衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

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仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2026年04月04日 閲覧数: 954
<h2 style="text-indent: 2em;">第十章 修為篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、人が何も求めなくなれば品性は自ずから高くなる、とはどんな思想境界か</h3>

人が何も求めなくなるとは、いかなる法に対しても刻意に追求せず、求め取ろうと方法を考えず、何に対しても心思を用いないことであり、これが無為です。内心が無為な人は、いかなる手段を用いて何事を謀ることもなく、たとえ正当なことであっても刻意に心を用いて得よう争おうとせず、ましてや不正なことを不正な手段で行うなど、あり得ません。そうであれば、人は何事においても人と争わず、世と争わず、事とも争わず、争う心がなければ、ましてや奪う心、騙す心、盗む心はなおさらありません。何事にも求めることがなく、随縁に日を過ごせば、その人の品徳・品格はきわめて高尚であり、思想境界も浑然として我を忘れたものとなります。

普通の人はたまにこうすることができるだけで、ある一つの事においてそうできるだけです。もし人が常にこうすることができ、心行が常にこのように清浄で淡泊であり、無欲無求であれば、その人はもはや普通の人ではありません。ではどんな人か?必ず我見を断じた人であり、心中に我がなく、しかも一般に我見を断じた初果・二果の人ではなく、必ず煩悩を断除した三果・四果の人です。もちろん阿羅漢たちの品格はみな高尚であり、その徳行・修養は人の中の第一であり、天人をも超え、人天大衆の師であり、人天の応供です。

もし这样的阿羅漢がさらに衆生を利益する事を多く行い、内心に常に衆生を度する志願を抱き、常に衆生の苦を思い、常に衆生が苦難を超脱するのを助けたいと考えているならば、その阿羅漢は菩薩摩訶薩、初地から八地です。もちろん八地以前の菩薩の心は、いかなる時も無為であること、自然のままに為すこと、因縁に順応することはまだできず、いかなる時も無欲無求であることもできず、煩悩習気の影響がまだあります。八地以上の菩薩の心のみが、時時刻刻無為であり、任運自然で、刻意な造作を要せず、心空・法空であり、禅定は極めて深く、智慧も極めて深く、永遠に因縁に随順し、自然のままに衆生を度する事業を成就でき、我をも執せず、法をも執しません。

いかなる人の品格・品徳もその修証と関係があります。修証の高い人ほど心は空であり、心が空であるほど心量は大きく、無為であるほど品徳は高いです。修証の結果はみな世俗法の中に現れ、その無為の心行も世俗法の中に現れ、衆生を度する過程の中に現れ、一切の事業を行う中に現れます。だから、人に修証があるかないか、道があるかないかは、智慧のある人がその身口意行を見れば観察し検証することができます。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、侮辱を受けても動じないことこそ道器であり、師の法を受けるに堪える</h3>

古語に云う: 凡验人,以辱之骂之而能受者可矣,以抑之挫之求而不予亦能顺受者可矣。先能承其重,则后能享其荣。仏法の修証においては、道器たる者は必ず一切の重さを担い、一切の侮辱を受けられます。なぜなら心空無我であり、道に相応するからです。常に己の意に順おうとする者は、器に非ず、用いることができません。我の心があって空でなく、道に相応しないからです。何事も己を先とし主とし、他人を後とする者は、みな我が重く、道器に非ず。大器たる者は必ず大量であり、心量が大きくてこそ一切を担えます。宰相の腹には船が浮かべられると言いますが、心の狭い者は糞穂しか容れられません。志願と担うべきもののある大心大量の者に対しては、機会があれば磨難を与え、その心性を磨きます。百錬してこそ鋼となり、種々の逆境の鍛錬と試練にすべて耐え抜けば、器も鍛え上げられ、以後は一切の苦楽の境界もどうすることもできず、心は頑石の如く、将来初禅が到来し魔王が乱しに来ても心が動かされなければ、初禅の関は過ぎ、証果の後は必ず煩悩を断じます。

禅定の功夫のある人は定力が強く、往々にして心性が柔らかく、自分に加えられるいかなる屈辱も計較せず、屈することも叫ぶこともなく、心は空と相応します。昔修道する人は、ある程度まで修めると、師匠はその人を試験し、耐受力を高めます。辱め罵られ、理不尽に打たれ、根拠なく罪名を着せられても、弟子は屈したとは感じず、弁明もせず、ましてや怒って飛び出すこともありません。打っても逃げず、罵っても逃げない人こそ、真の弟子であり、度すことのできる道器です。心空の人はいかなる欺辱も意に介さず、学ぶべき法があり、修むべき道さえあれば、心は拠り所を得て、その後まもなく道を証します。道には目があるということが分かります。

趙州和尚は言う、上等人禅床上接,中等人门口接,下等人山门外接。より下等な人ほど心量は小さく、見識は狭く、我は重く、柔軟語と愛語を必要とし、たとえ間違っていても直接指摘することはできず、ましてや叱責はできません。少しでも叱責すれば、逃げ出して投げ出してやめてしまい、ひっくり返って師を辱め誹謗することさえあります。上等な人は心量が大きく、自我の観念は軽微で、情が少なく執念が少なく、心は道の中にあり、道の外の人・事・物・理を問題にしません。だから自尊心が強い人ほど、尊重と包容を必要とし、語気は婉曲で丁寧であるべきですが、内心の強い人は、ただ率直に、頭から浴びせるようにしてよく、丁寧である必要はありません。器量が大きいからです。道があるかないか、修があるかなしかは、一目瞭然です。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、大乗人が備えるべき修為とは何か</h3>

今多くの人が自分は実修だと言いますが、一体どうすれば実修と言えるのでしょうか?戒定慧の修行は小乗の修行に属し、大乗の修行は戒律と禅定に拘泥する必要はなく、正知正見さえあれば見道できる、所謂只重子眼正不重汝行履、と言う人もいます。これは大乗の実修の問題に関わり、実際には仏法の実修の問題です。なぜなら仏法の修行は、大乗と小乗を分けず、無明があればすべて断ち切らねばならず、一つの無明があれば仏には成れず、最初の無明を断たずして、どうして後続の無明を断てましょうか?前の無明が断たれれば遮障が断たれ、後の無明がはじめて断てます。粗い浅い無明を断たずして、どうして深く細かい無明を断てましょうか?

大乗はどのように実修すべきか?何が実か?何が修か?大乗は小乗を離れてある大乗なのか、小乗に背いてある大乗なのか、それとも小乗を含んでこそ大乗があり、小乗より高くてこそ大乗があるのか?小乗が備えている一切の修為を、大乗菩薩はすべて必要としないのか?小乗の戒定慧を、大乗菩薩は修めなくても菩薩と言えるのか?小乗は煩悩を断じなければならないが、大乗菩薩は煩悩を断じる必要がなく、煩悩を抱えたまま深く修め続け、仏になれるのか?小乗に定があるが、大乗菩薩は定を必要としないのか?小乗は悪を断じ善を修めるが、大乗菩薩は必要としないのか?小乗の人品・修為を、大乗菩薩は備える必要がないのか?大乗菩薩は小乗より人品・修為が劣っていて当然なのか?

小乗人が備えている品質は大乗菩薩もすべて備えているべきであり、すべての大乗菩薩は一歩一歩小乗の修学を経てきたものです。大乗の実義の菩薩は如来蔵を証得し、如来蔵の体性と働きを現前観察したので、心行においていっそう清浄無為であり、この点は小乗で証悟していない人には想像も理解もできません。学人が大乗菩薩を自任するならば、小乗の修為を備え、戒定慧を具足し、粗重な煩悩を降伏・断除し、必ず定慧を具足し、心地は善であり、品性・修為は絶対に凡夫と小乗人より高くなければなりません。さもなければ大乗人であると自分で自分を正当化することはできず、むしろ小を軽んじ大を掴めない狂人と愚人です。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、仏法の理論を修学する目的は何か</h3>

法を学ぶ目的は、五陸の束縛から解脱し、種々の法の束縛から解脱するためであるべきです。誰が解脱するのか?第六識・第七識が解脱し、前の七つの識が解脱するのです。前七識には五陰の我の束縛があり、我執があり、法の束縛があり、法執があるので、法や理論を学ぶのは、七識に五陰の虚幻不実であること、執著している生死の過患を、十分かつ完全に認識させ、法の虚幻不実と法の束縛を十分かつ完全に認識させ、もって束縛を振りほどき、解脱を得させるためです。もし法を学ぶのが理論的知識を獲得するためだけで、意識が口先に掲げて到る所で誇示し炫耀し、博学を示すためであれば、それは心の使い方を誤ったものであり、これは別種の執著であり、やはり無明と束縛です。

多くの人が如来蔵の法を学び、何を語っても如来蔵に当てはめ、七識・五陰の修学・変化、無明の消除と煩悩の断除といった事に決して触れず、如来蔵の清浄な心行と照らし合わせ、その後七識・五陰の染汚した心行を懺悔し消除することを決して知らず、如来蔵の清浄の理と五陰・七識を二つに切り離し、如来蔵の理はただ口先に掲げるだけで、七識の心行は相変わらず元のままで、理論の追求に熱中し、心を静めて自心の無明と煩悩を反観することなく、まして内心の染汚をどう調伏するかを考えません。そのような学び方は修行とは無関係であり、慢心を増やすことにもなり、自分は多くを知っていると慢を生じ、人を見下し、結果としてまた無明煩悩を増やします。そんなことをして何の意味がありましょう?

私たちは皆、はっきりと理解すべきです。如来蔵がどうであれ、それは七識の心行を代表しません。如来蔵は皇帝であり、あなたの七識・五陰は依然として賤しい身分であり、粗末な服の民であり、貧しい人であり、互いに代わることはできません。如来蔵の清浄性・無我性を学び、染汚を除去し、福徳と智慧を獲得してこそ、あなたは一歩一歩高昇でき、いつ福徳・智慧・品行が如来蔵と肩を並べるようになった時、はじめて如来蔵と同じく帝王となり、尊貴この上ないものになれます。自心を観ずらず、自心の煩悩を懺悔せず、自分を変えようとしない者、身・心に何の変化もない者、実際に戒定慧の修行に着手しない者は、みな修行とは言えず、修道とは無縁であり、学んだそれらの理論が自分の負担にならないだけでもまだよい方です。だから、一方で口を開けば如来蔵と言いながら、他方で貪瞋痴の煩悩が重重にありながら自覚しない、ということはしないでください。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、自分に勝ってこそ一切に勝てる</h3>

何らかの成就のある人は、みな非常に厳格に自律できる人です。世俗においても仏法においても、自律してこそ成就でき、自分を越えられます。無我の成就は一切に勝り、一切の事業を成就できます。逆に我のある人は、到る所でこまごまと計算し、心量は小さく、己は容れるが人を容れず、いかなる事業も成就しにくいです。一人ひとりが無私無我で一心に仏教のために事を行えば、得られる福徳は相当に大きく、この福徳によって大智慧と解脱を得ることになります。

人それぞれが自分の私心と闘うことはまったく構わず、自分の貪心と闘うことはまったく問題なく、自分の瞋恨心と闘うことはまったく構わず、自分の嫉妬心と闘うことはまったく問題なく、自分の人我是非心と闘うことはまったく構わず、自分の争権奪利心と闘うことはまったく問題ありません。要するに、自分と闘うこと、自分を闘うことは、まったく問題ありません。ただ他人と闘ってはならず、人と争ってはならず、名利の事に遭遇したら避けて通ることができ、頭を出さず、争い奪い盗まず、他人の利益を損なわないことです。責任を担うだけで、権利を争わないことです。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、開悟後の変化</h3>

禅師たちは言う: 悟后犹是旧时人,只是不是旧时行履处。意味は、開悟後の人は、他人が外見から見ればまだ元のあの人ですが、しかし彼の心行・徳行などの面はすでに以前と同じではなく、変化があり、改まりました。もちろん清浄になり、良くなり、徳行・修養がみな向上し、心性はいっそう善良で、いっそう純真無邪になったのです。なぜか?彼は五蘊無我を証得し、心地が通达したからです。無我である以上、一部の私心と雑念が取り除かれ、道徳は自然と多く高尚になり、情操・修養は自然と多く向上し、物事をする出発点・着眼点・器量はみな変化があり、人の全体の心行が変わります。人相はまだ元のあの人のままであっても。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、生死輪回が最も損である</h3>

もし仏を学んで愚か者のように学べ、傻子のように自我の私的利益を顧みなければ、無我となり、成就します。我があることを知らず、人が私を欺き、罵り、辱め、貶すことを知らず、他人の言辞に無動無衷で、いかなる計較もせず、自分とは無関係であるかのようにすれば、無我の大果を得ることになります。人はあまり利口であることを恐れます。少しも愚かでなく、種々の算段をめぐらし、利を追い害を避け、利己的であること。我のある人はみな愚かでなく、みな算段をめぐらし、みな損をすることを承服しませんが、結果は因果に計算され、生死輪回の損をしました。六道に身を置いてひどく損をし、何の殊勝な果実も得られず、損をしないはずがありません。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、磁場効果とは何か</h3>

磁場の磁とは、一種の強力であり、大衆を引き寄せて一つに集める力です。場とは場所、道場、処所、拠り所です。磁場には物質的磁場と非物質的磁場があり、物質的磁場は四大の種子が形成する引力・求心力であり、非物質的磁場は識心・心所法が形成する引力・求心力と熏染力です。

もちろん磁場には反発力もあり、負のエネルギーもあります。負のエネルギーとは邪気であり、磁場効果が負であれば、あなたの正のエネルギーを吸い取り、いくらかの正気を失わせます。負のエネルギーのある人々から離れ、自分を毎日楽観的で前向きにさせましょう。負のエネルギーと弱い磁場を持つ人は、実に非常に多く、すべて対処するのも容易ではありません。しかし、ある人が負のエネルギーや弱い磁場であるかどうかは相対的であり、ある人にとっては負のエネルギーでも、別の人にとっては正のエネルギーであり、ある人にとっては弱い磁場でも、別の人にとっては強い磁場です。これも縁が異なり、勢いが異なることによって生じる差異の現象です。善縁であれば磁場には引力があり、悪縁であれば磁場には反発力があります。物質的磁場には引力波がありますが、非物質的磁場は何によって引き寄せ、反発するのでしょうか?

もし外道があなたの対面であなたの法話を聴いていれば、あなたはすぐに強大な圧力を感じることができます。道が異なれば磁場も異なり、彼の磁場の干渉は非常に大きく、邪見が大きいほど阻害力が大きいのです。あなたがもともと話すつもりだった殊勝な仏法も、外道の前で話すとぎこちなくスムーズにいきません。人と人の間で差異が大きすぎると一緒にはいられず、さもなければ不愉快になり、双方に圧力があり、ひどいと紛争や矛盾が生じ、誰もうまくいきません。婚姻や家庭も同様で、釣り合った家同士こそ愉快で和やかに過ごせます。一つの団体も同類が集まり、志を同じくし、層が大体一致してこそ和やかであり、さもなければ紛争や矛盾があり、それぞれに心理的圧力があります。層の低い人は層の高い人の磁場を衝撃し、層の高い人の水準を引き下げ、層の低い人も層の高い人に追いつけないため、心中に怨みの気を抱きます。互いに関係を調整しにくく、磁場のバランスに達することができません。

ブッダもかつてすべての弟子を避け、一人で森林の中に座禅し、弟子を身近に寄せ付けず、侍者の阿難さえも傍に従うことを許しませんでした。ブッダは長期にわたり自分より弱い衆生の磁場の衝撃を受け、心力・体力は影響を受けます。ブッダは永遠に衆生に需要され求められ、常に与えるだけで、出るだけで入らないのですから、心力はどれほど強大でなければならないでしょう。諸仏はなぜ孤独か?それに相応する磁場の人がいないからです。ブッダは常に与え施す側であり、他人はみな受施者であり、差異があり同等でないため、孤独なのです。菩薩がこの世間に来ても孤独であり、同等の者・同類の者・同行の者がおらず、みな外に向かって施し救度するだけで、磁場は外に放出されるだけで入らず、時間が長くなれば、自分の磁場のエネルギーは消耗され、エネルギーが不足すれば、体力と心力は弱まります。これも衆生のために業を背負う原理です。

諸仏はすでに一切の法を円満されていますが、大雄大力でありながら、なお衆生の影響を受けるのはなぜか?肉体があればエネルギーを消耗するため、エネルギーの補充が必要であり、ブッダが人混みを離れて静座するのはエネルギーを補充するためであり、肉体でなければ影響を受けません。仏教史上のすべての修道者は、みな孤独な一人で修め、付き添う者がいれば修め上がりません。道行の同じ者を見つけて互いに付き添えば、磁場を弱め、修行は成就しにくいからです。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、磁場と加持力の原理</h3>

問:ある人が特に静かで安らかであれば、周囲の人もその人のそばでたちまち静かになり、とても心地よく感じます。この人には特に何があるわけでもないようですが、ただ一種の感染力があります。これはなぜでしょうか?

答:心識が静かで徳行の良い人は、摂受力と加持力があり、磁場が良く、影響力も良いのです。その人の身からは比較的明るく柔らかな光が放たれ、そばにいる人は見えないながらも、この清浄安らかな光を摂取し、心境も愉快で心地よく安らかになり、身体も清浄で健康になります。眼通のある鬼神は、人の色身から放たれる光から、この人に修養や修為があるかどうか、徳行の善し悪しを見抜くことができ、鬼神は徳行の良い人を自然と尊敬し敬愛し、徳行・修養の良くない人を見下し、ひどいとその人をいじめさえします。天人や神通のある諸大菩薩は、なおさら人の外見の光から、この人の修行の道行がどうであるかを見抜くことができます。

修行のある人が使用する物品には、一定の加持力があり、他人を吉祥にし心を安穏させることもできます。その人が接触し使用する物品には、その人自身の心力の働きがあり、その人の心は吉祥安穏であるため、物品にも吉祥安穏の磁場が生じ、修為が高ければ高いほど、その磁場力は大きく良く、人をいっそう安詳で愉悦にさせます。他人がこの物品に接触すれば、吉祥安穏の磁場の感染力を受けます。人が使用するものには、それぞれ自分の信号があり、自分の情報があり、物品に記憶力があるかのようです。あるものは誰が使うかに従い、物理的性能もみな異なります。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、磁場効果</h3>

近朱者赤近墨者黑。熏染は無形の間になされ、最初は毛に染まり、次に皮に染まり、次に肉に染まり、次に筋に染まり、次に骨に染まり、最後に髄に染まります。髄まで染まれば根深く固く、抜き去ることが難しくなります。赤も黒も同様です。だから周囲の磁場は非常に重要であり、交わる人が最も重要です。自分の抵抗力が強大だからといって、善友を選ばずにいてよいというものではなく、熏染を受けないのは八地以上であり、絶対に熏染されないのは仏地です。隔陰の謎のある再来人も、迷いの段階では依然として軽微な染汚を受けますが、意識が染まっても、容易に抜き去ることができ、しかし影響力はあります。

なぜ一つの団体は一種の風気なのか?一つの家庭は一種の習気なのか?伝染によるものであり、知らず知らずのうちに習慣が形成され、さらに知らず知らずのうちに習気が骨髄に入れば、世世現行します。善悪ともに同様です。私たちがみな良い団体の中で熏染され、朱に近づいて生き、強い煩悩習気のある団体の中で熏染されず、墨から離れて生きることを願います。そうすれば福徳の集積は非常に速く、自身の磁場の変化も非常に速くなります。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、いつも香りを嗅ぐのはどういうことか</h3>

ある人は仏を学んで精進すると、時折特別な香りを嗅ぐことがあります。一つは体から出る香りで、心が清浄になったため、気脈が通じ、体内の香りが出てきたものです。もう一つは外から来た香りで、天人や護法神が身辺に付き添っており、彼らがもたらした天香です。もしあなたが身近な人にいくらか粗浅な法を話せば、天人が聴きに来る可能性があり、周囲はとてもとても香しくなります。これは天人の香りです。常に呪文を唱えていれば、護法神が付き添って護法し、彼らがもたらした香りもあり、これも天香です。

天界の香りは、私たち人間の世界にはなく、見つかりません。あの香りは非常に特別で、人の心境を明るく開放的に愉悦させ、心を清浄で静かで明るくし、煩悩を消除できます。善根の良い人は、護法神が随時付き添って護持してくれるので、進歩が非常に速くなります。もし戒を厳しく守れば、護法神もあなたに対して責任を持ち、随時管理守護し、煩悩を軽減させ、習気を変えさせ、多く善業を造らせ、悪業を造らせません。

だから、力の及ぶ限り多くの福行 (Puṇyābhisaṃskāra) と善行を行えば、最も利益を受けるのはやはり自分自身です。表面的には他人のために行っているように見え、他人が好处を得ますが、実際には自分が得る好处が最大で最多です。多くの人に福を修める機会を与えても、何を言っても要らず、まるでひどく損をするかのようですが、実際には自分が福を修めず他人と仏教のために事をすることを望まないため、多くのすぐ手に入る利益が得られず、それは自分が損をしているのではないでしょうか?

人が利己心を改めず、自分の利益だけを考えれば、どれほど大きな利益も得られず、自分が損をしないことだけを顧みても、実際には大きな利益は得られず、これが失うことです。最後には自分の既存のわずかな利益も保てず、守れません。心量が狭すぎれば、道業は進めず、修行は心空無我であるのに、一日中利己的な我を守りながら、さらに無我を修めようとするのは、どれほど矛盾していることか?我を抱えたまま無我を修めて、いつ無我を修め上がるのでしょうか?徐々に自我を手放すことを学んでこそ、無我になれるのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、仏教徒は株をやってもよいか</h3>

八正道の中に正命と正業があります。正命とは、合理的で、人を欺かず、人の利益を損なわない方式で自分と家族を養うことであり、さもなければ行う道は正ではなく邪です。正業も同様で、行う一切の生業は、みな正でなければならず、人を欺き人の利益を傷つける邪の業行をしてはならず、邪法で人の利益を損なうのは菩薩行ではなく、すべての修道人が行うべきものでもなく、そこには因果の関係があり、将来因果を酬い償う必要があります。菩薩は善く因果を知り、因果の律則を厳守すべきであり、そうすれば過患はありません。菩薩の心行は己を捨てて人に為すものであるべきであり、行う世俗の生業は、最も基本的な行持として衆生の利益を傷つけないことであり、少なくとも双方が得をする(ウィンウィン)に達しなければならず、自分が勝ち他人が損をするのではなくてなりません。もし双方が得をすることができなければ、いっそ自分が損をしても、他人を損させてはなりません。株をやる心理は、まさか自分が損をし他人が勝つことを望むのでしょうか?双方が得をすることができるのでしょうか?

<h3 style="text-indent: 2em;">十三、衆生はただ仮の仏にすぎない</h3>

善知識が愚かな弟子に問う:あなたは仏か?弟子はためらい、善知識は言う:どうしてまだ引き受けられないのか、まさかあなたは仏ではないのか?弟子はそこではっと悟った:私は仏なのだ!どうして仏でないことがあろう?善知識であるあなたも仏であり、私も仏であり、私たちは互いにみな仏だ。皆が一緒に互いに讃え合う、あなたは仏、私は仏、あなたは神、私は神、あなたは衆生を度し、私は衆生を度す。それぞれ仏であると印証し合った後、善知識は言い付けた:仏には修も証も得もなく、私たちは以後修行する必要もなく、保任すればよい。そこで愚かな仏たちは毎日雲の上に高く立ち、ニコニコと仮の仏を演じ、何も学ばず修めなくなり、それを保任と称した。

どれほど多くの人が虚栄心が猛烈で、騙されることを好み、虚名を好み、自分が特別だと感じさえすれば何でもよく、騙されても値すると思い、彼らが生きているのはあの感覚なのです。徐々に牛鬼蛇神までもが出てきて善知識として衆生を度し、衆生をことごとく牛鬼蛇神の隊列の中へ度していきます。こういう人たちはひたすら牛鬼蛇神の類を好むので、誰に何ができましょう?三千大千世界如一器中,储百蚊蚋,啾啾乱鸣,鼓发狂闹。

<h3 style="text-indent: 2em;">十四、衆生の無明の病の現れ</h3>

衆生の無明は最も根本的な精神の病であり、第六識・第七識の颠倒した知見と错乱した思想です。社会大衆の精神の病についてはもう語らず、仏を学ぶ人の精神の病だけを語りましょう。仏を学ぶ人の精神の病にはどのような現れがあるのか?根本は何から来るのか?精神の病は集団の精神病と個人の精神病に分けられ、個人の精神病だけでもすでに対処が非常に難しいのに、集団の精神病が発作を起こせば、仏といえどもしばらくは対治できません。衆生は大きな染め缸の中で痛快に熏染されており、知らず知らずのうちに、まるで古酒を何壺も飲んだかのようで、起こすことができません。

仏を学ぶ人の精神の病は、自我の誇示に現れ、根本は根深く固い我、あの強烈な自我に由来します。衆生のあの我がどれほどひどいか、例を挙げれば、当時ビジネスに身を投じて起業することが流行り始めた頃、社会に突然無数の社長や会長が現れ、数え切れず、工商局で許可証を発行する人が言うには:あなたの会社はせいぜい二、三人なのだから、役職は「経理(マネージャー)」でよい、社長や会長には届かない、と言いました。しかし町中はまだ社長だらけで、もし空から石が落ちれば、一撃で二、三十人の社長と何人かの会長を打ち殺せるほどでした。

今、仏を学ぶ隊列の中で、衆生の我の現れも同様で、いかに自分の特別さを誇示できるかをどうにかするのです。善知識、開悟した菩薩、再来の菩薩、等覚・妙覚の菩薩が無数におり、導師が山ほどいて、天下が大聖人だらけです。もし空から大きな石が落ちれば、たちまち二十人ほどの開悟した菩薩、十人ほどの善知識、五人ほどの等覚・妙覚の菩薩、そして三人以上の導師を打ち殺すでしょう。みな打ち殺されても結構です。娑婆世界は聖人でとうとう人であふれかえっており、これらの聖人に早く他の仏国土へ行って衆生を度してもらおう、娑婆世界はこれほど多くの人を必要とせず、一緒にいてはけんかもするので、行かなければ無理やり立ち去らせます。

もし幸運にも精神病類の善知識に出会えれば、たいてい数日で開悟へと導かれ、多くても一か月を超えません。開悟してその三、五日、あるいは数か月で、団体を組織して法を説き衆生を度しに行く支度をします。聖人が繁殖しすぎるため、娑婆世界はたちまち度すべき衆生がいなくなり、釈迦仏は完全に一息ついて、心を安らげることができます。その後、これらの大聖人を他方世界へ広げ、他の諸仏の衆生を度すのを助け、十方の諸仏にも一息ついて、心を安らげてもらいましょう。

今後あなたたちがまたどんな善知識、どんな等覚・妙覚の菩薩、どんな再来人、どんな阿羅漢、どんな導師などに出会ったら、できるだけみな分散して、善知識も聖人もいない他の場所へ行って衆生を度するように勧め、みな小さな娑婆世界にひしめき合って騒がしく人を騒がせてはなりません。娑婆世界はもうほとんど聖人だらけで、度すべき衆生は多くなく、聖人の才徳を無駄にしてはなりません。今後また誰かが自分は開悟・証果したなどと言ったら、あなたたちは、これはもう珍しいことではなく、到る所に証果・開悟の人がいるのだから、何が不思議で誇るべきことがあるのか、と言いなさい。到る所に法を説き衆生を度する善知識がいて、それも決して珍しく誇るに値することではありません。

しかし一つの怪しいことが理解できません。娑婆世界で生産される聖人がますます増えるにつれて、なぜ天災人禍もますます増えるのでしょうか?まさかこれらの聖人がもたらした天災人禍ではないのでしょうか?なぜ聖人の繁殖速度がこれほど速く、ゴキブリの繁殖のようなのでしょうか?衆生があまりにも愚痴で愚かすぎるからです。愚痴すぎ、愚かすぎ、エゴイズムが過ぎ、求めることが多すぎるのです。仏経を学ばず、道しるべの灯を要らず、進んで目の見えない猫になりたがります。目に五枚の黒い布をかけられ、一人にぶつかれば善知識と認めて連れて行かれ、何を言われてもそれが何であるかのように、深い催眠をかけられたかのように、頭を働かせられず、人に何を植え付けられればそれが何であるかと、丸ごと受け入れます。

これらの所謂善知識はブッダ本人よりもすごく、衆生を五体投地させるので、開悟は極めて迅速であり、ブッダの指導水準をはるかに超えています。ブッダがこの世間に来られても、数人を開悟させることしかできなかったのに、これらの善知識は難を易に変えられるのです。奇妙ではありませんか?なぜあの精神病の衆生は開悟した後、自分が騙されたことを少しも疑わないのか?愚痴も一つの面ですが、最大の面は我性が強すぎることで、開悟という虚名さえあれば、たちまち自分が高大で威武になり、衆人を超えたと感じ、心中の満足感が爆発します。そしてこれらすべての感覚は、非常に深刻な我性の氾濫であり、自分では少しも覚知していません。

<h3 style="text-indent: 2em;">十五、初果を証得していない人は他人に仏法を紹介し講説できるか</h3>

自分がいくらか仏法を理解していれば、みな如実に人に紹介し講説することができますが、知っているだけ話し、度を越してはならず、確信のないことは語らず、知之为知之,不知为不知の原則に基づくべきです。同時に、意図的であれ無意識であれ、人に自分が実証があると誤解させてはならず、証果していなければ、人にどう証果しどう明心するかを教導してはならず、ましてや無理をして強引に人に印証してはならず、人の子弟を誤らせます。どこまで修めたかどこまでの話をし、境界を越えず度を越さず、自分の実際の修行水準を誠実に他人に告げ、それを超える部分はただ参考とし、指導とはせず、そうすれば過失はありません。

修行がないのに無理をする人は少なくなく、こういう人は自己誇示を好み、派手に振る舞うことを好むため、しばしば度を越した話をします。みな深刻な我執のためで、心中のあの我はまさに自分を破裂させんばかりで、我相・衆生相はみな固く破り難く、結果として妄語などの悪業を造りました。実際には何の益も得ておらず、あったとしても他人の羨望と尊敬を得たとは限らず、ただ自己感覚が良いだけです。衆生の煩悩結使はこのように自心をしっかりと繋縛しており、解脱の味を知らず、哀れで悲しむべきことです。

<h3 style="text-indent: 2em;">十六、仏家の聖賢は必ず儒家の君子である</h3>

儒家の文化は仏学の基礎であり、人の道、君子の行い、身心の制御、身口意の清浄、貪瞋痴の降伏を説きます。まさに儒家の文化という基盤があるからこそ、仏法は西インドから中国・震旦に伝わり、中国に根を下ろし、中華民族に福祉をもたらしました。仏家の修行は儒家を基礎とし、思想・品格・道徳・修養においてはさらに儒家より高くなければならず、儒家より清浄で高潔であり、泥中に出でて染まらずであるべきです。

儒家は君子の道を提唱し、言ったら必ず行い、言行が一致し、表裏が一体で、光明磊落、大丈夫の気概です。君子は儒家が立てた手本ですが、仏家の手本は聖賢であるべきで、君子を超越します。だから君子である者は必ずしも仏家の聖賢ではありませんが、仏家の聖賢は必ず儒家の君子です。君子に非ざる者は聖賢に非ず、善知識にも非ずです。もし誰かが自分は聖賢であり善知識だと言うならば、その人の身口意行を君子の徳行と照らし合わせるべきであり、もしその品行がまだ一つの君子にも及ばないか、あるいは君子と相違があるならば、警戒すべきであり、騙されず、染汚され同化され、心地が埃を被るのを防がなければなりません。

仏を学び修行する人一人ひとりも、多く君子の行いを学び、儒家と道家の伝統的な国学を多く学び、人格・節操において次第に円満になり、人としての品徳・修養を備え、心性が成熟し完善になれば、仏法の修学においては、用功すればたちどころに成效があります。理論の功夫(技術)と心性が歩調を合わせ、完璧に結合してこそ、脱胎換骨し、鯉が竜門を躍るように、真の聖賢人となり、衆生の手本となることができ、はじめて衆生を解脱の道へと導く資格があります。

多くの人が仏を学んで長年、用功しても進まず、原因は何でしょうか?修行は単に技術的な用功弁道だけでなく、より重要なのは心性の磨きと熏染、人格の完成だからです。もし人としてすら合格していなければ、どんなに用功しても、自分の心の檻を突破して聖賢になることはできません。多くの仏を学ぶ人の徳行は世間の普通の人にすら及ばず、学べば学ぶほど煩悩が重くなり、貪瞋痴がどれも欠けず、世俗法において求めることが多く、名聞利養を苦心して追求します。まさにこういう人たちが、すぐに自分は開悟して聖になったと宣伝するのです。一方、徳行の良い人は、むしろ非常に慎重で、仔細に自分を点検し、軽々しく自分にこのような大言を冠することをしません。

<h3 style="text-indent: 2em;">十七、なぜ一升の米は恩、一斗の米は仇という現象があるのか</h3>

人が最初に小さな恩を施された時は、良知の上では恩を感じることを知っていますが、絶え間なく恩恵を施され続けると、施しを受ける習慣が形成され、快適圏に入り、当然のこととなり、依存性が生じます。この当然のことが破られ、他人が施さなくなり、快適圏がなくなり、依存するものがなくなると、心地が悪くなり、心理的に受け入れられず、そこで瞋恨が生じます。人の習慣を破るのは非常に難しく、人に依存させなければ、怨みが生じます。人はみな習慣を破りたくなく、特に快適で享受的な習慣を破りたくありません。人はみな自分の習性や観念と差が比較的大きい教育を受け入れず、人を変えようとするなら、ゆっくりと来なければならず、急ぎすぎてはなりません。

習慣にこれほどの粘着性がある以上、良い習慣を努力して養い、良くない習慣を駆逐すべきです。例えば呼吸を観ずることが習慣になれば、雑念を駆逐します。ちょうど雑思妄想している時に、一たび呼吸を観ずれば、意根のすべての精力が呼吸に集中し、定が現れ、雑思妄想は消えます。施しに徐々に慣れ、習慣が形成され依存が生じるのは意根であり、意根の貪心と惰性は大きく、良くない習慣は形成しやすいが、良くない習慣を変えるのは非常に困難で、恩恵を受け入れるのは容易だが、利益を失うのは容易に耐えられません。

どの心が恩を感じるのか?どの心が仇となるのか?愛恨情仇は、いずれもどの層面と程度に落ちるか、真か偽か、どこまで真か、どこまで偽かを見なければなりません。情緒が比較的深いのは意根のものであり、比較的浅くまだ習慣が形成されていないのは意識のものであり、意識の段階では情緒はみな調整しやすいが、ひとたび意根に落ち、習慣が形成されれば、情緒は制御しにくくなります。

恩恵を受ければ、少しでも良心のある人はみな感恩の心を持ち、心心念念に覚えており、金ができたら返そうと考えます。意識も意根も同様です。もし意識が絶えず意根に感恩を思い出させなければならないなら、意根には良心がないことを意味し、良心のある人は意識に思い出させる必要がありません。意識で証果した人が、時時刻刻意根に思い出させねばならないのと同様で、煩悩があってはならず、五蘊に貪着してはならず、五蘊は仮である、と。そして意根が自ら証果する時は、意識が絶えず思い出させる必要はまったくなく、意識は話す必要も、五蘊は虚妄だと口にする必要もなく、意根が知っていればよいのです。

<h3 style="text-indent: 2em;">十八、法を説いて要領を得ないのはどんな人か</h3>

如夢観の観が成就した後は、直接十回向の菩薩の果位を証得し、もうすぐ登地です。娑婆世界にはほとんど这样的人はおらず、昔を含めてです。如幻観の修が成就すれば、直接十住位の菩薩ですが、明心していなくて这样的菩薩になれるのでしょうか?耳根円通の法門の修が成就すれば、直接等覚菩薩の位を証得しますが、私はこの一生では修められません。長年他人に説いてくれと頼まれ、私が推測してみたところ、三分の一ほど説いたところで、どうしても説けなくなりました。でっち上げるわけにはいかないでしょう?他の人がこれを修めようとするなら、一つの無量劫を過ぎてからにしましょう。さらに円覚経の修行方法は、初地菩薩の証量がなければ、考えるだけ無駄であり、私でも修め上がれるかどうか分かりません。

実証したことのない人は、法を説けばみな飛躍式であり、修行も要領を得ません。なぜか?経験がなく、自分の想像と推測に頼り、感覚に頼るからです。一生かかっても道筋が掴めません。歩いたことのある道こそ、はじめて具体的なルートが分かり、はじめて次第があります。

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