目的が明確でないため、学問は積み上がっても実義がない。如来蔵法を修学するのは煩悩を断除するためである。方向と方法さえ正しければ、煩悩は少しずつ消融し、断ちたくなくても知らず知らず断たれる。方向と方法を間違えると、知識学問は増え続けても煩悩は減らず、むしろ学問の増長に伴い煩悩も増長する可能性さえある。このような学法は本当に誤解であり、転倒している。

衆生は歴劫無明煩悩の中にいるため、六道の生死輪廻という種々の苦難が絶えず続く。菩薩は衆生の一員であり、同様に無明煩悩の故に生死輪廻し、同様に修行して無明煩悩を断除し、生死の結縛を断ち離苦得楽する必要がある。自ら無明煩悩を断除して初めて、菩薩として大衆を導き無明煩悩を断除させ、離苦得楽させ解脱へ向かわせる資格がある。もし一つの菩薩が煩悩の深淵の中にいるなら、どうして衆生を煩悩の深淵から導き出す能力と資格があり得ようか?

だから菩薩は煩悩を断たず断つ必要もないという見解は極めて人を害する。煩悩を断たないなら、なぜ学仏修行するのか? 衆生を度して衆生に煩悩を断たせないなら、衆生をどんな状態に度すのか? まさか衆生が一人一人学問知識の収集者となり、理論の専門家となることが最終の帰結なのか? 知識理論学問が生死に耐えられるのか? 福徳として飯が食えるのか? 煩悩があれば徳はなく、福徳も功徳もない。福徳も功徳もない衆生は、生死の業障凡夫である。それでもなお何を修行し衆生を度すと言うのか?

あの如来蔵法を学ぶ者たちは、如来蔵を分析意解して明瞭にしているが、自らには少しの益もなく、煩悩は相変わらずで、智慧は依然として浅く、結縛は依然として自心を縛っている。このように修学しても最後まで徒労に終わる。如来蔵が如何に清浄であろうと、如何に無我であろうと、如何に一切の戒定慧を具足していようと、五陰七識が清浄でなく、無我でなく、戒定慧がなければ、依然として福も慧もなく、苦悩は辺りなく、解脱の望みはない。如来蔵は依然として五陰七識を三悪道に変生させて苦しませ、六道の苦海で頭を出しては沈む。

だから修学は必ず理の如く法の如く律の如く、正しい目標と航路から逸れてはならない。仏陀の戒律で厳しく自らを律し、仏の説いた戒定慧の三無漏学の基準に厳格に従って修学すべきである。目標は心に漏れがないこと。無漏とは無無明無煩悩であること。これが正しい修行の道である。菩薩は煩悩を断たないなどと言ってはならない。これは邪見であり、修行に背く。

十八、なぜ多くの人はとても楽しく過ごし苦を感じないのか?

衆生は無始劫苦海に漂い、すでに慣れっこになり、本当の楽しみを味わったことがなく、対比がないため自覚も覚りもない。衆生は愚痴であればあるほど苦を知らず、自分の愚痴も知らず、往々にして苦を楽しみとする。苦を知ることは修道者の覚りであり、修道者の覚りの極めて大多数は仏陀が教え導いたものである。苦を知れば、滅を慕い修道し、遅かれ早かれ苦集を断じ尽くし、生死を了脱し解脱を得る。愚痴は一切の煩悩の中で最も重く、愚痴人は最も度化しにくい。一切の教理は入らず、一切の言葉は理解せず、一切の勧めは無駄で、一切の方便方法手段は休廃する。あたかも一塊の頑石のようで、塩も醤油も染み込まない。愚痴の故に他の煩悩も少なく、妄想も少なく、念も少なく、更に出離を知らない。人の中でこういう者がもし定を修めるなら、おそらく速やかに欲界定に入り、雑念がなくなるかもしれないが、それより深い禅定は得られない。なぜなら愚痴の煩悩が重く、上界に相応しないからだ。

十九、如何にして自心の心念を覚悟するか

もし自分を知りたい、自分の心念が結局善なのか悪なのか、染汚なのか清浄なのかを知りたいなら、如何にすべきか? なぜ多くの人は持続的に自らの染汚心行、煩悩心行に随順し、染汚業行を造り続けるのか? それは覚悟性がなく、覚察力がなく、自分の各心行心念の結果が何か、どんな果報があるかを知らず考えず、ただ感情を発散させ、心が気持ち良く感じれば満足し、将来非常に不快で極めて不快かもしれないことは構っていられないからだ。これが衆生の愚痴無明と近視眼的な考えである。

如何にして自らの心行心念を覚悟するか? まず因果を信受し、次に因果を明らかにし、一切の身口意行には因果があり、因縁が成熟すれば必ず善悪の果報を受けることを知る。自らが人に事に対して行う一切は最終的に自らが受けることになる。善を行えば善報を受け、悪を行えば悪報を受ける。これは逃れられない因果の法則である。そうすれば意図的に自らの身口意行に注意を向けるようになる。しかし定力と慧力が不足しているため、往々にして習慣的に不善の身口意行を造り、自覚しない。

 これには定を修めて定力を補い、反観力を高め、心を細やかにし、観察力を鋭くし、いつでも自らの心念を捉え、内心の最深部の心遣いや考え、あるいは煩悩の念を観察できるようにしなければならない。そうすれば深く透徹して自分を知ることができる。不善の心念を速やかに改められず、自らの煩悩を降伏できなくても、ただ知るだけで、日久しく長くすれば必ず徐々に密かに自分を変え、自らも自分の変化に驚くだろう。

定慧斉修、定慧等持の四念処観行を通じて、自らの定力と慧力を増し、自らの覚性を高めることができる。次に日常の人事の中で自らの心念を反観し、自ら内心深くの本当の考えを反観し、それから自問する:こうすることは人や自分に何の益があるか? どんな結果があるか? この結果は自分にとって解脱なのか束縛なのか? このような結果を将来受けることを望むか、受けることができるか?

 自心を観察することと四念処を観行することは同じ道理である。四念処は定に始まり、慧に終わり、目標は慧である。慧が生起して初めて我見を断ち果を証し解脱する。自らの心念を観察することも同様である。観察の結果は何か? 結果は自分を知り結果を知る智慧が生起することである。この智慧があれば必ず煩悩を降伏させ断除でき、将来善業の楽果報を享受する。心を起こし念を動かすことが一つの人の禍福を決定する。心念が悪不善なら禍を招き福を損ない、心念が善なら福を生み災禍を免れる。多くの人は種々の順境逆境に出会っても、結局なぜなのか分からず、心の粗い人はそもそもなぜか考えず、逆縁逆境は自然に生じたものであり、自らの業行が招き寄せたものだと知らない。自らの悪が不善業を導き、福は長く存せず、禍は免れ離れず、人生の苦海で波が立ち揺れ動き、境に逐われて浮き沈みする。

もし自心を観察しなければ慧は生起しない。なぜなら意識が心念を動かして観ずると、法を現量で意根に呈示し、意根に如実に直面させる。直面した後、意根は法に留意し専注し、思量が生じ、理に如く思量した後にある結果が生じる。もし意識が観察しなければ、心は散乱し、意根は観ずる法に住せず、法を知らず、法を証しない。意識に禅定がなく散乱して観察しても、意根は依然として散乱攀縁し、観ずる法に集まらず、法を如実に観察思量できず、法を知らず証しない。だから過去の禅師方や仏在世時の弟子たちは、皆意根の法を理解していなかったが、それでも明心証果できたのは、彼らには皆甚深な禅定があったからである。

もし自心を観察しなければ、六七識はこの法に作意せず、後の触受想思の心所法の運行もなく、定心所と慧心所の出現もなく、もちろん何も知らない。自心を観察しなければ、念に随って流転し、我は即ち念、念は即ち我となり、その中に陥って抜け出せない。知るという一字は重要である。心念は賊の如し。家の中に賊が来れば、知り覚め、それを見守るべきだ。賊は見つかったと知り、物を盗みにくくなり、悄然と去る。

だから境界が来れば知り、心念が現れれば知る。境界に従って走らず、心念を流転させず、正知を保つ。以前知らなければ、愚痴で犬が塊を追うように、人が石を投げれば追いかけ、音がすれば狂ったように吠え、風が草を動かしただけだと知らない。人と愚かな犬は違いがない。一日中境界を真実とし、心を起こし念を動かし、人我・是非、我高し汝低し、一口の食を争い、頭を割れ血を流して争う。衆生は哀れであり悲しい。自分を変えるためには、自心を観察する工夫を多くすべきである。

二十、分段生死は如何にして断除されるか?

一切の生死は無明による。無明があれば必ず相応する無明業と業種があり、無明業種は必ず衆生に分段生死と変易生死をもたらす。もし分段生死を了したいなら、無明を破り、心が清浄になった後、煩悩及び煩悩習気を断除し、無明業種を消除しなければならない。そうすれば分段生死は消除され、変易生死の段階に入る。

業種が転変する前提は何か? 心が転変して初めて、身口意行が転変し、業種が転変する。心が転変する前提は何か? 無明を破り、煩悩を断除して初めて、心は転変する。無明を破る前提は何か? 三十七道品の修行、菩薩の六度の修行、戒定慧の修行がある程度に達して初めて無明を破り、煩悩を断除できる。その後心が転変し、身口意行が清浄になり、業種が転変する。人我執を断除断尽し、法我執を断除し、阿頼耶識が初めて異熟識に転じ、分段生死が変易生死に転ずる。

修行がどの程度に達すれば、どの程度の無明を破り、どの程度の煩悩を断除し、心はその程度に清浄になり、身口意行はその程度に転変し、業種はその程度に転変し、果報もそれに従ってその程度に転変する。だから修行は皆過程があり、各過程は必要不可欠である。時間は長くも短くもなり得るが、過程は必ず必要であり、過程がなければ果は論じられない。だから具縛凡夫が一切の煩悩を帯びて菩提を証するなどと妄想せず、菩提を証した後煩悩を断たずに菩提道を歩み続けられるなどと妄想してはならない。煩悩は道ではない。

目次

ページトップへ戻る