衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月10日 閲覧数: 1198

第九章 仏法と外道の法について

一、外道たちが初めて仏の説法を聞いて即座に聖果、さらには四果を証得した理由

外道たちは既に四禅八定を修得し、様々な程度の思惑煩悩を降伏・断除しており、四聖諦の理に対する観行の智慧のみが欠けていた。つまり、見道の条件は整っており、俗に言う「万事整い、あとは東風を待つばかり」の状態であった。この東風とは見道の因縁を指し、一旦その因縁が現れるやいなや、即座に見道することができる。その見道の因縁こそが、仏陀が四聖諦の理を説くことであった。初果の条件を具足すれば初果を証得し、二果の条件を具足すれば二果を証得し、三果の条件を具足すれば三果を証得し、四果の条件を具足すれば四果を証得する。したがって、仏の説法を聞く者それぞれが証得する果位は異なり、その差は見道の条件の違いによるものである。

見道は、七つ目の饅頭を食べることに例えられる。外道たちは既に六つの饅頭を食べ終えており、七分から八分の満腹状態で、完全には満たされていなかった。仏陀が四聖諦の理を解説するのを聞き、七つ目の饅頭を食べたことで、一気に満腹となったのである。最初の六つの饅頭は基礎であり、胃の下地を作るものである。それに加えて一つの饅頭が胃を満たしたのである。他人の最終結果だけを見るのではなく、その修道の苦労の過程と注いだ汗の量を見るべきである。もし彼らが多大な代償を払わず、精勤して四禅八定を修得していなければ、六つの饅頭という基礎がなく、更に六つの饅頭を与えられたとしても、おそらく満腹して見道することはできなかったであろう。仏と弟子が一問一答する間に、弟子たちが瞬時に見道した、わずか数分の出来事で、非常に容易く、それほどの苦労や面倒はなかった、と言う者もいる。しかし、この数分間の見道の功徳は、仏の弟子たちの無数の善根と福徳が集積した結果であることを知るべきである。彼らはそれぞれどれほどの時間をかけてあの六つの饅頭を食べたのか、どれほど苦労したのか、前世と今世でどれほどの代償を払ったのか?

多くの人々は、アスリートが競技場で一試合で金メダル、国際的な金メダルや国家の金メダルを獲得するのを羨ましく思い、彼らがなんと幸運なのだろうと感じる。彼らが積年累月の努力、流した汗と涙の量、犠牲にした休息時間、払った体力の代償、さらには生命と健康の代償、どれほどの苦難を受けてきたか、それを全く見ようとしない。そうして初めて競技場で一挙に金メダルを勝ち取るのである。世間でも出世間でも、そんなに容易いことがあろうか。聖果を証得することが白菜を食べるように簡単だというのか?無量劫の生死流転、山のように積み重なり絡みついた悪業が、数分、数時間でどれほどの無量劫の生死の業障を破り、三悪道の業を滅除できるというのか?どうしてそんなことがありえようか?夢にもそんな良い事は見られない。そうでなければ、どうして無辺無際の生死の衆生が存在し、無辺無際の仏が存在しないのか?

二、仏法と世俗法の区別

仏法は衆生を解脱に導く法であり、衆生を生死から解脱させることができる。世俗法は、仏道以外の様々な法、儒家や道家の法を含む。これらの法は衆生を解脱へと導くことができず、衆生を生死から解脱させることができない。仏法のみが世間の幻化空を説き、実相の空を説く。空を証得して初めて解脱できるのである。仏道以外の法は、多くが「有」を説く。たとえ「空」を説くものがあっても、それは一部分の空、浅い次元の空に過ぎない。世間の空さえも究竟しておらず、ましてや出世間の実相空はない。空であれば解脱でき、「有」は即ち束縛である。仏法とは、解脱の無所求の空の法である。外道の法とは、束縛の有の法、有所求の法である。

仏法は仏法であり、外道法は外道法である。思想や観念が異なる。もし同じであれば、外道法は外道法ではなく、仏法とも呼ばれるであろう。老子も悟りを開いた聖人であると言う者もいるが、もし老子が悟りを開いていたならば、彼の伝えた法もまた衆生を解脱させることができたはずである。そうであれば、仏はわざわざ人間界に来る必要はなく、それは余計なことだったであろう。外道法と仏法の共通点は、禅定と世間の善である。思想や観念、そして境地は異なる。仏法は世間が虚妄で実体がないこと、即ち「空」を説く。外道法は「有」を説き、「有」を基礎として禅定と善法を行う。したがって、禅定がどれほど優れていようと、心がどれほど善良であろうと、空を証得することはできず、五蘊からの解脱は不可能である。

ある世間法には「本源」といった名詞が存在するが、それらはすべて浅い意味の部分に属し、世俗的な性質の本源や起源である。源流は依然として「有」であり、「空」ではない。万法の実質的・根本的な生死の源流には関わらない。世間法は真に覚った法ではない。そうでなければ、世間法は仏法と呼ばれるであろう。

三、善法は解脱の法ではない

問:雷峰(※注:中国の英雄的兵士、比喩として用いられている)は我見を断ったのか?彼の心にはまだ「我」があるのか?己を捨てて人のために勇敢に就義した者は我見を断ったのか?心にはまだ「我」があるのか?

答:仏法とは、仏に学び修行して仏となる法である。世俗法の善法、人間界の善法は仏法ではない。外道にも善法は存在するが、解脱の理を明らかにしていない限り、善法もまた衆生を解脱させることができず、人天の福報を得るに過ぎない。福報が尽きれば依然として三悪道の生死流転は免れない。生死流転を避けようとするならば、善法の生死による束縛を観行し、善法を空と観じ、心で善法に執着しないことによって、初めて解脱を得ることができる。

さらに、解脱を得る主体は意根(マナス)である。意根の五陰身に対する一切の我見、不如実見、不如理見を全て滅除し、五陰の中のいずれの法をも「我」であり「実」であると見做さなくなって、初めて解脱の望みを持つことができる。我見を抱いたまま善法を行うことは、依然として生死の束縛である。知るべきである、真に解脱したその真心自性は永遠に善心がなく、善法を行わず、悪心がなく、悪法を行わず、世俗心がなく、世俗法を行わない。それ故に、これら一切の法に束縛されない、それが解脱の心である。善法やいかなる法に偏って執着しても、解脱は得られない。

四、仏法と外道法の「有無論」の区別

外道の「無論」は、目で色法を見ながら「無」と言う。既然「無」であるならば、なぜ言説があるのか?外道の「有論」は、明らかに一切の色法は無常空であるのに、それを真実不壊であると言う。仏の説く法は、「有」でもなく「無」でもなく、「有」でもあり「無」でもあり、「非有非無」でもあり、「非非有非非無」でもある。そのうちの一つを取り上げて、その他を論じないのは、外道見である。仏法は永遠に円通であり、左に説き右に説いても、すべて道理が通る。しかし外道論は常に自説を完結させることができず、自己矛盾に陥る。

ページトップへ戻る