衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年08月11日 閲覧数: 2173
<h2 style="text-indent: 2em;">第九章 修行篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、どのように修行すれば利益があるのか</h3>

修行はトウモロコシ畑でトウモロコシをもぐことのようなものである。あなたの目的はトウモロコシをもいで持ち帰り、煮て食べ、腹を満たすことであって、トウモロコシ畑へ見物しに行くことではない。だからトウモロコシをもぐことこそが第一の務めである。もちろん、もぎ始める前に、畑の様子をざっと見渡して観察し、どれが熟していてもぐべきか、どれが未熟でもぐべきでないかを見極め、どこから手をつけるかを選ぶことはできる。しかし中にはそうしない者がいて、一日中トウモロコシ畑をうろうろし、腹を空かせたままあちこち触っては眺めてばかりで、いっこうにもぎ始めようとしない。これは愚者というものである。

学仏の人も同じである。ある程度仏法をざっと読み聞きして薫聞した後には、真の修行と実践に着手し、最も近い最も手をつけやすいところを選んで、着実に功を積み道を修めるべきである。少しでも得られるものは得、証せるだけ証す。長年月、一生を通じて常に多聞薫習の段階に留まり、飽くことなく他人の法を学び続けて他人の金を数えるだけではだめで、自分の財宝を持ってこそ王道であり、さもなければ餓死して餓鬼となる。

自分の道行を持ち、餓死鬼にならないためには、基礎から着実に功を積むことである。三十七道品を少しでも修め、悪を去り善を修め、煩悩を少しでも降伏し、心地を少しでも清浄 (viśuddha/pariśuddha) にする。たとえ見道できなくても、これら修めたものは未来世に持ち越して受用できる。修めることは修めないよりはるかに有益であり、他人の宝を数えるよりはるかに勝る。嬉々として他人の金を数え、それに耽溺していると、いざ使うときになって一銭も自分のものではないと気づくが、そのときはもう悔いても遅い。聡明で智慧のある人は、どのように法を学び修行すべきか、心の中でよく分かっているはずである。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、末法の学人と古の修行人の違い</h3>

末世に近づくほど、衆生の福は薄くなり、善根は浅くなる。そのため仏法の修証においては、次第に理を説く者は多く、理を通じる者は少なく、道を明らかにする者は多く、道を行じる者は少なく、まして修行によって真に証果できる者は、希有な存在である。列子は言う:「大道以多歧亡羊、学者以多方丧生。」法を学ぶことがあまりに雑多になると、深く入ることができず、頭緒と章法が見えなくなる。修行では往々にして、知れば知るほど証すものは少なくなる。禅定がないと実証できず、広く聞き多く学ぶことは禅定なしでも多くの仏法を知解できるが、実証は論外である。現代人は禅定を修められない。そこでさらに多くの正しい理を衆生に説かなければ、多くの人があちこちで広聞多学し、如理でない理論を学ぶことになる。実証を導く理が正しくなければ、なおさら実証は不可能になる。

私たちが最も手本とすべきは古代の修行者たちである。彼らがどのように道を修めたのか、どのように功を積んだのか、大量の理論を学んでから弁舌滔々とあちこちで論議したり、弁舌滔々と到る所で説教して人師を気取ったりしていたのかを探究すべきである。自ら修証がないのに、どうして他人に修証を教えられるのか。なぜあえて人師になろうとするのか。その中に自我を顕彰するあの心があるのではないか。古の聖賢たちを見ると、たとえ道を得ても、なお謙虚で低姿勢に自修を続け、容易に山頭を占めたり、師から受け継いだ伝法の棒を受け取ったりしない。無我であるがゆえに、また自知之明があるからである。多くの賢聖が法を弘めていれば、衆生は十分に度されるのであり、自分の道が堅固でないのに、なぜあえて先頭に立とうとするのか。現代人はまさに正反対で、道かどうかなど構わず、先頭に立てればそれでよいのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、古今の学仏人の差異</h3>

古の人は根器 (indriya) が総じて良く、心性が純粋で実務的であり、修行のために代償を払うことを厭わず、真に修め真に行い個人的私利を計らず、割り切って手放すことができ、煩悩は軽微で、貪欲は少なく、出離心が強かった。現代人は浮ついて踏実性がなく、眼は高く手は低く、空腹で心だけ高く、口は頭より達者で、すべて意識によって広聞多解し、定中に深く参究できず、意識の表面に浮かぶだけで奥深くに入れない。意根の参究と意識の解釈とはほとんど天と地ほどの差があり、解釈が多いので慢心が盛んに燃え上がり、煩悩が消えず、最も重い修道の障害となっている。

古の人は仏法の基礎が堅固で、細部にわたってよく修めていた。今日の現代人は基礎仏法を顧みず、四聖諦はあってもなくてもよいものと考え、高きを好んで遠きを騖し、大を貪って小を捨てる。基礎の修行がないため、煩悩を降伏できず、心行を転変できず、身口意行の貪瞋痴の煩悩が非常に重く、業障がますます重くなって軽くなることはなく、学仏に進歩がない。現代人はみな外道を見下すが、仏法の知見以外のあらゆる面で外道の半分にも及ばない。外道には出離心があり、心地は淳朴で純粋、禅定は甚深で、煩悩は極めて軽微、自らを厳しく律し、道徳品性などあらゆる面で現代の学仏人に優れている。

外道たちはただ真の解脱法に出会っていないだけであり、ひとたび出会えば、すぐに初果から四果まで証す可能性がある。現代人は一生仏法に接しながら、初果の影すら見られない(偽の証果は別として)。どうして外道と比べられようか。外道はただ智慧が足りず、相応の法に出会わなかっただけで、証果解脱まであと一歩のところである。多くの外道は仏法に出会い、佛陀の法音を聞くや否や、鬚髪が落ち、袈裟が身にまとい、煩悩を断じ尽くした。過去の時代、あれほど苦しい生活条件の中で、外道たちは意に介さず、深山老林の中で座禅を組み入定し、佛陀の説法に出会えば、数万人あるいはそれ以上の人々が佛陀に従って出家修道し、証果した者も極めて多かった。

ところが私たちは長年月にわたって仏法に接しながら、数十年たっても八正道すら修め出せず、最も基本的な欲界定さえなく、心は貪瞋痴の煩悩だらけで、人我是非が日々絶えず、少しの苦も食べようとせず、少しの享受も捨てようとせず、財色名食睡を何もかも執取 (upādāna) し、口の上の理論は天に昇るほどだが、身体の行いは悪道に近い。もしいわゆる大乗の学仏人がみなこの様子なら、それは大乗法を辱め、大乗法を滅ぼすことであり、この事に覚醒できる人はほとんどいない。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、学仏修行はそれほど容易ではない</h3>

学仏修行は相当に容易ではない。無始劫以来の無明煩悩業障が相当に深重で、我執法執が相当に深刻であり、それらを解除し破除するのは相当に容易ではなく、大力大勇大智でなければ為しえず、十方諸仏菩薩の歴劫の加持がなければ為しえず、護法神の長久の護持がなければ為しえない。もし誰かが修行は非常に容易で、ある面で少しばかりやって、少し摂り入れれば成仏でき、如来家に入れる、あるいは開悟できると言い、その他は何も修める必要がなく、深く体系的に何かを修める必要もなく、一歩一歩足跡を残して着実に基礎を築く必要もなく、持戒も、修定も、代償を払うことも、苦労も不要で、生活も学仏も楽しくやるだけで成弁できると言うなら、その人は何らの成就もしていないことを知るべきである。その人は必ず何の代償も払ったことがなく、世間五欲の束縛から脱しようとせず、貪愛執着がなお深刻だからである。

持戒がだめ、禅定がだめ、基礎の修行もだめで、真に何かを修習したことがなければ、真に何かを得たこともないはずである。だからこそ、修行一生で成仏できる、即身成仏、即生成仏、一句の仏号で往生すれば成仏できる、戒定慧の中で戒も定も不要で般若 (prajñā) の慧だけでよい、慧があれば直接成仏できる、といった説が出てくるのである。これらの説に対しては、私たちはすべて警戒しなければならず、騙されてはならない。あの道を歩いたことのない人は、往々にしてあの道は歩きやすいと言う。本当に道の上を歩いている人は、道の上の風景を如実に了解し、人に如実語を語るものである。

仏法を非常に簡単に、修行を非常に容易に説く人には、私たちは皆警戒しなければならない。経験したことのない人は、想像で何もかも容易だと思う。たとえば夜、頭上の月を見て、自分にとても近いと感じ、自分がどこへ行っても月がついてくる仿佛として手を伸ばせば届きそうに感じる。しかし雲梯に乗り飛行機で月に向かって飛び立つとき、どれほど遠くまで飛んでも月はやはりあれほど遠く、常にあれほど遠いことが分かる。感じでは近いが、感覚はあくまで感覚で、朦朧としており、実際と感覚とはあまりにかけ離れている。

学仏修行も同じである。感覚では容易に成仏でき、証悟できるように思えるが、実際に道につき歩き出した途端、無明業障に牽纏され、どの一歩もそれほど歩きやすくはなく、世俗の中の荷物を絶えず捨て去り、世俗の中のいくつかの享受を捨て、相応の代償を払ってこそ、いくらかの成就と引き換えにできる。捨てなければ得ることは不可能である。本当に良いものは、安く手に入るものはない。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、修道人の習慣は世俗の習気に反するものである</h3>

こういう言葉がある。道の珍しきところは俗の弊ずるところ、俗の貴ぶところは道の避けるところ、と。修道はまさに世俗に反する行為であり、世俗に反してこそ、世俗の禁錮を突破して解脱を得ることができる。一方的に順従するなら、それは修道ではなく世俗と異ならず、脱俗出世することはできない。

修道人は歴劫の久修により、世俗人の習気とは異なる特有の習慣を養う。たとえば節倹、勤勉精進、身体を重んじ貪執しないこと、貪食貪飲貪睡貪享受しないことなど、大多数の行為は世俗人と正反対かもしれない。多くの世俗人は奇妙に感じ、見慣れず、自分が正しく修道人が非だと考え、そこで矯正しようとする。

修道人の生活に慣れていれば、修道人の習性を不思議とは思わず、逆に世間人の世俗的な貪婪の習気を不思議に思うようになる。世俗に反することこそ正常であり、世俗に合うことこそ不正常なのである。今から見て、果たして誰が正常で誰が不正常なのか。何が正常なのか。

世俗の生活に慣れている人は、どんなことでも自覚するしないにかかわらず世俗法に随順してしまう。実はまだ反観力 (pratyavekṣā-bala) を持つまでに修まっていないのである。世俗人が貪れば自分もそれに従って貪り、それが貪だと知らない。世俗人が執すれば自分も執し、それが執だと知らない。世俗人が享受を好めば自分も享受を好み、それを正常だと思うなら、それこそ不正常である。世俗法に慣れすぎて、少しも違背する考えがなく、すべて自然だと感じるなら、この人は修行からまだ遠く遠く離れている。修行人と接して、修行人が世俗の規範に合わず人情味がないと感じ、さらには修行人に自分の世俗の習気に随順することを求め続けるなら、この人は修道からまだ遠く遠く離れている。人が修行の上で少しでも道につくと、世俗法があまり正しくないと感じ、違和感を覚えるようになる。このときになってようやく少し覚悟し始めたのである。

衣帯は次第に解け人は憔悴す、これは古の時代に修道参禅の行者を形容した言葉である。真に功を積み修行すれば、身体には必ず影響が及ぶ。食を減らし飲みを減らし休息を減らし、徹夜で眠らないことさえあり、精進して道を弁じる。こうしてこそ参禅の功夫が連続し、進展が速くなり、いつの日か明心開悟できるのである。今の人はみな自分の身体を愛惜し、身体に苦しませることを惜しむ。それなら心に苦しむしかない。しかも生生世世苦しみ続け、苦は言葉に尽くせない。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、根器の異なる人の修行の進程は異なる</h3>

甲:末法の時代には、成果のある人はみな願に乗じて再び来た者である。成果のない人は、修行の基礎をしっかり固め、良好で正しい修行の習慣を確立し、長期的に計るしかない。

乙:再び来た菩薩であっても、数年の精進修行の時間があってこそ、再び成果を出すことができる。再び来た菩薩でないなら、必要な時間はさらに長く、十年二十年三十年で、短い時間で成就を出すことはできない。人は自分自身としか比べられず、自分の現在と過去を比べて比較的大きな進歩があれば、修行には効果があるということである。一口で太れるわけではなく、中間の過渡段階では、見道のためのさまざまな因縁条件を円満させる必要があり、これは非常に容易ではない。もちろん意識の見道は非常に簡単容易で、中間の過程を必要とせず、見道の条件を円満させる必要もなく、頭の回転が良ければそれで済む。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、仮相を借りて修行してこそ成就がある</h3>

ある人はこう言う。世間の一切の法はみな幻化の仮相であり、みな無生なのだから、私たちはもう努力して何かをする必要はなく、何をしても意味がない、と。こう言うのは正しいか。もちろん正しくない。仮相の上で努力して修行することこそ、まさに世間法がみな無生であることを証するためであり、証してこそ世間法の束縛から脱し、解脱を得られる。仮相を借りて修行してこそ成就でき、成就する前には非常に努力して仮相の上で修行する必要がある。学仏の道で行うすべての善行は、道を証するため、無生を証するため、無相と実相を証するためのものであり、証してこそ初めて無生を真に知り、解脱して成仏できるのである。

有為は無為のためのものである。だから無為の能力を得る前には、意味のある有為でやるべきものはすべて努力してやるべきである。何をやっても自分のためにやるのであり、すべて自分が利益を得るのであり、自分が無為の果実を収穫するのである。表面上は自分が他人を利益したように見え、他人が自分の助けを得、自分が三宝を護持し、三宝と衆生を利益したように見えるが、実際にはやはり自分が最大の利益を得たのである。もし三宝が利益を得ず、衆生が利益を得なければ、自分の行ったすべてには利益がなく、すべて無駄な努力である。いわゆる利益は、三宝と衆生を利益したという基礎の上に初めて生じるものであり、他人が利益を得なければ、自分は福と功徳と智慧を得ることはない。

たとえば、衆生に布施 (dāna) すれば千倍以上の報いを得るが、相手が受け取らなければ一倍の報いもなく、相手が受益しなければ何の報いもない。虚空に一万元を布施するようなもので、虚空は受け取らず益もなく、自分が一万元を失ったのと同じである。金を失って何の報いがあるか、自分は一銭の報いもない。まして千倍万倍などなおさらである。大海に一万元を布施するようなもので、大海は受け取らず益もなく、一万元を毀壊するだけであり、自分はむしろ一万元をむざむざ無駄にしたことになる。故意に印刷された紙幣を毀壊すれば罪もある。大火に一万元を布施するようなもので、大火は焼き尽くし、布施は益がないばかりか罪となる。

ある人々は自分の布施を念念不忘し、自分が人に恩があると思いがちだが、実際にはまさに相手が自分に恩があるのである。他人が自分の恵施を受け入れてくれなければ、自分は何を頼りに千倍万倍の報いを得るのか。何を頼りに少しずつそれほど多くの見道の福德資糧を積み上げるのか。佛陀は衆生に多くの福德を積ませるため、涅槃に臨んで、いく人かの阿羅漢の弟子に特に留形住世し、衆生の供養を受け、衆生に大福德を培植する機会を提供するよう命じた。あの阿羅漢たちは実は人の供養を受けたがらず、一つには面倒を嫌い、二つには自分の福德を消耗するからである。しかし自分は佛陀の弟子として、一つには佛陀の安排を尊重し、二つには衆生を利益しなければならない。だからこそ彼らは無余涅槃 (Anupadhiśeṣa-nirvāṇa) に入らず住世したのである。

ある人は法布施を行い、帖子を発して縁ある人を正規の修学に引き入れ、それを師のために働くかのように思い、他の人が利益を得て、自分は時間と精力を費やし、損をしたように感じる。自分の法布施の結果が何であるか、どれほど殊勝であるか、最終的にどれほど大きな利益を得るかは、数えきれず、算しきれないかもしれない。自分の行ったこれらの功徳と福德によって、自分は今世後世の修学の過程において、速やかに仏道を成就し、無量劫の生死輪回の苦を免れることができる。この果報は虚空のように多い財宝をもってしても換えられず、得た果報は語り尽くせない。そして自分の法布施の利益を得た人は、自分の福德功徳と智慧にはるかに及ばない。三宝と衆生が自分の布施から得る利益が大きいほど、自分の福德功徳は大きくなり、将来の智慧は最高になる。目先のことにとらわれない限り、如実に観察し、自分の未来と最大の利益を考えるべきである。

菩薩の福德は阿羅漢の万倍億倍無量倍より大きい。菩薩は生生世世衆生と共にあり、挙手投足の間に衆生を利益でき、同時に千万倍億倍無量倍の福德と功徳を得るからである。だから菩薩は大富長者であり、その富貴は世間のすべての人の及ぶところではない。福德と智慧が円満具足したとき、八相成道して天人師仏世尊となるのである。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、現代と古代の学仏人の違い</h3>

現代人の特徴は、置かれた環境が複雑で、六塵の境界があまりに人を惹きつけ、法を学ぶのが容易で、知識が豊富で、意識が非常に聡明、極めて聡明であるが、禅定は修めにくく、修道も得道もできない。だから学仏人としか呼べず、修道人はほとんどいない。古代人は置かれた環境が単一で、法を得るのが容易でなく、知識が少なく、理論が少なく、心地が純粋で、禅定が修めやすかった。だから修道人が多く、得道した人も多かった。豊富な知識は、最終的に修道の遮障となり、所知障と化した。理論は充足したが道は現れず、理論の下に死に、海に臨みながら渇れ死ぬのに似ている。

古人が問う。あなたがた現代人はどうやって死んだのか。現代人が答える。理論に圧し殺された、知識に毒殺された、聡明すぎて死んだ、と。もう一つの死は、研究し尽くして死んだというものである。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、基礎を固めてこそ実証できる</h3>

人は誰でも、法を学ぶにあたって修行に必要な理論知識をある程度習得した後は、それ以上理論に時間と精力を費やすべきではない。理論はどれだけ学んでも、最終的にはやはり理論であり、自分の最も真実の智慧に変わり、生死に対抗して解脱を得ることはできないからである。仏法を実証してこそ大智慧が生じ、解脱を得られる。そして実証するには、基礎の四聖諦の法から少しずつ起修し、少しずつ実証しなければならず、跳躍式の修行はできない。

私たちは今こそ基礎から取り組むべきである。基礎は非常に重要であり、必ず基礎を固めなければならない。基礎が固まらなければ、どんなに深い法を学んでも究竟できず、一種の知見が形成されるだけで、せいぜい理解の程度に達するのみで、実際に証することはできない。学んだ理論を証できなければ、真実の智慧は生じない。自ら証悟した智慧だけが、私たちを生死の泥沼から導き出せるのである。

だから私たちは今、四念処観から起修し、まず小乗の解脱を証し、それからこの方法で大乗の参禅に潜心すれば、如来蔵 (tathāgatagarbha) を証悟できる。その後、如来蔵の功能作用を観察し、さらに別相智を得て、智慧がさらに増長し、牢関を過ぎてから唯識を参究し、如来蔵の種子の功能作用を薫習し、一分の唯識種智・道種智を具すれば、その智慧は相当に大したものである。しかしこれほど大きな智慧は、一生や数生で得られるものではなく、生生世世さらには無量劫の善根福德の積み重ねによって成就されたものであり、最初の仏法の基礎が非常に堅固な基礎の上に、一歩一歩実証してきたものである。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、放逸して精進しなければ道業は進まない</h3>

修行の中で自分を放逸すれば、日常の瑣事の中で自分を見失い、道業が前進できず、不注意なら後退さえするかもしれない。常に自分を把握し、自分を反観し、自分を反省し、自分を省みることができ、心に隙間がなければ、煩悩は入り込めず、禅定と智慧は次第に生じてくる。道業が前進していないなら、必ず問題がある。問題がずっとそこに横たわっているのに、自分では発見できない、これは何を意味するのか。問題を発見したのに、解決しようとしない、これは何を意味するのか。解決したいのに解決できない、これは何を意味するのか。世事は最も人を沈淪させやすく、そこから脱しようとしても最も困難である。心力が足りないのは、何が欠けているのか。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、世間法の円満具足を最も速く得るには</h3>

人はほとんど皆世間法を追求し、自分が世間で最も殊勝で最も美しく、最も才幹があり、最も富貴で、最も智慧があり、最も徳行があり、最も教養があり、最も尊敬され、家親眷属を含めてすべてが最も円満であることを望んでいる。では、どうすればこの目標に達し、しかも最も速く達することができるのか。それは修行に来ることであり、一心一意に真剣に修行し、できる限り自我を捨てる修行である。修行という一つの途だけが、速くかつ円満に自分の願いを満たすことができ、他の途はなく、他の途では貪瞋痴を除去できず、人の徳行教養も世間法も円満にはならない。修行がうまくいってこそ、人の福德智慧・才華・財富・親眷などがすべて円満具足し、審美力、言語文字の口才、辯才無碍、さまざまな教養がすべて向上する。

佛陀は三界の至尊であり、一切の法を円満具足している。世間法を含めて、世間法の中では何であれすべてが最上であり、頂点であり、彼を過ぐる者は無い。菩薩は仏と比べれば最上ではないが、すべての世間人と比べれば、すべて最上であり、世間人を超えている。世間人が希求し仰ぎ慕うものは、菩薩はすべて具足しており、ただ菩薩が示現するかどうか、用いるかどうかの問題である。私たちは諸仏菩薩に並ぶべきであり、必ず心をできる限り修道に用い、これ以上世俗法に心を用いてはならない。損して得なし。修行の功夫が上がれば、心は非常に細緻入微となり、感覚は鋭敏聡慧となり、何をやっても霊感があり、人に霊気が宿る。修道は殊勝な世間法を得る最大最速の近道である。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、聞法の後の実修こそ王道である</h3>

広く学び多く聞くことを、他人の宝を数えると言い、自分には半銭もない。他人の宝を見た後には、自分の宝を得る方法を考えなければならない。自分の宝を数えるときはどんな心境であろうか。淵に臨んで魚を羨むは、退いて網を結ぶに如かず。淵の中に何匹の魚がいようと、それは自分のものではなく、聡明な人は振り返って網を結び、網で魚を捕らえてこそ、享受することができる。しかしこの世間には、聡明智慧のある人は多くないようで、他人の宝を鑑賞することばかりで、自分の宝を所有しようとはせず、空腹になっても構わない。ある人々は日々聞法を津津楽道するが、功を積んで法を得ることを決してしない。他人のものを見終わったら、振り返って自分のものに取り組むべきである。自分が所有してこそどれほど確かであろうか。自分が持ってこそ「有る」のであり、他人が持っていてどうして自分の頭上に算入されようか。

古人は「学而不思则罔」と言った。私たちは「学而不修则罔」と言うべきである。多くの人も思うが、その思は非常に浮浅で、禅定がなく、思惟は法の表面にとどまり、深く入れず、皮毛しか知らないのに、自分は証した証したと言う。浮浅さと自傲は哀れなほどである。あの程度の思は修とは呼べない。修とは修理することであり、自分の身心を修理することである。身心が修理された後、相応の程度の変化があってこそ、修と呼べるのである。人が依然として元の人であり、心が依然として元の心で、あるべき煩悩が相変わらずそのままの煩悩なら、どうしても修とは呼べない。まして修めた後の果を望むなど、それは不可能であり、自分で封じた果は、容易に溶けて腐る。

<h3 style="text-indent: 2em;">十三、受覚の断除は修行の首要の目標ではない</h3>

ある人々は、受覚を断除し、覚受がなくなってこそ証道の根拠と標誌だとばかり思っているが、実は受覚の降伏と断除は主に甚深な禅定に依るものであり、証道したかどうかにかかわらず、非常に深い禅定さえあれば受覚を断除でき、四禅八定のある外道でもそれができる。初禅の定があっても受覚は断てず、初禅定の中の受覚はただ楽受であり、気持ちが快適だと感じるだけで、まだ覚受の範疇に属する。一切の受覚を断除するには受陰尽まで修めなければならず、四禅以上の定でこそ色陰を断じ尽くすことができ、その後に初めて受陰を断除し、受陰尽を証し、さらにその後に初めて想陰、行陰を断除できる。

解脱を得るのは心の解脱であり、受覚を断除する必要はなく、覚受を執着しなければ解脱できる。覚受の断除は私たちの修行の首要の目標ではなく、首要の目標は無始劫以来の錯見と邪見 (mithyā-dṛṣṭi) を断除すること、すなわち五陰 (pañca-skandha) を我とする我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除することである。我見を断除し、我見に束縛されなければ、初歩的に解脱を得ることができ、以後の修行は正軌に乗るのである。

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