衆生无边誓願度
煩悩无尽誓願断
法門無量誓願学
仏道無上誓願成

生如法師ウェブサイトロゴ

仏法雑談(第二部)

作者: 釋生如 カテゴリ: 総説 更新時間: 2025年12月04日 閲覧数: 3136
<h2 style="text-indent: 2em;">第三章 修断煩悩篇</h2><h3 style="text-indent: 2em;">一、煩悩を断ぜざれば菩提を証すあたわず</h3>

仏が菩提樹の下で成道されたばかりのときに言われた:「奇哉!奇哉!大地众生皆有如来智慧德相,只因烦恼妄想而不能证得。」仏は大方広如来蔵経の中で言われた:「佛见众生。如来藏已。欲令开敷。为说经法。除灭烦恼。显现佛性。」「但彼众生。烦恼覆故。如来出世。广为说法。除灭尘劳。净一切智。」「我以佛眼。如实观之。以善方便。随应说法。灭除烦恼。开佛知见。普为世间。施作佛事。」 

「我以佛眼。观诸众生。烦恼糠糩。覆蔽如来。无量知见。故以方便。如应说法。令除烦恼。净一切智。于诸世间。为最正觉。」「我见众生。种种烦恼。长夜流转。生死无量。如来妙藏。在其身内。俨然清净。如我无异。是故佛为。众生说法。断除烦恼。净如来智。转复化导。一切世间。」「如来观察。一切众生。佛藏在身。众相具足。如是观已。广为显说。彼诸众生。得息清凉。以金刚慧。捶破烦恼。开净佛身。如出金像。」

以上の仏の所説は、衆生が煩悩の遮障のために、自らの如来の清浄な宝蔵である如来蔵 (tathāgatagarbha) を見ることができず、煩悩を断除し、遮障を消除してはじめて如来蔵が顕発され、衆生の智眼が清浄となってはじめて自性清浄なる如来蔵を証得できることを示している。これによって見れば、われわれが学仏修行において、もし粗重な煩悩障礙を降伏し断除することができなければ、心は清浄を得られず、如来蔵を証得することはできず、我見 (satkāya-dṛṣṭi) を断除することもできない。もし煩悩がなく、心が水のように清らかであれば、衆生は世間の如来蔵性と一真法界のみを見て、世間相を見ず、世間相を真・我相・我所相と認めることがなくなるので、我執と法執がなくなり、衆生は本然のまま解脱し、本然のまま仏であり、学仏修行を必要としないことになる。

断我見の深浅は煩悩を断除する程度と必然的な関係があり、明心の智慧の程度も同様に煩悩を断除する階層と必然的な関係がある。煩悩を断除するほど多いほど深いほど、断我見と明心の智慧は深くなり、果位は高くなる。もし衆生が学仏において理論知識を学ぶことだけに専念し、自らの煩悩を顧みず、煩悩の現行を認めながら除滅しようと考えなければ、大小乗の見道を得ることはできず、引き続き俱縛凡夫でありつづけ、生死流転がやむことがない。だから、いわゆる証果や明心をした人で、煩悩が依然として深重であるなら、疑いなく証果も明心もしておらず、ただ仮の名前があるだけにすぎず、大衆が学び倣うに値しない。

<h3 style="text-indent: 2em;">二、学仏の目的は無明煩悩を断じ尽くすこと</h3>

仏法を学ぶ究竟の目的は無明煩悩を断じ尽くすことであり、煩悩を断じ尽くせば無学 (aśaikṣa) となり、もはや仏法を学ぶ必要がなくなる。小乗の無学位は四果大阿羅漢と縁覚辟支仏であり、大乗の無学位は仏世尊である。小乗の無学はただ三界生死の解脱において一念無明を断じ尽くして無学となったのであり、まだ一切の無明煩悩を断じ尽くしてはいないので、やはり有学である。大乗は一念無明を断じ尽くすだけでなく、無始無明まですべて断じ尽くしてはじめて無学となる。無明があるかぎり有学であり、無明がなければ学ぶべきものはなく、すべてわかり、すべて証得し、学業は終了する。

小乗の尊者である四果阿羅漢の周利槃特伽は、前世の業障のために、四果阿羅漢を証得したにもかかわらず法を説くことができなかった。しかし法を説けないとはいえ、一念無明は断じ尽くされ、煩悩は断じ尽くされ、三界を出離して解脱を得られる無学聖者であり、四聖諦の解脱の理を再び学ぶ必要はない。一方、大乗の無学である仏世尊は、一切の無明を断じ尽くし、すべての仏法を口を開けばたちどころに、すべて説くことができる。菩薩たちもみな法を説くことができる。菩薩は衆生を離れず、衆生とともにいるので、必然的に法を説かなければならないからである。法を説くことによって極大の福徳が集まるので、菩薩は阿羅漢よりも法を説くことに長け、より福徳があり、さらには最初に学仏した菩薩は、仏法をわかっていなくても法を説かなければならず、たとえへたっぴに説いて自分でも何を言っているのかわからなくてもである。

学仏学法の目的が明確になったのちには、われわれは学仏において仏法知識をあちこちで誇示すべきではない。知識を学び知識を身につけることは目的ではなく、煩悩を断除する手段であり、煩悩が断除されれば、一切の知識は、衆生を度するために法を説くとき以外は役に立たなくなる。だから学仏の過程においては、自らの無明煩悩を観察し、煩悩を降伏し、煩悩を断除することがきわめて重要であり、仏学知識はそれほど重要ではなくなる。本末転倒してはならず、自らの煩悩を顧みず、あちこちで知識を学んではならない。たとえ知識を五台の車ほど学んだとしても、ひとたび煩悩のためにひとつの悪業を造作すれば、重ければ無間地獄、軽ければ畜生道であり、仏学知識は自分を救えるだろうか。豊かな知識を携えて三悪道に行き、まだ誇示する機会と気持ちがあるだろうか。

<h3 style="text-indent: 2em;">三、慢心はもっとも道を障る</h3>

学仏の道では多くの溝や段差に出会うものであるが、一時的に越えられなくても、それは構わない。堅持し続け、絶えず努力すれば、最終的には知見の段差を越えることができる。自分の解したものがすべて正しいと思わず、内心謙虚で、多く観行 (vipaśyanā-caryā) を行い、よく思考し、かつ多く業障を懺悔すれば、道業は増進する。恐れるのは慢心であり、慢心はもっとも道を障るものであるのに、自分で自分に慢心があることを知らないとすれば、それは厄介である。

自分の嫉妬心が生じたときには、回光返照して、自分が何ゆえに嫉妬するのかを分析観察する。慢心が生じたときには、回光返照して、何ゆえにこのような慢心が生じるのかを探る。原因を見つけたのちは、学んだ理によって自分を説得し勧導し、嫉妬心と慢心を降伏しなければならない。証果と初禅定の前には、嫉妬心や慢心といった煩悩は降伏することしかできず、断除することはできない。一般の人の嫉妬心が生じるのは、他人が自分の風頭を奪い、自分の「我」が際立たず、自分が望んでいた利益を得られなかったからである。心の中に我があり人があってこそ、互いに比較し、誰にも自分より強く、自分より良いと思われたくないのである。

嫉妬心のために、いかなる団体にも是々非々があり、互いに排擠し打ち圧し、互いに勢力や資源を争奪し、闘争は避けられない。三宝の団体において、この嫉妬心を降伏しなければ、僧団を分裂させやすく、もし僧団の分裂を招けば、それは無間地獄の罪である。

煩悩という事柄は、証果ののち、初禅定が現れ、三果聖人となってはじめて、微細な煩悩を断除することができる。まず貪欲を断じ、次に瞋恚を断じ、四果で我執・我慢を断除する。初果・二果の人は煩悩を降伏するだけであり、粗重な煩悩は現起せず、微細な煩悩はときおり現れることもある。断我見の前の凡夫位では、煩悩を圧伏することしかできず、ときには圧伏しきれないこともある。初禅以上の禅定のある人も、煩悩を圧伏し降伏することはできるが、断除することはできない。四果阿羅漢は煩悩こそ断除したものの、習気はときおり現行することがあり、ときには制御できず、ときには自覚もなく、他人に注意してもらう必要がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">四、いかに瞋心を降伏するか</h3>

瞋恚心が重いのは、先天的なもので、生まれつきそうである場合と、後天的な環境の薫染によるもので、たとえば身体が不健康なことが原因で瞋心が重くなった場合や、事に遇ってうまくいかないなどの心理・情緒面の原因による場合がある。単純に後天的な要因によって瞋恚心が重くなった場合は、色身と心理・情緒を調整すれば、これらの障礙が消えれば、瞋恚心は自然に軽くなる。先天的な瞋恚に対しては、人に遇い事を処理し問題に対処するとき、相手の立場から考えることに注意し、多く相手の角度に立って問題を見て、多く相手を理解し、できるだけ相手のために理由を探し、場面を置換し、将心比心すれば、相手を理解し許すことができる。他人の不容易を多く考え、他人を多く憐れめば、瞋恚は自然に少なく軽くなる。

瞋恚が生じるたびに、自分が瞋恚する原因と理由をよく観察し、その中の原因を分析し、問題の所在を見つけ、自分に不如理な作意や思想観念があると気づけば、降伏し克服しなければならない。自分の我性が重いと気づけば、五陰 (pañca-skandha) 無我の理を思惟し、我性を降伏すれば、瞋心は減る。相手や環境にあまりに挑剔しているのであれば、出会った人や事を看空しなければならない。瞋恚の習性が現前するたびに、心の中でこれが煩悩習気であり、不如法であり、瞋恚の果報があるものだと知っていれば、久しくすれば瞋は必ず軽くなり減る。

<h3 style="text-indent: 2em;">五、煩悩は禅定発起の最大の障礙</h3>

性障 (kleśāvaraṇa) 煩悩が軽微な人、身体素质の良い人は、気脈の運行が通暢し、気機が発動しやすく、身心は軽安愉悦であり、それによって禅定が生じる。煩悩の多い人は愉悦感や身心軽安感を得にくく、気脈が順暢でなく、気機が発動せず、禅定が現れにくく、欲界の禅定さえ生じにくく、色界の禅定はなおさら困難である。

修行がまだ軌道に乗っていない人は、多く自心の煩悩を検査し反観し、できるだけそれを降伏し克服すべきである。煩悩は日常生活のあらゆる面に現れる。たとえば心量が小さい、心胸が狭い、執拗に一理を固守する、見識が浅い、愚痴、無理な弁論、理を得ても人を許さない、闘争を好む、争いを好む、家庭の瑣事を論じ合うのを好む、比較を好む、心機が多い、流言を造り事を起こす、妄語・両舌・悪口、口業・是非心が重い、風頭を好む、自己表現を好む、権勢名利を好む、貪得心が重い、財物を追い求めるのを好む、瞋恚心が重い、瞋惱を捨てず、哀怨やむことを知らない、などなど。衆生の煩悩はまことに数えきれないほど多いが、いずれにせよ、苦から離れたいなら、いかなる煩悩であっても努力して降伏し断除しなければならず、そうしてはじめて修道に希望がある。

<h3 style="text-indent: 2em;">六、いかにして苦悩を減らすか</h3>

煩悩を断したのちは、心は寂静に沈潜し、それほど多くの煩悩や苦悩がなくなる。断我見ののち初禅定があれば、貪欲と瞋恚は断除され、さらに初果で断除した我見・禁戒取見・疑見の三縛結が加わり、五下分結が断除されれば、人はいくらか自在になるが、四果ほどの自在ではない。四果は我慢と我執を断じ、ほとんど一身軽となる。

寂静自在を得た菩薩は菩薩三果人とも呼ばれ、禅宗の三関を過ぎ、初地に入る資格があり、七地菩薩の前まではみな三果人であり、四果阿羅漢の果位を取らず、一筋の煩悩を残して三界に留まる。八地菩薩はすべての煩悩を断じ尽くし、我執を断じ尽くし、法執は大部分を断除する。菩薩三果人が再び人間に来たときは、煩悩はきわめて軽微であり、環境の薫染を受け、いくらかの悪業を造ることもあるかもしれないが、悪業もきわめて軽微である。学仏ののちは、一たび懺悔すれば消除され、あるいは理を明らかにすれば消除され、懺悔を必要としない。根本煩悩心がないからである。

三果・四果以上の聖人は、ほとんど衆人と混ざり合うことを望まず、独処していることが多く、衆生を度するために法を説くときにだけ衆生とともにいる。過去の大菩薩はみな、まず独処して自分を修持し、それから出てきて法を説き衆生を度した。定力が不足したと感じ、明らかに慧多く定少なければ、再び独処して修行し道業を増進し、そののち再び衆生の中に戻って法を説いた。このようにしばらく自修し、しばらく衆生を度すのであり、常に衆生とともにいるのではない。常に衆生とともにいれば、定力は退失し、修行は衆生に一部引き戻され、道力が不足する。

<h3 style="text-indent: 2em;">七、煩悩はいかに降伏され断除されるのか</h3>

自分の内心にひとつの煩悩が生じ、それに気づいたのち、学んだ法義を思い出し、一切の人事物はすべて空であり、この煩悩を生じるべきではないと感じ、そこで煩悩を摘み消し、まるでさっき煩悩などなかったかのようになる。これは断煩悩の境界か。まったくそうではない。これは念起即覚・覚之即無の境界であり、しかし覚する前には、すでに念が生起し現れたのだから、現れなかったことにはできない。

念が出てきたらすでに煩悩があるのであり、煩悩があれば断煩悩の境界ではない。のちにどうなろうと、煩悩が現れたことは確かであり、それが意根に煩悩があること、しかも現行したことの証明である。意識は後天的に後覚するが、意根は先天的に煩悩があり不覚である。そして意根の煩悩は、常に意識に頼って発見し管理するわけにはいかない。第一に、意識は煩悩を制止する間に合わないことがあり、煩悩業行を形成し、業種を残してしまう。第二に、意識は常にあらゆるところで意根とともに運行できるわけではなく、常に清明で覚醒しているわけでもなく、微弱になったり糊塗したり消失したりするときもある。そうなると意根の煩悩を発見し管理するすべがなくなる。

煩悩が生じたら摘み断つ。修行の最初の段階ではこのようにする。禅定ができてくると、次第に念頭が減り、自然に煩悩が生じなくなり、次第に煩悩を降伏し圧伏するように移行する。強引に念頭を摘むことによる煩悩の降伏は困難であり、実は最後には、煩悩を伏するにせよ断するにせよ、このような対治は必要なく、禅定が現れてからは煩悩はみな自然に生じなくなる。禅定の中で煩悩は自然に次第に少なく軽くなり、それから伏住し、最後に禅定の中で自然に断除される。禅定のある人はこの理がわかる。禅定が生起し堅固になった人、自分の煩悩を特別に対治したことがあるだろうか。禅定の中で自然に現れなくなったのではないか。禅定のない人は、定力が足りないため、やむなく自分の内心で対話し、意識が意根に道理を説くしかない。禅定のある人は、意根が自然に教導に従い、自然に薫を受ける。

たとえば気満ちれば食を思わず、食事をしたくないというのは、対治によって出た結果か、自然に現れた結果か。強引に食事をしたくない、あるいは少食にするのは、きわめて困難で苦悩であるが、定を修めて身体の中の気が満ちてくると、胃の中に常に気が充盈し、自然に空腹を感じなくなる。精満ちれば淫を思わず、これは対治によって出た結果か、自然に現れた結果か。これも定を修めて身体の中の精が満ちたとき、自然に淫欲の想がなくなるものであり、強引に克制するのはきわめて困難である。神満ちれば睡を思わず、これは対治によって出た結果か、自然に現れた結果か。これも同様に、定を修めて神が満ちると、睡眠によって神気を回復する必要がなく、自然に眠くなくなるものであり、強引に眠らなければ身体がもたない。その他の煩悩の降伏と断除も、みなこれに類する。

修行の素人は、門に入らない段階でこそ理論によって煩悩を対治し圧伏する。しばらく圧伏できたからといって、自分は煩悩を断した、あるいは証果した、あるいは明心したと言うが、実はまだ修行の門に入っていない。禅定の功徳は煩悩を降伏し煩悩を断除するものである。禅定がなければ、理論がいかに完璧でも煩悩にはどうにもならない。一物は一物を降す、禅定は煩悩を降す。煩悩を降伏すれば、業障と見道の遮障を降伏したことになり、遮障がなければはじめて見道できる。だから煩悩を断ぜずして菩提を証得することは不可能である。

修行は自我が消融していく過程である。修行の方向が正しく、方法が適切で、精進して用功弁道すれば、自我は少しずつ消融し、もちろん我に関わる煩悩もそれに伴って少しずつ消融し、知らぬ間に煩悩は見えなくなる。しばらく修行して振り返ってみて、はじめて自分が変わったことに気づく。理論で煩悩を対治し、煩悩が頭を出したらまた引っ込めるなどという道理がどこにあるだろうか。

<h3 style="text-indent: 2em;">八、粗重な貪愛を降伏してはじめて禅定があり断我見できる</h3>

各種の娯楽活動、琴棋書画や種々の芸術などを含め、それらを好むことは、みな貪愛の範疇に属する。世間人の観念において、これらがどれほど高雅で、高尚で、高貴で、美妙で、どれほど賞心悦目であろうとも、道とは相反し、みな世間有に属する。それゆえみな輪回の中の物事であり、貪着すれば輪回から出られない。そして心に貪愛があれば、鬼道と相応し、命終すると鬼道に行って果報を受ける。貪の範囲はきわめて広く、ほとんど至る所が貪であり、好きで、意にかけ、執取 (upādāna) する限り、みな貪愛に属する。

だから学仏するしないにかかわらず、その善業が生天や做人に足りない者は、その種々の貪愛のために、ほとんどまず鬼道に行って果報を受け、そののち畜生道に行って果報を受け、悪道の業がひとまず尽き、まだいくらかの福の時が残っていれば、はじめて人間に戻る。欲界の法を貪れば欲界を出られず、人間の法を貪れば天上に生まれず、さらには人中に生まれることもできない。

飲食欲は人間界でもっとも粗浅でもっとも降伏しやすい煩悩であり、修行の第一関である。この関さえ越えられなければ、他の貪はなおさら降伏しにくい。凡夫の千般の非、万般の過ちは、日常生活の点々滴滴の貪に現れる。至る所で貪り、至る所で執取し、生きているのがまことにこだわりで、何にこだわるのか。何にでもこだわり、いかなる法も空にすることを肯んじず、すべて最良のものを追求する。ただこの「食べる」ひとつとっても、その種類の多さたるや、こだわりもきわめて多い。しかし果報は往々にして所求と相反する。貪食すれば餓鬼に生まれ、慢心があれば色身が短小になる、などなど。

人間界の男女欲はもっとも重い貪であり、これを降伏できれば初禅定を修出でき、男女欲貪を断除すれば、後世に初禅天に生まれる。人間界の衣食住行の貪欲を降伏できれば、未到地定 (anāgamya-samādhi) を修出でき、それによって人間界の煩悩を降伏し、死後に欲界天に生まれる。禅定を修出できない人は、自分の内心の各種の貪を検査すべきである。人間界での高層ビルや美衣美食の享受には代償を払わなければならず、福報を使い果たせば、人間界で生存し続けるにも足りなくなり、やむなく三悪道に行って罪を受ける。だから富貴栄華の享受を好む人は、早く目覚めて計らうべきであり、世事の栄華の不実を見透かし、虚栄を慕わないことである。

なぜ禅定はみな天道と相応し、命終して天に生まれることができるのか。天道の衆生はみな相応する善業があり、心はみな善く、貪瞋痴の煩悩は軽微である。欲界天は主として善業の感召であり、善業の果報であり、いくらか禅定の果報もある。色界天と無色界天は主として禅定の果報であり、相応する禅定がなければ、色界・無色界天に生まれることはできない。それゆえ禅定は必ず煩悩を降伏し煩悩を断除する。断我見も明心見性も、少なくとも未到地定 (anāgamya-samādhi) が必要であり、みな欲界の粗重な煩悩を降伏しなければならない。名聞利養、財色名食睡は、みな欲界の中の煩悩であり、これほど重い煩悩のある人に禅定はありえず、断我見はできず、明心見性はできず、まして入地など不可能である。

もし断我見と明心見性を自称したのちも、普通の人と同じように明らかな貪瞋痴の煩悩があるなら、それは真の断我見・真の明心見性ではない。世人は修証の事をわからず、往々にして自分や他人の修行を過大評価し、誤解が多い。我見があるため、低い方へ誤解するのではなく、高い方へのみ誤解する。以前、ある人たちが自分は断我見した、明心したと言って、私に検証を求め、証明を求めた。そこで何度も何度もいかに無我であるか、いかに空であるかを語ったが、実はこれらの理論は至る所にあり、容易に入手できる。私はこれらの記述を聞いただけで、本当に何かを証得したかどうかを判断できるだろうか。もちろんできない。耳で聞くより目で見るほうがまさっている。

実は、ひとりの人に何かを断したか、何かを証したかを判断するには、最も重要なのは彼が何と言うかではなく、彼が何をするかであり、行が最も真実である。だからきわめて簡単な判断方法は、その言を査しその行を観ること、その人の身口意行を観察し、衣食住行に対する態度、人事物に対する態度を見ることである。これは最も粗い煩悩の所在であり、修行の過程でまず変えなければならないものである。やや細かい煩悩は、精神・心識に対する態度であり、ひとりの思想観念であり、これらも変化がなければ、何も断しておらず、何も証得していない。五蘊無我を証得し、空を証得し、それが空であり無であることをはっきり知りながら、粗浅で粗重な法に対して、どうしてなお引き続き執取し貪着し、放捨せず変えないことがあろうか。このように検証するのが最も直接的で最も簡単で最も有効であり、何人がこの検証に耐えられるだろうか。

<h3 style="text-indent: 2em;">九、煩悩は福徳を消す</h3>

一言一行、善悪を問わずすべて業報があることを知れば、話すことも事を行うことも慎重に注意深くあるべきであり、言を謹み行を慎み、自分だけを気にかけ他人を顧みないようにしてはならない。普段の為人事処において、貪瞋・我慢・嫉妬は、収められるなら収め、人を算計せず、心機を用いてあれを排擠しこれを排擠せず、多く他人のために考え、身の置かれた各団体のために考え、大局のために考え、心地は厚道であるべきである。そうすれば、一つには性障 (kleśāvaraṇa) と業障を消除でき、二つには福徳を増やせる。もし心地が清浄 (viśuddha/pariśuddha) でなく染汚業を造れば、多くの福徳を消耗し、福徳が不足すれば、何をしても成就しない。世間の事であれ修行の事であれ、福徳の支えがなければ、一切成就しない。

福徳が自分より大きい人、智慧や禅定が自分より深い人、戒律が自分よりよく守持されている人、各方面の能力が自分より強い人に対しては、心悦誠服すべきであり、少なくとも尊重すべきであり、嫉妬心を生じてはならない。もし言行に衝突があれば、多くの福徳を消耗し、最後に損をするのは自分である。自分より劣り弱い人に対しては、憐憫心を生じ、多く助け、引き立て、愛護を与えるべきであり、慢心や欺凌心を生じてはならない。そうすれば自分の福徳と慈悲心が増える。

<h3 style="text-indent: 2em;">十、観行の中でいかに淫欲を断除するか</h3>

証果の前には、淫欲は降伏と圧伏しかできず、断除はできない。淫欲の降伏は、第一に禅定の力に依拠し、禅定があれば身心は軽安で、内心は充盈し、念頭は少なく、精気が満ちるまで修練すれば、もはや淫欲を思わなくなる。第二に、淫欲の種々の生死過患と淫欲の不浄を如理に思惟すれば、淫欲の念頭を減らすことができる。第三に、注意力を転移し、精力を最も意義のある事柄に使い、自分に暇な時間を与えなければ、欲念は薄くなる。第四に、不清浄な環境・場所から遠ざかり、清浄な修行の場所を作る。第五に、日々楞厳咒を誦し、仏菩薩と護法神の加持力に依拠して淫欲を降伏する。

<h3 style="text-indent: 2em;">十一、心解脱とは何か</h3>

心解脱とは心に煩悩の繋縛がないことであり、煩悩がなければ苦がなく、苦がなければ心は解脱する。苦は身苦と心苦に分けられる。身苦は苦とは言わず、心苦こそ真の苦である。心が苦でなければ、それが解脱である。同様に身に苦があっても、身苦を問題にしなければ、心は苦でなく解脱し、身苦を真の苦と思うなら、心は苦で解脱できない。自ら進んで身苦を受け、身苦は何でもない、あるいは何らかの意義があり受けなければならないと思うなら、心は苦でなく、さらには楽があることもある。強制的に身苦を受けさせられるのであれば、自発的ではないから、心も苦である。苦と不苦は身にではなく心にあり、心の苦に対する認識にある。心が意にかければ苦であり、意にかけなければ苦はない。苦において苦がなければ心は解脱し、苦において苦であれば心は繋縛される。

阿羅漢は日々托鉢して家々を乞食し、苦を覚えない。凡夫は一食作っただけで文句を言う。富楼那は乞食して食を得ず牛糞を得ても苦を覚えず、心は解脱している。富人は日々山海の珍味を食らっても心は楽でなく、煩悩の繋縛が重い。苦楽が人によって異なるのであれば、苦楽に定法はなく、定法がなければ、虚妄・無常・空であり、苦楽に我はない。

<h3 style="text-indent: 2em;">十二、戒定慧の三無漏学は煩悩を断する利器</h3>

漏とは貪瞋痴の煩悩漏、種々の無明漏を指し、漏れるのは善法・善願・善心・善根である。心が善であれば輪回の苦から離脱でき、心が善であれば仏道を成就できる。善法を漏らせば悪不善法となり、生死輪回の苦は断ぜられない。それゆえ修行を通じて心地の無漏に達し、無明を除去しなければならない。心地の無漏を実現する主な道は三つあり、それが戒定慧の三無漏学である。持戒によって心を無漏とし、修定によって心を無漏とし、修慧によって心を無漏とする。

持戒はなぜ心を無漏にできるのか。戒を持てば、心は戒律に違越せず、悪を行えず、貪瞋痴の無漏煩悩業を造作できず、長い間習慣になれば、心は自然に悪業を造作しなくなり、煩悩は降伏され、善法は増長し、四正勤が修出される。長期にわたり戒を持てば、心は有効に摂収され、至る所で攀縁しなくなり、禅定が現れる。

禅定はなぜ心を無漏にできるのか。心が定の中では無所作為であり、攀縁せず散乱せず、貪瞋痴の染汚業を造作しないので、煩悩は降伏される。出定ののちも慣性の作用により、定力も一定程度保たれ、攀縁を好まず、心は安んじて乱りに造作せず、依然として煩悩を降伏できる。もし未到地定 (anāgamya-samādhi) が具足すれば、欲界の五品煩悩を断除でき、初果向となり、現世に初果を証入する因縁条件がある。

外道たちの四禅八定は定力がさらに強く、欲界の九品煩悩惑を降伏できるだけでなく、色界の九品煩悩惑も降伏でき、さらには無色界の九品煩悩惑までも降伏できる。しかしこの降伏は断除・断尽と等しくない。まだ五蘊無我の智慧が欠けているからである。もし四聖諦の理に出会えば、甚深な禅定力に依り、念を斂めてしばし思惟すれば道を証することができ、煩悩は断じ尽くされ、身心は脱落する。四果阿羅漢を証得したときには、鬚髪は自然に脱落し、袈裟が身に著き、煩悩断尽を表し、自然に出家人となる。

三果以前はまだ煩悩の残留があるため、鬚髪自落・袈裟著身とはならず、自然に出家人となることもできない。だから在家身の人が、比丘戒と比丘尼戒を受けることを通さずに出家人になりたいなら、煩悩を断じ尽くし、鬚髪自落し、袈裟著身でなければならず、人に剃度してもらう必要はない。在家身には一筋でも煩悩があれば在家人であり、強いて自分は出家人だと言うなら、それは強引に出家僧宝の身分を盗み取り、僧俗を混淆するもので、極重罪に属する。

智慧はなぜ心を無漏にできるのか。無我の四聖諦の理と大乗の真理を証得した智慧は無明を破除でき、心の中に我がなければ、もはや我のために造作せず、我のためでなければ私心がなく、私心がなければ善であり、善は煩悩を破し、心は無漏となる。我があればすなわち罪があり、我があればすなわち煩悩があり、我があれば善法を漏らす。この無漏慧は戒と定を基礎とする真の慧であり、戒定のない慧は乾慧であり、実用価値がない。戒定慧の三者が統一されてともに一切の煩悩を断じ尽くし、善法は永く漏失しなくなり、善法が円満具足したのちは、仏となるのである。

ページトップへ戻る