衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月14日 閲覧数: 1663

第二章 仏菩薩篇

一、菩薩の金剛の怒目と雷霆手段とは何か?

例えるなら、潔癖症の者が豚と一緒に閉じ込められ、豚が自分の藁の巣で排泄するのを見て、その者が我慢できずに豚を蹴った、これが雷霆手段である。また、心がすでに清浄な菩薩が五濁悪世に来て、貪・瞋・痴に満ちた衆生と共にいるとき、衆生の無明が深く、愚かな業を造りながら自覚せず、教化も受け入れないのを見て、我慢できずに大声で叱責する、これが金剛の怒目である。こうしたら菩薩が慈悲深くないと言われるのではないかと問う者もいるだろう。しかし実際のところ、慈悲であるか否かは、決して衆生が定義づけることではない。菩薩は衆生のために心臓を捧げるほど尽くすが、衆生には心も肺もなく、心臓や肺も理解できない。仏菩薩が衆生に罵られるのは避けられず、五濁悪世で衆生に罵られないのはむしろ不自然であり、そうでなければ菩薩道から退転する者などいないはずである。

二、菩薩は皆修行の道筋を明らかにすべきである

菩薩は、現在修行している法、次に修行すべき法、そしてその次に修行すべき法について、いずれも明瞭に理解している。その智慧は一劫、数劫、あるいはさらに長い期間にわたって修行すべき法を知ることができる。菩薩に智慧がある以上、一切の法について明らかにすべきであり、全ての修行の道筋をはっきりと把握し、一歩一歩どう実践すべきか、心の中で明らかにしていなければならない。もし明らかでなければ、それは愚痴であり、修行によってその愚痴を除く必要がある。全ての菩薩は、自分が現在どの修行の段階にいるか、どの法が成就し、どの法が成就していないか、次にどの法を修行すべきか、どう修行すべきかを、はっきりと理解できる。もし明らかでなければ、それは愚痴であり、現在持つべき智慧を持っていないことになる。

菩薩は修行を始める際、足を踏み出そうとするその時にも、どの方向に向かって歩み出すべきかを明らかにしている。当てもなく適当に歩き出すのではない。もし適当に歩けば、邪道に陥っても気づかず、そうした愚かな者は菩薩ではなく、菩薩となる資格はまだない。特に、弘法して人々を導く菩薩は、衆生をどこへ導くべきかを心の中でさらに明瞭にしている。

三、菩薩の意義

現在の仏法を学ぶ者は、自己認識の上で二種類に分けられる。一つは広く学び多く聞いて知識が豊富で、修行と学びに自信満々であり、少し慢心や高慢があり、人に会うたびに自分は菩薩であるだけでなく並みの菩薩ではないと表明し、修行仲間との挨拶も「○○菩薩」で始め、互いに称賛し合い、内心は満足している。もう一つは、広く学び多く聞くことが不十分で、知識や見識も豊かではなく、菩薩の意義を知らず、心に少し卑屈さがあり、菩薩の名を名乗ることを恐れ、人が自ら菩薩を名乗るのを聞けば、大変な罪業だと思う。

この二種類の者にはどちらも過ちがあり、心性は慢に属する。高慢も卑慢も愚痴に属する。第二の種類の者に対して、何が菩薩と呼ばれるかについて説明しよう。例えば「学生」という名称は、学校に通い学んでいる者を学生と呼ぶ。様々な内容を学ぶ者を含み、範囲は非常に明確で、年齢さえ制限されない。八十歳でも学生と呼ばれる。学んでいる限りにおいてである。また、学生証を持っている者はさらに学生と呼ばれる。証とは証明である。

同様に、菩薩の道を歩み、菩薩の行を修行している者を菩薩と呼ぶ。菩薩の心を発して自らを度し、人を度そうと願う者を菩薩と呼ぶ。仏法・菩薩法を学ぶ者を菩薩と呼ぶ。仏・法・僧を信じる者を菩薩と呼ぶ。三宝に帰依した者を菩薩と呼ぶ。菩薩の六波羅蜜を修行する者を菩薩と呼ぶ。特に菩薩戒を受け、菩薩の証(菩薩戒体)を持ち、菩薩の誓願を発し、十方の諸仏菩薩の証明があり、菩薩戒体を得た者は、さらに菩薩と呼ばれる。菩薩には鬼神、畜生、非人、天人など、あらゆる衆生が含まれる。しかし、定性声聞、大乗に回心しない阿羅漢や辟支仏は含まれない。彼らには仏や菩薩になろうとする心がなく、衆生を利楽しようとする心もなく、ただ涅槃の清浄を望むだけだからである。

菩薩には凡夫菩薩と聖賢菩薩が含まれ、その階位次第は以下の通りである:

(一)信位の菩薩:初信位から十信位までの十の階位は全て信位の菩薩であり、凡夫菩薩である。まだ菩薩の六波羅蜜を修行しようとする心を発しておらず、菩薩の六波羅蜜を修行する資格も能力もなく、仏法に対する信心を養っている段階である。

(二)住位の菩薩:初住位から第六住位までで、大菩提心を発し、仏道に向かう心を起こし、菩薩の六波羅蜜を修行し始める。初住位では布施波羅蜜を修行する心を発し、修行が円満に成就すると初住位が終わり、二住位に入る。二住位の菩薩は持戒波羅蜜を修行する心を発し、修行が円満すると三住位に入る。三住位の菩薩は忍辱波羅蜜を修行する心を発し、修行が円満すると四住位に入る。四住位の菩薩は精進波羅蜜を修行する心を発し、修行が円満すると五住位に入る。五住位の菩薩は禅定を修行する心を発し、禅定の修行が円満すると六住位に入る。六住位の菩薩は般若波羅蜜を修行する心を発し、修行が円満すると悟りを開き心を明らかにし(明心見性)、七住位に入る。七住位は菩薩の位が永遠に退転しない菩薩であり、実義菩薩と呼ばれ、真の名実相伴う菩薩である。菩薩の名があるだけでなく、菩薩の実質的な徳も備えている。

(三)行位の菩薩:住位の十の次第が円満に修行されると行位に入り、行位の菩薩に属する。修行には十の次第があり、修行が円満すると回向位に入る。

(四)回向位の菩薩:十の階位があり、修行が円満すると初地に入る。

(五)地位の菩薩:初地の菩薩は唯識の相において見道し、識を転じて智と成し、唯識の種智を具え、如来の家に入り、仏の真の仏子となる。十地の菩薩位まで修行し、修行が円満すると等覚菩薩となり、等覚菩薩の後は弥勒菩薩のように後補仏、すなわち妙覚菩薩となる。

菩薩の等級は、信位の凡夫菩薩から、賢位の住位菩薩・行位菩薩・回向位菩薩を経て、聖位の十地菩薩・等覚菩薩・妙覚菩薩まで、合わせて五十二の階位次第である。

各自が自らを照らし合わせ、自分が菩薩かどうか、どの階位の菩薩か、何を修行すべきか、今何を修行しているか、菩薩としての心(菩提心)があるか、菩薩の戒体があるか、今後どう修行すべきかを考えるべきである。もし自分が信位の凡夫菩薩ですらない、ほとんど無学の者だと思うなら、ここにいるのは全く時間の無駄である。もし初住位の菩薩としての心すらない、つまり菩薩の六波羅蜜を修行したくない、布施行を修行したくないと思うなら、菩薩の悟りを求める資格は全くなく、ここにいるのも時間の無駄である。

四、菩薩の心行

菩薩は皆、四摂法(布施・愛語・利行・同事)を修行しなければならない。愛語、同事、利楽、同行である。そうすることで良い衆生との縁(縁起)ができ、何事も順調に進む。もし衆生と善縁がなければ、菩薩としてうまく務まらず、衆生を度すことはできない。世俗の世界で物事を行うにも良い縁が重要であり、仏法の中ではさらに善縁が重視される。善縁が皆を結びつけ、互いに助け合い、共に進歩し、自利利他を実現してこそ、菩薩道の修行をより早く完成させ、仏道を成就できる。意図的であれ無意識であれ、自分自身に障害を設けるのは無智の者であり、自分で自分に躓きの石を置き、自分で自分に罠を仕掛け、結局は自分が損をし、思い通りにならない。

智慧ある者は話すことも行うことも結果を考え、他人の利益や名誉を損なわず、自らを褒めて他を貶めることなく、己の欲せざることは人に施さない。これが最低限の人の道である。ましてや菩薩となるには、これより高い法則が必要である。菩薩の心行はすべて、良いことは人に与え、悪いことは自分に帰すべきであり、決して逆に行って、良いことはすべて自分に帰し、悪いことはすべて他人に帰すようなことをしてはならない。それは菩薩の行いではない。

菩薩同士で問題があれば、必ず面と向かって話し合い、直接言葉を交わし、誤りがあれば改め、なければ自らを戒めるべきである。陰で二枚舌を使い、仲を裂いてはならない。是非を言う者は誹謗の罪を犯しやすく、結果は非常に悪い。事実に基づいて正しく言うことを有根誹謗(事実に基づく誹謗)といい、事実でないことを誤って言うことを無根誹謗(根拠なき誹謗)といい、最も軽いものを四衆過を説くという。四衆とは、在家の男女二衆、出家の男女二衆である。このうち出家の二衆は特に三宝とも呼ばれ、三宝はさらに凡夫三宝と勝義三宝に分かれる。四衆過を説くことと誹謗の二つの業はどちらも軽くなく、果報は重い。全ての菩薩が口業を善く護ることを願う。問題があれば直接はっきりと話し、相手が速やかに改めることができるようにし、互いに監督し支え合うべきである。

全ての衆生が最も造りやすい業は口業である:妄語、両舌、綺語、悪口、それに是非を言い、離間し、嫉妬し、誹謗すること。誣陷陷害(誣告と陥れ)とも呼ばれる。戒律では口業に対する要求が非常に厳しい。口業は最も造りやすく、最も多く造られ、しかも人に注意されにくいからである。だからこそ、誰もが話す時はよく考えてから話すべきであり、口を開けばすぐに言葉が出て、他は一切構わないという態度ではいけない。

五、仏はなぜ無色界で説法しないのか

無色界の天人は身体を持たないが、意識はある。意識があるから識陰がある。しかし、意識はあるものの禅定の中にあり、仏法を聞くことができず、ましてや仏法を思惟することはできない。もし衆生に身体がなければ、人の中の人ではないが、天界の人であり、高級な生命である。触・作意・受・想・思という五遍行心所法は、八つの識すべてにある。無色界の天人にも意識の五遍行心所法があり、意根の五遍行心所法もあり、第八識の五遍行心所法もある。

仏は無色界天で天人に説法することはできるが、色界の天人は聞こえず、人間界の人は聞こえず、鬼神も聞こえない。無色界の天人は数が少なく、しかも皆外道で、一日中禅定に入っているため、彼らに説法する必要は全くない。別の面から言えば、二禅定の中ではすでに仏法が聞こえなくなり、ましてや四禅以上の禅定の中では、説法を聞くことも思惟することもさらにできない。だから仏は無色界天で説法しない。仏が華厳経や地蔵経を説いたのは欲界天と色界天であり、その後、人間界に伝わった。他の経典は全て人間界で説かれ、そうすることで天人は降りて説法を聞くことができ、鬼神や畜生も説法を聞くことができる。そうすることで度す衆生が多くなる。

六、なぜ諸仏は娑婆世界のような世界で成仏した直後、説法を残そうとしないのか?

あなたが三果や四果を証得し、貪・瞋・痴の煩悩を断除した後、衆生を見るとき、現在衆生を見る心境とは全く異なるだろう。多くの言葉は言わなくなる。なぜなら言っても無駄であり、大学教授が幼稚園児を見るように、到底教えられないと感じるからである。あなたが成仏した時、うごめく衆生を観れば、貪・瞋・痴の煩悩が一面に広がり、あまりに愚痴である。その時も同様に、深遠な仏法を、そんな衆生に説くなんて、到底考えられない。牛に対して琴を弾くようなものだ。衆生と同程度のレベルにいるときは、決して衆生がどうこうとは思わない。しかし、そのレベルから離れ、上に跳び上がって下を見下ろすと、その心境はあなた方には理解できず、想像もつかない。だから言っても無駄である。諸仏菩薩聖者たちには理解者がおらず、非常に孤独である。衆生は理解できず、ましてや聖者の心境を体得することはできない。

七、初地菩薩は欲界を離れているか

ほとんどの菩薩は一般に人間界で弘法利生に努めるが、禅定の深さはそれぞれ異なる。初地以上の菩薩は必ず初禅以上の色界禅定を具え、人間界で衆生と共にいる。少数の菩薩は様々な天界で修行・学び、衆生を度している。禅定の証量と煩悩を断除する証量から言えば、初地以上の菩薩の心は欲界を離れており、欲界の煩悩や貪着はない。

八、諸仏菩薩は災難に遭ったらどうするか

仏陀が琉璃大王が軍隊を率いて釈迦族を滅ぼそうとした時、どうしたか? 今回、我々学仏者がウイルス感染の災難に遭い、医療従事者のように病気を治し人を救い、ウイルスを殺すことはしなかったが、我々仏教特有の衆生救済の方法、例えば経を読み仏を念じ法を学ぶ功徳を回向し、それによって感染症の早期終息を促し、国家に対しても当然の貢献をし、ある程度衆生を救済した。この程度が実際どれほど大きいかは、今は言いにくい。ただ、この回向が果たした役割は小さくないと言えるだけである。では、諸仏菩薩の功徳は無量であり、天災人禍に遭った時、衆生の災難を解決するには、多くの方便善巧(巧みな手段)があり、殺生や衆生との悪縁を結ぶ方法を用いずに、あらゆる災難を解決できるのではないか?

衆生の福徳と智慧が不足している時は、災難を解決するには殺生と敵対しか考えられず、より良い解決方法は思いつかない。福徳と智慧が十分あれば、一つの心念で災難を解決できる。だから衆生は災難に遭うと自然に諸仏菩薩を思い出す。諸仏菩薩は智慧が高く広大で、塵を払うほどの労力もかけずにこれらの問題を解決できるからである。ただし、衆生にそれを受用する福徳があるかどうかによる。だから、誰もが努力して修行すべきである。修行こそが根本の道理であり、修行がなければ永遠に悪業を造ることを避けられず、その後悪報を受けることになる。

九、仏陀の寿命

ある劫では、仏の寿命も衆生の寿命も非常に長く、劫を単位として計算される。一小劫は1680万年である。仏の寿命は十二小劫の時間を示現することもでき、それ以上長くすることもできる。それは仏が菩薩であった時の善業によるし、また衆生の業力にもよる。しかし、これはあくまで示現である。仏の実際の寿命は全て無量寿であり、無限に長く、時間の制限はない。釈迦仏が今回娑婆世界で示した寿命は八十年であり、当時の衆生の百歳の寿命に似ている。これは衆生の業力によって決定された。釈迦仏は娑婆世界に一劫以上住世することもできたが、衆生に福がなく、これほど殊勝な果報を感得することは不可能であり、仏陀が長く住世しても仏教や衆生にとって益がなかった。だから仏陀は縁に随って八十歳の寿命を示現した。

十、仏法上の智慧は世間法の智慧から離れられるか?

無明とは、理解できない、明らかでないという意味であり、一切の万法に対する理解不足、不明瞭を含む。諸仏は一切の無明を断じ尽くし、出世間の一切法を明らかにし、世間の一切法も明らかにする。一つとして明らかでない法はない。世俗法の中の任意の一法について仏陀に尋ねても、仏陀が明らかにせず答えられないことはない。だから、世俗法に通達せず、人としての道を行い事をなすことができないのは無明であり、その仏法も通達していないことになる。

諸仏および諸地の大菩薩は、仏法に通達するだけでなく、同時に世俗法にも通達している。世間で衆生と交流する時は、皆衆生の心を明らかにし、世間の事を明らかにし、行う選択は世俗に背かずに広く衆生を度し、衆生に度されることはない。

仏法上でどの程度通達しているか、それに応じて世間法上でも同じ程度通達する。仏法と世間法は互いに補い合う関係にあり、世間法を離れて仏法を成就できるということはない。もしできるなら、仏法は世間法と無関係ということになるが、実際には仏法は世間法から決して離れたことがなく、世間法と緊密に結びついている。仏法は世間法を効果的に指導できる。もし仏法上の智慧が高いのに、世間法ではことごとく壁にぶつかる者がいるなら、その者は仏法に通達しておらず、真の仏法上の智慧がないことを示す。いわゆる智慧は乾慧(生乾きの智慧、実践を伴わない知識)に過ぎない。

諸地の大菩薩から仏陀に至るまで、皆世間で宰官・大臣・君主、および転輪聖王や各層の天の天主となることができる。世間法に必ず通達している。そうでなければどうして君主や転輪聖王、天主となれるだろうか? どうして衆生の俗界の事務を管理し統治できるだろうか? どうして衆を服させ大衆を統率できるだろうか?

智慧は相通じる。仏法上の智慧は世間法の智慧から離れて単独で存在することは不可能である。仏法は世間法の上で実践されなければならず、世間法の上で実践が通じなければ、仏法も通じていないことを示し、世間法に応用できないに至る。仏法上の証量は全て、世間法の上の身・口・意の行いを通じて現れなければならない。身・口・意の行いが転変清浄せず、物事を処理して円満でなければ、その者の道行(修行の境地)はまだ及ばず、定力・福徳力・智慧力が不足していることを示す。だから、世間法を離れて現れる仏法はない。

十一、念仏法門における他励とは具体的に何を指すか?

他励とは、外的な因縁による励ましや激励を指し、仏の加持力と言える。特に念仏する時、念仏すれば仏に感応し、仏は感ずれば念仏者の心念と心願を知り、念仏者に加持の働きを起こし、念仏者の道力を高めるのを助ける。

仏菩薩の加持は一般に、衆生の五根(信・精進・念・定・慧)と五力(信力・精進力・念力・定力・慧力)を成熟させることに現れる。この五根に依って五力が生じる。衆生は五つの力の作用の下で、道業が絶えず進歩し、心が清浄になると、収穫があり、成就が得られる。

十二、なぜ過去の祖師大徳たちは説法する時、一般に経典を引用しないのか?

過去の祖師大徳は皆、真に修行があり、真に修証があり、真に徳行がある真の開悟の菩薩であった。そのため説法する時は、ただ自分の智慧と見地を説き、深く理解しようと求めず、また隠し立てもせず、ありのままに語り、理に従って論じた。もし時折経典を引用するならば、一つには因縁が熟さず、信根や智慧が不足している者のためであり、もう一つは法義が深い時に仏経を用いて補助的に説明するためである。

別の面から言えば、昔の学人は善根が比較的厚く、福徳・禅定・智慧がどれも比較的良好で、信根が足りており、択法眼(法を選び取る眼)があり、祖師の開示に対して正しい択法力と信受する力があった。そのため、祖師菩薩たちは説法する時、安心して自分の智慧の証量が知ることを説き、後顧の憂いがなかった。しかし現在の衆生は善根が軽く少なく、福徳・禅定・智慧がどれも不足し、信根が足りず、択法眼を欠いている。多くの者は騙す言葉は聞くが忠告は聞かない。だから説法する時は多く経典を引用して信を起こさせる必要がある。別の面では、もし説法者の修行歴が短く、真実の智慧の証量がなく、法義にまだ通達していなければ、経典を引用せざるを得ない。たとえ経典を引用しても、一つには衆生がありのままに理解できず、二つには説法者も経典を貫通していないので、依然として誤解や誤りを免れない。これは衆生の業力が感ずるところであり、業が重く福が薄いと、修行の道は曲折し、進んでは退き、いつ終わるか分からなくなる。

十三、雌雄同体の境地

身心は互いに依存し、互いに影響し合う。もし意識に障害が現れるなら、必ず勝義根(微細な感覚器官)に問題がある。勝義根の問題は、一つには先天の業種が縁熟して現行し、業報が現れたことによる。もう一つは後天的な要因によって勝義根に障害が生じたことによる。身の外に跳び出して色身を見ると、全体は絶えず潤滑油を注ぎ続けなければ働かないロボットのようなものであり、本当に貪愛するに値しない。高尚で徳行のある魂は、色身の価値よりはるかに高い。智慧のある魂は色身の価値より計り知れないほど高い。だから我々は皆、より高い次元の心霊を追求し、心霊の智慧と解脱を追求すべきである。

そして、高い次元の心霊は必ず識が転じて智となり、定と慧を具え、色身を変えるに足り、色身に相好荘厳を具足させ、男相の長所も女相の長所も持ち、外見上は男性的特徴も女性的特徴も備え、男相と女相を完璧に融合させて、雌雄同体に到達する。禅定の功夫(修行の深さ)によって雌雄同体を修め出し、色身を無漏とし、異性に依存して自身の不足を補い埋め合わせる必要がなくなる。そうすることで人格は独立し、自身はますます完璧になり、将来は蓮華化生できる。初禅以上の禅定があれば、初歩的な雌雄同体がどういうものか分かるが、初禅定だけでは不十分で、長い時間の熏修、さらには長劫の熏修が必要である。

これは禅定と色身の角度から論じた雌雄同体である。最も根本的な雌雄同体は精神上・心霊上のものを指す。精神、毅力、性格、気質、風格、人格、教養、品行などの面で、男性的な長所と智慧を具足すると同時に、女性的な長所と智慧も具足し、心志上の不足を補うために異性に依存する必要がない。なぜなら自分自身が二重性を持ち、すでに完璧か完璧に近く、世人に優れているからである。大菩薩たちは一般に雌雄同体であり、二つの性別の長所をすべて備えている。智慧も身体相貌も含まれる。仏菩薩の相貌は男か女か区別がつかず、智慧の面では男女とも同じである。だから大丈夫(偉大な者)と呼ばれる。

色界の天人の相貌は男女を分たず、皆初禅以上の禅定を持っている。極楽世界や多くの仏国土の人々も男女を分たず、性別の区別がなく、色身は永遠に若い。これは禅定、福徳、智慧が感得した果報である。性別の区別がない時は、付き合いが特に自在であり、違和感もなく、是非もなく、煩悩の感情もなく、快適で自在で自然に感じる。一方、二つの性別が一緒に付き合う時は、面倒なことが多く、多くの精力と心力を浪費する。

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