衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年07月13日 閲覧数: 24

第十章 修行篇(2)

十二、法を聞いた後に実修するのが真の道

広く学び多く聞くことを、他人の宝を数えると言い、自分には一文も分け前がない。他人の宝を見た後は、自分の宝を得る方法を考えねばならない。自分の宝を数えるとは、いかなる心境であろうか。淵に臨んで魚を羨むよりは、退いて網を結うに如かず。深淵にどれほど多くの魚がいるか見ても、それは自分のものではない。賢い者は振り返って網を結い、その網で魚を捕らえるべきである。そうして初めて享受できるのだ。しかし、この世の中では、賢く智慧ある者はあまりいないようだ。ただ他人の宝を賞賛するばかりで、自分の宝を持とうとせず、飢えても構わない。ある者は毎日法を聞くことに熱心だが、決して努力して法を得ようとはせず、他人のものを見た後は、振り返って自分のことに取り組むべきである。自分が持つことこそ、いかに誠実なことか。自分が持ってこそ持つのであり、他人が持っているものをどうして自分のものと見なせようか。

古人は学びて思わざれば則ち罔(くら)しと言う。我々は学びて修めざれば則ち罔しと言うべきである。なぜなら、多くの者も思うが、その思惟は浅はかで、禅定がなく、思惟は法の表面だけに留まり、深く入ることができず、ほんの表面的なことだけを知って、自分は悟った悟ったと言い、浅はかで傲慢なのは哀れである。その程度の思惟は、修めると全く呼べない。修めとは修理であり、自分の身心を修理することである。身心が修理された後、相応の程度の変化がなければ、初めて修めと言える。もし人が依然として元の人のままで、心も元の心のままで、悩みも元のままであるならば、どうしても修めとは言えず、まして修めた後の結果など望むべくもない。それは不可能である。自ら認めた結果は、容易に溶けて腐ってしまう。

十三、受覚を断つことが修行の首要目標ではない

ある者はいつも、受覚を断ち切り、覚受がなくなったことが悟りの根拠や証拠だと思い込んでいる。実際には、受覚を降伏させ断つことは主に甚深な禅定に依るのであり、悟りを得たかどうかに関わらず、深い禅定さえあれば受覚を断つことができる。四禅八定を得た外道でもできることである。初禅定では受覚を断つことすらできない。初禅定の受覚は楽受だけで、ただ気持ち良いと感じるだけであり、それでもまだ覚受の範疇に属する。一切の受覚を断つには、受陰が尽きるまで修めなければならない。四禅以上の定で初めて色陰を断ち尽くし、その後で受陰を断ち、受陰尽を証得し、その後に想陰、行陰を断つことができる。

解脱を得るのは心の解脱であり、受覚を断つ必要はない。ただ覚受に執着しなければ解脱できる。覚受を断つことは我々の修行の首要目標ではない。首要目標は無始劫以来の錯見と邪見、すなわち五陰を我と見なす我見を断つことである。我見を断ち切り、我見に束縛されなければ、初歩的な解脱を得られ、その後の修行は正しい軌道に乗る。

十四、大乗の学人の誤解

大乗法を修めるある者たちは基礎的な修行を重視せず、基礎である阿含経の解脱道を重視せず、大乗と小乗を完全に切り離し、これがこれ、あれがあれで、互いに関連が少ないと考えているため、仏法を分断する現象が非常に深刻である。それは中学校の課程を学ぶ者が自分を高尚だと思い込み、小学校の課程を軽んじるようなもので、小学校の課程を修めなければ卒業して中学校に進み学ぶことができず、小学校の基礎がなければ、中学校の課程についていけず、よく学べず、中学校も卒業できないことを知らないのである。

大乗を学ぶこれらの者たちは三十七道品や八正道などの実修の法を軽視し、これらを全て小乗者が修める小乗の法と見なし、あってもなくても良いと考えている。そのため、直接飛び越えて如来蔵の法を修める。戒定がないため、十年二十年あるいはそれ以上学んでも、身心に少しの変化もなく、真の利益を得られないのに、仏油子(仏教に詳しいだけの者)のように侃々諤々と語り、学問の高さでは状元(科挙の首席)にすらなれるほどである。しかし学び得た理論は、空中楼閣のようで、理は高空にあり、人は地面を這い、両者はつながらない。これではどうして道理にかなって悟りを開くことができようか。高望みの結果は、どの法も成就できず、徒らに時間を浪費し、命終には修めも証もないため、業風に流され、自主性を失う。

我々は皆、静かに心を落ち着けて理性的に考えてみるべきである。大乗の学人は七覚支を具えるべきではないのか? 択法覚支がなければ盲人が象を撫でるようなものであり、喜覚支がなければ、学んだことが心に入っていないことを示す。心に入らなければ心は喜びを生じず、心に喜びがなければ、身は軽安(心身の軽快な安らぎ)せず、身が軽安しなければ心は定まらず、心が定まらなければ空にならず、どうして智慧など語れようか。大乗の学人は四正勤を修めるべきではないのか? 悪を断たず、善を増さなければ、心は変わらず、依然として束縛に満ちた業障の凡夫であり、一品の煩悩も断たれていないのに、どうして初果向、ましてや初果に進むことができようか。初果がなければ、どうして大乗で明心(心を明らかにする)できようか。

大乗の学人は八正道を修めないのか? 正見がなければ、何を修めるのか? 正思惟がなければどうして禅を参じられようか? 正語がなければどうして心を守り五戒を守れようか? 正精進がなければ、道に背いて進むことになる。正念がなければどうして心を正せようか? 心が正しくなければどうして道に入れようか? 正定がなければどうして正慧があろうか? 身心共に正しくなって初めて正道に入れる。ゆえに三十七道品を修行しない者は、修行がまだ入門すらしておらず、大乗の者でも小乗の者でもない。今の世で修行者に一人出会うのは非常に難しい。人心は皆浮ついており、近道を好み、短期的な利益を追求する。衆生の前世の根基が浅く、福徳が欠けているためであり、さらに法を伝える者の扇動も加わって、こうした状況が生じている。改善しなければ、仏教に人材は出てこない。

十五、修行の誤解

仏教を学び修行する中で、知らず知らずのうちに誤解に陥ることがある。ある者が陥る誤解は、全てが空で幻のようなものだから、何があっても構わない、受が空なら受けるがままにしよう、苦が空なら苦しいがままにしよう、煩悩が空なら煩悩するがままにしよう、生死が空なら生死するがままにしよう、輪廻が空なら輪廻するがままにしよう、というものである。

一方、ある者は別の誤解に入る。福を修めることが空なら、なぜ福を修めたり布施したりする必要があるのか? 禅定が空なら、なぜ禅定を修める必要があるのか? 菩薩道が空なら、なぜ六度を修める必要があるのか? 成仏が空なら、なぜ成仏を追求する必要があるのか? どうせ全て空なのだから、修めても修めなくても同じだ、というものである。ある者は如来蔵の法を学ぶと、別の誤解に入る。如来蔵は決して戒律を保たないのだから、なぜ私が戒律を保つ必要があるのか? 如来蔵は決して禅定を修めないのだから、なぜ私が禅定を修める必要があるのか? 如来蔵は決して福を修めないのだから、なぜ私が福を修める必要があるのか? 如来蔵は決して輪廻しないのだから、なぜ私が輪廻を恐れる必要があるのか? 如来蔵はもともと仏なのだから、なぜ私が成仏する必要があるのか?

しかし、これらの者は決してこうは言わない。如来蔵は決して貪欲ではないのだから、なぜ私が貪欲である必要があるのか? 如来蔵は決して煩悩しないのだから、なぜ私が煩悩する必要があるのか? 如来蔵は決して殺生・盗み・邪淫・妄語・飲酒をしないのだから、なぜ私が殺生・盗み・邪淫・妄語・飲酒をする必要があるのか? 如来蔵には無明が全くないのに、なぜ私に無明がある必要があるのか? 空だと考えるなら、全ての法を空にすべきである。給料が半月分少なくても、気にすることはない。なぜ選択的に空にするのか? 責任を空にして、利益や貪欲を空にしないとは、いったい何の空なのか?

十六、一切の法は全て私の所有に属さない

世間の一切の法は私の用に供することはできるが、一つとして私の所有に属するものはない。なぜなら、私はこれら一切の法の主人ではなく、一切の法は私が生み出し変化させたものではなく、私も一切の法を主宰できず、所有権は私にはなく、私は使用権しか持っていないからである。ゆえに世間の一切の法に対しては随縁の態度を持つべきであり、使えるなら一時的に使い、使えないなら無理に求めるべきではない。どうせ私は何も所有しておらず、永遠に何も所有していないのだから、使えるものがあればそれで十分であり、なぜ自分に属さない法を苦労して追求する必要があろうか。求めない時、心が空の時に初めて、大いなる福徳が現れ、殊勝な世俗が絶え間なくやって来るが、それも私の用に供されるだけで、やはり私の所有にはならない。

十七、如何にして解脱へ向かうか

一切の法を真実であり存在すると認めれば、即ち一切の法に縛られ、生死が生じ、解脱を得られない。ゆえに常に、至る所で一切の法の生滅変化の無常性と空性を観察すべきである。法を深く細かく観察すればするほど、法の現起と滅去は、来ることも去ることもなく、どこからも来ずどこへも去らず、主宰するものなく、空であると感じるようになる。そうすれば解脱の智慧はますます深くなるが、それでも解脱者はいない。一方で世間・出世間の有為法を造作し、一方で有為法の空と無為を感受し、心は有を廃せず空にも執着せず、即ち空即ち有であり、空でもなく有でもなく、有でもなく非有でもなく、空でもなく非空でもなく、断常(断見と常見)と一異(一と異)に落ちず、次第に仏道を成就する。心が空で法が空になって初めて、徐々に世間の煩悩の深淵から跳び出せる。心が空であると同時に有を廃せなければ、初めて徐々に仏法の大道へ向かい、解脱の終点へと歩みを進めることができる。

心が空に相応するだけで、既に解脱の道の上にいる。心が法を空と見るほど、終点に近づく。空となる法が多ければ多いほど解脱し、空の程度が深ければ深いほど解脱する。究竟空・徹底空・全部空になれば、終点に至り、究竟涅槃を得る。我が空で法が空、遅かれ早かれ空にならねばならない。早く空になって早く成就することを願い、有に執着して諸法を取らず、自分を甘やかすべきではない。煩悩は遅かれ早かれ捨てねばならない。早く捨てれば早く解脱し、遅く捨てれば多く苦しむ。

十八、どのような人が合格の仏弟子か

学校では、合格の学生は必ず徳・智・体が全面的に発展した三好学生(三つの優れた点を持つ学生)である。仏教では、仏陀の良い弟子は戒・定・慧が全面的に発展し六度を具えた仏弟子であり、才能と心性が完璧に結合した修行者である。徳と才を兼ね備えた人は非常に得難い人材であり、非常に稀である。もしある種の能力だけあって心性が善くなく調柔でなければ、そのような人は重用すべきではない。もし心性が良くても能力が不足しているならば、まだ無理に使うことができ、育てることができる。もし能力も心性も伴わなければ、断じて使うべきではない。

心性は無我の上に現れる。我見を断つ前、ある者は我性が重く、ある者は我性が軽い。我性が軽微な者は当然、我性の重い者より我見を断ちやすく、悟りを証しやすい。いつも他人を支配しようとする者は我性の重い者であり、管理されることを嫌い指導者に従うことを嫌う者も我性の重い者であり、心性が調和していないのは、皆我の心が悪さをしているのである。我性が軽微な者は比較的気楽で、比較的穏やかであり、ある人や事に対しては拘らない態度を持ち、自分の立場や権勢をあまり気にしない。一つの団体で問題が最も多いのは、この我性の重い者たちである。もし強力な指導者がいなければ、この団体は混乱の極みとなる。

一つの仏教団体には、必ず護法神が護持している。一人ひとりの心性を護法神は熟知しており、この人がどのような心性か、何の目的があるか、どのような役割を果たせるか、護法神は全て承知している。ゆえに一人の人が団体でどの役割を担うべきかは、護法神が管理する。ある者は私心が重く、団体に破壊的な作用をもたらすため、護法神は何とかして排除し隔離する。

十九、覚醒の後には天下に事無し

かつて夜明け前に夢を見た。夢の中で二つのとても重要な荷物を無くし、周りは混乱した見知らぬ人ばかりで、この二つの荷物は見つけにくいと思った。その時はまだ慌てておらず、むしろ非常に落ち着いて、はっきりと、理性的で、まるで自分が夢を見ていると知っているようだった。それで素早く目を覚ますことに決め、心に力を込めて目を開けて目が覚めた。心は非常に清明で、しばらく安らかに横たわっていた。さきほどの夢を振り返ると、夢の中で荷物を無くしたが、全くそんなことはなく、私は何も失っていなかったことが分かった。この夢は非常に鮮明で、今でも記憶に新しい。一人ひとりの夢の中ではどんなことも起こり得るが、一度目が覚めれば、何事もない。これを見ると、目覚めて夢がなければ、心は確かに心地良く、掛かり合いも負担もないことが分かる。

このような夢は短く、目覚めやすい。しかし生死の大夢は非常に長く長く、目覚めにくい。人々は夢の中で往々にして迷い、貪・瞋・痴し、業行を絶えず、あらゆる人や事や物理が真実だと思い込んでいる。悟って覚醒した後に初めて、全てが夢であり、実際には何事もなかったことに気づく。目覚められるのは本当に良い。しかし、どうすれば早く覚醒できるか? 夢の中で心を清明に保ち、夢だと知り、夢境に未練を持たず、覚醒しようとする発心を持ち、定力と智慧と善根と福徳が必要である。夢の中ではまだ一時的に出られなくても、必ず善業と清浄業を多く行い、悪業を造ってはならない。なぜなら悪業は心を覆い隠す度合いが強く、心を混濁させ、今が夢であると見分けられず、幻の夢から離れようとする発心が生じないからである。

生死の大夢の中で、一切の法は幻化されたものであり、真実のように見えるが、実質は偽りである。心が清明でない時、偽りを真実と思い込み、種々の業行、特に悪業行を多く造作し、夢境に流連して目覚められなくなる。夢の中の人にとっては、絶対に何らかの善行や清浄行、特に清浄行を行う必要がある。清浄行は心を清明にし、夢境の本質を見抜き、迷い執着せず、離脱しようとする願力が強く、定力が十分で、智慧が深ければ、速やかに覚醒し、太平の世に生き、心を清く欲を少なくし、雲淡く風軽く、為すことなく、ひたすら閑かな境地に至る。ゆえに、事無きに事を起こすべきではない。身心が常に閑でなく、貪・瞋・痴の煩悩や悪業が重なる。世間には執着すべき事は何もなく、放せない事は何もなく、掛かり合う事は何もない。心の中の事は皆夢の中の事であり、執着しても無駄である。財・色・名・食・睡のどれも掴むことはできず、世間は一つの夢に過ぎない。多くの者が名利のために大いに忙しくしているのは、確かに全く割に合わない。

二十、楞厳咒を暗誦する益

修行が重要なところに差し掛かるほど、魔が妨害に来る。殊勝なところほど、魔が妨害に来る。修行のレベルが高ければ高いほど、妨害は大きい。修行が痛くも痒くもないところには、魔は妨害に来ない。ゆえに、より重要な法を修め、より深い法を修めるほど、より慎重に注意深くあるべきである。特に神通を好む者がいれば、魔は神通を与え、その後魔に支配され、魔の掌から脱せなくなる。楞厳咒は護身符である。必ず常に唱え、できればいつでも暗誦すべきである。そうすれば魔は手の出しようがない。仏教を学ぶ者が皆楞厳咒を唱え暗誦できれば、魔王は娑婆世界から退去し、仏法は続いていき、楞厳経は滅びない。

楞厳咒には加持力がある。咒の中は皆、諸仏菩薩・辟支仏・阿羅漢・護法神の名前であり、念仏と同じか、あるいは単なる念仏より効力が大きい。なぜなら護法神が具体的に護持し執行するからである。具体的には、咒を唱える者の戒・定・慧の修行を加持し、一部分の業障を遮り、一部分の業障を消除し、大きく抵抗できない業障を身に付きにくくし、修行を順調にし、知らず知らずのうちに戒律が清浄になり、禅定が向上し、智慧が増長し、心が清浄になる。咒を唱えるほど専念すればするほど効力は大きく、心が誠実であればあるほど効力は大きい。もし専念できず、歩行・坐臥・物事をしながら咒を唱えると、心が少し散漫になり、一心に集中できないが、心が誠実であれば、加持力は依然として大きい。たとえ散心(散漫な心)で咒を唱えても、加持力はある。心と口で咒を唱えただけで、護持を得られる。

もし修行が順調でなく、心が散乱して集中できないなら、計画的に毎日歩行・坐臥しながら楞厳咒を暗誦すべきである。一人ひとりが仏教を学び始めた当初は、一定の回数の楞厳咒を唱えるべきであり、修行が水の流れに舟を押すようになるまで続ける。そうして初めて止められる。これは諸仏菩薩・四聖(声聞・縁覚・菩薩・仏)と護法神の加持力の作用に依るものであり、その後で初めて自らの心力が生じ、自力と他力が結合し、修行が正しい軌道に乗る。加持力は自らの心性の変化を促し、心性が変われば性障(心性の障り)は消除される。また、過去の業行の種子の障りについては、大きな業障は護法神が遮止し、小さな業障は自らが少し業報を受けるだけであり、当然受けるべきものであり、避けられない。大きな業障は将来耐えられる時に受ければ、その時はどうでも良いと感じるか、あるいは大きな業障が将来それほど大きくなくなる。心が空であればあるほど、業報に対して耐える力が増し、坦然として受け入れ、責任を担う。業債を返済するのは当然のことである。

二十一、如何にして速やかに楞厳咒を暗誦できるか

楞厳咒の加持作用は非常に大きく、福徳を増し、戒律を円満に守り犯さず、心念を専一にして雑念なく、仏法の修行に精進し、道心を堅固にし、択法眼(法を選ぶ智慧の眼)を持ち、魔の妨害を遠ざける。具体的には楞厳経第七巻の世尊が楞厳咒を保つ種々の益を参照のこと。ゆえに仏教を学ぶ者は、学び始めた当初、毎日楞厳咒を誦持し暗誦することは非常に必要である。仏菩薩と護法神の加持の下で、多くの妨害と違縁(障害となる縁)を省き、世俗の心を修道の心に転じ、修行の進歩が速い。

如何にして速やかに楞厳咒を暗誦できるか? それは記憶力による。もし楞厳咒を読誦する時に、一心に専念し、心に雑念がなく、注意が全て楞厳咒にあれば、楞厳咒を読み慣れた頃にはほぼ暗誦できる。もし咒を読む時に、念が多く、心念が専一でなければ、注意力は散漫になり、咒語は覚えられず、どれだけ長く読んでも暗誦するのは難しい。雑念を混ぜないために、速く朗読または読誦し、一気に成し遂げることを選べる。しかしこれには欠点がある。気を傷めやすく、短時間なら影響を受けないが、長時間では影響が出る。もし真に専念して読誦できれば、短時間で暗誦できる。注意力を集中させるために、木魚を叩くことを補助法として選べる。木魚がなければ手で机を叩く。鼓の音は均一に、リズムを持たせる。興味が引き出されれば、注意力は集中し、読誦を好み、すぐに暗誦の域に達する。

二十二、仏教を学ぶ者は如何に回向すべきか

もし毎日回向を続けられるなら、こう回向する:私が今日仏法を修学して得た善根・福徳を全て、私の生生世世の父母・師長に回向し、歴劫以来私が故意に殺した、誤って殺した、間違って殺した、傷つけた、食べた、怨みを結んだ全ての衆生に回向し、父(姓)氏門中の歴代の宗親・眷属に回向し、母(姓)氏門中の歴代の宗親・眷属に回向する。彼らが宿世の業障を消除し、善根・福徳・智慧が共に増長し、早く仏縁を具え、早く仏法に遇い、諸仏菩薩の加持の下で、早く悪道を離れ、善道に往生し、あるいは人間界に戻り、私と共に大乗仏法を修学できることを願う。彼らが早く仏門に入り修行し、早く菩提を証し、苦を離れ楽を得、大いなる解脱を得ることを願う。

もし毎日回向を続けられないなら、少なくとも一週間に一度は回向すべきである。一ヶ月に一度の回向では時間が少し長いので、その場合は一ヶ月の全ての修行の功徳を全て回向する。もし総回向なら、今生今世仏教を学んで修行した、あるいは行った全ての功徳・福徳を全て回向し、さらに前世仏教を学んで積み重ねた福徳も全て回向する。もし特定の人に回向するなら、その人の名前を加え、その人に回向する。既に亡くなった人には、早く三悪道を離れ、善道に生まれ、かつ仏法に縁があり、精進して仏教を学び修行することを願って回向する。まだ在世の人には、彼の善根・福徳・智慧が増長することを願い、相手の正当で害のない要求に応じて回向する。

二十三、如何にして衆生に施食するか

正月や節句の時には、自分が亡くした怨親債主(怨みある者・親しい者・借りのある者)や家親眷属に施食し、彼らにも喜びの年を過ごさせ、彼らが嫉んで病気を引き起こすのを防げる。普段も定期的に施食できる。食事の後、茶碗の底に残った飯粒は七粒あれば十分で、少し菜の汁や菜の葉を加えれば施食できる。施食で唱える咒語は、朝晩の課誦本に全てある。

施食する時は、米飯や饅頭の砕け屑でも良い。一摘みあれば十分で、後は全て観想力に頼る。観想が良ければ、咒語の加持力が強く、飲食は非常に多く変じ、多ければ多いほど利益を受ける衆生が多く、結ぶ善縁が大きくなり、後の福徳が大きくなる。小指の先ほどの大きさの米飯に菜の汁を少し加えても良く、あるいは七粒の米でも十分である。これだけのもので、後は全て観想である。

摘まんだ飯粒を屋外の台の上に置く。ベランダでも良い。そして口で咒を唱えると、鬼神たちが来て食を受ける。咒語は次の通り:汝等鬼神衆、我今施汝供、此食遍十方、一切鬼神共(一遍)、オン、ムリリョウ、ソワカ(七遍)。唱えながら観想する。施す飲食が色・香・味を具え、遍く娑婆世界に、遍く全ての大山に、遍く山のふもとに、遍く川辺に、遍く四大海の辺に、および須弥山の下の全ての場所に満ちることを観想する。観想できる場所が大きければ大きいほど良く、飲食が多くなれば多いほど良く、そうすれば救済する衆生が多くなる。七遍咒を唱えた後、三度指を弾き、施食は完了する。

また、衆生に飯の水(米のとぎ汁など)を施すこともできる。食事後に茶碗を洗う最初の水、飯の水と菜の水が混ざったものでも、鬼神に施せる。咒を七遍唱え、観想を加えれば、全ての鬼神は満腹満足できる。茶碗を洗った水を台の上に撒く。桃の木や石榴の木の周囲でなければ良い。咒語は次の通り:此の茶碗の水を以て、天の甘露の味の如く、諸の鬼神に施し、悉く皆満腹を得んことを願う。そして茶碗の水が天の甘露水のように遍く娑婆世界の高山・大海の辺、全ての空き地に満ちることを観想する。七遍咒:オン、モキュウラシソワカを唱えながら、茶碗の水を七回に分けて撒く。

身体が弱すぎる人は、鬼にいじめられやすい。もし観想が良くなければ、鬼神は食べられず瞋恨心を起こして報復し、二日ほど身体を苦しめる。もし怖ければ施食せず、しばらく練習し、観想力が強くなってから施食しても良い。

我々の無始劫また無始劫以来の父母・家親眷属は数え切れないほど多く、彼らの大多数は三悪道、主に鬼道におり、苦しみ、飲食も衣服もない。我々は毎日こんなに良く食べているのにまだ無駄にしている。節約して指先ほどの飲食を残せば、彼らは満腹できる。苦しむ広大な衆生のために、毎日無駄にする飲食を布施すれば、自らも利し衆生も利し、また過去世の父母・師長への孝養と報恩にもなる。

我々自身は仏教を学び解脱に希望があるが、それ以上に苦しみ悩む衆生、特に自分と縁のあるそれらの衆生、無始劫以来の父母、そして自分が傷つけたそれらの衆生は非常に苦しんでいる。我々は常に彼らに回向し、できるだけ多く経や咒を唱え善を修めて彼らに回向し、自分が行う一つ一つの善いことを彼らに回向することを考えねばならない。彼らの福徳がある程度増加すれば、縁ができて三悪道の苦海を離れ、人身を得て仏法に遇う縁ができ、方法を学び修行し、次第に輪廻から抜け出せる。これも衆生を救うことに等しい。

ページトップへ戻る