衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 5397

第四章 懺悔業障篇

一、業障とは何か

すべての人には業障があります。まず無明があり、心に無明があるために不如法な業行を造り、それによって障りが生じるのです。どのような業行が、何を障るのでしょうか。どのような点に障りが現れるのでしょうか。誰に障りが生じるのでしょうか。障りの原理は何でしょうか。どのようにして障りを取り除くのでしょうか。

いわゆる障りとは、例えば私が禅定を修めようとしてもどうしても成就できず、修定しようとするたびに人や物事の障害が現れること、あるいは心の攀縁が非常に重いのにそれを止める方法がないことです。福を修めようとしても修められず、実際に行動を起こすことができず、行動を決意するたびに「まあいいや、後でまたにしよう、こんなことする必要はない」という想念が生じて怠惰に流れてしまうことです。仏法を思惟観行しようとしても、毎回頭の中がごちゃごちゃで心が落ち着かず、どこから手をつけていいかわからず、一文さえも理解できないことです。善いことをしようとしても、毎回さまざまな障害が生じて、いつも成就できないことです。要するに、すべての計画が実現できず、いつも決心するものの何の役にも立たず、少しも何も変えられないのです。これらすべての妨げが障りであり、業障であり、前世の自らの貪・瞋・痴という無明の業行によって感得した心理的障害と逆縁なのです。

前世の悪業が業種となって、どのように今世の修行に影響するのでしょうか。業障は因果応報とも言い、因果は互いに関連し合っています。ある事柄(甲)において不如法な業を造り、悪行を行えば、その事柄(甲)において果報が現れ、甲の事柄は成就しません。同様に、別の事柄(乙)において不如理な業行を造れば、その事柄(乙)において果報が現行し、乙の事柄は成就しません。例えば、前世に三宝を誹謗したならば、今世に仏・法・僧に出会っても歓喜心が生じず、三宝に親しもうとすれば遮障や抵抗に遭います。たとえ心ではしっかり修行しようと思っても、白紙黒字の経典も理解できず、仏法が心に入ってきません。三宝誹謗の悪業が今世の修行の重大な障害となるのです。

二、業障が消えつつある徴候

あらゆる人は無始劫(むしごう)以来、非常に多くの悪業を造り、多くの業障が修道を妨げています。道を障げる主要な業障を除かなければ、見道(けんどう)することは不可能です。修行が比較的力強くなり、いくらかの成果が現れて初めて、業障の一部が消え、道を障げる因縁が除かれるのです。では、修行が力強くなったとはどういうことでしょうか。法を学び、善悪の道理を明らかにした後、自らに多くの煩悩があり、多くの悪業を造り、多くの業障があることを知り、悔いの心が生じれば、業障は少しずつ消えていくのです。

業障を消す方法や手段は多くあります。例えば、悪報を受けること、さまざまな不順が起こること、身体の病気、人から侮辱や誹謗を受けること、軽蔑や差別を受けることなどです。金剛経に説かれているように、金剛経を読誦する功徳によって、本来なら前世の悪業のために悪道に堕ちるはずの人が、読誦するゆえに業が消え、今世ではただ人から軽蔑されるだけで悪業が消滅し、後世に三悪道で報いを受ける必要がなくなるのです。人から軽蔑されるのは人間界における苦しみであり、この果報は三悪道の果報よりはるかに軽いものです。たとえ命を落とすことになっても、三悪道の果報よりははるかに軽いのです。ですから、仏教徒が現世で悪報を受け、人から侮辱や打擲(だちゃく)を受けるならば、むしろ慶ぶべきであり、相手に仕返しをして無駄に苦しみを受けるべきではありません。

修行が力強くなった後、業を消す方法は多くあり、まさに業が消えつつある徴候も多くあります。例えば、夢の中で多くの汚物を吐き出す人、腐った肉のようなもの、黒い血、黄色い膿、あるいは九孔(くこう:身体の九つの穴)から不浄で臭いものが流れ出る人、あるいは便所の中で周囲が大小便だらけで足の踏み場も身動きのとれない場所にいる人などです。これらの汚物は心の貪・瞋・痴を表しており、貪・瞋・痴が少しずつ消えつつあるのです。夢の中には、普段は自分が受け入れがたい、非常に恥ずかしく想像もできないような現象が現れることもありますが、それらはすべて業が消えつつある徴候です。これは修行によって業が消える現象です。以前に衆生の肉を食べ、心も身体も清浄でなかったのが、道理を明らかにして心が少し清浄になると、業が少し消え、夢の中に業障が消える状況が現れるのです。

夢の中には、心が少し清浄になった状況も現れます。心の染汚(ぜんま)が夢の中で物質的な色法(しきほう)として表現され、身体から汚物が出ることは、染汚が出たことを表します。現れる汚物にはさまざまな種類があり、人によって状況に多少の違いがあります。身体から嫌な臭いがするのも、業が消えつつある一つの表れです。身体に病気が現れること、さまざまな不順、家庭や職場で種々の不如意なことが起こること、騒がしく落ち着かない現象が頻繁に起こることなども含まれます。

修行が激しければ激しいほど、得られる利益が大きく、進み方が速ければ速いほど、汚物や染汚の現象はより速く多く現れ、心の変化も大きくなります。これらの現象がないのは、自身の修行がまだあまり力強くなく、意根(じこん)に触れていないため、業種にも触れていないことを示しています。心に明らかな変化がなければ、業障は消えず、まだ実際の修行段階に達しておらず、理論的に心を用いているだけで、理論に興味があるものの、どうやって自分を変えるかについてはまだ省みたことがないのです。

ある人は、心を込めて念仏するとき、身体が砂を撒く機械のように感じられ、非常に多くの黒い汚物が口や身体のあちこちから排出されることがあります。痰、肉、粉のようなものなどです。これは以前に衆生の肉を食べたことによって現れる消業の現象です。ある人は夢の中で嘔吐し、胃の中に砂のようなものなどが詰まっていて吐き出そうとしても出ず、吐き出すときには内臓まで一緒に引きずり出されるような感覚があり、一瞬にして特に大きな塊の汚物が排出されることもあります。これらはすべて、以前に造った貪・瞋・痴の悪業、身・口・意の悪業、悪口や誹謗などの染汚の業なのです。

これらの現象から、まさに「念仏一声、罪滅恒沙(ねんぶついっせい、ざいめつごうじゃ)」であることを実感すべきです。理にかなった修行をすれば、多くの罪業が滅びます。今生で我見(がけん)を断ち明心(みょうしん)できなくても、ただ業を消すだけでも十分に価値があります。多く業を消し、業障が軽くなって初めて見道できるのです。決してこれ以上悪業を造ってはいけません。悪業を造ることは非常に価値がなく、非常に割に合いません。努力して修行し、煩悩を消すことは非常に価値があり、非常に割に合うことなのです。

三、業を消す原理

ある人は言います。「業障は壁に描かれた絵のようなもので、壁が消えればその絵もなくなる」と。五蘊身(ごうんしん)は壁のようなものであり、業障は五蘊身の上の障害や煩悩です。もし五蘊の身心が空(くう)になり、意識や意根の心が空になれば、業行は自然に消えるのです。業障は五蘊の身心に向かって来るもので、五蘊の身心に付着しています。実際には六・七識の心に付着しているのです。六・七識の心が空になれば、業障は空にならないのでしょうか? 業障には付着する主体がなく、五蘊の身心が見つからなければ消えてなくなり、空になります。業を造った主体がいなければ、誰が業報を受けるのでしょうか? 受ける者がいなければ、報いは終わるのです。

しかし、五蘊の身心が空になる程度を見る必要があります。心がどれだけ空になれば、それだけ業障が消えるのです。初果の空と二果の空には違いがあり、二果の空と三果の空には違いがあり、三果の空と四果の空には違いがあります。ですから、消える業障も異なるのです。しかし、もし業障が重すぎれば、心が空になって債務を逃れることはできません。例えば、ある人が百万円の借金をして極楽世界に往生した場合、債権者は誰に百万円を請求するのでしょうか? もしある人が一億円の借金をしていて、債権者が常に彼を見張っているなら、彼は極楽世界に行けるでしょうか? 彼はきっと遠くへは行けず、動こうとすれば債権者に道を阻まれ、行かせてもらえません。債務が比較的軽くなって初めて、債権者は彼を常に見張る労力を費やさなくなるのです。

四、衆生の業はどのように消えるのか

衆生は無量劫(むりょうこう)の修行過程において、その業障は少しずつ消えていき、業が尽きて初めて仏道を成就します。その業の消滅は、主に自らの修行によって無明を滅し、心を変えることによって消されます。しかし、最初のうちは衆生の無明が重く、心力が弱いため、大部分の業障は仏菩薩の加持によって消され、背負われるのです。あらゆる衆生の業は、もし仏菩薩が背負い消してくれなければ、誰も証道し成仏することはできません。仏菩薩が衆生に代わって業を消し、業を終わらせ、業を背負う方法は非常に多いのですが、衆生はそれをまったく気づかず、時には仏菩薩を誹謗さえします。衆生が無知な時は、仏菩薩の恩徳がどれほど大きいかを理解していないのです。

衆生の因果とは六道輪廻・生老病死・憂悲苦悩(うひくのう)です。しかし、あらゆる衆生が仏法に出会い、生死の業と苦受(くじゅ)が次第に軽くなり、ついには三悪道の業を断ち切り、六道輪廻の業までも消滅するに至ります。あらゆる衆生が仏法に出会う機縁を得るのは、決して衆生自身の福徳や功徳によるものではなく、すべて仏菩薩の恩徳によるものだと考えるべきではありません。仏菩薩は毎日のように呪願(じゅがん)を発し、その願力は三悪道の衆生にまで及びます。三悪道の衆生は、知らず知らずのうちに混沌(こんとん)とした状態で恩恵を受け、福徳が日々増大し、ついに仏法に出会い、無量劫にわたる学仏修行が始まるのです。そうして業障が少しずつ消え始め、ついには成仏するに至るまで、すべて仏菩薩の恩徳によるものです。成仏しなければ、誰も仏菩薩の恩に報いることはできません。

仏菩薩の加持や呪願はすべて形がなく、衆生のために無数の業障を消すことも形がなく、見えず触れられません。衆生が無知な時はそれを感知することもできませんが、実際にはその力は計り知れないほど大きいのです。衆生は恩知らずなのではなく、根本的に恩義を知らないだけです。それどころか、理由もなく種々誹謗(ひぼう)しますが、仏菩薩は決して気にしません。誰が無知で愚痴な衆生を気にかけるでしょうか? 仏菩薩がどれほど多くの業を衆生に背負い、どれほど多くの仏法、そしてどれほど深い仏法を説いても、無知な衆生は仏菩薩に凡夫菩薩という名号を名乗ることすら許しません。その罪障は深くないでしょうか?

五、如何にして罪業を消除するか

造られた罪業は、心性上の罪業と行為上の罪業に分けられます。心性上の罪業を性罪(しょうざい)と言い、行為上の罪業を業罪(ごうざい)と言い、二つを合わせて罪業(ざいごう)と言います。もし行為上の罪業だけがあり、心性上の罪業がない場合、つまり故意ではなく造られた行為、無心の過ちは過失(かしつ)と言います。例えば過失致死、過失殺生で、主観的に無心で、客観的に因縁によって成ったものです。このような過失による造業は、世間法(せけんほう)上の罪責は比較的軽く、仏法上の果報も比較的軽いものです。故意でなく、無心の殺生は地獄に堕ちませんが、未来世ではやはり無心で殺されることになります。小さな畜生を殺す程度なら将来殺されることはありませんが、非常に軽い果報はあります。あらゆる行為は、故意であろうと無心であろうと、程度の差はあれ善悪の果報があるのです。

もし悪心(あくしん)で故意に造られた罪業であれば、罪業は非常に大きく、果報も非常に重いです。もし悪心だけがあり、心性が悪く、例えば相手をどうこうと妄想したり、心の中で相手をどうこうと呪い罵(ののし)ったりするだけで、実際の行動がない場合、これは心性上の悪だけであり、意業(いごう)に属します。意業もまた種子(しゅじ)を宿し、これも罪業であり、心性も染汚され、貪・瞋・痴が深刻です。後世には悪心に順じて報いを受けます。心は万法の主人であり、心が動けば業が生じ、業があれば業報があり、果報は業と影のように離れません。

例えば鶏を殺すこと。これは能動的な殺生行為であり、無心の殺生ではありません。したがって性罪も業罪もあり、性罪には性罪の果報があり、業罪には業罪の果報があります。性罪の業は消しやすく、心から自らの貪・瞋・痴を懺悔し、今後は造らないと誓願し、心性が本当に変われば、性罪は消えます。もし心性が変わらなければ性罪は残り、後で報いを受けなければなりません。しかし、まだ業罪が残っています。では業罪はどうやって消すのでしょうか? それは実際の行動を取る必要があります。もし衆生を殺さずに済んだなら、相手が満足するまで補償することです。

もし衆生が死んでしまったら、この実際の行動は本当にやりにくいです。仏法上で何らかの修行と証得(しょうとく)があり、功徳や福徳が比較的大きくない限り、この罪業を終わらせることはできません。例えばお経を読み、念仏を唱え、真言(しんごん)を唱えて鶏を追善供養(ついぜんくよう)し、本当に鶏を善道に導くことができれば、これで終わります。将来、鶏は逆にあなたに感謝し、恩を返すでしょう。人間界に導くだけで十分ですし、猫や犬に生まれ変わらせることもできます。また、自らが修行したすべての功徳や福徳を鶏に回向(えこう)し、鶏に懺悔すれば、鶏が本当に利益を得て、そうすれば業罪は消えるでしょう。

もし罪業が消えなければ、遮障(しゃしょう)は非常に深刻です。成仏どころか、仏法を学ぶことすら順調にいかず、日常生活にも問題が生じます。罪業が大きい人は、念仏して極楽世界に逃げ込もうとしても、臨終に業障が現前して、仏を信じることすらできなくなり、念仏など言うまでもありません。なぜ多くの人が法を学びながら、学んでいるうちに落ちこぼれてしまうのでしょうか? それは業障に遮られて、修行が進まなくなるからです。多くの人は学んでいるうちに業障が現前し、耐えきれずに退転し、何も学ばない“横たわった屍”のようになってしまうのです。絶えず自らの罪業と遮障を消す方法を考え、そうして初めて道業(どうごう)は絶えず進歩します。そうでなければ業障が道を阻み、さまざまな変事が起こり、正常に仏法を学び修行することができなくなります。懺悔と発願は業障を消し、業障に対抗できます。業障が軽くなって初めて前進を続けられます。そうでなければ進まなければ退くのです。ですから、希望をすべて臨終に託すべきではなく、臨終前に後世の行き先を解決しておくべきです。

六、大乗の法を用いて参禅することは深重な罪業を消除できるか

ある人は言います。「衆生の罪業が山のようであるならば、参じて誰が罪を受けているのか、誰が業を造っているのかを究明すれば、そうすれば真心(しんじん)を証得でき、真心は業を造らず罪を受けないので、こうして罪業は消える」と。しかし、このように罪を消す方法は非常に不適切で理にかなっていません。第一に、業障が深重であるため、修道の遮障も重く、菩薩の六度(ろくど)の修行を完全に成就することは到底不可能で、真心を証悟する因縁条件に達することはできません。戒・定・慧が備わっていなければ参禅できず、したがって深重な罪業を消すことは不可能です。第二に、このようにすることは、末法で業障深重な衆生にとっては、因果を撥無(はつむ:否定)し、悪業から逃避することになり、自心の染汚を省みることができず、修めても修めても罪業は依然として山のままで、おそらく増えることさえあるでしょう。

初心の学人や業障深重な人にとっては、まさに修行の四正勤(ししょうごん:悪を断ち善を修める四つの精進)の段階にあり、罪報や苦受の原因を観察し、それによって因を知り果に達する必要があります。因果を恐れ畏敬する心があって初めて悪を断ち善を修め、自心の煩悩を降伏(ごうぶく)し、ついには脱胎換骨(だったいかんこつ)し、心を改め面目を一新して大乗菩薩となることができるのです。業障が深重な時は、大乗の無相懺悔(むそうさんげ)による滅罪法を用いることも、大乗の参禅の方法で煩悩や罪業から逃避することもできません。実際には逃避できず、避けて通れないのです。あれほど重い罪業が遮っているのに、どうやって参禅して第八識(だいはっしき)を証得し明心(みょうしん)できるでしょうか? どうやって無相(むそう)に達することができるでしょうか?

参禅の因縁条件が備わっていなければ、推論によって第八識を推測するしかありません。推測によって作り出した第八識は、七識心(しちしきしん)にとっては永遠に何の役にも立たず、ほんのわずかな功徳も受用(じゅよう)できず、少しも罪業は消えず、三縛結(さんぷくけつ:見惑の三つの束縛)は全く断ち切れません。推論で作り出した第八識は悪業を造らず、悪業がないので報いを受けませんが、七識の悪業は元の重さのままで、消滅することはありません。第八識は七識の代わりにはなれません。第八識は本来、自性清浄であり、本来仏なのです。しかし七識は無始劫以来、ずっと罪業の凡夫でした。第八識は微塵(みじん)たりとも七識の苦しみを代わったことはなく、七識もまた第八識の仏光に少しでも触れて罪苦を減らしたことはありません。

第八識は決して貪・瞋・痴の煩悩を持ったことがありませんが、七識の貪・瞋・痴は決して断たれたことがありません。第八識は常に解脱(げだつ)していましたが、七識は微塵たりとも解脱したことがありません。第八識は仏ですが、七識はそれによって決して仏の宝座に座ったことがなく、仏の待遇を享受したことがありません。ほとんどの時間を三悪道で苦しみ、生死を輪転(りんてん)し続けてきました。したがって、第八識と七識は互いに代わることはないと言われるのです。第八識はすべての処、すべての界、すべての法、すべての時、すべての地に遍満(へんまん)しています。意識が少し賢ければ誰でも推論できます。至る所に第八識がある、考えれば第八識がだいたいどういうものかわかる。問題は、そう考えて何の役に立つのか? 凡夫は貪・瞋・痴があり、考えることはたくさんありますが、無始劫以来、どれほどのことが思い通りになったでしょうか?

したがって、実相懺悔(じっそうさんげ)、参禅の方法で罪を滅することは、初心の学人にとっては非常に非現実的です。業障が少し軽く、菩薩の六度の修行がほぼできている人だけが、この方法で証悟し業を消すことができるのです。しかし完全に保証できるわけではなく、仏のそばにいる可能性は大きいですが、仏から離れると確かに難易度は低くありません。推論は容易ですが、実証は困難です。末法の時代になるほどその傾向は強く、すべての人は決して僥倖(ぎょうこう)を抱いてはならず、真の修行で実修しなければならず、手を抜いたりごまかしたり近道をしてはいけません。

なぜ第八識を実証して初めて罪業が消えるのでしょうか? 実証の過程において、理にかない事実のままに五蘊の運作を観行(かんぎょう)でき、五蘊が心中でますます空(くう)になり、ますます実体がなくなり、生滅の現象をますます明晰に深く観察できるようになり、ついには我見(がけん)を断ち切るからです。第八識を証得した時、さらに五蘊はすべて第八識から生じたものであると観察すれば、心中はさらに無我で空になります。もちろん五蘊の私によって造られた罪業も空であり、無我無我所(むがむしょ)となるのです。

ちょうど般若心経の最初の言葉「観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空」の通りです。参禅観行の結果は五蘊皆空を照見(しょうけん)することであり、これが証悟の功徳です。五蘊が空になり無我となるのです。観行の最終結果は照見であり、この照見とは頓悟(とんご)のことです。照とは心の灯が動かず、智慧の光芒(こうぼう)が五蘊の影像を映し出すことであり、それは真心第八識の影像であり、五蘊はなく、五蘊は五蘊にあらずです。照見の智慧は非常に生じにくく、菩薩の無量の功徳を広く修め、脱胎換骨に近づいた時に初めて、五蘊皆空を照見できる可能性があります。照とは、意識の浅い思惟ではなく、意根の深く細やかな智慧の機能作用であり、心の光が発せられ、五蘊を通り抜けて、五蘊の真相が明らかに現れるのです。

そして、真の修行をせず、禅定を修めず、三十七道品(さんじゅうしちどうぼん)を修めず、悪を断ち善を修めず、煩悩を降伏しなければ、業障が遮って、永遠に照の智慧光芒を生じることはできず、ただ表面的に推論するだけ、意解(いげ:意識的理解)、研究するだけ、ただ意識だけを用いて力を入れ、意根が入ってこなければ、意根の凡夫の骨は永遠に変わりません。命終には凡夫として生まれるべき胎は凡夫として生まれる胎のままで、入胎(にったい)ということは意根が決めることであり、意根と業力によって決まるからです。意根は業力を代表しています。意根に智慧を生じさせ、意根を変えて初めて、業力を変え、罪障を消すことができるのです。

七、諸仏菩薩の恩徳

ある人が最初に仏法に触れてから、ついには成仏するまで、少なくとも半分の業障、あるいは大部分の業障は、諸仏菩薩が背負い消してくれたものです。それどころか、あらゆる衆生が仏法を学ぶ因縁を持つこと自体が、諸仏菩薩の加持護念(かじごねん)の結果なのです。もしただ衆生個人だけに頼るならば、あれほど深重な業障では、仏法に出会うことすら非常に困難であり、ましてや仏法を修行すること、ましてや道を誤らずにいること、ましてや少しの成就を得ること、ましてや解脱を得ることなどなおさらです。等覚(とうがく)妙覚(みょうがく)の菩薩でさえ諸仏の護念を必要とし、順調に成仏できるのです。ましてやあらゆる凡夫の衆生が、諸仏菩薩の加持護念に頼らずに、一歩一歩進むことの困難さは、茨(いばら)が生い茂り、一歩も進めず、足の踏み場もないほどです。

師の恩は広大無辺です。ですから私たちは真に諸仏菩薩に感謝し、心に常に恩に報いる心を持ち、仏の言葉を信じ、仏の教えを尊び、仏の戒を守り、諸悪莫作(しょあくまくさ)衆善奉行(しゅぜんぶぎょう)し、諸仏菩薩を師とし、決して師に背き教えに叛(そむ)いてはいけません。大誓願を発し、自利利他(じりりた)し、煩悩を消し、自心を清浄にし、修めたすべての善行、善願、善法を法界の一切衆生に回向し、これによって諸仏菩薩の救済の恩に報いるべきです。滴水(てきすい)の恩も、湧泉(ゆうせん)をもって報いるべきです。しかし諸仏菩薩の湧泉の恩に、私たちは滴水で報いることができるでしょうか? それほど多くの人々が諸仏菩薩の恩徳を思わず、むしろ三宝を誹謗し、良き師に背き、益友(えきゆう)を仇(かたき)や敵とするのです。恩義を知らない人は、解脱の大道を絶ち、永遠に三途(さんず:地獄・餓鬼・畜生)の苦しみを受けるでしょう。

八、どのような人だけが人に代わって業障を背負えるか

業を背負うことについては、体力も見る必要があります。例えばある人が転んで、人に支えられて起き上がる必要がある場合、三歳の子供が行ってその人を引き起こそうとしても、どうしようもありません。ましてや支えて起こすことや背負うことなどなおさらです。例えばある人が五十斤(約30kg)の重い物を運ぶのを手伝ってほしい場合、風にすら耐えられないような弱々しい人ではどうしようもなく、心はあっても力が足りません。もっと重い物なら、大力士でなければ無理です。業障を背負うことも同じです。もし自身に業障が重なり、重荷に耐えられないなら、どうして他人の業障を背負うことなどできましょうか? 業障は何を根拠にあなたに背負われるのでしょうか? 普通の人が何の徳や能力があって他人の業障を背負えるでしょうか? すべては諸大菩薩が衆生の業障を背負っているのです。

普通の仏教徒は善心や善願はあっても、業障の重い人を助けて業障を軽くしたいと思い、代わってお経を読み念仏を唱えて回向し、諸仏菩薩の加持を祈請し、諸仏菩薩の神力の加護に頼って、他人の障縁や苦受を軽減しようとします。しかしこれもまた、仏教徒自身に修行の成果が必要です。諸仏菩薩の密かな加持と護佑(ごゆう)を感じ取ることができなければなりません。もし自分自身に修行の成果がなければ、仏菩薩を感応(かんのう)できず、他人の業障は元のままです。

注意深く観察すれば、多くの仏教徒が三十年仏法を学び、三十年間人に超抜(ちょうばつ:救い出すこと)や追善供養を求め続け、死ぬまで業障の関門を越えられなかったことに気づくでしょう。これは追善供養をする人に修行の成果がなく、業障を軽くする能力がないためです。修行の成果がない人は他人を超抜することはできず、怨親(おんしん:怨みを持つ霊や親族)を度脱(どだつ:救い解脱させる)する力がなく、ただ怨親をそばに引き留めて干渉を増やすだけです。ですから他人に代わって業障を背負いたいなら、大雄大力大慈悲(だいおうだいりきだいじひ)が必要です。例えば衆生に回向し、衆生を度脱するには、まず自分自身に功徳と福徳がなければ、他人に回向できません。功徳が大きければ大きいほど、福徳が多ければ多いほど、他人が得るものも多くなります。もし自分自身が取るに足らない者なら、何を贈り物として人に贈るのでしょうか? 何を他人に回向するのでしょうか? ですから修行こそが根本の道理であり、修行がなければ何も語れません。

九、如何にして懺悔し業障を消除するか

最初に仏法を学ぶ時は、皆あの「発願文」に従って懺悔と発願をします。一つは懺悔、もう一つは発願です。この二つを多く行い、毎日仏前で行って初めて悪業を消し、善願や清浄願を起こすことができ、善願に導かれて修行はますます順調になります。発願は非常に重要であり、懺悔も非常に重要です。懺悔しなければ業障が障って非常に苦しみます。毎日懺悔して業が消えた後は、身心はますます軽安(きょうあん:心身が軽く安らか)になり、修行はますます順調になります。

朝夕の勤行本には三帰五戒懺悔文(さんきごかいさんげもん)があり、また私が書いた意根懺悔文(いこんさんげもん)もあります。この二つの懺悔文を照らし合わせて、仏前で前世に造った一切の悪業、大小の悪業を、以前造ったかどうか確かめられるかどうかにかかわらず、すべて懺悔します。仏前で今世に造った業を発露し、二度と造らないと誓います。懺悔も発願も誠実で、心から発し、形だけに流れず、通り一遍にせず、誠心誠意でなければ、業が消え心が清らかになりません。心が少し清浄になった後、煩悩習気(じんのうじっけ)をさらに捻じ曲げ、清浄な大願に導かれて、修行は自然に正道に進むでしょう。

九、懺悔は心性上の煩悩悪業しか消除できない

問:私は毎日朝夕に懺悔発願し、身口意は以前よりずっと清浄になりました。しかし、時々無意識に貪業(とんごう)や瞋業(しんごう)を犯すことがあります。このような懺悔は意根に深く入っておらず、不如法であり、まだ業が消えていないのでしょうか?

答:懺悔した後、業障が一度にすべて消えるとは限りません。きっとまだ消えていない余業があり、煩悩障が残っています。なぜなら、各人が懺悔しても必ずしも徹底的で適切とは限らないからです。また、懺悔で消えるのは性障(しょうしょう:心性の覆い)の煩悩業の一部だけであり、すべての性障を消すことはほぼ不可能です。しかも罪障(ざいしょう)は消せないので、避けられず罪報を受けなければならず、したがって時々無意識に貪りや怒りの業を犯してしまうのです。これができるだけでも十分に良く、理にかない法に適い、多くの業を消したと言えます。

仏在世の時、ある居士が四果阿羅漢(しかあらかん)を誹謗しました。その阿羅漢はすぐに堂に上がり鐘を鳴らして大衆を集め、その居士に言いました。「私は阿羅漢果を証得した。早く大衆の前で私への誹謗の業を懺悔しなさい。さもなければ地獄の果報を受けるだろう」。その居士はすぐに大衆の前で阿羅漢に懺悔しました。阿羅漢は言いました。「私はあなたを許した。罪業が消えることを願う」。しかしこの居士は命終には地獄に入って報いを受けました。この話は懺悔が役に立たず業を消せないと言っているのではありません。懺悔は心性上の罪業しか消せず、事相上の罪業はすでに造られ事実となっており、それは消せず、報いを受けることでしか消せないと言っているのです。その居士は懺悔の後、性業(しょうごう:心性の業)はなくなりましたが、罪障はまだ残っていたので地獄で報いを受けたのです。もし懺悔しなければ、性業に罪業が加わり地獄で受ける苦しみはさらに大きく、耐え難いものでした。ですから私たちは皆、できる限り身口意の行いに注意し、特に三宝に対してはなおさら慎重に、いかなる誹謗の業も造ってはいけません。

もし煩悩業障がすべて消え清浄になれば、それは証果や成仏です。事実、そう簡単にすべて懺悔して清浄になれるものではありません。煩悩業障は少しずつ軽くなるもので、軽くなっても時々発作的に現れるのは正常な現象です。懺悔が意根に深く入った後も、どの程度深く入ったか、どの程度変わったかを見る必要があり、きっと程度が足りないのです。もし程度が十分であれば、煩悩はすべて断ち切れているはずです。程度が足りなければ、もちろんまだ煩悩業障があるのです。これらはすべて正常な現象です。以前より進歩し、毎日進歩していれば、それは良い現象なのです。

十、如何にして業障を化解するか

仏法を学んでいくと、時々進歩があり、まさに上がろうとする時、業障がすぐに前で遮ります。業障というものは目を持っており、特に重要なところであなたを待ち、上昇の入り口で待ち構えているのです。意志力が少し弱い人はそこで行き詰まり、非常に弱い人は退転し、下手をすると元の木阿弥(もくあみ)に戻ってしまいます。私は多くの仏教徒を見てきましたが、行き詰まるか退転するかで、中には仏を信じなくなる人もいます。もしただ仏を信じないだけならまだしも、三宝を誹謗し、以前学び修めたことを誹謗するようになることを恐れます。その結果を考えると非常に恐ろしいです。

無始劫以来、あらゆる衆生が経験したことに多少の違いがあるため、意根の性体(しょうたい:性質)もそれぞれ異なります。頑固な者もいますが、諸仏菩薩は巧みな方便で導き、柔らかくも硬くも、諭すも罰するも、最後にはすべての衆生を解脱の道に推し進めることができます。その過程はきっと曲折し、道はきっと困難であり、骨の髄まで凍るような寒さを経験して初めて、鼻をつく梅の香りを迎えることができるのです。仏法を学ぶこの道は非常に歩きにくいです。なぜなら各人の業障が重く、無始劫の業が多すぎ大きすぎるからです。まるで流れに逆らって舟を進めるように、進まなければ退くのです。もし仏菩薩や護法神の護持(ごじ)がなければ、私たち一人ひとりはほんのわずかな成就すら得られません。業障の関門だけでも、自分ではどうにも越えられないのです。業障の力はそれほど大きく、私たちは皆、自らの身口意に極めて注意し、悪業を造らず、過信してはいけません。

業障が現前した時、どうやって乗り越えるのでしょうか? 甘んじて受けることも一つの方法ですが、積極的に努力して業障を変えることも重要です。業は転化(てんげ)できるものであり、戒律を守ること、懺悔すること、智慧による観行(かんぎょう)によって、業障を転化し軽減することができます。衆生は無始劫以来数えきれない悪業を造っており、ただ受けるだけではすべて受けきれず受けきることもできません。しかも煩悩を断ち切っていない時は、さらに悪業を造り続け、新しい業障を形成します。もし地獄の業障が現前したら、どうやって耐えられるでしょうか? 苦労して何十年も仏法を学び、命終に地獄の業が熟したら、甘んじて地獄で報いを受けるのでしょうか? 塗灰外道(とかいげどう:灰を塗る苦行を行う外道)は解脱のために、業障を消す方法として際限なく自らを苦しめ、そうすれば業が消え尽きると考え、それから解脱するとしました。仏は言われました。無始劫以来のあれほどの悪業が、苦しみを受けるだけで消えるでしょうか? 決して消えません。ですからただ受動的に受けるだけでは究極の方法ではなく、積極的に智慧を用いて消し転化する必要があるのです。

どう智慧を用いて転化するのでしょうか? 業障は愚痴無明(ぐちむみょう)によって造られたものであり、五蘊を実体のある我と見なして、この我のために業障ができたのです。今業障を消すには、愚痴無明を破り、五蘊無我を観照し、我がなければ、我によって造られた悪業もなく、我見を断ち切れば、業障は三悪道に属する部分が消えます。智慧が大きければ大きいほど、破る愚痴無明が多くなり、消す業障も多く大きくなります。こうして無明がますます薄くなれば、業障はますます軽くなります。智慧は熱い湯のようであり、業障は堅い氷のようです。絶えず熱い湯を注ぎ続ければ、堅い氷はいずれ溶けます。最後にはさらに福を修める必要があります。福が大きければ人を圧し、福が小さければ圧されます。福が大きければ業障は避けて通り、仏法を学ぶ道は順調になるでしょう。

十一、僧侶がいつも追善供養を行うことは如法か?

いつも追善供養を行う寺院は非常に乱れており、出家者は安心して修行できません。僧侶は一般的に修持(しゅうじ:修行の成果)が不足しており、修行の力が弱く、道行(どうぎょう:修行の境地)もまだ至らず、衆生を超抜(ちょうばつ:救い出す)する力がありません。超抜されるべき霊界の衆生はまったく超抜されず、そのまま寺院に残ってトラブルを起こし、出家者は身体が病気がちになったり、煩わしいことが多くなったり、互いの間で争いが多くなり、修行する心がなくなります。正常な修行は不可能です。特に追善供養専門の寺院では、超抜されなかった霊界の衆生が多すぎて寺院が混乱し、霊界の衆生が寺院に留まって生まれ変わることができず、ますます集まり、十分な香華(こうげ:お供え)もないため、寺院で騒ぎを起こし、ついには寺院は閉鎖を余儀なくされました。

主にこれらのことを行うと、僧侶自身が安心して修道できず、業障に引きずられ、自身の業障も軽くなく、修行するのも非常に困難なのに、さらに時間と労力を費やして他人の背負うべきでない業障を背負うことになります。それではどうして修行する心境になれるでしょうか? 僧侶に自分の怨親債主(おんしんさいしゅ:怨みを持つ霊や借りがある霊)を追善供養し、自分の業障を背負うことを求めることは、非常に理不尽な要求です。たとえ金銭で補償したとしても、そのお金と業障を比べれば、いくらお金でも比例しません。生死の大事が重要か、そのわずかなお金を得ることが重要か、智慧ある者なら誰でも見分けられるでしょう。ですから居士(こじ:在家信者)たちは、できるだけ寺院に行きお金を払って出家者に家族の追善供養を祈願しないでください。いくらお金を払っても少なすぎます。重要なのはお金の問題ではなく、こうすることで出家者の業障を増やし、出家者の正常な修行を阻み、生死の苦から出離(しゅつり)できなくなるからです。仏典に説かれておらず、仏在世の時に行われなかったことは、私たちは無理に求めてはいけません。

十二、懺悔して軽安を得る

七十九歳の老人の懺悔の修行:ここ数日、私は朝五時に起きて観行(かんぎょう)しています。座っていると、丹田(たんでん)から強大な気流が湧き上がり、私をしっかりと包み込み、足を縛りました。気流はさらに上昇し、腰から頭へと行き、呼吸さえ非常に困難になりました。私はそこに座って「私は誰か」という公案(こうあん:禅の問い)を参じ始めると、大声で泣き出し、地団太(じだんだ)を踏み胸を叩きました。私は席から立ち上がり仏に礼拝し、礼拝すればするほど泣き、心の中で言いました。「私はただの醜く老いた老婆ではないか? 一日中貪り食い貪り寝し、自己中心的な者ではないか? あらゆる恥ずかしいことはすべて私であり、この臭い革袋(かわぶくろ:身体)が本当に憎い」。

続けて私は仏前で懺悔して言いました。「私はただの臭い革袋です。私のような者は地獄に行くしかありません」。それから私は再び席に戻り観行を続けました。身体は再びしっかりと固定され、こうしているうちに知らず知らず二時間が過ぎました。その時、私は子供に食事を作らなければならないと思い、座を立とうとしましたが、動作が非常に遅く、頭もあまり働かず、機械的にいくつかの動作をしながら、心に雑念も妄想もありませんでした。

昨日座禅を組んだ時も同じで、法師が書いた意根懺悔文を思い出し、私は自分に言いました。「なぜお前は懺悔文のどの条項にも当てはまるのか?」こうして座禅を組みながら懺悔し、すぐにまた二時間が過ぎました。座禅の間に何度か香りがし、座を下りる時は動作が非常に遅かったです。今日座禅を組むとずっと快適で、身体も痛くなくなりました。心はずっと落ち着き、すぐに一時間以上が過ぎました。法師様、このような修行はよろしいでしょうか? これは不浄観(ふじょうかん:身体の不浄を観じる修行)でしょうか?

評:この懺悔の初期の効果は非常に良く、心が清浄になり、身体が軽安(きょうあん)になり、禅定が増長する効果が得られました。しかし懺悔の中で自らが間違っていると知ったなら、自らを地獄や三悪道に行くなどと呪う必要はありません。いかなる悪い呪いや言葉も加えてはいけません。口にした言葉は将来実現します。善願や良き願いを発し、改める心があれば十分です。悪い心や行いを改めれば良いので、自らをあまり憎む必要はありません。他の人に対しても同じで、良き祝福を持ち、悪い呪いを用いてはいけません。

懺悔は宿世(しゅくせ:前世)の悪業を消し、業障が消えれば遮障も消え、身心ともに軽安になり、深い禅定を得て、観行や思惟が順調になり、修行は容易に正道に進み、しかも進歩が速くなります。座禅中に香りを嗅ぐことについて、もしその香りが自分自身の身体から出ているなら、自心が清浄になり身体も清浄になったことを示しており、香りが出てくるのです。時には鼻の穴から、時には歯の中から、時には喉から、時には全身から香気が立ち上ります。もし香りが外から鼻に入ってくるなら、仏菩薩や護法神が自らを守護しているか、あるいは天人があなたを見学しに来て、学んでいることを示しています。

あなたの現在の思想や認識からは、やはり五蘊を観行して我見を断つことから修行を始めるべきです。あまり早く参禅せず、まず我見を断ってから参禅すれば比較的順調になります。我見を断たなければ、真心自性(しんじんじしょう)を証得することは不可能です。年を取っているので、さらに清浄な大願を多く発し、命終に極楽世界に往生できることを保証すべきです。その後、再び娑婆(しゃば:この世)に戻って衆生を救い、命終に往生することは非常に良い帰り場所です。

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